★ベルギー ジェルラッシ・デ・ゴメリャン
1898
南極探検・ベリングスハウゼン海到達
大航海物語★

BELGIQUE-BELGIE
ジェルラッシとベルジカ号
南極に上陸したジェルラッシ
ベルギー 1966 発行
BRITISH
ANTARCTIC TERRITORY
ジェルラッシ と ベルジカ号

イギリス南極地方 1975-80 発行
US
1961 ANTARCTIC TERRITORY 1971

(赤点)
ウェッデル海→
南極半島→







ロス海
(赤点)
南極条約 10周年 記念
アメリカ 1971 発行

エイドリアン・デ・ジェルラッシが1897年に多国籍の探検隊をアントワープで結成しました。彼らの探検船ベルジカ号は、1898年2月から1899年3月まで、約13ヶ月間、南極半島の西側(南緯 71°00′)で氷に閉じ込められ漂流しました。病気により、探検隊に犠牲者が出ましたが、探検隊自体の生還には成功しました。南極圏における越冬により、多くの経験を得ることができ、科学的論文を発刊しました。
・エイドリアン・ヴィクトール・ヨセフ・デ・ジェルラッシ・デ・ゴメリャン
Adrien Victor Joseph de Gerlache de Gomeryan
(1866/8/2〜1934/12/4)
エイドリアン・デ・ジェルラッシはベルギーのフランダース地方で生れ、ブリュッセル大学で応用科学を学び、休日は大西洋横断航路の定期船で客室係り(cabin boy)として過ごしていました。1855年に卒業し、1886/1/19にベルギー海軍に入隊しました。フランダース・オステンドの船舶学校を卒業すると中尉に任官し、水路調査船(hydrography ship)に配属されました。

1896年ジェルラッシはノールウェイの捕鯨船パトリア号(Patria 336t)を購入し、大修繕をして船名をベルジカ号(RV Belgica)とし、多国籍(ベルギー人、ポーランド人、ノルウェー人、アメリカ人、ルーマニア人、ロシア人)の南極探検隊をベルギーのアントワープで結成しました。その中にはノールウェイのアムンゼンも加わっていました。1897/8/16に南極へとアントワープ港を出帆しました。1898/2/28に探検隊は南極半島の西側のベリングスハウゼン海(1821年にベリングスハウゼンが発見した南極の氷海で、南緯71°00′の地点に有)で氷に閉じ込められてしまいました。乗組員総出の努力にもかかわらず、氷からの脱出が出来ず、冬越しの覚悟を迫られました。そして1899/3/14までの約13ヶ月間も氷に閉じ込められ漂流しました。数人が生気を失い、また壊血病(scurvy)などで亡くなる者も出ましたが、1899/11/5にアントワープへ帰港しました。1901年に探検航海記(Quinze Mois dans l'Antarctique)を発刊し、1902年にフランス・アカデミーからの勲章(Academie Francaise)を受賞しました。

1901年にはペルシャ湾の科学的探検調査に従事しました。1903年にはフランスのシャルコット南極探検隊に参加しましたが、悪天候で南極に着く前に失敗しました。1905年にはベルジカ号でグリーンランド海を探検しました。1907年にはバレンツ海とその北方のカラ海(Kara Sea)を探検しました。1909年にはクリーンランドスピッツベルゲン島、フランツ・ヨーゼフ群島をベルジカ号で探検しました。

ジェルラッシは1904年にスザンナ(Suzanne Poulet)と結婚して、1906年に長男のフィリップが誕生し、1908年に長女マリー(Marie-Louise)が生れました。1913年に離婚し、スウェーデン人女性(Elisabeth Hojer)と再婚し、1919年に息子ガストン(Gaston)が生れ、長じて1930年にベルギーの南極基地で極地研究に付きました。ジェルラッシは1934年にブラッセルでパラチフスにかかって68才で亡くなりました。

・ベルジカ号の装備:〜
  RV Belgica
、1884、古代ローマのガリア属州のベルギカ(Gallia Belgica)で命名。
船 型 木造蒸気機帆船(screw steamer sailing-ship) 氷に閉じ込められたベルジカ号
帆 柱 3本マスト
長 さ 36m
7.6m
深さ 4.1m
重 量 336屯
進 水 1884年、スヴェルヴィック(Svelvik, Norway)
最 後 1913年

・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。     2006/11/10、09/4/23追記、2010/6/10追記
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