大航海物語
米英戦争(第2次独立戦争)
1812/6/18〜1815/2/18
 War of 1812
(1812年の戦争)

参考資料
US Postage
ホワイトハウス
米大統領府

USA 1950/4/20 発行
星条旗
1814 キー 1948

USA 1948/8/9 発行

サラトガ号と海の英雄
Stephen Decatur & Thomas Macdonough


USA 1937 発行
コンスティテューション号
200年


USA 1947/10/21 発行

5大湖
グリーンベイ→


ミルウォーキ→

シカゴ→


←ケベっク

←モントリオール
オンタリオ湖


エリー湖

←デトロイト
スペリオル、ミシガン、ヒューロン、エリー、オンタリオ
アメリカ 1966/6/28 発行 (200%)

MARSHAL ISLANDS
コンスティチューション号、USS Constitution
愛称:オールド・アイアンサイズ、Old Ironsides
大西洋の海戦
ゲリエール
HMS Guerriere

コンスティチューション号がゲリエール号の前檣を折る
1812 米英戦争200年記念 2012
カナダ 2012 発行

・米英戦争 (1812/6/18〜1815/2/18)
 War of 1812
(1812年の戦争)
米英戦争は第2次独立戦争とも呼ばれ、カナダ、アメリカ東海岸、アメリカ南部、大西洋、エリー湖、オンタリオ湖を主戦場に戦われ、この戦争が起った背景の理由の主要なものは:〜
(1)ヨーロッパでのナポレオン戦争中、アメリカは中立を宣言、イギリスが海上封鎖で、アメリカの経済は大打撃を受けました。またイギリスの米船に対する臨検活動も反英感情を強めました。
(2)アメリカ国内では、南部諸州人はインディアンの土地を狙っていましたが、激しく抵抗するインディアンたちの背後でイギリスが扇動していると考えました。そのため反英感情が高まって、根本的解決のためにはイギリスと戦争するしかないと考えられました。この戦争においてインディアン達はアメリカ人の侵略活動による西進を防ぐ為、イギリスと手を組みました。
(3)ナポレオン戦争に関わっていたイギリスには新大陸に戦力を向ける余裕が無く、アメリカはその隙を狙っていわば火事場泥棒的にカナダをイギリスから奪おうと目論見ました。
(4)上記(3)からアメリカの指導者達は戦争はすぐに終わると楽観していました。こうしてアメリカから仕掛けられて始まったのが米英戦争で、1812/6/18にアメリカ第4代大統領ジェームズ・マディスン(James Madison, 1751年-1836)政権のときに米国議会はイギリスに宣戦布告しました。

・イギリスの事情:
開戦から2年間、イギリスは北アメリカの軍隊を補強するゆとりがなかったので、北アメリカ(カナダ植民地)総司令官ジョージ・プレボスト中将(Sir George Prevost、1767-1816)にプレボスト中将自身の考えでもあった防衛的な戦略を採らせましたが、1814年になると戦争経験のある25,000人以上の大規模な増援が可能になったにも拘わらず、プレボスト中将のニューヨーク侵攻はプラッツバーグの戦い(Battle of Plattsburgh、又はBattle of Lake Champlain、米英戦争の終結近い1814/9/6-9/11、於:ニューヨーク州北部)で敗北し挫折。また南部のルイジアナ侵攻も”ニューオーリンズの戦い”(1815/1/8)で反撃されました。

イギリス軍に協力するインデイアンの主力クリーク族(Creek、マスコギー:Muscogee)壊滅のため、1000人のクリーク族戦士の立て篭もるホースシューベンド砦(Battle of Horseshoe Bend、1814/3/27)に襲い掛かった5000人のジャクソン軍は、高さ1.5から2.5メートルの城壁を乗り越えて中に殺到。一人も生存者の残らないように徹底的に殺戮し、砦から川に飛び込んで逃げようとしたインデイアンも射殺、溺死。ジャクソン軍は砦を陥落させるとインデイアンの村々に火を放ち破壊。1814/4/14にクリーク族長レッドイーグル(Red Sticks)が降伏しイギリス軍に協力するクリーク族はいなくなりました。ジャクソン(Andrew Jackson, 1767-1845)はレッドイーグルを使ってイギリス軍に協力する残りの35の族長を説得させて、アメリカと、イギリスに協力するインデイアンとの和平をフォートジャクソン条約で実現。ジャクソンの次の敵は勿論イギリス軍でした。ニューオーリンズに入ったジャクソンは、水路を利用した鉄壁の要塞を構築し、60隻の軍艦に14000人の兵力でニューオーリンズに向かうイギリス軍を待ち構えました。

1815/1/8にニューオーリンズ攻略のイギリス陸軍司令官サー・エドワード・パケナム将軍(Sir Edward Michael Pakenham GCB 1778-1815)は、無謀にも深さ1.2メートル・幅30メートルの水路を越えてジャクソン軍の立て篭もる要塞目掛けて正面突破の作戦で突撃。ライフル銃・マスケット銃などのありとあらゆる武器を使って攻撃するジャクソン軍の前に、イギリス軍の兵士は次々に倒れて、パケナム将軍も戦死。司令官を失ったイギリス軍は総崩れとなり敗走。ジャクソン軍の戦死者は13人だけでした。このニューオーリンズの完勝でジャクソンは一躍アメリカ中のヒーローとなりました。本当はその前年(1814/12/24)にガン条約でアメリカとイギリスが平和条約を締結するも、ジャクソン軍にもイギリス軍にも連絡が遅れていました。8月にワシントンが占領されたこともあり、ジャクソンはワシントンの意向などお構いなしで戦い続けていました。

・アメリカの事情:
一方、アメリカ合衆国の方は楽観的に見過ぎていました。ジェームズ・マディスン大統領((James Madison, 1751-1836年、第4代)は、民兵が容易にカナダを確保し、その後に停戦交渉を行えばよいと見ていました。1812年では、アメリカ陸軍の正規兵は12,000人以下でした。アメリカ合衆国議会は陸軍兵力を35,000人まで拡張することを認めるも、従軍は志願頼りで、しかも給与が少なく不人気だった上に、最初の内は訓練を積み経験のある士官が少なかったのでした。民兵は正規兵の応援を要請されたましが、その所属する州の外での従軍には反対し、規律もあまり良いとは言えず、さらに出身州の外で敵と遭遇すると働きが悪くなりました。国立銀行を放棄したばかりで、北東部の民間銀行が戦争に反対していたことによって合衆国は戦費を賄うことが非常に難しい状態にありました。

アメリカの準備の足りなさと、アメリカ合衆国陸軍長官ウィリアム・ユースティス(William Eustis, 1753- 1825、1809/3/7-1813/1/13=長官)の指導力の不足とで、ユースティス長官の更迭にまで発展し、初期のアメリカは悲惨な状況でした。ユースティス長官の後継者ジョン・アームストロング(John Armstrong 1758-1843、1813-1814/9=長官)は1813年遅くにモントリオール占領を目指した連携戦略を試みましたが、兵站の破綻、非協力的で喧嘩っ早い指揮官達および訓練の足りない兵士によって失敗。1814年までにアメリカ合衆国陸軍の士気と指導力は大きく改善されたものの、首都ワシントンが焼き討ちの責任を問われて、アームストロング長官が職を追われました。次の陸軍長官ジェームズ・モンロー(James Monroe, 1758-1831、第5代アメリカ合衆国大統領、1814/10/1-1815/2/28=長官)が新しい戦略を立てる前に戦争は終わりました。

アメリカの戦争遂行は、特に反戦論の声が大きかったニューイングランドでの不人気に災いされ、ニューイングランドが民兵や財政的な援助を与えられなかったことが深刻な打撃となりました。ニューイングランドが合衆国から脱退するという脅威もあり、イギリスはこの分裂を即座に利用して、海上封鎖を南部の港に限定し、密貿易を奨励しました。

▼米英戦争は主に3つの戦線で戦われました。
(1)五大湖地方およびカナダ戦線:〜
先ずアメリカは英領カナダの奪取を狙い、カナダ領内に侵攻。エリー湖、オンタリオ湖をおさえ、アッパー・カナダの制圧には成功するも、セント・ローレンス川の水運をおさえることはできず、結果モントリオール、ケベックの攻略は失敗、ロウアー・カナダの制圧はできませんでした。こうしてアメリカのカナダ侵略の野望は消え失せました。

(2)大西洋戦線
大西洋においても海戦がおこなわれ、アメリカ海軍はイギリス海軍に較べ、戦闘艦の数も質も圧倒的に劣勢ながら、戦争前半は善戦。しかしヨーロッパ大陸でのナポレオン戦争の帰趨が対仏大同盟側に有利になると、イギリスは海軍力をアメリカに向けたため、後半はその活動を封じ込められました。

この戦争で英艦を破った米艦コンスティテューション号は大日本帝国の戦艦「三笠」、イギリスの「ヴィクトリー号」と並んで、世界三大艦の1つとして有名で、また私掠船も盛んに活動しました。

ジョージ・コックバーン提督の”ホワイトハウス焼打ち”作戦
1814年に海軍に輸送されたイギリス陸軍は敵首都の直接攻略のためアメリカ東海岸に上陸、首都ワシントンD.C.は陥落、大統領府も焼かれてしまいました。ちなみに戦後、大統領府を改修する際に、このときの焼け焦げを隠すために真っ白なペンキを塗ったことから、大統領官邸はホワイトハウスと呼ばれるようになりました。
ホワイトハウス
またこの戦争で最も熾烈な戦いといわれるのが1814/9/13の「マックヘンリー要塞の戦い」で、アメリカ兵は独立戦争時に作られたメリーランド州ボルチモアのマックヘンリー要塞(Fort McHenry)に立てこもって戦いました。当時のボルチモアはアメリカ私掠船の根拠地で、それに対しチェサピーク湾に侵入したイギリス軍は間断ない艦砲射撃を加えました。彼らは25時間に及ぶ激戦に耐え、停戦後にも風になびく星条旗は伝説となりました。これを見たフランシス・スコット・キーは星条旗を称える詩(星の煌く旗、The Star-Spangled Banner)を詠み、後にメロディがつけられて現在のアメリカ国歌となったわけです。その曲は、「天国のアナクレオンへ」(To Anacreon in Heaven)で、ロンドンのアマチュアミュージシャンが定期的にコンサートを行っていた社交クラブ、アナクレオンティック・ソサエティの公式ソングでした。

(3)南部諸州戦線:〜
クリーク戦争とも呼ばれる南部諸州戦線は、ショーニー族の指導者テカムセの扇動によりアメリカ軍に反抗することを決めたクリーク族インディアンの戦い(クリーク戦争)と、休戦条約の頃にメキシコ湾沿岸からのイギリス軍による侵攻。

・南部諸州戦線(1):〜
 ・クリーク戦争(Creek War、1813-1814)
  又はレッド・スティック戦争(Red Stick War)、
  又はクリーク族内戦(Creek Civil War)
1814/3月にアンドリュー・ジャクソン大佐(Andrew Jackson, 1767-1845、第7代アメリカ合衆国大統領)はテネシー州民兵、チェロキー族(Cherokee)戦士およびアメリカ陸軍正規兵を率いて南部に向かい、クリーク族(Creek)シャーマン(shamans、霊媒予言者=medium prophet)のレッド・スティック(Red Sticks)と酋長メナワ(Menawa)に率いられるインディアンと戦いました。3/26にジャクソンとジョン・カフィー将軍(John R. Coffee 1772-1833)は”ホースシュー・ベンドの戦い”(Battle of Horseshoe Bend 1814/3/27)でクリーク族を打ち破りました。
クリーク族1,000人の中800人を殺したのに対し、約2,000人のアメリカ軍・チェロキー族連合軍は40人の戦死と154人の負傷に留まる大勝利でした。ジャクソン軍は生き残ったクリーク族を追跡し降伏に追い込みました。

結果は:〜1814/8/9にジャクソン大佐はクリーク族にジャクソン砦条約(Treaty of Fort Jackson 1814/8/9)への調印を強制しました。ジャクソンアンドリュー・に協力して戦ったクリーク族の酋長は抗議したが、結果はクリーク族が2,300万エーカー (93,000 ku)の土地をアメリカ合衆国政府に割譲することになりました。場所はアラバマ州の半分とジョージア州の南部でした。クリーク戦争はクリーク族間の内戦でしたが、ジャクソン大佐は協力したクリーク族も反攻したレッド・スティックスも区別せず、両方から土地を奪いました。割譲された土地のうち、190万エーカー(7,700 ku)は戦争中アメリカ軍に協力したチェロキー族が要求しました。

レッド・スティックスの脅威が終息して、ジャクソン大佐はメキシコ湾岸に力を集めることができました。ジャクソン大佐自身の発案でスペイン領フロリダに侵略し、ペンサコーラからイギリス軍を追い出しました。続いて1815/1/8に”ニューオーリンズの戦い”(Battle of New Orleans 1814/12/23-1815/1/8)でイギリス軍を破りました。ジャクソン大佐はレッド・スティックスの指導者達が逃げ込んでいたフロリダに再び侵攻して、第一次セミノール戦争(Seminole Wars、フロリダ戦争 1817-1818)が起こりました。

これらの勝利の結果として、ジャクソン大佐は国民的英雄となり、1829年に第7代アメリカ合衆国大統領になりました。大統領としてのジャクソンは、南東部のインディアンをミシシッピ川を越えて西部に移住させる、「インディアン移住法」の成立を主導しました。

・南部諸州戦線(2):〜
イギリス軍は1814/9月のニューヨーク州とメリーランド州での攻勢でもよい戦果を上げられずにいたので、視点を南に向けて10,000人以上の部隊を載せた艦隊をメキシコ湾に派遣しました。ジャクソン大佐は更に西に動いて、1814年の暮れからのイギリス軍の侵攻に備えました。

1814/12/26にベルギーでガン条約(Treaty of Ghent)が結ばれて米英は講和、米英戦争は終結。 この条約締結後にジャクソン大佐率いる民兵軍が”ニューオーリンズの戦い”でイギリス軍を撃破。これは当時、新旧大陸間の連絡には船で数週間かかり、講和成立の知らせがすぐには届かず、停戦が遅れたために起こりました。特にこの勝利でジャクソン大佐は国民的な英雄となりました。

イギリス軍はニューオーリンズの奪取を諦め、アラバマのモビール(Mobile)の町に攻撃の矛先を向けました。米英戦争の最後の戦いは1815/2/11のボウヤー砦の戦い(Battle of Fort Bowyer 1815/2/11)であり、このときは約1,000人強のイギリス軍が370人のアメリカ軍守備隊を降伏させました。この時にアメリカの受けた攻撃以降、アメリカ本土は他国からの攻撃に曝されることがなくなり、次に起こったのは太平洋戦争の真珠湾攻撃だったのです。

戦争の結果
ガン条約の取り決めにより、両国が占領した地域は全て元に戻されることになりました。アメリカ合衆国はセントローレンス湾での漁業権を獲得し、未払いの負債や略取されていた財産は返還または支払われ、またイギリス軍に自由人として従軍していた奴隷を返させる代わりに、現金でその代償を払いました。 この戦争の結果として、戦争中にイギリス商品の輸入がストップしたため、アメリカの経済的な自立が促され、アメリカ国内で多くの産業、工業が発展。このため米英戦争は、政治的な独立を果たした「独立戦争」に対して、経済的な独立を果たしたという意味で「第二次独立戦争」とも呼ばれています。

・国歌「星条旗」(The Star-Spangled Banner)の誕生
この戦争のさなか、アメリカ合衆国の国歌「星条旗」(The Star-Spangled Banner、星の煌く旗)が生まれました。歌詞は、1814年当時35才であった詩人・弁護士のフランシス・スコット・キー(Francis Scott Key, 1779-1843)作詞。キーは、「マックヘンリー要塞の戦い」において、捕虜となった友人(Dr.William Beanes 1749-1828)の釈放交渉のためイギリス軍艦(HMS Tonnant)に乗り込みました。
キー、1814&1948星条旗
艦長スキナー大佐(Colonel John Stuart Skinner 1788-1851、英国側の司令官の中にはコックバーン提督もいました)は、最終的にはキーもその友人も解放することに同意しましたが、英軍の機密保持のため、イギリス艦隊がマクヘンリー砦を砲撃する間、2人は軍艦内に抑留されることとなり、激しい夜間砲撃の後、夜明けを迎えたキーらは、停戦後も砦の上にひるがえる星条旗を目撃。キーは自らの体験をすぐさま「マックヘンリー要塞の防衛」という詩に書きました。これが、「天国のアナクレオンへ」という当時アメリカで人気のあったイギリスの俗謡のメロディに合わせて歌われるようになったのがアメリカ国歌の始まりでした。
1931年にアメリカ合衆国の国歌に採用。

こちらで
コンスティテューション号
レオパード号事件
エリー湖の戦い
をお楽しみください。

・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。    09/8/8、13/12/12

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