★スペイン
コロナード
1540〜1542
シボラ”7つの都”を発見

大航海物語★
USA
コロナード探検隊一行のテキサス到着

アメリカ 1992/9/28 発行

ヌエヴァ・エスパーニャ古地図、1579
ニュースペイン(メキシコ)


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メキシコ 1979 発行

25才でメキシコに渡り
コロナードはスペインのコンキスタドールで新大陸に渡り、1540年から1542年の間にニューメキシコおよび現在アメリカ合衆国領の南西部を探検して、 最後の黄金郷と思われていたシボラの”7つの都”を発見したが、それは幻に過ぎなかった!

フランシスコ・バスケス・デ・コロナード (1510〜1554/9/22)
 Francisco Vasquez de Coronado

コロナードはスペインのサラマンカで生まれ、新大陸に大航海して渡り、1535年にメキシコ渡りメンドーザ副王側近。(Beatriz de Estrada)と結婚。ニュー・ガリシア(現在メキシコのシナロア、ナヤリット州)にの総督になりました。彼は修道士マルコス・デ・ニサ(Fray Marcos de Niza 1495-1558)と、ナルバエス遠征隊(Narvaez expedition 1527?1528、Compostela 現Nayarit〜New Mexico)の生き残りエステバニコ(Estevanico)を北への航海に派遣しました。マルコスは帰還するとシボラ(Seven Cities of Cibola)と呼ばれる黄金の都市があるとコロナードに報告しました。コロナードはこれに興味を抱き、黄金を手に入れようと遠征することを決定しました。1540年に335人のスペイン人、300人のインディアン同盟者、1,000人のネイティヴ・アメリカンと黒人奴隷と管区長(Father Juan de Padilla (1500?1542)と修道士(four Franciscan monks)の一行からなる遠征団を組織しました。

1540/2/23コロナード出発。彼はコルテス海(Gulf of California)をソノラ()の北方に沿い1540/3/28(San Miguel de Culiacan)着、1540/4/22隊を分け、出発、9月に(Melchior Diaz)と70〜80の弱った者を(San Hieronimo)に残す。4/22に(Culiacan)を(Cinaloa)へと進む。アリゾナの(Coronado National Forest)山脈(Chiricahua Mountains、2,975m)着。ヒラ川(Rio Gila、1,014kmで、コロラド川の支流)を渡り、(Mogollon Rim)着。リトルコロラド川(アリゾナ州を流れるコロラド川水系でペインテッド砂漠からの約507km、Little Colorado River、ズーニー川(Zuni River 145kmからコロラド川へ合流)沿いに進んで、シボラ着。
次にソノラで上方に向かい、ヒラを横切って現在のニューメキシコ西部のシボラへ渡りました。そこで彼は失望してしまいました。シボラはマルコスが語ったような巨大な黄金都市ではなく、単なるズーニー族のプエブロ(Pueblo、メキシコ北部とアメリカ合衆国南西部、特にニューメキシコ州やアリゾナ州に残るインディアンの伝統的な共同体・集落)にしか過ぎなかったのでした。マルコスは失望の内にメキシコに戻されました。 コロナードはシボラを征服し、他の6つのズーニー族のプエブロを調査しました。さらに彼は様々な遠征隊を派遣しました。メルキオル・ディアスは、コロナードに補給を行っているヘルナンド・デ・アラコンに会うためにコロラド川の河口に派遣された。ペドロ・デ・トヴァーは北西部に派遣され、西部に大河があるとの情報を得ました。ガルシア・ロペス・デ・カルデナスはその大河を発見するために派遣され、グランド・キャニオンを発見した最初のヨーロッパ人となりました。ヘルナンド・デ・アルバラードは東部に派遣され、リオ・グランデの周りに村を発見しました。コロナドはティグー(Tiguex、現ニューメキシコ州アルバカーキ近くのベルナリオ)に冬期用営舎を設営して越冬して、冬期間はインディアンによる攻撃に苦しみました。

1539/11/17(Melchor Diaz)がメンドーザ副王命でシボラへと騎兵15人と出発。(Chichilticalli)廃墟で雪と強風(砂嵐)で引き返す。1540/3/20に副王に報告。

コロナードはターク(Turk)と呼んだインディアンに出会い、タークはキビラ(Quivira)という北西の豊かな国についてコロナードに話しました。彼はタークをガイドにキビラを探すことを決定しました。彼はラノ・エスタカドと現在のテキサス州東北部を横断し、北に向かって進みました。しかしタークは経路を偽り、コロナードはタークを処刑しました。コロナードは他のガイドを立てて、さらにキビラを探しました。彼らは現在のカンザス州リンズボーグ付近の村に到着しました。しかしながら彼の失望は繰り返されました。キビラのインディアン(後にウィチタ族として知られるようになる)は貧しく、村は藁葺きの小さな小屋ばかりでわずかの金さえ見つけることができませんでした。コロナードはティグーに戻りました。本隊はそこに留まり、彼は再び冬を過ごしました。

1542年に彼は同じルートを通ってメキシコに戻りました。部下の内100人だけが一緒に帰還できました。遠征は完全に失敗しましたが、彼は1544年までニュー・ガリシアの総督を務め、辞任してメキシコ・シティに移り、同所で1554年になくなりました。総督(〜1544)

コロナド絶頂と呼ばれる丘がリンズボーグの近くにあります。現在コロナドの遠征を記念した小さなオベリスクが建てられています。

Coronado's expedition 1540-1542
Compostela(New Galicia)〜(Grand Canyon of the Colorado)1542

参考HP:〜
 ・コロナードの探検地図(1540-1542)
 ・コロナードの探検地図(詳細)
 ・ヒラ川の地図

 ・ナルヴァエズ遠征隊の探検地図


 ・コロナードの探検地図
 ・コロナードの探検地図

・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。       10/9/9

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