イラン
Great Socialist People's Libyan Arab Jamahiriya
IRAN
イランの地図
パーレビ国王


トルコ→

イラク→


クェート→



←アフガニスタン


←パキスタン
石油パイプラインの地図
アゼルバイジャン〜アバダン(ペルシャ湾)
Iranian Oil Company
pipeline from Azerbaijan through Iran to Abadan on the Persian Gul
f
イラン 1967 発行

イラン・イスラム共和国
 Islamic Republic of Iran


面積:1,648,195ku(日本の約4.4倍)、人口:7,042.3万人(2006)、首都:テヘラン、民族:ペルシャ人(他にアゼリ系トルコ人、クルド人、アラブ人等)、言語:ペルシャ語、トルコ語、クルド語等、宗教:イスラム教(主にシーア派)、他にキリスト教、ユダヤ教、ゾロアスター教等、1番:切手。


1979年のルーホッラー・ホメイニー師によるイラン・イスラム革命により、宗教上の最高指導者が国の最高権力を持つイスラム共和制を樹立しており、シーア派イスラームが国教である。世界で最初に石油の開発が行われた国である。

イラン人自身は古くから国の名を「アーリア人の国」を意味する「イラン」と呼んできたが、西洋では古代よりファールス州の古名「パールス」にちなみ「ペルシア」として、中国では「波斯」として知られた。1935年3月21日、レザー・シャーは諸外国に公式文書に本来の「イラン」という語を用いるよう要請し、正式に「イラン」に改められたものの混乱が見られ、1959年、研究者らの主張によりモハンマド・レザー・シャーがイランとペルシアは代替可能な名称と定めた。その後1979年のイラン・イスラーム革命によってイスラーム共和制が樹立されると、国制の名としてイスラーム共和国の名を用いる一方、国名はイランと定められた。



アケネス朝ペルシャ(紀元前5世紀)、ササン朝ペルシャ(紀元3世紀)時代には大版図を築く。その後、アラブ、モンゴル、トルコ等の異民族支配を受けつつもペルシャ人としてのアイデンティティーを保持し、
1925年、パフラヴィ(パーレビ)朝が成立。
1979年、ホメイニ師の指導のもと成就したイスラム革命により現体制となる。(
1980年、イラン・イラク紛争〜1988年
1989年6月、ホメイニ師逝去
1989年にハメネイ大統領が最高指導者に選出され、ラフサンジャニ政権(2期8年)、ハタミ政権(2期8年)を経て、
1996年のアトランタオリンピックに選手を派遣
2001年9月11日のアメリカに対する武力行使を非難し、被害を受けた人々に哀悼を表明
2005年8月にアフマディネジャード政権が発足。
来年6月、次期大統領選挙が実施予定。


紀元前3000年ころ原エラム時代にはじまる。アーリア人の到来以降、王朝が建設されやがてハカーマニシュ朝(アカイメネス朝)が勃興、
紀元前550年キュロス大王がペルシアを征服し、まもなくハカーマニシュ朝のペルシア帝国を受け継ぐアルシャク朝(パルティア)がおこり、サーサーン朝が続いた。イスラーム期に先立つハカーマニシュ朝以降のこれらの帝国はオリエントの大帝国として独自の文明を発展させ、ローマ帝国やイスラム帝国に文化・政治体制などの面で影響を与えた。 イランの中世は、イスラームの征服に始まる幾多の重要な出来事が去来した。
1220年のモンゴル到来によるイランの荒廃、ティムールの征服、
1501年のサファヴィー朝の成立とシーア派の国教への採用などである。その後ガージャール朝の時代までに、イランはイギリス、ロシアなど列強の勢力争奪の草刈り場の様相を呈することになった。
19世紀、近代化の波がイランに押し寄せるとイラン人は改革を熱望し、
1905年から1911年のイラン立憲革命を導いた。
1950年代はじめ首相モサッデグは国民の圧倒的支持を集めて、石油の国有化を断行する(石油国有化運動)が、
1953年米英の情報部による周到な計画(アイアス作戦)によって失脚させられ、国有化は失敗に終わった。この事件によってパフラヴィー朝のシャー、モハンマド・レザー・パフラヴィーは権力を集め、特に1970年代後期に、シャーの支配は独裁の色合いを強めた。シャーは米英の強い支持を受けてイラン産業の近代化を推し進める(白色革命)一方で、市民の自由を抑圧した。シャーの独裁的統治は
1979年のイラン・イスラーム革命につながり、新たにアーヤトッラー・ホメイニーのもとイスラーム共和国が樹立された。 新たなイスラーム政治制度は、先例のない法学者による直接統治のシステムを導入するとともに、伝統的イスラームに基づく社会改革がおこなわれた。これはペレティエ『クルド民族』に拠れば同性愛者を含む性的少数者や非イスラーム教徒への迫害を含むものだった。また打倒したシャーへの支持に対する反感により対外的には反欧米的姿勢を持ち、特に対アメリカ関係では、
1979年のアメリカ大使館人質事件、革命の輸出政策、ヒズボッラー(ヒズボラ)、ハマースなどのイスラエルの打倒を目ざす武装組織への支援によって、非常に緊張したものとなった。
1980年には隣国イラクの侵攻によってイラン・イラク戦争が勃発、この破壊的な戦争は
1988年まで続いた。国政上の改革派と保守派の争いは、選挙を通じて今日まで続くものである。保守派候補マフムード・アフマディーネジャードが勝利した2005年の大統領選挙でもこの点が欧米メディアに注目された。


イランは30の州(オスターン)からなっている。(人口:2005年)
1.テヘラン(Tehr?n)、テヘラン(Tehr?n、人口11,050,000人)
2.ゴム
3.マルキャズィー
4.ガズヴィーン
5.ギーラーン
6.アルダビール
7.ザンジャーン
8.東アーザルバーイジャーン
9.西アーザルバーイジャーン
10.コルデスターン
11.ハマダーン
12.ケルマーンシャー
13.イーラーム
14.ロレスターン
15.フーゼスターン
16.チャハール=マハール・バフティヤーリー
17.コフギールーイェ・ブーイェル=アフマド
18.ブーシェフル
19.ファールス
20.ホルモズガーン
21.スィースターン・バルーチェスターン
22.ケルマーン
23.ヤズド 24.エスファハーン
25.セムナーン
26.マーザンダラーン
27.ゴレスターン
28.北ホラーサーン
29.ラザヴィー・ホラーサーン
30.南ホラーサーン

・参考HP〜イランの州区分地図


参考HP〜
 ・リビアの地図(日本語)
 ・リビアの区分地図(詳細地図)
 ・リビアの場所地図

・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。        10/8/23
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