★中国 鄭和(ていわ) Cheng Ho
1405
大航海物語★

中国人民郵政
1405 鄭和下西洋580周年 1985
中国1985/1/5 発行

中国香港
鄭和 交易品 航海地図
1405 鄭和の大航海600年記念 2005
中国香港 2005 発行
鄭和の航海地図

1405 鄭和の大航海600年記念 2005
中国澳門 2005 発行

鄭和は明の永楽帝の命を受け、ジャンク船の大艦隊で、7回にわたって世界の海へ大航海を成し遂げました。彼の船団は実に太平洋、大西洋をも越えてコロンブスよりも早く、1421年に新大陸”アメリカ”を発見していたと言われています。

切手は1985/1/5に中国より、鄭和の航海580年記念として発行された4種の内の8分(鄭和の肖像)、20分(ジャンク船、イスラム寺院、上陸の様子、絹織物の交易の様子を描いたもの)です。

鄭 和 (テイワ 1371頃〜1434頃)
 Chen Ho

鄭和は中国の「明」王朝の時代にイスラム教徒で宦官として永楽帝に仕えていました。「請難の役」で大いに手柄を立てて永楽帝に見出され、「鄭」姓を賜ったとされています。明王朝の第3代皇帝”永楽帝”は、それまでの帝国「元」よりも大きな帝国の建設を思い立ち、海外へ大遠征隊を派遣することを決めました。その総司令官に選ばれたのが「鄭和」でした。彼は数十隻のジャンク船の大艦隊を指揮して、南海やインド洋へそして大平洋はもとより大西洋にまで遠征し、1405年〜1433年に7回の大航海を成し遂げました。鄭和の艦隊には、中国古代の4大発明として知られる「羅針盤」と「火薬を使用した大砲」が備え付けられていたし、航海の記録は「紙」に記録されていた(航海日誌)と伝えられています。

鄭和の大航海 出帆 〜 帰港
第1回の航海 1405年〜1407秋
第2回の航海 1407末〜1409夏
第3回の航海 1409末〜1411夏
第4回の航海 1413冬〜1415夏
第5回の航海 1417冬〜1419夏
第6回の航海 1421冬〜1422夏
第7回の航海 1431末〜1433夏







鄭和(ていわ)の艦隊
中国郵政

1405 鄭和下西洋600周年 2005
中国 2005 発行

SINGAPOLE
1405 鄭和とジャンク船の大艦隊、鄭和の航海600年記念 2005
シンガポール 2005 発行
1421年3月には100隻以上のジャンク船に3万人が乗り込んで出帆したといわれています。戦艦は140mx58mのジャンク船で1000本のマストを備えていたと言われています。交易船は27mx9mでした。中央に旗艦、周りに交易船、そして外周に戦艦を配置した護送船団方式をとって航海していました。 明代の小説「西洋記通俗演義」に伝説的英雄豪傑として描かれています。

永楽帝
 (在位1402〜1424)

モンゴル族の元王朝(1271〜1368)の末期には、群雄が中国各地に割拠していました。その中で、「朱元祥」は異民族支配の中で差別されていた漢民族の官僚達を優遇して、その意見を取りいれていました。その献策で全国制覇を成し遂げ、明王朝(1368〜1644)を建国しました。太祖とも洪武帝(在位1368〜1398)とも呼ばれています。一人の皇帝で一つの元号、「一世一元」制度を始めた人物でもあります。なお、日本でこの制度が取り入れられたのは明治時代になってからです。孫の建文帝(在位1398〜1402)は燕王”朱隷”(しゅてい、洪武帝の第4子)に攻められ、また宦官らの裏切りにあい、南京で火中に身を投じて生涯を終えました。そして燕王は元号を「永楽」と改め、成祖・永楽帝(在位1402〜1424)として第3代「明」の皇帝に即位し、都を南京から北京へ遷都しました。それまでの明代の消極的な朝貢貿易から積極策へと転換。イスラム教徒の宦官であった鄭和に命じて、南シナ海、インド洋、アフリカ東岸へとジャンク船の大艦隊で遠征させ、南方諸国に対して明への朝貢を迫ったのでした。

永楽帝が漠北遠征に大軍を率いてモンゴルへ攻め込み、15年間にわたって莫大な戦費を浪費しました。最後は撤退中の内モンゴルの楡木川の漠営で生涯を終えました。次の洪熙帝は8ヶ月で病死、その次の宣徳帝(在位1425〜1435)の治世下で外征は消極的となりました。







ジャンク船の水密隔壁
中国香港
1405 鄭和下西洋600周年 2005

1405 鄭和の大航海600年記念 2005
中国香港 2005 発行
中国船の水密隔壁。
現代の船は、甲板下の部分が水密性の隔壁によっていくつもの区画に分けられている。これは衝突や座礁で船体に亀裂や穴があいても、一部の区画に浸水するだけで全体としては浮力が保たれるようにするためだが、他にも貨物を積み分ける仕切りとして、あるいは強度維持のための構造部材としての機能も果たしている。

こうした水密隔壁の発想は、西洋では近代以降のものだが、中国では相当古い時代から用いられていたらしい。  マルコ・ポーロの「東方見聞録」には、帰国時に乗船した中国船についての記述があり、そこで彼は、その船が丈夫な板を接ぎあわせた隔壁で13の区画に仕切られていたと述べている。当時は、夜間にイルカが衝突して船体に穴があく事故が多かったらしく、そんな場合も中国人の水夫は、慌てずに荷物を別の区画に移し、破損部分を修理して、また元の区画に荷物を戻したという。実際の構造は記述からはわかりにくいが、流入した海水は自動的に水溜め専用の区画に流れる仕掛けになっていたようだ。このほか当時の帆装や、石灰と麻とある種の樹脂の混合物を船体に塗って水密を保ったこと、船体は二重張りで、一年ごとに外板を一層重ね、六層目で船を廃棄して船食虫の被害に対処していたことなどの記述があり、当時の中国船の特徴を知る上で貴重な資料となっている。

マルコ自身もベネチア出身で船に詳しく、その彼が中国船の優れた特徴に感嘆している様子が、これらの記述にはよくあらわれている。  鄭和の時代を除けば、中国人が航海民族として世界史に登場したことは希だが、当時、世界に冠たる文明国家として君臨していた中国は、造船技術の分野でも、やはり独自の高度な技術をもっていたようである。日本大百科事典より。







船喰い虫(フナクイムシ)
SOLOMON ISLANDS

ガダルカナル島で船底の修理、1568・メンダーニャの航海
ソロモン 1999 発行 (200%)
フナクイムシの被害。
推進効率の低下を招く船底への海洋生物の付着は現代の鋼船にとっても頭を悩ます問題、ドック入りが行われているが、木造船の時代には、これが時には沈没さえ引き起こす重大問題だった。その元凶はフナクイムシ。「ムシ」といっても実はフナクイムシ科の二枚貝だ。貝殻は1センチにも満たない小さなもので、体の一部だけを被っており、体は貝殻から外に細長く伸びて、成長すると1メートル前後にも達する。貝殻の前半部はヤスリ状で、これを動かして船底外板に穴を掘り、セルロースを消化しながら木部に深く侵入するため、ついにはこの穴から浸水したり船体に亀裂が生じたりする。

このフナクイムシを退治する昔からの方法は、船を陸上げして船体を横に倒し、周囲でたき火をして船底を乾燥させることだった。「焚船」または「船たで」といわれるこの作業は、日本では漁民の縁起かつぎとしても行われたが、面倒な仕事であるのに変わりはなかった。

しかし18世紀になってフナクイムシの被害を防ぐ画期的な発明が生れる。船底に銅板を張るという方法だ。銅が酸化すると緑青と呼ばれる青錆が生じる。この緑青から亜酸化銅が海水に溶け出し、これが海洋生物に対し毒性を持つためフナクイムシの付着が妨げるわけである。画期的な発明ではあったが、その後1世紀ほどの間に船の世界は鉄船の時代に入ってしまった。日本大百科事典より。
スタンプ・メイツ
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