★日 本 遣明使
1404頃〜1547頃
大航海物語

琉球郵便

中国と日本の地図

国際青年会議所沖縄会議記念
昭和38年 1963/9/16  発行
日本郵便 NIPPON

遣明使船

”第一次船シリーズ”
昭和50年 1975/8/30  発行

遣明使・勘合貿易 応永11年(1404)頃〜天文16年(1547)頃。
日本と明との通商交渉は、応永8年(1401)の足利義満による遣明使の派遣から始まりました。この結果、応永11年に明政府から「永楽の勘合符」が送られ、この年に第1回勘合遣明船が渡航しました。そして勘合符を持たない私貿易船(いわゆる倭寇による海賊船など)の交易が禁止されました。以後、遣明船の派遣が続き、応永11年(1404)から天文16年(1547)までのおよそ1世紀半の間に明に派遣された船は17次84隻にも及びましたが、途中で一時期中断され、再開されるまで空白期間があったので、遣明船を次のように前期と後期に分けて扱うのが通例となっているようです。

遣明使船の装備:〜時代によって各種あり
遣明船の大きさ(推定)、1404〜1547頃 遣明使船
積載量 700〜1700石(105〜255屯)
帆 柱 2本マスト
船構造 船底の両角にオモキという
L型の丈夫な部材を使って大型化
乗船者 150〜200人

前期遣明船は室町幕府の主導(幕府直営船)で、応永11年(1404)から同17年までの7年間に計6回の派遣が行われました。しかし、この間の遣明船の船型構造や乗員数などの詳細内容はよく分かっていません。ただし、応永13年帰国の第2次遣明船は6〜7艘の規模だったとの史料が残されているため、他の場合も船数としては、概ね同程度であったと推定されています。上述のように、足利義満が始めた勘合船貿易は義満が没すると、将軍義持は応永17年の第6次船を最後に中止し、以後将軍義教による永享4年(1432)の再開まで、21年間の中断期間が生じました。

後期遣明船は室町時代後期に発展しました、構造船技術によって造られた構造船でした。この遣明船は、日本型のオモキ型船という船底の両角にオモキというL型の丈夫な部材を使った、日本の大型船のはしりになったもの。この技術が出来たために、遣明使が可能となりました。しかし、これは遣明船として独自に造られた船ではなく、民間の廻船(商船)を借上げて、遣明船用として改修したものでした。船主は北九州から瀬戸内沿岸にかけて広がっていて、これらの船主所有の国内航路用一般廻船が若干の改修だけで、東シナ海を渡航する遣明船として利用された訳です。したがって、当時の造船技術が相当進んでいたものと考えられます。これらの後期遣明船は史料(『戊子入明記』)によると、700〜1700石積程度のかなり大型船で、乗組員は1艘当り、水主(運航船員)のほかに使節や客人が総計150名(内水主が50人前後)程度であったようです。

また別の説では、遣明船は使節船であると同時に貿易船であったため、使節一行と船頭以下の乗組員の他に多数の商人を乗せていました。150〜200人に及ぶ乗員に加えて、水、食料、貿易品などを積み込むには、当然、大型船が必要でした。けれども、遣明船は遣唐使船のように特別な船を新造したわけではなく、国内にあった大型船を借り入れて、居室用の屋形を増設したり、艤装品を補充するなど大がかりな改修を施して用いましたとあります。

遣明船は、季節風を利用することが出来、春と秋に吹く東北の風に乗って大陸へ行く。そして、5月過ぎの夏の風(これは南西風)に乗って帰って来るという航海技術が開発されて航行が出来るようになっていました。

勘合貿易について;中国大陸に明が建国されると、太祖は室町幕府に使節を送って倭寇の禁止を求めてきました。これに対して足利義満は、1401年(応永8)財政が窮乏していた幕府を救うため、朝貢(ちょうこう)の形式で対明貿易を開始しました。応仁の乱以後には10年に一回、船数3、人員300人に限定された。勘合船の名義は足利将軍であったが、実際の経営者は有力守護大名や大寺院で、博多や堺の商人がそれらと結びついて活躍した。また、次第に細川・大内両氏のあいだで勘合の争奪が始まると、1523年(大永3)には両者の使節が寧波(ニンポー)で衝突するという「寧波の乱」がおき、その結果、勘合貿易は大内氏の独占となり、同氏が滅亡するまでつづきました。輸出品は刀剣・槍・鎧・扇・屏風などの工芸品、硫黄・銅などの鉱産物で、輸入品は宋・元・明などの銅銭をはじめ、絹・羅・紗などの高級織物、生糸、薬材、書画、工芸品などであった。なお、銅銭は日本の貨幣経済に大きな影響を与えました。勘合貿易は主として日本からの一方的な派遣であったが、16世紀には明船も来航するようになった。遣明船では多くの禅僧が行き来し、宋学の移入、医術、印刷術、陶芸、水墨画など、明の文化の受用に大きな役割を果たしました。なお、勘合貿易という言葉は俗称で、勘合(勘合符)を用いて行なわれた日明間の貿易と解されるが、勘合は船舶の渡航証明書ではあるが貿易の許可証ではなく、従ってかならずしも勘合貿易=日明貿易ではなく、当時の日明間では、倭寇などによる密貿易も多く行なわれていました。

幕府船の他、相国寺船、山名船、大名寺社十三家船、三十三間堂船、大乗院船、山名船、天竜寺船、伊勢法楽舎船、九州探題船(聖福寺造営船)、大友船、大内船、大和多武峯船、細川船、相国寺勝鬘院船などがありました。

・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。       
スタンプ・メイツ
Copyright(C):Nicky
無断転載禁止