大航海物語
大英帝国海軍での大反乱
1797
スビットヘッドとノアでの海軍大反乱

参考資料
海戦の図

アンティグア・バーブダ 2005 発行

スピットヘッド反乱は、水兵たちが給与・糧食・傷病・上陸に関する待遇改善を求めて起こしたもので、政府側は水兵の要求を容認し、直ちに任務に復帰するという条件付きの恩赦を出すことで落着した。反乱者たちは最初から最後まで統制のとれた態度を貫き、政府側は約束を守って誰も処罰しなかった。軍隊で反乱を起こしたりすれば死刑になって当然なのだが、スピットヘッドの反乱者たちの要求は至極穏当なものであったし、礼節を保っていたことがこのような良い結果を生んだのである。

ノール(ノア)の反乱はスピットヘッドよりも強硬で、士官の人事や戦時服務規程の改訂を荒々しく要求した。政府側は要求の一部受け入れを表明し、直ちに任務復帰すれば恩赦を出すとしたが、反乱の首謀者たちはあくまで要求貫徹を叫んで政府側との妥協に応じなかった。しかし一般の水兵たちはそこまで過激でなかったためにこの反乱は広汎な支持を集めることに失敗し、やがて反撃に出てきた官憲によって首謀者多数が逮捕され、29名が処刑されるという結末に終わった。  以上の2つの大反乱以外にも小規模な反乱があちこちで発生していた。
1797年4月18日に”スビットヘッド””ノア”で起こった海軍大反乱:
 Spithead and Nore mutinies
近世の船長や艦長は、全能の神(God Almighty)として振舞っていました。それは、何も、荒くれ者の船員を扱うから、そうであったわけではなく、海軍は男たちを船員に仕立てて死におもむかせるには、暴力を用いる他はなかったからでした。また、近世になると船主や船長と船員の利害は、いやおうなく対立せざるをえなくなったからでした。それでも、船長や艦長自身が船員から尊敬される人物も少なくなったのでした(例:ネルソン提督)。

スビットヘッド(ポーツマス港とワイト島の問にある停泊地)の統制のある反乱:
軍艦の水夫にとって、暴風雨にあって生命が危険になったり、海賊や敵艦の攻撃や略奪にあったり、壊血病などの病気になったり、苛酷な生活がつづくことは、いったん船員になったかぎり、あるいはならされたかぎり覚悟のうえのことでした。しかし、海軍本部や艦長・士官が乗組員を人間らしく扱わないと反乱が起りました。有名な「戦艦バウンティ号の反乱」もその例です。ついに、イギリスの海軍の歴史を揺るがす反乱が、フランス大革命の前哨戦中の1797年に、イギリス・スピットヘッドとノアで発生しました。ス ビットヘッドの反乱は、非常に良く組織され統制されていました。

1797年4月、スピットヘッド海峡艦隊16隻の乗組員は出帆を命じられましたが、それを拒否しました。各艦から2人の代表がクィーン・キャロット号に送り込まれ、大きなステーツ・ルームに反乱司令部を設置。4月18日に海軍本部に嘆願書が差し出され、それには不平不満が簡潔に書かれてありました。
「閣下、我々、国王の海軍の乗組員はささいな嘆願であっても、閣下に申し立てる自由がある。我々は、長年にわたって苦難と虐待のなかで働いてきたが、その償いをすぐにでもしてもらいたい。我々が申し立てる不満は、
・まず賃金があまりに安いことである。
 妻や家族がまともに暮らせるよう、賃金をできるかぎり引き上げてもらいたい。
・食料はその 量を2倍にし、その質を良くしてはしい。
・十分な量の野菜を支給してはしい。特に、寄港地に おいて種類を増してほしい。
・軍艦に乗船中、いかに注意しても病気にかかることを、よく知 っておいてもらいたい。
・入港中はもとより帰港中に仕事が終われば上陸して自由を楽しむ許可と機会をあたえてはしい。
・戦闘で負傷した場合、治癒あるいは退院するまで、賃金 の支払いをつづけてほしい。
艦隊乗組員代表」となっていました。
反乱はどこからみても、礼儀正しい配慮と節度をもって行われました。反乱者たちは、評判の悪 い士官に私物を持たせて下船させましたが、通常の勤務をつづけ、おたがいに規律を守っていました。フランス軍との戦闘が起これば、海上に出ると主張していました。
ブリットポート海峡艦隊司令官が懐柔案を提出しました。政府や海軍本部は、初めまごまごして躊躇していましたが、陸上休暇を除 いてそのほとんどの要求を認めることにしました。有能船員の賃金は1か月当たり24シリングから 29シリング6ペンス、一般船員は19シリングから23シリング6ペンスに引き上げられました。この反乱は1ヵ月かかって解決しましたが、それに参加した船員たちには特赦があたえられ、海軍本部は報復しないことを約束しました。その約束は守られ、首謀者の何人かはその年の内に昇進しました。反乱が非常に早く解決した主な理由は、船員の要求が誰もが認めざるをえないような公正なものであり、そうした改善はもっと早く実施されるべきだったとみなされたからでした。

ノア(ロンドン近郷・テームズ河々口の停泊地)のフランス革命の影響による反乱:
他方、ノアでの反乱はスビットヘッドの反乱の終わる数日前に始まりまし た。反乱者たちは、
「脱船者の釈放、賞金の平等な配分、そ して“粗暴な士官”との勤務を拒否する権利」を
要求していました。どちらの側もその態度は荒々しく、政府と海軍本部は、これ以上譲歩しないことにしていました。水夫たちは腐敗しやすい荷物を積んでいる商船を除き、ロンドン港に出入りする商船の通航を遮断しました。ノアの水夫たちはスピットヘッドと同様に、国王と国家に忠誠を尽すと主張し、国王の誕生日には礼砲を鳴らしもしました。
それはさておき、ジャコバン党や過激な労働者通信協会(議会改革と普通選挙権の獲得を目指す)との接触がないことが確かめられはしましたが、そこには政治的な底流は十分に認められました。首謀者リチヤード・バーカーは自ら”議長”と称しました。彼らは声明書のなかで、自分たちを「圧制の犠牲者」と呼び、「理性の時代」の夜明けは今だと叫んでいました。しかし、広範な政治目的は声明書にははっきり書かれておらず、方法や目標もごたまぜで混 乱していました。ほとんどの水夫たちは、そうした目的をあまり支持せず、反乱参加の艦艇も次第に脱落して行きました。
首謀者のうち、29人は死刑、9人は鞭打ち刑を受け、29人は投獄されました。バ ーカーは教養があり、以前には士官候補生として勤務していたことがあり、不服従で軍法会議にかけられたこともありました。バーカーは覇気のない男でしたが、それでもいさぎよく死んでゆきました。

この2つの反乱はイギリス海軍における史上最大の反乱となりましたが、そこで特記すべきこと は、この反乱がイギリス海軍の近代化の決定的な契機となったことなのです。これら反乱は、アメ リカ独立戦争(1775-83)やフランス大革命(1789-94)といった自由と解放の時代を背景として発生しました。そして、そうした精神を担って大衆を組織しうる指導者も生まれていました。これら反乱の指導層は、職業的な水夫ではなく、強制徴発の一環であった割当法にもとづく被割当者(the Quota Men)でした。スピットヘッドの指導者バレンタイン・ジョイスはイングランドに反抗していたアイルラ ンド人であるといわれるし、その秘密結社のメンバーもかなり乗船していたとされています。また、指導者のなかにはエバンズと呼ばれた被割当者の弁護士もいました。ノアの指導者リチヤード・バーカーは1782年に強制徴発され、その後軍艦や商船を転々とし、尉官の仕事を果たせるまで になっていました。借金のため刑務所に入っていたところ、1797年に割当法の適用を受けて、それを清算するためにふたたび海軍に入ったという人物でした。このように、海軍の乗組員はそれ以前のように世の中のくずばかりではなくなり、乗組員の人間としての権利を認めた海軍づくりを行わざるをえなくなっていったのでした。日本大百科事典、他より。

参考HP〜ハンプシャースピツヘッドの地図、 ノア付近のロンドンの地図    2007/4/30
上の2つの大反乱以外にも小規模な反乱があちこちで発生していた。

93年にフランスとの戦争が始まって以降ひたすら増強を進めていたイギリス海軍の人員は当然のことながら多数の強制徴募兵を含んでいたし、一般国民の間にはフランスの革命思想に触発されて選挙権の拡大等を訴える「急進主義」が盛んになってきていた。革命フランスとの戦いを通じて保守的になったイギリス政府は急進主義を弾圧したが、強制徴募で海軍に無理矢理連れて行かれた人々の中には急進主義に同調する者もいたのである。

地中海艦隊でも7月に「セントジョージ号」の乗組員が反乱を起こすという事件が発生し、これを速やかに鎮圧した同艦艦長は首謀者4名に対して死刑を宣告している。これに対し地中海艦隊司令長官のジャーヴィス提督は死刑の即刻執行(判決が出た翌日の執行)を命じたが、その日がたまたま日曜日だったため、副司令長官のトンプソン提督が「安息日に死刑を行うのはいかがなものか」という抗議を行った。しかしジャーヴィスはトンプソンの進言を却下、「この処置に不満ならば即刻艦隊を去れと言ってやれ。かかる提督は無用の存在」と言い放った。ネルソン提督はジャーヴィスを全面的に支持、「閣下の速やかなる処断に、満腔の敬意を表します」と述べた。「私ならクリスマスでも処刑したであろう」とも言っている。

・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。      

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