★フランス
トゥーサン・ルーヴェルチュール
1801/1/24
イスパニョーラ島で奴隷を解放

大航海物語★
TRINIDAD&TOBAGO
ル-ヴェルチュ-ル

奴隷解放150年記念
トリニダード・トバゴ  1984/10/22 発行
REPUBLICA DOMINICANA
イスパニョーラ島
西がハイチ


ドミニカ共和国 1900 発行

フランスの戦艦

マーシャル 1998 発行
ナポレオン・ボナパルト

セント・ヴィンセント 2005 発行

トゥーサン・ルーヴェルチュールはアフリカのダホメから拉致されてきた黒人奴隷の子孫で、フランス領サン・ドマング北部の農園で生まれ、比較的に人間的で親切な農園管理人の勧めで、自由黒人の司祭ピエール・バチストの教育を受けました。父から受けた薬草の知識や頑健な身体と器用さで管理人を喜ばせ、家畜の管理から、治療係、奴隷の教育係を任され、“奴隷としては比較的富裕”となりました。

1789年にフランス大革命が起こると、サン・ドマングでも自由・平等の考えがもたらされ、それまで鞭打たれていた黒人奴隷の反乱が勃発。ルーヴェルチュールは黒人奴隷を教育組織して反乱軍となし、フランスに豊かな富をもたらしていた植民地で奴隷を解放し、ひいてはスペイン領も開放してイスパニョーラ島全土の奴隷解放を成し遂げました。

ナポレオンはフランスの利益に反するルーヴェルチュールを討伐するべく、義弟のルクレール将軍の大軍を派遣して、反乱軍を打ち破りルーヴェルチュールを捕え、大西洋を越えてはるばる大航海してフランス本土へ護送し、牢獄に繋ぎ拷問の末に獄死させました。

フランソワ=ドミニク・トゥーサン・ルーヴェルチュール(生年不詳〜1803/4/7)
 Francois-Dominique Toussaint Louverture

  別名:トゥーサン・ブレダ、Toussaint Breda
トゥーサン・ルーヴェルチュールはフランス革命期のハイチ独立運動指導者で、ジャン=ジャック・デサリーヌなどとともにハイチ建国の父の一人で、彼の生い立ちは、トゥーサンの父祖は祖父ゴー・ギヌーまで西アフリカのダホメ(現ベナン)のアラダの酋長でしたが、彼の父イポリト・ゴーは奴隷業者に捕えられ、奴隷としてフランス王国の植民地サン・ドマング(現ハイチ)のカプ・フランソワ近くの北県のブレダの不在領主のノエ伯爵に売られました。トゥーサンは彼の長男で(1739or1743)5/20か11/1(諸聖人の日、フランス語でトゥーサン)に生まれました。ブレダ姓の場合は地名に因んでいます。

1774年に法的に解放され自由黒人となり、13エーカーの土地と15人の奴隷をコーヒー栽培のために借りていました。彼は熱心なカトリックで、また高位のフリーメーソンリーでした。禁欲的で質素な生活をし、菜食主義者で、子持ちの女性スザンヌ・シモーヌ・バチストと結婚し連れ子のプラシドの他にイサークとサン・ジャンをもうけました。伝説では、トゥーサンは11人の子があり、8人は庶出だったといわれています。

▼黒人奴隷の反乱
1789年にフランスで革命が勃発すると、1790年には「自由・平等・博愛」のメッセージがサン・ドマングにも伝わりました。フランス国民議会は「全ての人が自由で平等である」と宣言し、フランス軍兵士はポルトープランスに上陸し黒人やムラートと友愛的でしたが、サン・ドマングのプランテーション経営者は人権宣言の効力を否定。そのため各地で奴隷の反乱が起こりました。トゥーサンはヴァンサン・オジェ(裕福な有色人種)の指導する有色人種の権利を叫んだ、1790/10月の反乱には加わりませんでしたが、容赦なく弾圧されました。

1791/8月に北県で奴隷の反乱が起こる(*)と、数ヶ月間彼の主人の奴隷たちやその農園を保持しました。反乱が拡大し白人が脅されるようになると、トゥーサンは主人とその家族をスペイン領サント・ドミンゴの安全な場所へ彼自身の家族の手で逃し、自分は農園を焼き白人やムラートを殺している奴隷たちの拠点へ行きました。そして彼は反乱指導者たちの不適切さと白人の自由主義派と妥協しようとしていることを非難し、自ら指導してゲリラ戦で実践訓練しました。

1793年には彼はジョルジュ・ビアスーの仲間になり、階級を上げ、熱病にやられて指揮を欠いたヨーロッパの軍隊を驚くほど連破し勝利を収めました。フランス革命戦争が起きると1793年には、スペインとフランスも戦争状態となり、黒人司令官たちはイスパニョーラ島の東3分の2を占めるサント・ドミンゴのスペイン人を支持しました。ルーヴェルチュールはナイトに叙され、将軍としても認められ、並外れた軍事的能力を見せつけて、甥のモイズ、ジャン=ジャック・デサリーヌ(後のハイチの君主)やアンリ・クリストフなどの有名な有志達を驚かせました。また彼は敵の守備を開くことが得意であったので「ルーヴェルチュール」(フランス語で開く)との別名が付けられ、これを彼は姓としました。8/29には黒人指導者として、「私はサン・ドマングに自由と平等に拠る統治を望む」と檄を飛ばしました。この年の後半にイギリス軍はポルトープランスを含むサン・ドマングの沿岸部の大半を占領しました。

北部でルーヴェルチュールが勝利し、南部ではムラートがこれに続き、沿岸部をイギリス軍が占領したので、フランスも事態を認めざるを得なくなりました。1793年パリの革命政府の代表部であったレジェ=フェリシテ・ソントナとエチエンヌ・ポルヴェレは黒人に反革命軍と外国部隊に勝利すれば自由を与えると約束。1794/2/4にジャコバン派の国民公会はこの命令を確認しフランス全領土での奴隷廃止を決定。5月にはイギリスとスペインが奴隷廃止を認めなかったため、トゥーサンは共和主義者となりフランスに寝返りました。ルヴェルチュールの元同盟者スペインへの裏切りとスペイン人の虐殺は後に強く非難されましたが、サン・ドマングのフランス司令官エティエンヌ・ラヴォーは彼に准将の位を与えました。ルヴェルチュールの増大する影響力の元でフランスの黒人及びムラート、白人の連合軍はイギリス軍とスペイン軍を撃破。1794/1月にはルヴェルチュール軍は1週間に7度イギリス軍を破りました。ルーヴェルチュールは新しく出てきたパンシナのムラートの指導者とも争いました。

▼フランス革命政府の将軍
1795年にはルヴェルチュールは黒人から尊敬を集め、多くの白人やムラートからもサン・ドマングの経済を建て直す助けになるとみられました。彼はフランス革命政府の法を無視してプランテーション経営者が戻ることを認め、元奴隷たちを軍令で働くように命じました。労働者はもはや鞭打たれることはなく、法的には自由で平等でした。そして再建されたプランテーションの利益を分け合いました。ルーヴェルチュールは和解を説き、また「多数派であるアフリカ生まれの黒人は白人やヨーロッパ化されたムラートから学ぶべきことが多くある」と信じ、人種間の緊張は緩和しました。

ラヴォー司令官は1796年にサン・ドマングを出帆、フランスへ帰って行きました。フランス革命政府の弁務官の後任にソントナ(Leger-Felicite Sonthonax 1763-1813 French Jacobin)が就任してサン・ドマングに着任。彼はルーヴェルチュールを司令官として階級を少将に上げ、そのの統治を認めましたが、ルーヴェルチュールは白人の過激派であるソントナ弁務官を信じず従わず、1797年に追放しました(ソントナは1796年本国の政変で解任されていました)。イギリスはフランスと交戦中で損失が大きかったためルーヴェルチュールとの秘密交渉に及びました。1798年及び1799年の条約でイギリス軍は完全撤退を保証し、サン・ドマングは利益の出る貿易をイギリス及びアメリカ合衆国と始めました。武器や商品と引換えに砂糖を売り、ルーヴェルチュールは英領であったジャマイカおよび米国南部を侵さないと約束。イギリスは彼を独立国ハイチの王として認めると提案、しかし彼はイギリスが奴隷制度を続けていることを不審に思いそれを拒否。イギリス軍は1798年に撤退しました。

フランスによる名目の上官として総裁政府の代表者ガブリエル・エドゥヴィル(Gabriel-Marie-Theodore-Joseph, comte d'Hedouville 1755-1825)が1798年に着任。エドゥヴィルはルーヴェルチュールを南部で半独立状態であったムラートのアンドレ・リゴーと対立するように仕向けました。しかしルーヴェルチュールはそれに気付き、エドゥヴィルを逃亡させました。エドゥヴィルの後任にはフィリップ・ルームになりました。1799/10月の血なまぐさい作戦でルーヴェルチュールはリゴーを排除しフランスへの亡命を余儀なくし、南部のムラートの半独立国も破壊されました。このジャン=ジャック・デサリーヌによる粛正は残忍過ぎてムラートとの和解は不可能になりました。

1799/5/22にルーヴェルチュールはイギリス及び米国と貿易協定を締結。アレクサンダー・ハミルトンは米国における強力な支援者でしたが、1801年にトーマス・ジェファーソンが米国大統領に就くとハイチとの友好政策は覆されました。

サン・ドマング全土を掌握すると、ルーヴェルチュールは奴隷制を維持していたスペイン領サント・ドミンゴに侵入しました。そしてフランスの第一執政となったナポレオン・ボナパルトの命令も無視し、1801/1月に侵攻して24日には公式に全島を掌握し、奴隷を解放しました。そして委員会に諮って植民地独自の憲法を起草、公布し7/7に施行して全イスパニョーラ島に自らの権限を打ち立てました。

▼ナポレオンがルクレール将軍を派遣
ルーヴェルチュールは独裁権力に近いかたちで自らを終身総督に任じる憲法を制定。またカトリックを国教に定め、多くの革命的な軍令も形式的に承認。フランスは公式には何の承認も与えませんでしたが、ルーヴェルチュールはフランスの自治植民地としてナポレオンに忠誠を示しました。

ナポレオンはルーヴェルチュールの地位を認めましたが、彼を収益の上がる植民地としてのサン・ドマングの回復の障害と看做しました。奴隷制の再建を否定しつつも、1801/10月にはナポレオンの義弟のシャルル・ルクレール将軍(Charles Victor Emmanuel Leclerc 1772-1802)にサン・ドマング転任を命じ、彼が率いる40,000人の大軍と共に遠征軍がサン・ドマングの再支配を試みるためフランスのブレスト軍港を(Brest)を1801/12月に出帆。遠征軍は1802/1/20から2月にかけてカプ・フランソワ(Cap-Francais)に上陸し、ルーヴェルチュールと対峙しました。ルーヴェルチュールの軍はルクレール将軍と良く善戦しましたが、月を追う毎に彼の軍からデサリーヌやクリストフなど主だった将校たちがルクレール将軍の側へ離脱。5/7にルーヴェルチュールはフランスと奴隷廃止を条件にアンネリの農園に引退する協定を結びました。しかし3週間後にルーヴェルチュールはルクレール将軍の部隊から反乱を企てているとの嫌疑をかけれられて、フランスの軍隊がルーヴェルチュールを襲って家族共々捕えました。なお、交渉の席に呼ばれたルーヴェルチュールを捕えたという説も有

1802年にルクレール将軍はルーヴェルチュールと妻と3人の息子を戦艦でフランスへ送りました。彼らは7/2にフランスへ到着。8/25にルーヴェルチュールはジュラ山脈のドゥー県のジュー要塞(Fort de Joux)へ送られ、監禁されて繰り返し拷問を受け、1803/4/7にルーヴェルチュールは獄死しました。フランス当局は肺炎と発表。

参考:〜「資本主義と奴隷制」はこちらを参照。

(*):〜革命の開始
1791/8/22に北部カプ・フランソワ近くの森で黒人奴隷達が主人達に対する反乱のハイチ革命を開始。ブードゥー教の儀式により革命の開始が宣言され、ブードゥーの僧侶であるブクマン(Boukman)が動員令を発し、数時間のうちに北部のプランテーションは相次いで戦火に飲み込まれました。9月にブクマンは逮捕され処刑されましたが、それまでに反乱は植民地全土に拡大し、多くの白人植民者が殺害されました。追い詰められた白人達はムラート勢力と組んで反撃、互いに多くの死者を出す戦いとなりました。

なお、ルクレール将軍は黄熱病で1802/11/2にサン・ドマングで亡くなる。

参考地図HP:〜:ハイチの地図

・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。       09/5/3

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