★韓 国
李 舜臣
1597(慶長2)/9/16
鳴梁の海戦、勝利
大航海物語★
KOREA
李 舜臣

大韓民国 1949 発行

Republic of Korea
李 舜臣
Adamiral Li Sunsin


韓国 1975 発行
DDR
朝鮮半島の地図

北朝鮮 2007 発行

MARSHALL ISLANDS
李舜臣の亀甲船
マーシャル 1998 発行
壬辰倭乱

丁酉再乱

李舜臣提督は1592(文禄1)/4/12に朝鮮に上陸して攻め込んできた倭軍を朝鮮水軍を率いて朝鮮の沿岸地帯で迎え撃って活躍し三道水軍統制使に就任しました。その後の敗戦と1597年の抗命で「白衣従軍」を命じられ、一平卒で白衣を着て従軍しました。

1597/7/16の「漆川梁の海戦」で朝鮮水軍の船隊はほとんど撃沈され、三道水軍統制使の「元均」提督が大敗して戦死。その後に朝鮮朝廷は李舜臣提督を、再び三道水軍統制使に任命。戦闘中に「「楔」が12隻の戦船を率いて戦場を脱出、その生き残った12隻で、朝鮮水軍を復活・再編して、1597(慶長2)/9/16に「鳴梁の海戦」を戦い、倭軍を破って勝利しました。倭軍は「漆川梁の海戦」で大勝利して後の間もない「鳴梁の海戦」で敗北して、李舜臣提督の復活を大いに恐れ、以降の一年間は大きな海戦は起こりませんでした。

1598/11/19に起こった「露梁の海戦」で李舜臣提督は54才で戦死しました。韓国ではその功績を評価し、国民的英雄となっています。
李舜臣(り・しゅんしん)提督 (明暦:1545/3/8〜1598/11/19)
 イ・スンシン

▼前半生
李舜臣は京畿道開豊郡の徳水李氏の出身で、漢陽(別名:漢城、現ソウル)の乾川洞(現:中区乙支路)に生まれ、父は李貞。4人兄弟の三男で、兄弟の名前は上から、羲臣(ヒシン)、尭臣(ヨシン)、舜臣、禹臣(ウシン)。中国の伝説上の帝王の名前の一字をとって名付けられました。後に、朝鮮の領議政(ヨンイジョン、首相)となる3才年上の柳成龍(ユ・ソンリョン 1542-1607)も、同所で生まれており、李舜臣とは幼馴染でした。李舜臣は幼い時から勇猛果敢な性格でしたが勉学は苦手で、20才すぎになると、文科は諦めて武科の試験を受けました。しかし、試験では落馬したり、筆記試験に落ちるなどして、合格したのは32才(1576)のときでした。李舜臣は下士官として朝鮮各地を転戦、上司との折り合いが悪く罷免されたり、白衣従軍(罰を受けて一兵卒として従軍すること)を命ぜられたりしました。李舜臣が不遇な時には、幼馴染で同派閥の柳成龍が救いました。そして「文禄の役」の前年の1591年に柳成龍の推薦により全羅左道水軍節度使(略称:全羅左水使)に大抜擢されました。当時、柳成龍は右議政(副首相)の地位に出世していました。ところが、何の功績も無い李舜臣の大抜擢は、先任の水軍節度使の元均(ウォン・ギュン)などの激しい反感をかいました。

▼李舜臣の海戦略歴
・1576年、全羅左道水軍節度使(略称:全羅左水使)に大抜擢
・1592年4月、豊臣秀吉が朝鮮出兵を開始すると、慶尚道の水軍は壊滅、
 残存朝鮮水軍の主導的指揮官の一人として朝鮮水軍を指揮
・緒戦では釜山西方の朝鮮南岸の倭軍を泊地攻撃して勝利
・1592/7/7、閑山島海戦に勝利
・日本軍の沿岸防衛態勢強化により被害増大で出撃が減少
・1593年、三道水軍統制使という総司令官に出世
・1594年、3月の第二次唐項浦海戦に敗戦
・1594年、場門浦海戦に敗戦
・1594年、永登浦海戦に敗戦
・1597年、加藤清正の上陸を独断で攻撃せず、抗命を咎められて白衣従軍を命じられる
・1597/7/16、元均が水軍単独での漆川梁海戦(巨済島の海戦)で大敗を喫し戦死
・1597/9/16、鳴梁海峡で水軍統制使に返り咲いて勝利
・1598年、古今島を拠点とし、明水軍が合流
・1598/9/19、順天城の海上封鎖を行い、順天城の合戦で敗戦
・1598年、古今島から松島沖に進出し海上封鎖を実施、小西らの撤退を阻む
・1598/11/19、露梁海戦で戦死

文禄・慶長の役での活躍
▼文禄の役
1592/4月に豊臣秀吉が朝鮮出兵を開始すると、慶尚道の水軍は壊滅したが残存朝鮮水軍の主導的指揮官の一人として朝鮮水軍を指揮。緒戦では釜山西方の支配領域拡大のために展開していた倭軍後方諸隊の海上移動のための輸送船を数次に渡って攻撃し、成功を収めました。

攻勢主力を釜山から漢城のラインを軸に平壌・咸鏡道などに展開していた倭軍は、釜山西方の朝鮮南岸で李舜臣の輸送船攻撃が活発になると7月になって脇坂安治、加藤嘉明、九鬼嘉隆を各方面から招集し、海上戦闘用の水軍を編成して李舜臣に対抗することとしましたが、単独抜け駆けで進出してきた脇坂水軍を李舜臣は囮を使って潮流の激しい海峡に誘き寄せて閑山島海戦で撃破。続いて脇坂の援護のために安骨浦まで進出して停泊していた加藤・九鬼水軍を襲撃しました。

この二つの海戦の結果、急造の倭水軍を出撃させて朝鮮水軍に当たる海上戦闘は不利であると悟った秀吉は倭軍勢力範囲の要所に城砦(倭城や鉄炮塚と呼ばれる砲台)を築いて大筒や大鉄砲を備え、船対船の積極的な海上攻撃作戦から船対陸の水陸防御作戦へ戦術を変更。この戦術転換は有効に機能し、以降の李舜臣による倭軍側の泊地への攻撃は釜山浦攻撃熊浦攻撃など被害が多く成果が上がらないために出撃回数は激減しました。

▼休戦期
1593年にこれまでの功績を認められた李舜臣は三道水軍統制使という朝鮮南部(慶尚道・全羅道・忠清道)の水軍を統括する指揮官に出世。また李舜臣と元均はお互いに讒言を行うなど不和であったため、朝鮮朝廷により元均が陸軍へ更迭されました。李舜臣は休戦交渉期の1594/3月に水軍で巨済島を攻撃(第二次唐項浦海戦)しましたが倭軍に撃退され、開戦後に戦争を指導する明より和平交渉の妨害となるため交戦を禁じられました。また、同年9月から10月にかけて朝鮮陸水軍により再び巨済島を攻撃する作戦が発動され数次に渡る攻撃も失敗し、李舜臣は福島正則や島津義弘により撃退されました。(場門浦海戦)

この結果、朝鮮王朝では査問を行い、李舜臣は留任となりましたが上司で体察使の尹斗寿(ユン・ドウス)は責任を問われて更迭されました。この後、戦線は膠着。1597年に慶長の役の攻勢準備のために加藤清正が朝鮮へ到着することを小西行長の使者が朝鮮側に漏らし、朝鮮朝廷は加藤清正の上陸を狙って攻撃するように李舜臣に攻撃を命令するも、李舜臣はこれを倭軍の罠と考えて独断で攻撃を実施しなかったため、朝鮮朝廷内部では抗命を咎める声が大半となり、李舜臣は更迭され拷問を受けて一旦は死罪を宣告されましたが、鄭琢(チョン・タク)の取りなしで一兵卒として白衣従軍を命じられました。(柳成龍「懲録」)

▼慶長の役
1597年に李舜臣の後任の水軍統制使・元均が水軍単独での攻撃命令を嫌がりながらも遂行するも、漆川梁海戦(巨済島の海戦)で大敗を喫し戦死。かわって水軍統制使に返り咲いて壊滅した水軍の再建を進めたのが李舜臣でした。李舜臣が再任された時は、朝鮮水軍には僅か12隻の戦船(板屋船)しか残っていませんでした。倭軍によって全羅道や忠清道が掃討されつつある中、壊滅直後の残存船隊を収容しながら後退した李舜臣の船隊は、朝鮮半島西南端の潮流の激しい鳴梁海峡に倭水軍を誘導し、突入してきた倭水軍の先頭部隊に一撃を加えて勝利しました(鳴梁海戦)。しかし後続の倭水軍は強大なため、海戦の夜には戦場海域からの後退を行い、倭水軍の侵攻を許しました。同時期に全羅道西岸拠点が次々と倭陸軍によって制圧されたために李舜臣は拠るべき泊地を失って後退を続け、全羅道の北端まで退却し(当時の水軍は長期の洋上行動はできず沿岸や島嶼に順次泊地を求めながら移動)、代わって倭水軍が進出して全羅道西岸の制圧を実施して姜コウや鄭希得などの多くが捕虜になりました。

明の大軍が南下することを察知した倭軍は冬を前に迎撃体勢を取るために慶尚道から全羅道にかけての朝鮮南岸域へ自主後退。倭軍が撤退すると李舜臣の水軍も明・朝鮮陸軍と共に朝鮮南岸へ再進出しました。李舜臣は朝鮮南岸西部にある古今島を拠点とし、そこに陳リンが率いる明水軍が合流しました。

1598年に明・朝鮮軍が倭軍最西端の拠点である小西行長等が守る順天城を攻撃しだすと、李舜臣は明水軍の指揮下に入って水陸共同の順天攻撃作戦に参加し同時に順天城の海上封鎖を行った。しかし、水陸両面で明・朝鮮軍は損害を出しつつ苦戦し、厭戦気分が蔓延して攻撃は頓挫、海上封鎖を解いて古今島に後退(順天城の合戦)。

秀吉の死によって倭軍に退却命令が出ると、小西行長は明・朝鮮陸軍との間に講和を成立させ、海路を撤退しようとしましたが、それを知った明・朝鮮水軍は古今島から松島沖に進出し海上封鎖を実施、小西らの撤退を阻みました。そのため小西小西らは、今度は明・朝鮮水軍と休戦交渉を行い明水軍の内諾を取りつけたものの、李舜臣がそれに従わず海上封鎖しましたので、順天城に足止めされることになりました。

▼戦死
順天城の海上封鎖のために小西軍が脱出不能と知ると倭軍側は島津義弘等が急遽、水軍を編成して救援軍を派遣。李舜臣はこれを察知し、明・朝鮮水軍は順天の封鎖を解いて島津水軍を露梁海峡で迎撃しました。この露梁海戦では夜半からの戦闘が長時間続き、急造の島津水軍は苦戦するも、混戦の中で李舜臣が戦死し、他に明水軍副将を初めとする明・朝鮮水軍の主たる将が多数戦死し大きな被害を出したため、後退する島津水軍を追撃することは出来ませんでした。

一方、孤立していた小西行長は明・朝鮮水軍の出撃により封鎖が解けたので、海路脱出に成功し無事倭国へ帰国することができました。

李舜臣はその死後に「忠武」と謚(おくりな)されました。 韓国ソウルの官庁街である世宗路には、李舜臣の銅像が建てられました。これは軍事政権下の力の象徴として設置されたと言われ、外にも釜山龍頭山公園や「木浦」など、数多くの朝鮮半島南海岸に李舜臣の銅像が建てられました。李舜臣の母の実家がある忠清南道牙山市に、李舜臣の功績を称える「顕忠祠」が有。

▼李舜臣提督の主な海戦:〜
第1次の出撃
・玉浦海戦 (1592/5/7)
・合浦海戦 (1592/5/7)
・赤珍浦海戦 (1592/5/8)
第2次の出撃
・泗川浦海戦(1592/5/29)
・唐浦海戦 (1592/6/2)
・1次唐項浦海戦 (1592/6/5)
・栗浦海戦 (1592/6/7)
第3次の出撃
・閑山島海戦 (1592/7/8)
・安骨浦海戦 (1592/7/10)
第4次の出撃
・長林浦海戦 (1592/8/29)
・釜山浦海戦 (1592/9/1)
第5次の出撃
・熊浦海戦(1593/2/1)
第6次の出撃
・2次唐項浦海戦 (1594/3/4-5)
第7次の出撃
・場門浦海戦 (1594/9/29-10/4)
 (失脚の期間)
第8次の出撃
・鳴梁海戦 (1597/9/16)
第9次の出撃
・露梁海戦 (1598/11/19)〜戦死。

参考地図HP:〜朝鮮八道

・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。  09/6/26、11/10/11

スタンプ・メイツ
Copyright(C):Nicky
無断転載禁止