★イギリス
ジョン・オックスレイ
1817、ラクラン河の探検
1818、マックワイアー河探検

大航海物語★
AUSTRALIA
ジョン・オックスレイ

オーストラリア 1976/6/9 発行

St.Helena
18〜19世紀の英国スループ帆船

セントヘレナ 1998/8/25 発行
AUSTRALIA
オーストラリアの川

図案はマランビジー川
オーストラリア 2000 発行

NEDERLAND
ノーザンテリトリー(北部準州)
EIRE
オーストラリアの地図

アイルランド 1988/3/1 発行 (200%)



ウェストオーストラリア→

サウスオーストラリア




←クィーンズランド


ニューサウスウェールス
←ヴィクトリア
←タスマニア
オランダ 1988/8/30 発行

イングランド生まれのジョン・オックスレイは15才でイギリス海軍に入隊し、18才でオーストラリアに航海して植民地の測量官となってウェスターン・ポートを探検調査した後、27才で海軍を除隊するまでオーストラリアにかかわり、ラム酒の反乱ではブライ総督のタスマニア行き乗船に艦長で乗組んでおり、その後の軍法会議ではロンドンで証言しました。除隊後はオーストラリアで、ラクラン河探検、マックワイアー河探検をなし、ポート・カーティス探検では、後のブリスベーンの建設に貢献し、オーストラリアで大牧場を獲得しましたが、43才で病に倒れて亡くなりました。

ジョン・ジョセフ・ウィリアム・モールスワース・オックスレイ (1784/7/6〜1828/5/26)
 John Joseph William Molesworth Oxley

オックスレイはイギリス・ヨークシャー州ウェストウ(Westow, Yorkshire, England)近郷のカーカム・アビー(Kirkham Abbey)でアイルランドのモールズワース子爵(Irish Viscount Molesworth)ジョン(John Oxley)とイサベラ(Isabella)夫妻の長男として生まれ、1784/7/6に洗礼を受けました。1799年に15才で大英帝国海軍に入隊し、少尉候補生(midshipman)としてヴェネラブル号(Venerable)に乗組みました。18才になると航海士(master's mate)になって補給艦バッファロー号(HMS Buffalo、12-gun storeship)に転属し、オーストラリアへと出帆しました。1802/10にオーストラリアに着くと、植民地の測量官(Surveyor-General)に指名され、海岸線の調査とメルボルン南東に有るウェスターン・ポート湾(Western Port Bay VIQ)への探検に1804〜05年の間を従事しました。1805年にキング総督がバッファロー号の先任士官中尉(acting lieutenant)に指名し、1806年には元スペイン船エストラミナ号(Estramina、12-gun Spanish schooner)を指揮してタスマニア(Van Diemen's Land)へ航海しました。

1807年にイギリスに帰国し、1807/1/25に海軍大尉に昇進しました。1808/11にシドニーに戻り、パーパス号(HMS Porpoise、10-gun sloop 308t)の先任士官で乗組みました。囚人輸送船スペック号(convict ship Speke)に投資金額£800の商品を積んで交易して儲けました。NSW植民地政府からシドニー南約100 kmにあるネピアン川(Nepean River、NSW)近郷に約243万ku(600エーカー)の土地分与を受けました。パターソン副総督は約405万ku(1000エーカー)の土地を分与してくれました。1810年にそれらの土地を放棄させられましたが、マックワイアー総督がカムデン(Camden、NSW)に約243万ku(600acres)の土地を分与しましたので、牧羊業を続けました。1815年には再び約405万ku(1000acres)に増加して、そこをカーカム(Kirkham、NSW)と呼びました。パーパス号に乗組み中に艦長となり、1809/3月に、ラム酒の反乱(1808/1/26)で拘束されていたブライ総督がシドニーを去ること許されると、オックスレイ艦長が指揮したパーパス号にブライ総督が乗客として乗船し、シドニーからタスマニア島ホバートのダーウェント(Derwent、Hobart)に航海しました。1810年にそこでタスマニアに関する長い報告書をロンドンに送り、1810/5にパーパス号でイギリスに航海しました。ロンドンではブライ総督の軍法会議で証言しました。1811年に海軍を除隊。1812/5月にミンストレル号(Minstrel)でシドニーへ戻りました。

オックスレイはマックワイアー総督政権時代(在任:1810/1/1〜1821/12/1)に探検調査の要請を受けました。まずは、1815年にエヴァンス助手(George Evans)がバサーストの南西でラクラン河(Lachlan River)を発見して肥沃な土地があったと報告していましたので、1817/3月にマックワイアー総督がその川が海か、それとも内陸湖に流入しているかどうかの探検調査を命じました。

ラクラン河探検(expedition of Lachlan River, 1450km, NSW)
1817年
04/06、シドニーをジョージ・エヴァス(George William Evans 1780-1852)と
     植物学のアラン・カニンガム(Allan Cunningham、botanist)を連れて出発
04/13、バサースト着、悪天候でしばらく滞在
04/25、ラクラン河(Lachlan Rivers)着
     ボートに装備を積み込んで出発
05/12、フォーベス(Forbes)着、広い沼(marsh)を発見
04/13、バサースト着、悪天候でしばらく滞在
04/25、ラクラン河(Lachlan Rivers)着
     ボートに装備を積み込んで出発
オーストラリアの川
05/12、フォーベス(Forbes)着、広い沼(marsh)を発見
05/31、乾いた荒地に着く、上陸して馬2頭が死んだのでラクラン河に戻る
06/23、ラクラン河に戻り着く
07/07、広い沼(marsh)と居住に適さない荒地に着く
ラクラン河、マックワイアー河(Macquarie Rivers)、カストレリー川(Castlereagh Rivers、ダーリング河支流、NSW)、ピール川(Peel Rivers 210km、マレーダーリング湿地帯)、ヘイティングス川(Hastings Rivers 128km)を2ヵ月以上探検して、その後、7月にマックワイアー川、カルゲリコ湖(Lake Cargelligo)からボーガン川(Bogan River、590km NSW)を渡りました
08/29、バサーストに到着
海岸へ出て、海岸沿いにシドニーへ戻りました。
マックワイアー総督はとても喜び、£200のボーナスを支給しました。

マックワイアー河探検expedition of Macquarie River, NSW)
1818年
05/28、バサーストを出発
06/12、バサーストから北東へ進んでダボウ(Dubbo)の美しい地域を見る
07/06、ダボウの北に発しダーリング川に注ぐカストレリー川(Castlereagh River)を発見、
     さらに北へ進んで肥沃なリバプール平原(Liverpool Plains)発見、其処から流れ出る川に
     着いて、ロバート・ピール卿(Sir Robert Peel, 2nd Baronet 1788-1850)に因んで
     ピール川(Peel River、210km)と命名
08/26、ピール川の肥沃な土地を発見、現:タムワース(Tamworth)を
     東へと進み大分水嶺山脈(Great Dividing Range)をワルチャ(Walcha)近郷の
     ニューイングランド・レーンジ(New England Range)で南に横切る
09/13、アプスレイ川(Apsley River 29km)の現アプスレイ滝(Apsley Falls)に着き
     バサースト滝(Bathurst Falls)と命名
アーバスノット・レーンジ(Arbuthnot Range)と命名、後年にウォランバングル・レーンジ(Warrumbungles Range)と改名と、海へ流れ込んでいるヘイティングス川(Hastings River)を発見、河口にポート・マックワイアー(Port Macquarie)を命名。
1818/11月、ニューカッスル(Newcastle)到着。

ポート・カーティス探検(1823 expedition to Port Curtis, QLD、ブリスベーンの建設に貢献)
オックスレーの海軍での経験は、内陸部の探検以上に海岸線の探査に役立ちました。
1819年
9〜12月、海路から、キャンベラ東方の海岸ジャーヴィス湾(Jervis Bay)を探検し、
      海岸から内陸に掛けて不毛の地が連なり、水が欠乏して居住地には適さないと報告。
      レディ・ネルソン号(Lady Nelson)に乗組んで、
      キング船長(Phillip Parker King、1791-1856)のマーメイド号(Mermaid)を随伴して
      ポート・マックワイアー(Port Macquarie)の海図を作成し、
      こちらが居住地に適していると報告。
12月、第2回目の探査を実施し、
      ポート・マックワイアーが新しい流刑植民地(penal settlement)に適していると報告。
10月、シドニーを出帆してさらに遠くの北方のポート・カーティス(Port Curtis)迄実施し、
      帰路モートン湾(Moreton Bay)に注ぐブリスベーン川(Brisbane River、約320km)に至り
      その川を80 km遡上し、流刑植民地の好適地だと報告、直ちに流刑植民地が建設され
      そこが現ブリスベーン(city of Brisbane)となりました。

1820年に「2つのNSW内陸部探検記」(Journals of Two Expeditions Into the Interior of New South Wales)を執筆、ロンドンで発刊され、後年のミッチェル少佐の探検(1831年)に貢献しました。1821/10/31にエマ(Emma Norton、1798-1885)と聖フィリップス教会(St Philip's Church)で結婚して、2人の息子ジョン(John 1824)とヘンリー(Henry 1826)が生れ、2人の娘シャーロッテ(Charlotte Thorpe)とエリザベス(Elizabeth Marnon)が生れました。一時銀行(Bank of New South Wales)の役員になりました。1824年にNSW議会(the original New South Wales Legislative Council)議員になりましたが、1825年に議会再編成されました。1828年に43才で病に倒れてカーカムで亡くなり、シドニーの墓地(Devonshire Street cemetery)に埋葬されました。

・パーパス号の装備:〜
  HMS Porpoise
、1799
船 型 スループ型、10-gun Sloop パーパス号、1808年の同型船
帆 柱 3本マスト
全 長 28.3m
全 幅 8.39m
重 量 308屯
武 装 砲10門
捕獲船 1799、HMS Argoがポルトガル沖でスペインの
パケット船(packet ship Infanta Amelia)を捕獲
進 水 1799、スペイン北部(Bilbao)
最 後 1803、オーストラリア(Qld)で難破・沈没

参考HP:〜
 ・イギリスの州区分地図(Countries of Great Britain)
 ・ホバートの地図(ダーウェント川の場所地図)
 ・ジョン・オックスレイの探検地図(1877年、1878年)
 ・メルボルンからパターソン岬への道路地図
   (メルボルン南東のウェスターン・ポート湾の場所地図、湾の中にフレンチ島有)
   ・フレンチ島の地図
   ・フィリップ島の地図
 ・ラクランの川の場所地図
 ・マックワイアー川の場所地図
 ・NSWの道路地図(Sidney、Newcastle、Bathurst、Dubbo、Tamworth有)
 ・オーストラリアの川の場所地図(57河川)
 ・ポート・マックワイアーの場所地図(Sydney〜Brisbane間の海岸線)
 ・ジャーヴィス湾の場所地図
 ・ポート・カーティスの場所地図
 ・モートン湾の場所地図
 ・モートン湾の地図(Brisbane有)
 ・ブリスベーン川の場所地図(川とモートン湾の地図)
 ・マーレー・ダーリング湿地帯付近の場所地図(メルボルン〜アデレード、両河の水域図)
 ・エーア湖湿地帯の地図(マレーダーリング水系の地図)

・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。      2010/6/6

スタンプ・メイツ
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