United Kingdom

国連 1983 発行
切手で綴る イギリスの冒険航海(Adventure Voyage)南極探検(VI-3
ビスコウ船長
1831
南極探検・エンダービーランド発見
大航海物語
 イギリス編

BRITISH ANTARCTIC TERRITORY
ビスコウ船長

ツラ号
イギリス南極地方 1975 発行

US
南極大陸の地図
1961 ANTARCTIC TERRITORY 1971
(赤点)
ウェッデル海

南極半島







ロス海
(赤点)
南極条約 10周年 記念
アメリカ 1971 発行 (200%)
St. Helena
ブリッグ型帆船

セントヘレナ 1998 発行

ビスコウ船長は1831年エンダービランドを発見し南緯 67°30′の地点に到達しました。1832年には世界で3番目に、南極圏一周航海を成し遂げました。
・ジョン・ビスコウ
 John Biscoe (1794/6/28〜1843)
ビスコウ船長はイングランドの大ロンドン市エンフィールド(Enfield, #1H59)町で生れました。1812/3月に17才で海軍に入隊し、第2次アメリカ独立戦争(1812ー1815)にも従軍しました。1815年に戦争が終ると、商船の船長の資格を取りました。その後、主として西インドや東インド航路の船長として商船に乗組みました。

1830年にエンダービー&サンズ捕鯨会社(Samuel Enderby & Sons Co.)がビスコウ船長をブリッグ型帆船”ツラ号”(brig Tula)の船長に指名しました。そして、南極大洋(South Polar Ocean)での新しいアザラシ狩りの猟場を探す探検航海を命じました。カッター帆船のライヴリー号(cutter Lively)を伴って、ツラ号はロンドンを出帆し、12月までに南シェットランド諸島に到着。さらに南へ探検航海を続けて、南極圏を横切って、1831/1/22に南緯 60°の地点で引き返しました。その1ヵ月後の1831/2/24に氷海から突き出ている「裸の山の頂上」を見つけ、彼の後援者の名をとってエンダービーランド(Enderby Land、南緯 67°30′西経 53°0′)と名づけました。2/28には岬を発見し、アン岬(Cape Ann)と名づけました。岬の山は後年、ビスコウ山(Mount Biscoe)と名づけられました。さらに探検航海を続け海岸線を地図に作図して一ヵ月たつと、彼や乗組員の健康が悪化し始めたので、オーストラリアへ向けて航海をしました。2人の乗組員が壊血病で亡くなりましたが、5月にタスマニアホバート港(Hobart)に入港できました。

ホバート港で冬を迎え、再び南極へと出帆して、1832/2/15にアデレイド島(Adelaide Island 南緯 67.25°、西経 68.5°)を発見.、2/17にはビスコウ島(Biscoe Islands)を発見、2/21グラハムランド(Graham Land 西側)を発見し、アリヴァース島(Anvers Island)を望見しました。1832/4月の終わりに南極圏を一周したのはクック船長ベリグスハウゼン艦長に続いて3番目となり、帰国の前に海図にその海岸線を書き込みました。そして帰港の航海につきましたが、災難が襲い掛かり、ライヴリー号がフォークランド諸島で座礁しました。それ以降は順調な航海を続けて、1833年の初めにロンドンに帰港できました。

イギリスに帰国すると王立地理学協会からファウンダー賞(Founder's Medal)を送られました。捕鯨会社はビスコウに再度、探検隊を指揮するようにと要請しましたが、前の航海で健康を害していたので辞退しました。しかしながら、彼は西インドへの商船に乗組み、その年にタスマニアのホバート港に家族を連れて移住し、1837年までその航海に従事しました。1839〜40年は、ブリッグ型帆船”レイディ・エマ号”(Lady Emma)の指揮を執ってオーストラリアのニューサウスウェールズからアザラシ狩航海に従事し、ホバート港、シドニー港、ポート・フィリップ港への航海船の船長になりました。

1843年49才で病身の故を持って引退し、タスマニアから家族とロンドンへ帰る航海の途中で亡くなりました。後年には、1956年から1991年まで就航した南極観測調査母船に彼の名をとって、”ジョン・ビスコウ号”(RRS John Biscoe)と名づけられました。

参考HP:〜
南極周辺の島の一覧
南極周辺の島の一覧(日本語)

・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。   2006/11/15、令和7年 2025/12/20
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