★フランス マルケット神父
1673
5大湖からミシシッピ河(途中)を探検
大航海物語

UNITED STATES
マルケット神父乗船のインディアン・カヌー


Mrquette Explorer
マルケット神父のミシシッピ河探検300年記念

アメリカ 1968/9/20 発行

GUINEーBISSAU
丸木舟カヌーを漕いで探検調査

ギニア・ビサウ 2007 発行
US POSTAGE

5大湖交通 100年 記念
5大湖と5大湖交通の貨物船
アメリカ 1966/6/28 発行

フランスのマルケット神父は29才で教会から新大陸に派遣されて、5大湖での伝道中に原住民から聞いた「噂の大河」(ミシシッピ河)の探検に、1673年カヌーで出発し、アーカンソー川との合流点まで探検しました。その時の病がもとで、現シカゴ付近で亡くなりました。
マルケット神父 (1637/6/10〜1675/5/18)
 Father Pere Jacques Marquette

マルケット神父はフランスのラオン(Laon)で生れました。17才でイエズス会に入門し、数年間の奉仕生活を送りました。そして1666年(29才)に新大陸のニューフランス(ケベック)に派遣されました。現地では原住民の言語を習得し、ヒューロン語は特に習熟していました。

1668年(31才)には教会の命で、はるかに遠い5大湖西部のセント・ローレンス川の上流への伝道に派遣されました。彼はスー族(Sault Ste)地域で働き、現ウィスコンシンのアシュランドの町の近くのスペリオル湖のラ・ポインテ(La Pointe)で聖なる礼拝を行い、伝道をしました。ここでイリノイ族と接触を持ち、彼らがミシシッピ河の存在を話し、彼をそこへ連れて行くと言いました。ラ・ポインテのヒューロン族と近隣のダコタ族との戦争が起こり、その間はマキナック(Mackinac)海峡に移りました。そして、彼は教会に「噂の河」を知らせて、そこを探検する許可を要請しました。

1673年に探検の要請は許可され、フランス系カナダ人の探検家ルイ・ジョリエット(Louis Joliet 1645-1700)が加わり、行を共にすることになりました。5月16日にはフレンチ・インディアン(船頭)5人を2隻のカヌーに乗せて、サン・イグナスから出発しました。ミシガン湖に沿ってグリーン湾でフォックス川に出ました。ここで「噂の河」へ続くウィスコンシン川まで陸上経由となりました。6月17日プレイリー・デ・チェン(Prairie du Chien)付近で、最初のヨーロッパ人としてミシシッピ河へ入りました。

マルケット・ジョリエット探検隊はメキシコ湾の700km手前までミシシッピ河を下りましたが、アーカンソー川との合流地点でヨーロッパの装身具を運んでいる原住民と出会い、スペイン人入植者や探検家と出会うのを恐れて引き返しました。ミシシッピ河から5大湖への近道だと原住民から聞いたルートを通って、イリノイ川との合流地点に出ました。そこはミシガン湖の現シカゴ(イリノイ州)付近でした。マルケットは6月に聖フランシス・ザビエルの礼拝を行う伝道のため、そこグリーン湾に留まりました。ジョリエットは新発見のグッド・ニュースを持ってケベックへと帰って行きました。

マルケット隊は1674年にイリノイ地域へ戻り、冬の現シカゴでの最初のヨーロッパ人となりました。1675年の春には、再びカヌーで西方へ漕ぎ進み、イリノイの「餓死の岩」という有名な岩の近くの最大の村で、公式のミサを執り行いました。ミシシッピ河遠征の時に感染していた「赤痢」で、彼の健康が徐々に蝕まれ、サン・イグナスへ戻る旅の途中のミシガンの現ルディントン(Ludington)の近くの名も知られていない所で、しかも日も定かでない日に、38才の若さで亡くなったと伝えられています。

一説によると、このマルケット・ジョリエットの探検により、ミシシッピ河は太平洋ではなく、メキシコ湾に注ぐことが判明したとありますが、河口から700km上流のアーカンソー川との合流点までで、引き返したのに、どうしてメキシコ湾に注ぐことが分かったんでしょうね?

・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。      2006/9/5
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