恐怖小説の登場人物
ドラキュラ伯爵
Count Dracula

ドラキュラ城

ROMANA
ドラキュラのモデル
ワラキア公ヴラド3世と、1459年串刺し処刑書
(Prince Blad, Tepes Document 1459)


1459 ブカレスト建設500年記念 1959
ルーマニア 1959/9/15 発行
ドラキュラ城のモデル
ブラン城

ルーマニアの観光用の城郭切手シリーズ
ルーマニア 1982/5/6 発行

ドラキュラ伯爵
  Count Dracula
ドラキュラ伯爵はアイルランド生れのイギリス人作家ブラム・ストーカー(Abraham Bram Stoker 1847-1912)の恐怖小説「ドラキュラ」(1897年)に登場する男の吸血鬼の名前で、ドラキュラ伯爵は小説の登場人物なんです。なお、「吸血鬼」とは英語ではヴァンパイア(Vampire)です。ドラキュラはルーマニア語では「竜の息子」の意味で、また「竜」には悪魔の意味もあります。小説執筆の当時は「不死者(The Un-Dead)」という題名でしたが、作品がヒットしたので、吸血鬼ドラキュラ(Vampire Dracula)に変更したともいわれています。

ルーマニア中部トランシルヴァニア(Transylvania, Romanian)地方のカルパチア山脈にあるドラキュラ城(Dracula Castle)に住む貴族で登場人物のドラキュラ伯爵が、「ロンドンのカーファックス屋敷を買いたい」、とホーキンズに依頼したことから物語が始まりますが、そのドラキュラ城のモデルが上の切手図のブラン城(Bran Castle)だといわれています。

ブラン城
 Bran Castle

ブラン城はルーマニア南部のトランシルヴァニア地方ブラショヴ県(Bran(Brasov) County, Romania)南部のトランシルバニア地方の中心の町ブラショフから30km弱の山中にある古城で、別名ドラキュラ城(Dracula's Castle)と呼ばれています。

ブラン城は標高750mのブラン村の山の上に聳え建っていて、ブラショフ(Brasov)とクンプルング(Campulung)とピテシュティ(Pitesti)を結ぶ幹線道路の国道73号線沿いにあります。現在
ブラン城
は城の4階層が博物館で、城内には王の執務室や地下牢などが残っており、拷問道具などが展示されている他、陶器、家具、武器や甲冑などのコレクションが展示されています。ドラキュラの城ということに因んで毎年イベントで10月31日は、ハロウィンパーティーが行われています。2012年にトリップアドバイザーの企画「バケットリスト」の「世界の名城25選」に選ばれました。なお、ブラショヴ(Brasov)市はルーマニアのほぼ中央にある都市で、ブラショヴ県の県都。首都ブカレストからは直線で約140km(鉄道の路線距離だと166km)離れています。

参考HP:〜
ブラン城(FaceBook)、撮影者:兵庫大学教授の中松先生
ブラン・キャッスル(FB未登録の方はこちらを参照)

・ドラキュラのモデルになった
 ワラキア公ヴラド3世 (1431/11/10〜1476/12/19)
  (Vlad III, Prince of Wallachia 、在位:1448、1456-1462、1476)
  別名:串刺し公ヴラド(Prince of Vlad Tepes)
  通称:ドラキュラ公ヴラド(Vlad Draculea)
  又は:串刺し公ヴラド(Vlad the Impaler)
  歴代王墓:クルテア・デ・アルジェシュ聖堂
         (Curtea de Arges Cathedral, 1517)
吸血鬼ドラキュラのモデルになったワラキア公ヴラド3世は、15世紀のワラキア公国(Principality of Wallachia 1330-1859)の君主で、諸侯の権力が強かったワラキアで中央集権化を推し進め、オスマン・トルコ帝国と戦ったので、今日では故国を侵略から守るために戦った英雄として再評価されています。

ヴラド・ツェペシュのツェペシュ(Tepes)は姓ではなく、ルーマニア語で「串刺しにする者」を意味していますので、さしずめ「串刺し公爵ヴラド」となる
ヴラド3世
でしょうね。その謂れは、 1462年にオスマン帝国軍が攻め寄せた時、劣勢の寡兵ながら敵大軍と良く戦い、敵の捕虜を串刺し刑にして城外に並べて晒し物にしました。その恐ろしい光景に怖気ついた敵兵が逃げ帰ったと伝えられていることから、串刺し公(Vlad the Impaler)と呼ばれるようになりました。なお、小説に登場するドラキュラ城のモデルとされているブラン城には、 ドラキュラ公ヴラド3世は、実際にはこの城には全く住んでいなかったといわれています。居城としていたのは彼の祖父のワラキア公ミルチャ一世(老公、1397-在位1386-1394-1418)でした。

参考:〜
トゥルゴヴィシュテの夜襲
  (The Night Attack of Targoviste, 1462)
1459年にヴラド3世がオスマン帝国への貢納を拒否。オスマン帝国がワラキア公国に使者を派遣して貢納を要求すると、ヴラド公は使者が無礼をはたらいたとして、生きたまま串刺し刑にしました。するとオスマン帝国が攻めてくるも、兵力に劣るヴラド公はゲリラ戦と焦土作戦で激しく抵抗し、その都度撃退。そして、1462/6/17夜にヴラド公に率いられたワラキア兵7,000人がルーマニア南部トゥルゴヴィシュテ(ワラキア公国首都:Wallachian capital of Targoviste, 1396-1714)城外に夜襲で打って出て、城外でオスマン帝国軍23,000人と共に宿営中のメフメト2世(Mehmed II of the Ottoman Empire, 1432-1481)を襲撃。オスマン帝国軍の多数を殺傷。近衛兵イェニチェリの激しい抵抗でメフメト2世は取り逃がしました。その後、入城したメフメト2世を待っていたのは、ヴラド公による大量のオスマン帝国兵の串刺しの林(数千の説有)でした。それを見て戦意を失ったメフメト2世はワラキアから撤退したと伝えられています。

参考HP:〜
ルーマニアの地図(日本語)
ブラショヴの場所地図(Google Map、日本語)
ルーマニアの地方別地図(日本語の都市名有)

・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。     14/12/25
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