United Kingdom

国連 1983 発行
切手で綴る イギリスの大航海(Great Exploration Voyage)探検大航海(V2-5
サリヴァン艦長
1842
フォークランド諸島・探検調査
フィロメル号 ブエルタ・デ・オブリガドの戦い ボマルスンの戦い
大航海物語
 イギリス編

Falkland Islands
フィロメル号 & サリヴァン提督

1842 海軍探検家 1985
フォークランド諸島 1985/9/23 発行

西フォークランド島 ・ 東フォークランド島
南極からの位置を示す地図





フォークランド諸島 1946 発行

エグモント港→
Port Egmont








Puerto Solidad
←ソリダット港
Stainley
←スタンレー
←フィッツロイ
Fitzroy
Rebuilding Conflict with Algentina
フォークランド紛争再建記念の寄付金付
フォークランド諸島 1982/9/13 発行

Cocos Islands
ビーグル号航海記
ダーウィン博士
ビーグル号
ココス諸島 1986/4/1 発行

サー・ジェームスは、1838年にアロー号でフォークランドの調査に赴き、次いでフィロメル号で4年間にわたる本格的科学調査探検をなし、1851年までの3年間を同島に駐在して探検調査を行いました。
サー・バーソロミュー・ジェームス・サリヴァン提督
 (Sir Bartholomew James Sulivan, 1810/11/18〜1890/1/1)
 イングランド王国海軍士官(RN)、水路測量士、19世紀海軍探検家
 (Naval officer & Hydrographer、19th Naval Explorer)
  生地:イギリスのコーンウォール州マイラー生
  没地:イングランド王国(#1)で80才没
サリヴァン艦長はイギリスのコーンウォール州マイラー(Myler, #1@7)で提督トーマス・サリバン少将(Rear Admiral Thomas Ball Sulivan CB 1781-1857)の息子として生まれました。

1831年イギリスのプリマス(Plymouth, #1@6)を出帆したビーグル号の2回目の航海において、フィッツロイ艦長の下でダーウィン博士と共に活動しました。この航海の間にガラパゴス諸島バルトロメ島がサリヴァン艦長の名前に因んで命名されました。1836年イギリスのコーンウォール州ファルマス港(#1@7)に帰国しました。1838年にアロー号(HMS Arrow)でフォークランド諸島の調査に赴きました。次いで1842年フィロメル号にて本格的科学探検調査のため、1846年までの ガラパゴス諸島の地図

ガラパゴス 1936 発行
4年間を同島に駐在しました。

1845年にアルゼンチンのブエノスアイレス州(#1)パラナ川サンペドロ沿いでのブエルタ・デ・オブリガドの戦い(1845/11/20)で英仏連合艦隊を指揮しました。

クリミア戦争(1853-1856)中は海軍少将フランシス・ボーフォート卿(Rear admiral Sir Francis Beaufort KCB FRS FRGS FRAS MRIA, 1774-1857)の指示を受けて、海軍大将チャールズ・ネイピア卿(Admiral Sir Charles John Napier KCB, 1786-1860)が指揮する艦隊を支援するためにバルト海(Baltic Sea)に派遣され偵察と測量の仕事に従事しました。外輪船ライトニング号(steam powered ship HMS Lightning)で、艦隊が活動する必要があった浅海の調査と海図作成に尽力しました。

フィンランドのオーランド諸島(Aland Islands)周辺の狭い水路は一度もきちんと調査されたことがなく、ライトニング号でこの作業を行いました。1854年に勃発したオーランド諸島でのボマルスンの戦いで、ボマルスン要塞への攻撃を成功させるために部隊を運ぶ砲撃艦隊(Bombardment ships)を適切な上陸地点へ導きました。

1854年から翌年までバルチック艦隊(the Baltic)のライトニング号(HMS Lghtning)に司令官として乗艦。1855年7月にバス勲章4等級(CB)を授与され、1869/6月にはバス勲章2等級(KCB)を授与されました。1856年から1865年の9年間を海軍省で商工貿易担当武官として勤務。

1865年にフィッツロイ艦長が自殺し、妻と娘が貧困に陥った時には、サリヴァン提督が英国政府を説得して3,000ポンドを提供させ、ダーウィン博士が100ポンドを私費で寄付しました。1869年にナイトの叙勲を受け、1870年に海軍中将(Vice Admiral)、1877年に海軍大将(Admiral)に昇進しました。
1890年に80才で亡くなりました。

サリヴァン提督・略年表:〜:
・1810/11/18:誕生
・1823/9/4:王立海軍大学へ入学
・1830/4/3:海軍中尉(Sub Lieutenant)
・1831〜1836:海軍大尉(Lieutenant)ビーグル号(HMS Beagle)
・1838〜1839:フォークランド諸島探検(Surveyed)アロー号(HMS Arrow)
・1841/5/14:海軍中佐(Commander)
・1842〜1846:司令官(Commander)フィロメル号(HMS Philomel)
・1845/11/18:海軍大佐(Captain)
・1848〜1851:フォークランド諸島探検
・1854〜1855:バルチック艦隊司令官(Commander)ライトニング号(HMS Lghtning)
・1855/7/5:バス勲章4等級(CB)
・1856〜1865:商業会議所(Board of Trade)付海軍省武官
・1863/12/3:退役海軍少将(Rear Admiral)
・1869:ナイト叙勲(Knighted)
・1869/6/2:バス勲章2等級(KCB)
・1870/9/1:退役海軍中将(Vice Admiral)
・1877/1/22:退役海軍大将(Admiral)。

参考:〜
・フィロメル号の装備:〜
  HMS Philomel
、1842
船 型 パケットブリッグ艦
(packet Brig 8-gun)
フィロメル号
帆 柱 3本
全 長 25.9m
全 幅 8.6m:(ビーム Beam)
喫 水 4.1m:(ドラフト Draft)
重 量 330屯
武 装 砲8門(8x16pdrs)
乗組員 44人
進 水 1842/3/28進水(プリマス, #1@6
最 後 1869年スウェール川(Swale)沈没。1870売却後、解体処理

・ブエルタ・デ・オブリガドの戦い
(Battle of Vuelta de Obligado, 1845/11/20)
 アルゼンチンvs英仏、英仏の勝利
ラプラタ川(4,876km)水系最大の川であるパラナ川(3,998km)の右岸、アルゼンチンのブエノスアイレス州北で、川が狭くなり曲がる曲がり角で起こり、今日のサンペドロ地区のオブリガドの町にあるブエルタデオブリガド要塞を英仏連合艦隊が攻撃しました。
・英仏連合艦隊:〜11隻
イギリス艦隊:6隻
 ・ブリッグ船フィロメル号(packet brig HMS Philomel 8gn)サリバン司令官
 ・スループ機帆船パドル艦ゴルゴン号 パドル (sloop Paddle ship HMS Gorgon, 6gn)
 ・機帆船パドル艦ファイアブランド号 (Paddle ship HMS Firebrand, 6gn)
 ・スループ船コムス号(sloop HMS Comus, 18gn)
 ・ブリガンティン船ドルフィン(packet brigantine ship HMS Dolphin, 3gn)
 ・スクーナー艦ファニー号(schooner HMS Fanny, 1gn)
フランス艦隊:5隻
 ・サン・マルティン号(San Martin, 8gn)
 ・機帆船パドル艦フルトン(Paddle ship, 2gn)
 ・エクスペディティブ号 (Expeditive, 16gn)
 ・パンドゥール号(Pandour, 10gn)
 ・プロチダ号(Procida, 4gn)
アルゼンチン:〜
 ・守備隊〜2,160人
 ・沿岸砲台〜4基
 ・ブリガンティン船(Brigantine)〜1隻
 ・砲艦 (Gunboat)〜2隻。

・ボマルスンの戦い
(Battle of Bomarsund, 1854/8月)
 ロシアvs英仏、英仏の勝利
ボマルスンドの戦いは、クリミア戦争(1853/10月-1856/2月)の一部であったオーランド戦争(Orlando War, 1854-1856)中に起こり、英仏遠征軍がロシアの要塞を包囲し、占領し、その後破壊しました。これはバルト海のボマルスンド要塞で行われた戦争の唯一の主要な戦いでした。

参考HP:〜
フォークランド諸島の地図

・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。   08/2/10、令和7年 2025/11/25

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