★ロシア
パーヴェル・ナヒモフ提督
1822、世界一周航海
1853、シノープの海戦、勝利

大航海物語★
CCCP
ナヒモフ提督

シノープの回線(Battle of Sinop)
ソ連 1987/12/22 発行

ロシア帝国の
軍 艦 旗→
白地に青色線



大 砲→
イカリ→

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ナヒモフ提督

Battle of Sinop
ソ連 1987/12/22 発行

黒海”シノープの海戦”勝利150年記念

ロシア 2003/11/5 発行・小型切手シート

ナヒモフ提督は、20才でミハイル・ラザレフ提督探検隊のクレーイセル号乗組員となり、世界一周航海を3年間で成し遂げました。1827年のナヴァリノの海戦に従軍勝利、ダーダネルス海峡封鎖作戦に従軍、シノープの海戦で勝利し、セバストポール包囲攻撃ではラザレフ提督の戦死後に軍司令官となりましたが、狙撃を受け53才で亡くなりました。

提督パーヴェル・ステパノヴィチ・ナヒモフ海軍大将 (1802/6/23〜1855/7/11)
 Acmiral Pavel Stepanovich Nakhimov

パーヴェル・ナヒモフはスモレンスク県ヴャゼムスキー郡ゴロドク村(Gorodok、現在のスモレンスク州アンドレーエフスキイ地区ナヒーモフスコエ村)に軍人の子として生まれました1815年にサンクトペテルブルグの海軍幼年学校に入学、1817年に初の遠洋航海をフリゲート艦フェニックス(Phoenix)で、スェーデンからデンマークへと航海しました。1818年に卒業すると、バルチック艦隊に士官候補生として入隊し、ロシア帝国海軍第2バルチック艦隊に配属されました。

1822年3月にラザレフ船長探検隊のフリゲート艦クレーイセル号(frigate Kreiser)乗組員となり、世界一周航海に出帆し、1825年まで3年間の航海に従事し、帰国後に海軍大尉(lieutenant)に昇進しました。1825年23才でフランス系ウクライナのユダヤ人女性イーシャ(Aeshya)と結婚しました。1826年秋に戦列艦アゾフ号(Azov、74-gun)に乗組み、白海(White Sea、バレンツ海)のロシア北西部の港湾都市アルハンゲリスク(Arkhangelsk)から処女航海に出帆し、クロンシュタット(Kronstadt)に到着しました。そこでナヒモフは双子の娘が生まれた知らせに喜び、ナタ−リャとオルガと名付けました。

1827年の夏にナヒモフはガイデン提督(Geiden)指揮の下に戦列艦アゾフ号(艦長はラザレフ提督)に乗組んで、オスマン・トルコと対戦するためにイギリス・フランス連合艦隊に合流すべく、ニコライ1世(Nicholas I、在位1825-1855)の見送りを受けて地中海派遣艦隊旗艦としての航海に出帆し、地中海到着後はギリシャ近海で1827/10/20のナヴァリノの海戦で英仏路連合艦隊の一員として活躍し、オスマン・トルコ艦隊に勝利しました。

ミハイル・ラザレフ提督のもとで、1828年〜1829年にはコルベット艦ナヴァリン号艦長となり、黒海とマルマラ海を結ぶダーダネルス海峡(Dardanelles)封鎖作戦に従軍しました。1829年にはクロンシュタットに戻り、フリゲート艦パルラーダ号艦長に就任しました。1834年には黒海艦隊に戻り、戦列艦シリストリヤ号艦長に就任しました。1845年にはラザレフ艦隊司令官(旅団長就任)になり、1852年連合艦隊司令長官(師団長就任)、1852年黒海艦隊司総令長官と昇進しました。

1853/11/30にナヒモフ騎下のロシア帝国海軍々艦11隻が、黒海南岸のトルコ領港湾都市シノープ港を急襲し、砲撃を開始しました。停泊中だったオスマン・トルコ帝国海軍々艦12隻が砲撃を受け、全艦が砲弾(爆裂弾、榴弾)を被弾し、11隻が爆発沈没しました。そして、流れ弾あるいは狙って打った砲弾が街を破壊しました。こうしてシノープの海戦でオスマン・トルコ艦隊を全滅させました。イギリスとフランスは海軍艦隊を黒海に派遣しました。トルコ帝国とロシア帝国のクリミヤ戦争(1854-1856)が勃発し、英仏を巻き込んだ大戦へとなってゆきました。

シノープの海戦をきっかけに、イギリスとフランスは海軍艦隊を黒海に派遣し、トルコと同盟を結んで、1854/3/28にロシアに宣戦布告しました。フランスは勿論、イギリスもヨーロッパへの大規模な遠征軍を編成しました。

1854/10/17、セヴァストポール包囲攻撃が勃発、ロシア軍は自国艦隊を自沈させて港口封鎖作戦を実施しましたが、ナヒモフ提督は最新式のブタコフ艦長の蒸気式帆船戦艦ウラジミール号を将来の艦隊維持のため海上に留め、海上からの支援攻撃に使用しました。

ロシア軍は1855年2月にナヒモフ提督がセヴァストポール軍司令官となり、英仏艦隊から直接セバストポールを砲撃されないよう湾内に黒海艦隊を自沈させ、陸上でも防塁を設けて街全体を要塞化しました。そのため、同盟軍は塹壕を掘って包囲戦を展開する以外に手がなく、イギリス軍は化学兵器(一説では亜硫酸ガス)まで使用しましたが、予想外の長期化により戦死者よりも病死者の方が上回る事態にたちいたりました。サルデーニャ王国がピエモンテに駐屯する精鋭15000人を増援部隊として同盟軍に送り込んで、セヴァストポール総攻撃を開始し、3日に及ぶ激戦の末に、1855/7/11にナヒモフ軍司令官が狙撃されて頭に銃弾を受け53才で亡くなりました。

クリミア戦争(Crimean War 1853-1856)はロシア軍とフランス・イギリス・トルコ連合軍が闘いましたが、セバストポール包囲攻撃(Siege of Sevastopol 1854-1855)は1854/10/17から始まり、1855/9/11の総攻撃でセバストポールが陥落しました。ロシアではニコライ1世が1855/3/2に亡くなり、新たに即位したアレクサンドル2世により同盟国側と和平交渉が進められて、1856/3/30にオーストリア帝国とプロイセン王国の立会いのもとでパリ条約が成立し戦争が終結しました。なお、シノープの海戦をクリミア戦争の一部として1853年から始まったとする説も有ります。

その後、ナヒモフ提督はセバストポールのサンクトウラジミール大聖堂に葬られました。

パーヴェル・ナヒモフ提督・略年表。
1802年〜ロシア・スモレンスク県で生まれる。
1815年〜サンクト・ペテルブルグの海軍幼年学校に入学。
1817年〜フリゲート艦フェニックス号(Phoenix)で遠洋航海。
1818年〜バルチック艦隊に士官候補生で入隊。
1827年〜露土戦争中、ナヴァリノの海戦に戦列艦アゾフ号に乗組み従軍。
1828年〜コルベット艦ナヴァリン号艦長、ダーダネルス海峡の封鎖に従軍。
1829年〜クロンシュタット帰還後、フリゲート艦パルラーダ号艦長。
1834年〜黒海艦隊に戻り、戦列艦シリストリヤ号艦長。
1845年〜ナヒモフ艦隊司令官(旅団長に相当)就任。
1852年〜連合艦隊司令長官(師団長に相当)就任。
1852年〜黒海艦隊総司令官(派遣軍の軍司令官に相当)就任。
1853/11/30〜クリミア戦争勃発前夜、シノープの海戦でトルコ艦隊を殲滅。
1855/2月〜セヴァストポリ軍司令官として街を要塞化して防衛し、7/11に頭に銃弾を受け戦死。

参考:〜:
・1959年にセバストポール市にナヒモフの記念碑が建設されました。   08/3/15
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