切手で綴る 冒険大航海 (Adventure Voyage)
★クック物語 第1回
第2回
第3回
United Kingdom

国連 1983 発行
キャップテン・クック
大平洋探検大航海
1768〜1779
3度にわたり探検航海


大航海物語
  イギリス
  クック編
Kiribati
レゾリ
ュ|シ
ョン





ップテン
・ク
ック


羅針盤
キリバス 2002/3/25 発行
---------目 (MENU) 次--------
 ・初めに:生立ちの記
 ・序 章:全3航海の足跡(航海地図)
第1回探検航海
 ・第1章:第1回航海へ出帆、ホーン岬へ
 ・第2章:タヒチ島(Transit of Venus)
 ・第3章:ニュージーランド探検航海
 ・第4章:オーストラリア探検航海
 ・第5章:グレートバリアリーフで座礁
 ・第6章:バタヴィア、喜望峰、帰国
 ・帆 船:(1)エンデヴァー号
第2回探検航海
 ・第7章:第2回航海へ出帆、喜望峰へ
 ・第8章:南極一周探検航海
 ・第9章:太平洋探検航海、トンガ島
 ・第10章:クック諸島
 ・第11章:ノーフォーク島
 ・第12章:フェゴ島
 ・第13章:ジョージア島
 ・第14章:喜望峰、セントヘレナ島、帰国
 ・帆  船:(2)レゾリューション号
第3回探検航海
 ・第15章:第3回航海へ出帆、喜望峰へ
 ・第16章:南極海ケルゲレン島
 ・第17章:太平洋探検航海、クリスマス島
 ・第18章:アイツタキ島
 ・第19章:ハワイ諸島発見
 ・第20章:ヌトカ・サウンド
 ・第21章:北西航路の探検、北極海へ
 ・第22章:ケアラクアに死す!
 ・帆  船:(4) (5)ディスカヴァリー号
 ・終章:クック船長の年表  ・帆  船:(3)アドヴェンチャー号  ・補章:クック船長亡き後の探検航海




初めに

SAMOA


ク船長
エンデバ
|
1770 クック船長の太平洋探検200年記念 1970
サモア 1979/7/15 発行

クック船長は英仏戦争の時にカナダのノバスコシア州方面の海岸線の正確な測量を実施して英海軍を勝利に導きました。戦後にニューファンドランド島の沿岸測量をなして認められ、イギリス地学協会の依頼でタヒチ島で金星の太陽面通過観測を行いました。そして太平洋の3度にわたる探検航海に赴き、ハワイ島で戦死しました。
生立ちの記
BARBUDA
クック船長の生家、Marton

1779 クック没後200年記念 1979
アンチグアにバーブダ加刷 1979/8/1 発行
NEWFOUNDLAND
クック船長が沿岸を測量した
ニューファウンドランド島の地図


ニューファウンドランド 明治41年 1908/1/3 発行

ジェームス・クック船長 (1728/10/27〜1779/2/14)
 Captain James Cook

クック船長はイギリスのヨークシャー州ミドルボロウ町マートン(Marton, Middlesbrough, North Riding of Yorkshire)でスコットランド人農場労働者の子として生まれました。クックは初歩的な学校教育を受けただけで、8才でグレート・エイトン(Great Ayton)の農場に移り、そこで父を助けて働きました。16才で家を離れ、ステイズズ(Staithes, North Yorkshire)の食料品雑貨商へ年季奉公に出て、そこで船員たちと知り合いになり、1746年18才の時、ホイットビー(Whitby)の船主のもとに置かれて北海の石炭運搬船に乗り込む海の仕事に就き、見習い水夫となりました。航海術を身につけたクック船長は、1755年26才で正式に海軍々人になりました。1757/6/29にデプトフォードで水先案内協会試験(Trinity House examination)に合格していました。
1756年英国勝利で終結のフランスとの七年戦争の間、北米大西洋岸での測量調査の実績が上官に認められました。なかでもフレンチ・インディアン戦争では、1759年のケベック包囲戦に従軍し、地理調査及び海図作成の才能を発揮し、セントローレンス川々口の測量と海図作成を任され、正確な海図を作製してウォルフ将軍の奇襲上陸作戦を成功に導き、包囲戦の勝利に大いに寄与しました。

その戦争終結後に英国は戦勝国として、新たに獲得したニューファンドランド島の沿岸測量に、1763年から1767年にかけて従事しました。その成果によって、海軍々人としてのみならず、科学者として高い評価を得ました。その後、イギリス地学協会(ロイヤル・ソサイエティ)の要請で、太平洋の探検航海を3回にわたって実施しました。
セント・ローレンス河

カナダ 1991/8/20 発行
この第2回航海の時に、ジョン・ハリソンが1761年に発明したクロノメーター時計(正確な時計で経度を求める時に使用し、英国・グリニッジが0度、日本・明石が135度)に準拠したラーカム・ケンドール製作のクロノメーターK1を使用して、正確な地図を作成しました。なお後年、英国が七つの海を征服できたのはクロノメーターのおかげだとも言われています。 (上記・下記は全て、諸説有)。
キャップテン・クックの略年表

参考HP:〜
ノースヨークシャーの場所地図(マートンは北境界の黒い所に有)
ホイットビーの場所地図(Whitby)
ステイズズの場所地図(内陸に Great Ayton村、Staithes港、Whitby港が有)
ミドルボロウの場所地図(イングランドの地図)
 (マートンのあるミドルボロウは赤印内 Middlesbrough で、他に Whitby も有)
マートンの場所地図(Marton)
クック船長のニューファウンドランド島地図(1775年)






大平洋探検大航海
全3回の航海ルート
★クック物語 序 章
第1章
第2章
第3章
第4章
第5章
第6章
序 章 航海地図
キャップテン・クックの大平洋探検
@1768〜1771、A1772〜1775、B1776〜1779
全3航海の足跡(航海地図)・あらすじ


大航海物語
  クック編★

イギリスから南米ホ|ン岬へ

世界一周航海
エンデバー号と第1・2回航海のルート・マップ(航海地図)

セント・ヘレナ 1999/3/5 発行
クロノメ|タ|時計は2回目に初使用 イギリスからアフリカ喜望峰へ

世界一周航海
第3回航海のルートマップ(航海地図)
赤線-----プリマス出帆(往路)
青線-----ハワイ出帆(帰路)、クック没後

ック船長の戦い

アラスカ




ハワイ


1778 クック・ハワイ発見200年記念 1978
1728 クック船長  生誕250年記念 1978

グレナダ 1978 発行

キャップテン・クックの探検航海:〜全3回の探検航海ルート
 第1回(1768〜1771)タヒチ、ニュージランド、オーストラリア東岸方面、太平洋の探検航海。
 第2回(1772〜1775)未知の南方大陸探索で南氷洋航海、太平洋の島々の探検航海。
 第3回(1776〜1779)北大西洋と北太平洋を連絡する北西航路の探検.航海、
               その後、ハワイ島ケアラクアで戦死。
使用船名
・第1回〜エンデバー号(輸送船を平底の本格的な探検・調査船に改装)
・第2回〜レゾリュ−ション号アドヴェンチャー号
・第3回〜レゾリュ−ション号・ディスカバリー号
・あらすじ:〜
 (キャップテン・クックの主な航海記録)
▼第1回(1768〜1771):〜:エンデバー号
(西回り世界一周航海)
プリマス出帆〜マデイラ諸島〜リオデジャネイロ〜ルマール海峡〜ホーン岬〜タヒチ島〜ソシエテ諸島〜ニュージーランド〜オーストラリア〜トレス海峡〜ニューギニア〜バタビア〜スンダ海峡〜インド洋〜喜望峰〜ケープタウン〜セントヘレナ島〜アセンション島〜ダウンズ(ドーバー港)着、イギリス帰国。

・1768年:〜:
 7〜 9月:イングランドを出帆、マデイラ諸島を経て
10〜12月:ブラジルのリオデジャネイロからルマール海峡をへてホーン岬を回航
・1769年:〜:
 1〜 3月:
 4〜 6月:タヒチ島、金星の太陽面通過の観測
 7〜 9月:ソシエテ諸島の海図を作製の探検航海
10〜12月:ニュージーランドを探検
・1770年:〜:
 1〜 3月:ニュージーランドを探検
 4〜 6月:オーストラリアを探検
 7〜 9月:ニューギニア付近の海図を作成しながら航海
10〜12月:スンダ海峡に南から進入、ジャワ島のバタビア入港
・1771年:〜:
 1〜 3月:スンダ海峡を南へ抜け西方へと航海
 4〜 6月:ケープタウンに寄港
 7〜 9月:サセックス州のダウンズに到着(1771/7/12)、イギリスに帰国

▼第2回(1772〜1775):〜:レゾリューション号・アドヴェンチャ号
(東回り世界一周航海、南極圏を一周航海)
プリマス出帆〜マデイラ諸島〜ヴェルデ岬諸島〜ケープタウン〜南極海〜3度の南極圏突入〜ニュージーランド〜太平洋〜イースター島〜マルケサス諸島〜タヒチ島〜トンガ島〜クック島〜ニューヘブリデス諸島〜ニューカレドニア島〜ノーフォーク島〜ホーン岬〜フェゴ島〜サウスジョージア島〜ケープタウン〜セントヘレナ島〜アセンション島〜アゾレス諸島〜スピットヘッド(ポーツマス港)に到着、イギリスに帰国。

▼第3回(1776〜1779):〜:レゾリューション号・ディスカヴァリー号
(ハワイ諸島発見、北極海探検航海)
プリマス出帆〜カナリア諸島〜ケープタウン〜喜望峰〜ケルゲレン諸島〜タスマニア島〜ニュージーランド〜太平洋〜クック諸島〜タヒチ島〜トンガ島〜ソシエテ諸島〜クリスマス島〜ハワイ諸島〜ヌトカ〜アラスカ湾〜ウナラスカ島〜チュクチ海〜ハワイ諸島〜ハワイ島ケアラクワにて戦死。

※第1回は1隻で途中にて事故が起こったので、2回目以降は2隻での探検航海になりました。

参考HP:〜
 ・クック船長の全3回航海地図
   第1回:〜赤線 : エンデバー号
   第2回:〜緑線 : レゾリュ−ション号・アドヴェンチャー号(南極の周回はこちら
   第3回:〜青線 : レゾリュ−ション号・ディスカバリー号






★クック物語 序 章
第1章
第2章
第3章
第4章
第5章
第6章
第1回 第1章 イギリスを出帆へ
キャップテン・クックの第1回探検航海
1768/8/26
イギリスを出帆、ホーン岬から太平洋へ


大航海物語
  クック編★

GILBERT ISLANDS
キャップテン・クック

ギルバート諸島 1979/1/15 発行
St.Helena
クック船長の第1回探検の乗船
エンデバー号 1768〜1771

(His Majesty's Bark) HMB Endvour
セントヘレナ 1998/8/25 発行

・キャップテン・クックの第1回探検航海(1768〜1771):〜
クック船長の第1回探検航海は、ロイヤルソサイエティ(Royal Society of London:王立協会)から金星の太陽面通過調査のための観測調査隊に選ばれ、初めて太平洋への探検航海に出帆。この航海のもう一つの使命は、1587年のメルカトル地図にも「メガラニカ」として描かれている「未知の南方大陸」”テラ・アウストラリス・インコグニタ”(Terra Australis Incognita)の発見でした。

クック船長はバーク型帆船エンデバー号(HMBark Endeavour)の船長で探検隊司令官として
▼1768:〜:
08/26、イングランドのプリマス湾(Plymouth Sound)を出帆
09/14、マデイラ諸島フンシャルに到着
09/20、フシャル(Funchall)を出帆
09/30、ヴェルデ岬諸島を望見
10/21、赤道を横断
11/14、ブラジルのリオデジャネイロに到着
12/08、リオデジャネイロ(Rio de Janeiro)を出帆
12/14、ルマール(Strait of Le Maire)海峡へ
12/25、ホーン岬(Cape Horn)を回航、
     ドレーク海峡を西へ航海、太平洋へ



マゼラン海峡

←フェゴ島

ルマール海峡
ホーン岬
←ドレーク海峡
▼1769:〜:
     太平洋を西へ横断航海
04/09、ポリネシアのトゥアモツ諸島に到達
04/10、ムルロア環礁の1767年カートレット艦長発見のオスナバー島(Osnaburgh)を望見
04/12、キング・ジョージ諸島(King George's Island)を望見
04/13、タヒチ島到着、マタヴァイ湾(Matavai Bay)に投錨

参考HP:〜
 ・1587年のメルカトル地図


参考:〜
惑星の太陽面通過

    Transit of Planet
水星の太陽面通過
  地球から観測すると、1世紀に13回か14回の割合で起こる。
金星の太陽通過は非常に珍しい現象で、近年では、
  太陽面通過が起きる間隔には243年の周期がある。8年をおいて2回対になって起きた後、121.5年と105.5年の長い空白期間がある。
キャプテン・クック探検隊は最初の航海で、1769年の太陽面通過
金星の太陽面通過・観測

ツヴァル 1979/2/14 発行
(1769/6/3:開始 19:15〜中央 22:25〜終了 01:35)をタヒチ島で観測した。
最近では:〜
・1882/12/6〜ジョン・フィリップ・スーザが行進曲「金星の太陽面通過」を作曲、
・2004/6/8〜世界中のメディアが金星の太陽面通過の ライブ映像を放送 、
・2012/6/6〜ハワイ、オーストラリア、太平洋、東アジアで全過程が見られる
・2117/ 12/11〜
  中国東部、日本、インドネシア、オーストラリアで 全過程が見られると予測されている。







★クック物語 序 章
第1章
第2章
第3章
第4章
第5章
第6章
第1回 第2章 タヒチ島へ
タヒチ島
1769/6/3
金星の太陽面通過の観測


大航海物語
  クック編★

COOK ISLANDS
タヒチ島マタヴァイ湾のエンデバー号

1768 クック諸島 200年 1968
クック諸島 1968/9/12 発行
Norfolk Island
タヒチ島「金星の太陽面通過」観測の地図
タヒチ島の太平洋での場所地図
金星観測と四分儀

金星の太陽面通過観測調査200年記念
ノーフォーク島 1969/6/3 発行

▼1769:〜:
04/13、タヒチ島到着、マタヴァイ湾(Matavai Bay)に投錨、上陸して砦を建設し、
     島の先住民との友好親善を深めながら天体観測の準備
04/17、画家ブッチャンが亡くなる
06/03、金星の太陽面通過(Transit of Venus)を観測
06/05、国王誕生日(6/4)を祝って現地の王を招いて
     祝賀会を開催
06/12、水夫のサーマン(John Thurman)と
     ニコルソン(James Nicholson)が現地人の弓矢を
     奪ったことが証明されたので、鞭打ちの刑24回
06/13、パンの木の実を現地人から購入
金星の太陽面通過と四分儀

ニュージランド 1969/10/9 発行
06/14、鉄熊手の盗難で現地人と小競り合い発生
06/19、水夫ジェームス・タンリー(James Tunley)を
     ラム酒盗み飲みの罪で鞭打ちの刑12回
06/26、タヒチの海図を作製でタヒチ一周航海へ
06/27、現地のダブル・カヌーを見る
07/09、タヒチに投錨、タヒチの海図を作製後、
07/13、タヒチのマタヴァイ湾を出帆、
     ソシエテ諸島の海図を作製の探検航海のため、
     フランス領ポリネシアのソシエテ諸島
パンの木の実

セント・ヴィンセント 1965 発行
     フアヘイナ島(Huaheine)から
     ウリエテア島(Ulietea)へ向かい
     無人島のテスロア環礁(Tethuroa)を調査
07/15、ヨーク島(York Island)到着
07/16、フアヘイナ島(Huaheine)到着
07/17、フアヘイナ島(Huaheine)に投錨
07/20、ライアテア島(Raiatea)到着
07/26、ボララボラ島(Bolabola)を出帆、
     (1777年の航海では上陸)
現地人のカヌー

ニウエ 1978/1/18 発行
08/01、ライアテア島(Raiatea)再到着、ソシエテ諸島の海図を作製後、
08/10、ソシエテ諸島を出帆、
     「未知の南方大陸」を求めて南方へと航海
08/29、払暁(am5)の北方の空に長い尾を引く彗星
     (Comet)を見かける、嵐に遭ったり、順風
     に乗ったりして、南方への航海を続ける
09/25、長さ3フィート(約91.4cm)x太さ8インチ
     (約20.3cm)位の木の棒が船に流れ着く
09/28、波の上で眠っているようなアザラシ、海草
     アホウドリ(Albetrosses)を見かける
10/03、大型の海鳥(Albetrosses)などの群れが
     船に寄ってくる
長い尾を引くハレー彗星

ドミニカ 1986 発行
10/05、木片、かもめ(Port Egmont Hens)、海草(Sea Weed)、アザラシなどを見かける
10/06、マスト先西北の夕陽のかなたに島影(ニュージーランド北島)を発見、
10/08、陸地(ニュージーランド北島)に接近、断崖絶壁と緑におおわれた山を見る
10/09、小さい川の川口の穏やかな湾に投錨、
     ニュージーランド北島の東岸ポヴァティー湾(Poverty Bay)に到着

参考HP:〜
 ・タヒチ島の地図
 ・ソシエテ諸島の地図






★クック物語 序 章第1章
第2章
第3章
第4章
第5章
第6章
第1回 第3章 ニュージーランド
ニュージーランド探検航海
1769/10/9
ポヴァティー湾上陸


大航海物語
  クック編★

Republic of Maldives
キャップテン・クック

モルジブ 1978/7/15 発行
Republique Togolaise
ニュージランド航海地図


エンデバ|号
トーゴ 1979/2/12 発行

NEW ZEALAND
現在のニュージランド地図 クック船長のニュージランド地図、1769


42.0°
190.0°174.0°
現在の地図 1982 発行
H.M.BARK
ENDEAVOUR
COOK'S CHART
of New Zealand
1769
CAPTAIN
COOK
35°
40°
45°
190°185°
COOK'S REDISCAVERY of NEW ZEALAND 1769
クック船長 と エンデバー号 と クック船長の地図
クック船長の地図には東経185度、南緯40度が表示されています。
左の切手には東経174.0度、南緯42.0度が表示されています。
上右の切手は「ニュージランド100年記念」として発行されました。
240年以上前のクック船長の地図は現在の地図と少し誤差が有る事が解りますね。
”1840 CENTENNIAL OF NEW ZEALAND 1940”

ニュージーランド 1940/1/2 発行

▼1769/10/6には、1642年アベル・タスマンのヘームスケルク号航海の、実に127年後になるニュージーランド東岸に接近、10/9に北島の東岸ポヴァティー湾(Poverty Bay)に停泊して上陸しました。その後、ニュージーランド沿岸を約6ヵ月(10/9〜4/1)かけて探検航海して測量し、正確な海図を作成しました。その誤差は僅かで、例えばニュージーランド南島のクライストチャーチから南東に広がる半島「バンクス半島」(Banks Peninsula)を「島」と思って同行の博物学者ジョゼフ・バンクス卿に因んで「バンクス島」(Banks Island)と名付けました。また、ニュージーランド南部の島であるスチュアート島(Stewart Island)は、ニュージーランド南島とはフォーボー海峡で23km隔てられていますが、南島の一部の半島として海図に描かれました(クック船長の2大誤差と呼ばれています)。
ニュージーランドの北島と南島を分断するクック海峡(Cook Strait)を最初に通過したのはタスマン(1642)でしたが、タスマンはこの海峡が湾であると誤認し、海峡とは気づかなかったといわれており、海峡であることを最初に発見したのは、その後に通過したクック船長(1769)で、海峡の名前はクック船長にちなんで「クック海峡」と名付けられました。 ニュージランド島の航海地図

ニュージランド 1969/10/9 発行
10/09、ニュージーランド北島の東岸ポヴァティー湾の小さな川の入り口付近に投錨、
     バンクス博士とソランダー氏と共にヨール船で上陸、川の向う岸に現地人が現る
     マスケット銃を撃ち一人を殺す、タヒチから連れてきたトウパイア(Tupia)が話し
     贈り物を渡すも友好的にならず、背後には大きい山が聳えている
10/10、他の上陸場所を探すも無し、現地人が攻撃してきたので応戦
10/11、多くのカヌーが近寄ってくる
     ポヴァティー湾を出帆
10/12、テーブル岬(Cape Table)と命名し、南へ航海
    ポートランド島(Island of Portland)を発見、命名
10/13、島の西方に陸地を発見、4隻のカヌーが近寄る
     上陸を試み、ボートの銃隊に警告射撃を命ず、
     さらに本船の大砲(4pnd)を撃つ、西方に航海
     大きな湾に入る、カヌーが近寄ってくる
湾内のエンデヴァー号

ニウエ 1978/1/18 発行
10/14、大きな湾でトウパイアの従者ティアタ(Tiata)をカヌーが連れ去るも取戻し、
     そこをキッズナッパー岬(子さらい岬:Cape Kidnapper)と命名、そしてホーク卿
     (Sir Edward Hawkes)に因んでホーク湾(Hawkes Bay)と命名、3日間を過ごす
10/17、ターナゲイン岬(Cape Turnagain)を命名、
     北へ転舵して戻る
10/20、岬を回った湾に停泊、カヌーが来て本船に上がってきた者に甘くて美味しい
     イギリスのトライフル(Trifles)ケーキをやって追い返す
10/22、テガドー湾(Tegadoo Bay)を命名、そこで現地人から
     15ポンドのサツマイモ(sweet Potatoes)を購入
10/25、水12屯を船に積み込む
10/26、木材と水の船積みを続行
10/27、水70屯を船に積み込んで水は終了するも、木材は不足
10/28、さらに木材を積み込んで出帆
10/29、トラガ湾(Tolaga Bay)命名
10/31、北島の最東端をイースト岬(East Cape)と命名、
     ランナウェイ岬(Cape Runaway)と呼んだ所を
     回りこんだ湾をヒックス(Lieutenant Hicks)が
     最初に見つけたので、ヒックス湾(Hicks's bay)命名
11/09、ニュージーランド北島コロマンデル半島(Coromandel
     Peninsula)のマーキュリー湾で水星の太陽面通過
     (23:09終了)の観測にグリーンが成功したので、
水星の太陽面通過の天文観測
     そこをマーキュリー湾(Mercury Bay)と命名

▼1770年:〜:
02/13、ニュージーランドを探検航海中に南島の西南に有る湾(入江)への開口部を
     調査し、ダスキー湾(Dusky Bay)と命名
04/01、南島の北西端を航行して、ニュージーランド最後の岬をフェアウェル岬(Cape
     Farewell、お別れ岬)と命名、オーストラリア(New Holland)へと、西方へ航行

参考HP:〜
 ・ポヴァティー湾の場所地図
 ・バンクス半島の場所地図
 ・スチュアート島の場所地図
 ・クック海峡の場所地図
 ・クック海峡の地図
 ・クック船長のニュージーランド地図
 ・ダスキー湾の場所地図
 ・ニュージーランドの領土地図

(注):〜青色の地名は現在も使用されていることが確認できる所







★クック物語 序 章第1章
第2章
第3章
第4章
第5章
第6章
第1回 第4章 オーストラリア
東オーストラリア探検航海
1770/4/29
ボタニー湾、シドニー・コーブ上陸


大航海物語
  クック編★

Maldives
クック船長のオーストラリア発見
ボタニー湾に停泊するエンデヴァー号


二千年紀記念のミレニアム切手
モルジブ 1999 発行

クック船長の東オーストラリア発見

オーストラリア 1970/4/20 発行・小型シート
EIRE
オーストラリアの地図
南東岸のハウ岬からヨーク半島を探検航海
東岸を探検航海
アイルランド 1988/3/1 発行 (200%)

BARBUDA
ボタニー湾・シドニー・コーヴ上陸

1779 クック船長没後200年記念 1979
バーブダ加刷 1979/8/1 発行
AUSTRALIA
国旗掲揚、領有宣言

オーストラリア 1979/1/26 発行

オーストラリア東岸ボタニー湾付近の地図
オ|ストラリア→
ポート・ジャックソン



現在の
シドニー市街地




ボタニー湾



1788/1/24 Botaney Bay
図案はペルーズフィリップ総督とのボタニー湾での出会い

ニューカレドニア 1988 発行

▼1770年:〜:
04/04、昨日の強風雨で傷んだメインマストのトップスルー(Maintopsail)を修理
04/07、掌帆兵曹(Boatswain's Mate)と海兵軍曹(Serjeant)の告発で、
     海兵隊ボーレス(John Bowles)を任務怠慢の罪で鞭打ちの刑12回
04/09、熱帯鳥(Tropic Bird)を見かける
04/18、今朝もピンタード鳥(Pintado bird)やアホウドリ(Albetrosses)などを見かける
     これは陸地が近い証拠で、タスマンの地図に有るファン・ディーメンス・ランド
     (Van Diemen's Land、タスマニア)の東岸が西方にあることを天体観測からも確信
04/19、オーストラリア東岸の陸地を望見、ヨーロッパ人で最初の発見者となる
     最初に見つけたのがヒックスだったのでポイント・ヒックス(Point Hicks)と命名
04/20、ニューサウスウェールス州とヴィクトリア州の境にあるオーストラリア最南東端の
     ハウ岬(Cape Howe)を回航してリチャード・ハウ提督(Richard Howe、1726-1799)
     にちなんで「ハウ岬」と命名
04/21、岸辺に迫る高い山をドロメダリー山(Mount Dromedary)と命名
     海岸に落ち込んでいる所をドロメダリー岬(Cape Dromedary)と命名
     風除けにちょうど良い湾を見つけるも岸辺が無い
04/22、海岸を見つけるも幾筋もの火と煙とを見る、
     ポイント・アップライト(Point Upright)と命名
04/23、現在のニューサウスウェールス州のバウリー・ポイント(Bawley Point)近くの
     ブラッシュ島(Brush Island)を望見し命名
04/25、海岸近くに幾筋もの火と煙を見る、
     セントジョージ岬(Cape St. George)、
     ポイント・ロングノーズ(Long Nose)、
     レッド・ポイント(Red Point)を命名
04/26、現在のジャーヴィス湾(Jervis Bay)沖を航行
04/27、海岸に現地人とカヌーを見つけてボートで接近するも、接触せずに戻る
     カプリコーン岬(Cape Capricorn)、
     ケッペル湾(Keppel Bay)を命名、投錨
     日中は海岸や島に煙を、夜間には火を見て、飲料水汲みをせず
     マニフォールド岬(Cape Manifold)命名
04/28、タウンズヘッド岬(Cape Townshend)を回って風除けに都合のよい湾を見つける
04/29、ボタニー湾に上陸、
ボタニ−湾カーネル半島クロヌラ砂丘(Cronulla sand dunes, Kurnell Peninsula)の現:シドニー付近(シドニー・コーヴ、Sydney Cove)で上陸して「ニュー・サウス・ウェールズ」(New South Wales)と名付け、イギリスの領有を宣言しました。アカエイが捕れたので”スティングレイ・ベイ”(Stingray Bay)と呼びました。ジョセフ・バンクス男爵ダニエル・ソランダー博士ヘルマン・スペーリング氏らは大量の植物標本の収集を行ない、この湾は植物が豊かな土地であることが発見され、バンクス男爵らが採集したこれら珍しい植物標本の採集を
バンクシア

オーストラリア1986/3/12発行
記念して、ボタニー湾(Botany Bay、植物学の湾) と命名されました(5/6)
05/01、水汲み場で現地人を見かけるも接触できず、昨夜遅くに亡くなった
    水夫フォビー・サザランド(Forby Sutherland)を海岸に埋葬
    ソランダー博士がウサギに似た不思議な動物(カンガルー)を
    見かける、連日に渡って現地人を見かけるも接触できず
05/02、岸に17〜18人の現地人が現れたので、ゴア少尉をボートで
    上陸させるも接触せず、彼らはほとんど裸で、小さいカヌーで小魚
    や貝を採っていて、たまにダーツ(ブーメラン)を投げる者もいた
カンガルー
05/06、夕刻ヨール船が600pndsの魚を獲って漁から戻る、ソランダー博士とバンクス氏が
    大量の植物標本を採取したのでボタニー湾(Botany Bay)と命名
    ボタニー湾を出帆、北方へ3リーグ(leagues=3miles=約4.83km、14.25km)航行し
    安全な投錨場所を発見、停泊してポート・ジャックソン(Port Jackson)と命名
05/07、北方へ航海、ブロークン湾(Broken bay)を発見・命名
05/09、スリー・ポイント岬(Cape Three Points)命名
05/11、ポート・ステファン(Port Stephens)命名・出帆、
     ホーク岬(Cape Hawke)命名、回航
05/14、スモーキー岬(Smoky Cape)命名
05/15、現在のソリタリー諸島(Solitary Islands)沖で島々を発見
ブロークン湾

オーストラリア 1975 発行
     南緯28°37′の所の岬をバイロン艦長に因んでバイロン岬(Cape Byron)命名
05/16、ポイント・デンジャー(Point Danger)命名
05/16、現在のクィンズランド州ブリスベーン北方のモートン湾(Moreton Bay)命名
     グラスハウス(Glass Houses)のような所を見かける
05/20、現:グレート・サンディ(フレーザー)島北端を回航しサンディ岬(Sandy Cape)命名
05/21、浅瀬をブレーク・シー・スピッツ(Break Sea Spit)と命名
05/23、バスタード湾(Bustard Bay)命名、停泊、奇異な事件が発生、
     船長の書記オートン(Mr.Orton)が酔っ払って服を切り裂き船室に帰ってから両耳
     を切って就寝したので、クォーター・デッキ(Quarter deck)に監禁
05/25、南回帰線(Tropic of Capricorn)を越える、
     カプリコーン岬(Cape Capricorn)命名
05/27、マニフォールド岬(Cape Manyfold)、
     ケッペル湾(Keppel Bay)命名
05/28、タウンシェンド岬(Cape Townshend)命名
05/30、なかなか水汲み場が見るから無いので、
     サースティ・サウンド(Thirsty Sound)と命名した所に移動して投錨
05/31、サースティ・サウンドを出帆、北西に島々を縫って航海、入江を沖に航行後、
     ピヤー・ヘッド(Pier head)命名、沖合の海上に出る
06/01、パルマーストーン岬(Cape Palmerston)命名
06/02、ヒルスボロー岬(Cape Hillsborough)命名
06/03、コンウェイ岬(Cape Conway)命名
06/04、ホウィトサンデイ水路(Whitsunday Passage)命名、通過
     カンバーランド島(Cumberland Isles)、
     グローセスター岬(Cape Gloucester)、
     ホルボーン島(Holbourn Isle)、現:ポートデニソン(Port Denison)を
     エギューム湾(Edgcumbe Bay)命名
06/05、アップスタート岬(Cape Upstart)命名
06/06、現:タウンズヴィル(Townsville)をクリーヴランド湾(Cleveland Bay)と命名
06/08、ポイント・ハイロック(Point Hillock)、
     ハリファックス湾(Hallifax bay)、
     サンドウィチ岬(Cape Sandwich)、
     ロッキンガム湾(Rockingham Bay)、
     ダンク島(Dunk Isle)命名
06/09、グラフトン岬(Cape Grafton)命名
06/10、トリニティ湾(Trinity Bay)、
     トリビュレーション岬(Cape Tribulation)命名

参考HP:〜
 ・シドニー・コーヴ(1789)の地図
 ・ニューサウスウェールス州の地図(ハウ岬が有)
 ・シドニー付近の地図
 ・ボタニ−湾の人工衛星写真
 ・ブロークン湾付近の地図

(注):〜青色の地名は現在も使用されていることが確認できる所






★クック物語 序 章第1章
第2章
第3章
第4章
第5章
第6章
第1回 第5章 座礁・遭難
エンデヴァー号
1770/6/11
グレートバリアリーフで座礁・修理


大航海物語
  クック編★

Norfolk Island
キャップテン・クックと
オーストラリア


ノーフォーク島 1978/1/18 発行






←カーペンタリア湾
←ヨーク半島
←グレーバリアリーフ

EMPIER CENTRAFRICAIN
エンデバー号がオーストラリア東岸
グレートバリアリーフの
エンデヴァー礁で座礁


赤道アフリカ 1978/7/11 発行
Republique Togolaise
オーストラリア東岸に上陸して
キャンプを張って滞在
修理中のエンデヴァー号


トーゴ 1979/2/12 発行

オーストラリア Norfolk Island
ヨーク半島東海岸の地図と

グレートバリアリーフで座礁の船体
ノーフォーク島 1991/8/28 発行


←ヨーク半島
←ポートダグラス
エンデヴァー礁


←シドニー
←キャンベラ
←ハウ岬
スペンサー湾、アデレード
ココス諸島1986/4/1発行 (200%)

▼1770年:〜:
06/11、オーストラリア東岸のグレート・バリア・リーフ(Great Barrier Reef)を北上しながら探検航海している時に、現在のピッカースギル珊瑚礁(Pickersgill Reef)で珊瑚礁(Coral Reef)の浅瀬(Coral Rocks)に乗り上げて座礁して動けなくなりました。船底を大破して浸水してきたので、全ての帆を降ろし、船を軽くするために、目印の浮標を付けた大砲、鉄や石のバラスト用の重り(Ballast)、樽(Casks)の飲料水も汲みだされ、樽も捨て、桶用の金輪(Hoop Staves)、オイル用壺(Oil Jarrs)、その他の傷んだ船舶用貯蔵品(decay'd Stores)などなどの重量物を全て放棄、海上へ投棄しました。
そこをエンデバーリーフ(Endeavour Reef)と名付けて、後で回収できるようにしておきましたが大砲は回収できませんでした。翌日の満潮時に船体が浮いたので、合計5つの錨に船をボートに繋いで引いて珊瑚礁から離脱しょうと何度か試みて、夕刻にやっと砂浜まで引き出して修理にとりかかりました。修理が行われている間は、エンデバー号乗り組みの ヨーク半島東海岸

図案はポートダグラス
者達は上陸しました。そこはクイーンズランドのエンデバー川(Endeavour Rivwe)と名付けた川の河口で、現在のクックタウン(Cooktown)の船着き場の近くでした。修理は約7週間(6/12〜8/4)行われましたので、バンクス卿、ソランダー博士、スペーリング氏らは植物標本の収集を行ないました。オーストラリア東岸の探検航海は通算して4ヵ月(4/19〜8/20)に達し、周辺を測量しながら正確な海図を作製しました。なお、バンクス卿はイギリスを出帆前にフリーメーソンに入会していたので、ニュージーランド及びオーストラリアに上陸した最初のフリーメーソンとされています。

08/05、エンデヴァー川から、タートル・リーフ(Turtle Reef)に移動、
     投錨、停泊に成功し、海亀と貝を採取するため全ボートを下ろし、
     1匹の亀と、肉20ポンド分の2枚貝を収獲、
     夜間にサメ数匹を獲る
08/06、エンデバー号が修理完了し、ピンネス船で探りながら離礁に成功、
     出帆して季節風(6-10月)の順風に乗って北上を開始、
     「北東々(North-East by East)に進路を取れ!」
08/10、フラッタリー岬(Cape Flattery)に投錨
08/20、ヨーク岬半島(Cape York Peninsula)北端に到着
     プリンスオブウェールス島(Prince of Wales Island)と
     ヨーク半島の間のエンデヴァー海峡からトレス海峡へ
08/22、トレス諸島南端のエンデヴァー海峡の
     ポゼッション島(Possession Island)に上陸
08/23、ブービー島(Booby Island, Queensland)に上陸
08/24、ブービー島出帆、
     トレス海峡を通過
08/28、ニューギニア南岸を望見
08/29、サブ島(Savu or Sawu)を望見
     その後、西方へ航海後、
     北上してトレス海峡を通過して、
     ニューギニア南岸方面を探検航海。
トレスのニューギニア古地図

参考HP:〜
 ・グレートバリアリーフの場所地図
 ・ポートダグラス付近の地図(ポートダグラスはケアンズ(Cairns)の北約70kmに有)
 ・ヨーク岬半島の地図
 ・ポゼッション島付近の地図
 ・オーストラリアとアラフラ海の地図
 ・サブ島付近の地図(チモール島の西に有)







★クック物語 序 章第1章
第2章
第3章
第4章
第5章
第6章
第1回 第6章 バタヴィア
ニューギニア・ジャワ探検航海
1770/10/10
バタビア寄港、帰国


大航海物語
  クック編★

AUSTRALIA
キャップテン・クックと航海用具

オーストラリア 1999/3/19 発行
GILBERT ISLANDS
エンデバー号

ギルバート諸島 1979/1/15 発行

REPUBLIK INDONESIA
インドネシア全図

インドネシア 1963/5/1 発行
REPUBLICA PORTUGUESA
ポルトガル・チモール

ポルトガルチモール 1956 発行

▼1770/08/31、ニューギニア南岸ワルシェ岬(Cape Walsche, New Guinea)を西へ航海
     ニューギニア付近の海図を作成しながら航海
09/07、ウェセルス島(Wessels Isle)を望見
09/10、チモール島(Timor)を望見
     島の南岸の沖合を航行中、煙が上がっているのをずっと望見(焼畑の煙か?)
09/16、ダンピールがアナボア島と呼んだチモール南端のセマン島(Seman)に達し望見
09/17、その西のサウ島(Savu、Sawu)に投錨
     牛、豚、羊(Buffaloes, Hogs, Sheep)などの食料を購入調達
09/19、オランダ総督とサルタンとで船上会食
09/20、サルタンの王宮を訪問
09/21、サウ島を出帆、西方へ航海
10/01、スンダ海峡(Sunda Strait)に南から進入
10/10、ジャワ島のオランダ東インドの首都バタビア(現:ジャカルタ)に入港して、
     クリスマス迄滞在し、傷んだ船体を修理、海図を作成
12/18、画家レイノルズが亡くなる
12/26、バタビアを出帆、
     「北西(North by West)へ進路を取れ!」
12/31、バンタン(Bantam Point)沖を航海

▼1771年:〜:
01/01、スンダ海峡の向うにスマトラ島を望見
01/02、スンダ海峡のクラカタオ島(Cracatoa)とジャワ島の間を南へ航海
01/06、プリンセス島(Princes Island, Sunda Strait)に投錨、飲料水を補給後に出帆
01/23、スンダ海峡を抜ける
01/24、植物学のスペーリングが亡くなる
01/26、画家のパーキンソンが赤痢で亡くなる
01/29、天文学のグリーンが亡くなる
01/31、トンプソン料理長(John Thompson)、ジョーダン大工(Benjamin Jordan)、
     ニコルソン水夫(James Nickolson)とウォルフ仕立職(Archibald Wolf)の
     4人が熱病で亡くなり、塞いだ空気が船内に蔓延する
02/04、少尉候補生ブーティー(John Bootie, Midshipman)と
     掌帆長ギャスレイ(John Gathrey、Boatswain)兵曹長が亡くなる
02/05、帆の修理のため掌帆長助手でピンネスのコックス(舵手)の
     エヴァンス(Samuel Evans)を掌帆長に昇進させ、在庫を調べさせる
02/06、少尉候補生で故外科医の弟モンクハウス(John Monkhouse)が亡くなる
02/10、順風だが霞ががかった中でオランダ船を見失う
02/12、長く苦しいフラックス(熱病)の闘病後に頼りになった船大工棟梁サッタリー
     (John Satterly)が亡くなり、部下のノーウェル(George Nowell)を昇進させる
02/13、船体補修品在庫を調査し、帆の修理を実施
02/14、バタヴィアで雇った水夫の一人リンゼイ(Alexander Lindsay)が亡くなる
02/15、海兵隊員のプレストン(Daniel Preston)が熱病でなくなる
02/21、水夫シンプソン(Alexander Simpson, Flux)が熱病で亡くなる
     酔払って見張りを襲った罪でロシッター(Thomas Rossiter)を鞭打ちの刑12回
02/27、この数日間は何事もなく穏やかな順風に乗って航海、
     水夫3人ジェフ(Henry Jeffs)、ペレイラ(Emanuel Parreyra)、
     モーガン(Peter Morgan)が熱病で亡くなる、補充は無く一抹の不安を抱く
02/28、強烈なスコールに見舞われ、
     その後の豪雨で帆の始末に終日悪戦苦闘
03/01、順風に乗って西方へと航海
03/05、アフリカ東岸のナタール(Natal)沖に到達
03/12、アフリカ南端のアガラス岬(Cape Agulhas)沖を航海
03/14、喜望峰を視認、北上して航海
03/15、ケープ・タウンのテーブル湾(Table Bay)に投錨、上陸
     ジャワやスマトラ、インドのベンガルで
     赤痢(Dysentery)が発生していたことを聞く
エンデバー号の航海

ニュージランド 1995/2/9 発行
03/16、28人の病人を上陸させ、残りの乗組員に新鮮な肉や果物、野菜を摂らせる
04/15、ケープタウンを出帆
05/01、セントヘレナ島(St. Helena)に投錨、
     補給を受ける
05/05、セントヘレナ出帆
05/10、アセンション島を望見
05/26、副長のヒックス中尉(Lieutenant Hicks)が亡くなり水葬式で葬る
05/27、チャールス・クラーク(Charles Clerk)を副長に昇進させる
06/09、北回帰線を越えてから熱帯鳥が飛来してくるようになる
07/12、イギリス海峡からビーティ・ヘッド(Beachy Head)通過
     サセックス州のダウンズ(Downs、Sussex)に到着、
07/13、クック船長はディール(Deal, Kent)で上陸してロンドンに向かう
07/15、エンデヴァー号はマラリアと赤痢で23人の犠牲者を出す苦しい航海の後に
     英仏海峡ドーバー港(Dover、Kent)に入港、イギリスに帰国しました。

なお、クック船長はザワークラウト(sauerkraut)という塩漬けキャベツなどを大量に積んでいたし、航海中に寄港した所では新鮮な果物や野菜類を乗組員に平等に摂取させましたので、壊血病による犠牲者を史上初めて一人も出さぬという快挙を成し遂げましたが、帰港までに出港時の乗員98人中44人がその他の病気や事故で犠牲になりました。その中には、ヒックス副長、モンクハウス船医などが亡くなり、バタヴィア寄港中はマラリア(熱病:Flux)と赤痢が蔓延していて一行が帰国するまでに、ギャスレイ掌帆長、サッタリー棟梁、タヒチ人のトゥパイア、スペーリング氏、パーキンソン画家など、多くの人が病で亡くなりました。出発からバタヴィアまでの27ヵ月の航海では8人だった犠牲者は、バタヴィア滞在中の10週間と、バタヴィアからケープタウンまでの11週間に31人に達していました。

参考HP:〜
 ・ニューギニアの地図
 ・ニューギニア付近の地図
 ・インドネシアの地図
 ・チモール島の地図
 ・喜望峰の地図
 ・ドーバーの場所地図(ドーバー海峡(Beachy Head=白亜の絶壁有)
 ・ダウンズの地図(ワイト島、ビーティ・ヘッド、南北ダウンズ有)
 ・クック船長の第1回航海地図

・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。#0101   10/3/3追記、令和 R.3/1/25 (2021)

クック物語、第1回、第2回第3回補筆
帆船(1)(2)(3)(4)(5)

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