大航海物語
ポール・ゴーギャン (画家)
1848〜1903
参考資料
YEMEN ARAB REPUBLIC
ゴーギャン自画像
1896年作、サンパウロ美術館蔵

イェーメン 1968 発行


POLYNESIE FRANCAISE
楽園の情景(タヒチにて) Gaugin 作
我々は何処から来たのか? 我々は何者か? 我々は何処へ行くのか?
Where have we come from ? What are we ? Where are we going ?
Gaugin (1848-1903)

ゴーギャン  1897-1898作 ボストン美術館蔵
仏領ポリネシア 1985/5/17 発行

タヒチの女(浜辺にて)
ゴーギャン 1891作 オルセー美術館蔵
YEMEN ARAB REPUBLIC

イェーメン 1968 発行
POLYNESIE FRANCAISE

仏領ポリネシア 1958/11/3 発行

・ポール・ゴーギャン (画家)
 Eugene Henri Paul Gauguin (1848/6/7〜1903/5/9)
ゴーギャンはフランスのポスト印象派の最も重要かつ独創的な画家の一人。1848年の「フランス二月革命」の年にパリで生まれました。父は共和系のジャーナリストで、ポールが生まれてまもなく、一家は革命後の新政府による弾圧を恐れて南米ペルーリマへ亡命。まもなく、父はポールが1才になる前に急死。残された妻子はペルーで7年を過ごした後、1855年にフランスに帰国。こうした生い立ちは、後のゴーギャンの人生に少なからぬ影響を与えました。

フランスに帰国後、ゴーギャンはオルレアン(#47)の神学校に通った後、1865年に17才で航海士となり、南米やインドへ大航海しました。1868年から1871年まではフランス海軍に入隊し、普仏戦争(Franco-Prussian War, 1870/7/19-1871/5/10)に従軍しました。

その後ゴーギャンは株式仲買人(証券会社の社員)となり、デンマーク出身の女性メットと結婚。ごく普通の勤め人として、趣味で絵を描いていました。印象派展には1880年の第5回展から出品したものの、この頃のゴーギャンはまだ一介の日曜画家にすぎませんでした。勤めを辞め、画業に専心するのは1883年からのことでした。1886年以来、ブルターニュ地方(#43)のポン・タヴェンを拠点として制作。この頃ポン・タヴェンで制作していたポン・タヴェン派のベルナール、ドニ、ラヴァルらの画家のグループの、ゴーギャンはその中心人物と見なされました。ポン・タヴェン派の特徴的な様式はクロワソニズム(フランス語で「区切る」という意味)と呼ばれ、単純な輪郭線で区切られた色面によって画面を構成するのが特色。1888年には南仏プロヴァンス地方(#89)アルルでゴッホと共同生活をしましたが、2人の強烈な個性は衝突を繰り返し、ゴッホの「耳切り事件」をもって共同生活は完全に破綻。

1891/4月に西洋文明に絶望したゴーギャンが楽園を求め、南太平洋(ポリネシア)にあるフランス領の島・タヒチに渡りました。しかし、タヒチさえもがすでに彼が夢に見ていた楽園ではなかったのでした。タヒチで貧困や病気に悩まされたゴーギャンは帰国を決意し、1893年フランスに戻りました。叔父の遺産を受け継いだゴーギャンは、パリにアトリエを構えましたが、絵は売れませんでした。この時期にマラルメのもとに出入りしていました。 一度捨てた妻子にふたたび受け入れられるはずもなく、同棲していた女性にも逃げられ、パリに居場所を失ったゴーギャンは、1895年に再びタヒチに渡りました。

タヒチに戻っては来たものの、相変わらずの貧困と病苦に加え、妻との文通も途絶えたゴーギャンは希望を失い、死を決意。こうして1897年、貧困と絶望のなかで、遺書代わりに終生の大作、「われわれはどこから来たのか われわれは何者か われわれはどこへ行くのか」、を仕上げました。しかし自殺は未遂に終わりました。最晩年の1901年にタヒチ島からは北東に約1500kmの海域に有る、さらに辺鄙で、スペインのメンダーニャ船長が1595年に発見したマルキーズ(マルケサス)諸島に渡り、地域の政治論争に関わったりしていましたが、1903年に55才で同諸島のヒバオア島で亡くなりました。ポール・セザンヌに「支那の切り絵」と批評されるなど、当時の画家たちからの受けは悪かったのですが、没後、西洋と西洋絵画に深い問いを投げかける彼の孤高の作品群は、次第に名声と尊敬を獲得するようになりました。〜大百科事典により加筆。

・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。       08/2/10

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