★アメリカ
北アメリカ現地人
テクムセ酋長
1813
テムズの戦い


大航海物語★
MARSHAL ISLANDS
現地人ショーニー族テクムセ酋長

マーシャル 1999 発行

CANADA
ブロック将軍 クィーンストンの丘 テクムセ酋長

1812 米英戦争200年記念 2012
カナダ 2012 発行

テクムセ酋長 (1768/3頃〜1813/10/5)
  War Chief Tecumseh

  別名:テカムシ(Tekamth)
  北アメリカ先住民(現地人)ショーニー族酋長
  Native American leader of the Shawnee
  星を射る(Shooting Star)、天空を横切る豹(Panther Across The Sky)、の意味
  生地:オールド・チリコザ(Old Chillicothe, Ohio、 デイトン(Dayton, Ohio)の東19km)の町
  没地:カナダのオンタリオ州チャタム近くテムズの戦場
・初めに
合議制を基本とする現地人(北アメリカ先住民)社会には、「首長」や「司令官」などのような絶対権力者とか専制君主は存在していない、民主主義の社会だったといわれています。北アメリカ先住民の戦士達はすべて自由参加形式の戦士団でした。誰か「戦闘司令官」がいて、上意下達の命令系統の下に全戦士が統率されるような「軍団」ではなく、北アメリカ先住民の社会は横並びの社会で、「命令する」という文化は無かったとわれています。「テクムセ酋長が北アメリカ先住民の大軍団を率いた」というのは白人の思い込みで勘違いでしたが、白人にとってはその方が都合よく、また物語としても面白かったんですね。それはとにかく、テクムセ酋長は北アメリカ現地人ショーニー族の戦士で酋長でしたが、白人への植民地抵抗運動のシンボル的人物でした。

・生い立ちの記
テクムセ酋長は、1768年頃に北アメリカ現地人ショーニー族酋長の父プクシンワ(Puckshinwa、1730-1774/10/10、ポイントプレザントの戦い(Battle of Point Pleasant 1774/10/10)で戦死、流れ星(Alights from Flying)の意)と母メトタスケ(Methotaske、砂の中に卵を産む意)の子供で、オハイオ州中部のマッド川(Mad River, 106km)沿いのオールド・チリコザ(Old Chillicothe, Ohio、 デイトン(Dayton, Ohio)の東19km)の町で生まれ、他に4人の子供がいました。祖父(父の父)はクリーク族(Creek)の出身だったと伝えられています。

オハイオ河渓谷(Ohio River(1,579km) Valley)に住んでいたショーニー族は1670年代にフランス人と接触しました。その後、フランスの支配が100年間続いた後のフレンチ・インディアン戦争(ビーバー戦争、狭義:1754-1763)の結果、その地域はイギリスの支配下になりました。イギリスの支配は短命で、わずか20年後、1783年にオハイオ渓谷を含む土地はアメリカ独立戦争(1775-1783)の結果で誕生した新生アメリカ合衆国に委譲され、インディアナ準州(Indiana Territory、1800-1816)となりました。そしてショーニー族はアメリカに追われて遥か北西方へと移動し、1805年頃には天然痘が大流行しました。1808年にインディアナ州プロフェスタウン(Prophetstown、Indiana)に移住して、ティピカヌーの戦いが勃発しました。

テクムセ酋長は、弟でショーニー族の預言者テンスクワタワ(Shawnee Prophet Tenskwatawa, 1768-1836)と共に、西部の現地人部族を連合するのに尽力して、現地人の集落や村々を回って、共闘を説く演説をして同盟を成し遂げ、白人と戦いました。テクムセ酋長の参加した戦いはアメリカから「テクムセの戦争」と呼ばれています。

・テクムセ酋長の戦い
  Tecumseh's War、1811-1813
1811年にテクムセ酋長はショーニー族の若き戦士として、アメリカに戦いを挑みました。テクムセ達が最初にアメリカ合衆国に挑んだ戦いは「ティピカヌーの戦い」と呼ばれています。このショーニー族の抵抗戦はインディアナ準州初代知事(Governor:在任 1801/1/10-1812/9/17)ウィリアム・ハリソン少将(Major general William Henry Harrison 1773-1841、第9代アメリカ合衆国大統領:在任1841/3/4-1841/4/4)率いるアメリカ政府軍に敗れ、テクムセ達は当時イギリスの植民地だったカナダに逃れました。
1812年にアメリカがイギリスに宣戦布告して、米英戦争(1812-1815)が勃発すると、アメリカ軍はイギリス領カナダへ攻め込んできました。ショーニー族連合は、カナダでイギリス軍と同盟しました。一方でチョクトー族(Choctaw)などはアメリカに味方したので、米英戦争は英米が現地人の領土を奪い合うための代理戦争となりました。テクムセ達はイギリス軍と共にデトロイト砦を攻略するなどの戦果を上げましたが、アメリカ海軍代将オリヴァー・ハザード・ペリー(US Navy Commodore Oliver Hazard Perry, 1785-1819)率いるアメリカ海軍がエリー湖の戦い(Battle of Lake Erie, 1813/9/10)で勝利すると、イギリス側は補給線を絶たれ、苦戦を余儀なくされました。 さらに、イギリス軍の司令官アイザック・ブロック少将が戦死し、テクムセ達に協力的でないヘンリー・プロクター少将(British Major-General Henry Procter, 1763 エリー湖の湖上戦

USA 2013 発行
-1822)が後任となったため、テクムセ達はイギリスの後ろ盾を失い、苦しい戦いを余儀なくされました。 1813年にショーニー族連合部族とイギリス軍はテムズの戦いでアメリカ軍に敗れました。その後まもなく、テクムセ酋長はリチャード・メンター・ジョンソン大佐(Colonel Richard Mentor Johnson, 1780頃-1850、後の副大統領:在任1837-1841)に殺され、その死によって「テクムセの戦争」と白人が呼ぶ「インディアン戦争」は終わりました。

参考:〜
関連の戦争:〜
北西インディアン戦争は、フレンチ・インディアン戦争 (1754-1763)、ポンティアック戦争 (1763-1764)、ダンモアの戦争 (1774)そしてアメリカ独立戦争 (1775-1783)と長く続いたオハイオ郡での闘争の一部で、実際に多くの現地人社会にとっては、数世代に跨る「一つの戦争」の一部でした。

フレンチ・インディアン戦争、17世紀中庸
 (Beaver Wars、1650s、広義1608-1763)
17世紀と18世紀を通じて、イギリスとフランス双方がイロコイ連邦と共にオハイオ領土の領有を主張しました。1700年代中頃、両国とも商人や毛皮交易者をこの地域に送り込み土地の現地人と交易させるも、暴力沙汰も頻発しました。これは「フレンチ・インディアン戦争」の結果、1763年のパリ条約でフランスがこの地域を放棄した形で決着しました。

・アメリカ独立戦争(アメリカ独立革命)
 (American Revolutionary War、1775-1783)

北西インディアン戦争
 (Northwest Indian War、1785-1795)

米英戦争
 (War of 1812、1812-1815)
・アメリカ側との同盟に参加した部族:〜
 ・チョクトー族(Choctaw People Tribes)
 ・チェロキー族(Cherokee)
 ・クリーク族連合(Creek allies)
 など
・イギリス側との同盟に参加した部族:〜
 ・ショーニー族(Shawnee)、1701年のモントリオール和平条約でオハイオ郡の支配権を回復
 ・クリーク族(Creek、レッド・スティック(Red Sticks)酋長)
 ・3つの火連邦
   ・オジブワ族(Ojibway)
   ・オタワ族(Ottawa)
   ・ポタワトミ族(Potawatomi)
 ・デラウェア族(Delaware:Lenape)
 ・マイアミ族(Miami)
 ・キカプー族(Kickapoo)
 ・チカマウガ(Chickamauga)
 ・フォックス族(Fox)
 ・モンゴ族(Mingo)
 ・マスカウタン族(Mascouten)
 ・ソーク族(Sauk)
 ・ワイアンドット族(Wyandot、ヒューロン族(Huron)とも)
 ・イロコイ族連邦(Iroquois)
 など
なお、チョクトー族は文明化五部族(Five Civilized Tribes:チェロキー族、チカソー (Chickkasaw) 族、クリーク族、セミノール(Seminole)族)の一つ。

関連の戦闘:〜
ティピカヌーの戦い(1811/11/7)
  Battle of Tippecanoe
  場所:ティピカヌー川(Tippecanoe River, 293km)とワバシュ川の合流点付近
  結果:アメリカ軍の勝利
ティピカヌーの戦いはテクムセ酋長が南部の現地人の村を回っている間に、アメリカ政府軍ハリソン知事が1,000人以上の部隊で、州都ビンセンズ(Vincennes, Indiana)からワバシュ川(Wabash River, 810km)を遡って、テクムセ酋長の弟の預言者テンスクワタワとその仲間を脅そうと進軍してきました。ハリソン隊は途中で今日のテレホート(Terre Haute, Indiana)近くにハリソン砦(Fort Harrison)を建設しました。1811/11/6/日遅くにハリソン隊がプロフェスタウンの外に到着した時、一人の若い現地人が白旗を振りながら馬で町の外に現れ、和平のための会合をもつために翌日まで戦闘をしないことを要求するテンスカタワの伝言を伝えました。ハリソン知事は同意するも、テンスカタワの調停案を疑い、夜通し歩哨を立てました。テンスカタワ達は、恐らくハリソン知事が彼らの集落を襲おうと考えていると思い、先制攻撃を撃つ賭けに出ることを決め、約500人の戦士がアメリカ軍の宿営地に向かいました。ハリソン知事の歩哨が11/7の夜明け前に進軍してくる現地人戦士に遭遇。ハリソン軍兵士達が銃声を聞いて目覚めた時、すでに現地人に囲まれかけていました。激しい戦闘が起こり、現地人戦士がハリソン隊の防衛線を突き破り宿営地の中まで入りました。歩哨達が宿営地に逃げ帰ってくると兵士達は直ぐに防衛線を確保し 現地人の呪術師

カナダ 1972 発行
ながら反撃を開始。この日の朝の間、ハリソン隊は何度も攻撃を跳ね返し、遂に現地人戦士は撤退。ハリソン隊は68人が戦死または瀕死の重傷となり、また約120人が負傷。現地人の被害は50人以上が戦死し、70〜80人が負傷。テクムセ酋長が直ぐにも援軍を連れて帰ってくることを恐れたハリソン知事はその陣地の防御を固めることを命じました。翌11/8にハリソン知事が少数の兵士に現地人集落を偵察に行かせると、集落はもぬけの殻でした。現地人は夜の間に村から抜け出していました。勝ち誇ったアメリカ軍は集落を焼き払って、ビンセンズに戻りました。ハリソン軍の方が損害の大きい戦いではあるも、結果をみればハリソン軍の勝利という解釈がなされました。その後、テンスカタワは「白人の武器は現地人戦士を傷つけられない」と預言していたので、この戦闘の結果は彼の威信と兄の信頼を失うものとなりました。これは重大な挫折とはなるも、テクムセ酋長は南部から戻ると密かに同盟の再結成を始めました。アメリカが1812年に米英戦争を始めると、テクムセ酋長はカナダのイギリス軍と同盟しました。その結果カナダの人々はテクムセ酋長をカナダの防衛者とするも、米英戦争でのテクムセ酋長の行動は現地人を外部からの力から守るための努力の継続で、その途中にテムズの戦いで倒れることになりました。

テムズの戦い(1813/10/5)
  Battle of the Thames
  別名:モラビアタウンの戦い(Battle of Moraviantown)
  場所:オンタリオ州チャタム(Chatham)近くのモラビアタウン(Moraviantown)近郷
  結果:アメリカ軍の決定的勝利
テムズの戦いは、1813/9月のエリー湖の戦い湖上戦でイギリス軍が敗れたので、英軍プロクター将軍は補給線を失うことを恐れ、テクムセ酋長の助言も容れず、マルデン砦(Fort Malden, ON)から撤退を始めました。ハリソン知事が率いるアメリカ軍はイギリス軍を追ってアッパー・カナダに進軍してきました。テクムセ酋長は何度もプロクター将軍を説得して、遂に将軍が折れて、テムズ川(Thames River, 273km)のモラビアタウンでアメリカ軍の歩兵と騎兵約3,500人と、イギリス軍正規兵約800人とテクムセ酋長ら現地人約500人が対峙することになりました。10/4にテクムセ酋長ら現地人がアメリカ軍の進軍を遅らせようと、襲いかかりましたが撃退されました。10/5にイギリス軍はモラビアタウンで正規兵の戦列を布き、大砲でアメリカ軍を道路から追い出してテムズ川の堤に追いやろうと考え、またショーニー族の戦士はイギリス軍の右手にある沼地に集結してアメリカ軍の側面を衝こうとしました。ところが、戦場を偵察していたアメリカ軍はイギリス軍の正面を攻撃して、現地人の側面からの攻撃をものともせずに突破し、イギリス軍の大砲も使えなくしました。するとイギリス軍は撤退を始めましたが、多くの者がそこで降伏。テクムセ酋長達は踏み止まって戦いを続けましたが、テクムセ酋長が戦死して敗走しました。テクムセ酋 現地人の戦士

カナダ 1972 発行
長を殺害したのはリチャード・メンター・ジョンソン大佐、もしくはウィリアム・ホワイトリー(William Whitley, 1749-1813)というアメリカ独立戦争の古参兵だとされています。なお、アメリカ軍は戦争には何の関係もなかった戦場近くで、キリスト教マンシー族の平和な集落のモラビアタウンを焼き討ちして、デトロイト(Detroit, Michigan)へ引き揚げました。その後、ティピカヌーの戦いとテムズの戦いでの勝利で名声を獲得したリチャード・ジョンソン大佐は副大統領(在任1837-1841)になり、ウィリアム・ハリソン知事は第9代大統領(在任1841/3/4-1841/4/4)になりました。ハリソン大統領は就任後まもなく亡くなりましたので、それはテクムセの呪いだと巷で噂されました。

クリーク戦争(1813-1814)
  Creek War
  別名:レッド・スティック戦争(Red Stick War)
      クリーク族内戦(Creek Civil War)
クリーク戦争は、アメリカ合衆国南部での現地人クリーク族の内戦に、アメリカ軍が介入した「インディアン戦争」。結果的にはお定まりの現地人の強制移住と、アメリカによる現地人からの領土略奪という民族浄化となりました。現地人をイギリス軍が支援していたので、米英戦争の一部と考えられることがあります。この戦争でアメリカ軍を勝利に導いたアンドリュー・ジャクソン(Andrew Jackson, 1767-1845、第7代アメリカ合衆国大統領:在任1829-1837)が、白人社会で一躍名声を上げました。クリーク族の酋長レッド・スティック達が主に戦ったので、レッド・スティック戦争とも呼ばれています。

北西インディアン戦争(1785-1795)
 (Northwest Indian War)
北西インディアン戦争は、アメリカ合衆国による北西部領土支配に抵抗して、この地を領土とする現地人の大同盟が戦いを挑んだ「インディアン戦争」のひとつでした。北西インディアン戦争はアメリカの歴史の初期に起こった自己完結型のインディアン戦争の一つと考えられがちですが、
・フレンチ・インディアン戦争 (狭義1754-1763)、
・ポンティアック戦争 (Pontiac's Rebellion, 1763-1766)、
・ダンモアの戦争 (Dunmore's War, 1773-1774)、
・アメリカ独立戦争 (1775-1783)、
・フォールン・ティンバーズの戦い(Battle of Fallen Timbers, 1794/8/20、その後1811年迄休戦)と
長く続いたオハイオ郡での闘争の一部でした。実際に多くの現地人社会にとっては、数世代に跨る一つの戦争の一部でした。この戦争は独立戦争後の合衆国にとって初めての大きな軍事行動となり、ジョージ・ワシントン大統領の治世でも大きな危機となりました。同様に後の西部入植時代のインディアン戦争はアメリカの大衆文化で有名になるも、北西インディアン戦争で米軍が被った損失は、19世紀にセミノール族やスー族(Sioux)、アパッチ族(Apache)に対する民族浄化での戦争被害を合わせたよりも多いものでした。ワバシュの戦い(Battle of Wabash(St. Clair's Defeat), 1791/11/4)でセントクレア軍が被った損失はアメリカ現地人がアメリカ軍に与えた最大のものでした。1794年に、オハイオの現地人達は「フォールン・ティンバーズの戦い」でアメリカのアンソニー・ウェイン少将(Major General Anthony Wayne、1745-1796)に敗れ、彼らの領土は「グリーンビル条約(Treaty of Greenville, 1795/8/3)」でアメリカに奪われました。今日のオハイオ州の大部分を含む領土はアメリカの支配地となりました。 フォールン・ティンバーズの戦い

ウェイン将軍135年記念
USA 1929 発行
・現地人同盟の結成
現地人部族の協同を促す西部同盟はフランスの植民地時代に遡るも、アメリカ独立戦争の間に再度同盟が成立していました。1785年の秋、デトロイト砦で新たな同盟が約され、個別の部族によらず結束して合衆国に対抗することを宣言しました。この決め事はさらに1786年にワイアンドット族の村で更新され、オハイオ川を現地人とアメリカの入植者との境界とするよう主張。ワイアンドット族は同盟部族の名目上の「父親」であり、ショーニー族やマイアミ族が強力な戦士団になりました。
同盟に参加した部族
・ワイアンドット族(Wyandot:ヒューロン族とも、Huron)
・イロコイ連邦
・ショーニー族(Shawnee)
・3つの火連邦(Council of the Three Fires)
   オジブワ族(jibwe)
   オタワ族(Odawa)
   ポタワトミ族(Potawatomi)
・レナペ族(Lenape、デラウェア族(Delaware Nation)の一族)
・マイアミ族(Miami)
・キカプー族(Kickapoo)
・カスカスキア族(Kaskaskia)
・ワバシュ連邦(Wabash Confederacy)
   ウィー族(Wea)、
   ピアンカショー族(Piankashaw)など)
・チカマウガ・チェロキー族(Chickamauga-Cherokee)
白人からは「チカマウガ」と呼ばれたチェロキー族集団の2つの集団から出た約200人の戦士が独立戦争の時代から同盟の時期を通じて、ショーニー族と共生し戦いました。また、ある場合にはチェロキー族の戦士チユグンシニ(ドラァギング・カヌー)がその兄弟のバジャーとともに1つの戦士団を特定の攻撃に向かわせることがありました。北西部現地人と伝統的に仲が悪かった南部の部族、チョクトー族やチカソー族は合衆国側の斥候を務めました。
・主な関連人物
アメリカ合衆国
・ジョージ・ワシントン(George Washington、1789-1797、初代USA大統領:在任1789-1797)
・ヘンリー・ノックス(Henry Knox, 1750-1806、陸軍長官:在任1785-1789、初代1789-1794)
・ジョサイア・ハーマー少将(Brigadier General Josiah Harmar, 1753-1813)
・アーサー・セントクレア少将、北西部領土知事
・アンソニー・ウェイン少将
・ティモシー・ピカリング(Timothy Pickering, 1745-1829)、
  陸軍長官(1795)、国務長官(1795-1800)、郵政長官(1791-1795)
・ジョン・ハーディン大佐(Colonel John J. Hardin, 1753-1792/5)
  現在のオハイオ州シェルビー郡ハーディンで休戦使者に立って殺害される
・アレクサンダー・トルーマン少佐(Major Alexander Truman, 1792/4/20没)
  現在のオハイオ州オタワで休戦使者に立って殺害される
現地人の同盟者
・テクムセ(1768-1813)
・ミシキナクワ(Mishikinakwa、1747-1812)
  別名:リトルタートル(Little Turtle)、マイアミ族(Miami-Illinois)
・ウェヤピアセンワー(Weyapiersenwah, 1743-1810)
  別名:ブルージャケット(Blue Jacket)、ショーニー族
・バッコンガヘラス(Buckongahelas, 1720-1805)、レナペ族(デラウェア族)
・エグシャワ(Egushawa, 1726-1796)、オタワ族
・ステイエゲッタ(Stayeghtha, 1760-1813)
  別名:ラウンドヘッド(Roundhead)、ワイアンドット族
この6人は白人からは「軍事指導者」に見えていましたが、現地人にはそのようなものはおらず、彼らは同盟の中で傑出した戦士だったということでした。

こちらでアイザック・ブロック少将をお楽しみください。

テクムセの呪い
  Tecumseh's curse
テクムセの呪いは、第9代アメリカ合衆国大統領ウィリアム・H・ハリソンの肺炎による死去から始まるアメリカ合衆国大統領への一連の出来事の原因とされる呪いのことで、1840〜1960年までの間に20で割り切れる年に選出された大統領は皆、在職中に亡くなりました。
・20で割り切れる年に当選して、その任期中に亡くなった大統領の例:〜
 ・1840、9代ウィリアム・H・ハリソン(William Henry Harrison, 1773-1841/4/4肺炎で没
 ・1860、16代エイブラハム・リンカーン(Abraham Lincoln, 1809-1865/4/14暗殺
 ・1880、20代ジェームズ・ガーフィールド(James Abram Garfield, 1831-1881/7/2暗殺
 ・1900、25代ウィリアム・マッキンリー(William McKinley, Jr., 1843-1901/9/14暗殺
 ・1920、29代ウオレン・G・ハーディング(Warren Gamaliel Harding, 1865-1923/8/2心臓発作で没
 ・1940、32代フランクリン・ルーズベルト(Franklin Delano Roosevelt, 1882-1945/4/12脳溢血
 ・1960、35代ジョン・F・ケネディ(John Fitzgerald Kennedy、1917-1963/11/22暗殺
・20で割り切れる年に選出され、狙らわれるも無事だった大統領
 ・1980、40代ロナルド・レーガン(Ronald Wilson Reagan, 1911-2004)、1981/3/30暗殺未遂
 ・2000、43代ジョージ・W・ブッシュ(George Walker Bush、1946-)、2005/5/10グルジア暗殺未遂
  (これで呪いが溶けたとされる説が有)
なお、第12代ザカリー・テイラー(Zachary Taylor, 1784-1850/7/9)は20で割り切れる年以外に選出され在職中に没した唯一の大統領で、1848年に選出され、野いちごの食べ過ぎによる消化不良で没。

▼参考HP:〜
北西インディアン戦争の場所地図
テクムセの戦争の戦場地図(Vincennes、Prophetstown、有)

・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。     13/9/12

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