切手で綴る 冒険大航海 (Adventure Voyage)

United Kingdom

国連 1983 発行
キャップテン・ブライ
ラム酒反乱
1808
オーストラリア・ニューサウスウエールス

大航海物語
  ブライ編
ブライ物語第6章ジョンストンJ.マッカーサー

AUSTRALIA
  反乱勃発      1808 ラム酒反乱175年 1983

オーストラリア 1983 発行 27c封緘絵葉書
ブライ総督

Australia
オーストラリアの地図

オーストラリア 1981/1/21 発行
NEDERLABD
オーストラリアの地図

オーストラリア100年記念
オランダ 1988/8/30 発行






←クィーンズランド


ニューサウスウェールス

タスマニア島

・ラム酒の反乱
 
Rum Rebellion、1808/1/26〜1810/1/1、1年11ヵ月と5日)
ラム酒の反乱は1808年にオーストラリア・ニューサウスウェールズのシドニーで起きた反乱。
ジョン・マッカーサーをはじめとする現地の有力者とニューサウスウェールズ軍団がイギリス植民地ニューサウスウェールズのウィリアム・ブライ総督を監禁した事件。この軍による反乱は、1810年の始めに、マックワイアー陸軍少将が総督としてイギリスから着任するまで続きました。

▼はじまり
1808年頃のオーストラリアのイギリス新植民地はニューサウスウェールズ軍団(New South Wales Corps)によって軍政がつかさどられていました。しかし、軍政は腐敗していて、彼らの中にはラム酒貿易に従事するものもいたので「ラム酒軍団」(Rum Corps)とも呼ばれ、植民地将校の営利行為が公然と行われていました。ブライ艦長が総督になると植民地の綱紀建て直しのため、不法な取引の中でも、従来から将校が独占していた「ラム酒の不法取引」の一掃に断固たる態度で臨みました。ブライ総督の怒りやすく、妥協を知らない、高圧的な綱紀粛正策は、一部高級将校も含む植民地社会の支配者達の反感をかい、権力強化を狙う総督と、植民地の現地有力者との確執は、このあとも続きました。1808年1月にブライ総督がオーストラリア牧羊業の創始者であり、自由移民の代弁者で指導者の一人ジョン・マッカーサー(John Macarthur、1766-1834)を逮捕しました。ところが、先任将校のジョージ・ジョンストン少佐(Major George Johnston、New South Wales、1764-1823)は彼を釈放し、逆にブライ総督を捕えました。これが「ラム暴動」といわれている反乱事件の始まりです。

反 乱
1806年に総督として着任したブライは、植民地の有力者であったマッカーサーらとの対立を引き起こしました。ブライ総督は彼らの主な収入源であったラム酒貿易を制限しました。それに対してマッカーサーらが巻き返しを狙ったのがこの事件のあらましです。直接的にはマッカーサーに対する逮捕・訴訟が反乱の原因となりました。

ラム酒暴動の反乱は、1808/1/26にジョン・マッカーサーに指導されたニューサウスウェールズ軍団の将校たちがジョージ・ジョンストン少佐を指揮官とて反乱を起し、ブライ総督を投獄・幽閉・監禁して権力を掌握しました。ジョンストン少佐はみずから「副総督」と称し、同年7月まで植民地の実権を掌握。フォヴォウ副総督がこれを継承し、さらに彼の後を継いだパターソン副総督(Lieutenant-Governor William Paterson 1755-1810、第3代副総督在任:1794/12/18〜1795/9/19、第4代在任:1800/9〜1808/1/26)が、ブライ総督の次の第5代総督になるマックワイアー陸軍少将が到着するまで、ニューサウスウェールズ植民地の事実上の支配者となりました。

▼その後
ブライ総督はシドニーでしばらく幽閉され、1809年2月ロンドンに直接向かうという条件で解放されましたが、それを無視し、ヴァン・ディーメンス・ラント(タスマニア島)アドヴェンチャー湾ホバート(Hobart)に立ち寄り、コリンズ副総督の支援を求めました。しかし、ここでもコリンズ副総督と紛争を起こし孤立しました。1810/1/17、後任のマックワイアー総督の到着の報に接しシドニーに戻り、約6ヵ月滞在すると、マックワイアー総督もブライ総督に批判的になりました。1810/5/12にブライ総督はシドニーをロンドンに向け出帆しました。 タスマニア島アドヴェンチャー湾

ピトケーン 1989/4/28 発行
ジョンストン少佐は帰国した後、マッカーサーとともに軍法会議に付され、マッカーサーは事実上の無罪とされましたが、ジョンストン少佐は全ての軍務からの免職となり官職を罷免されました。また、反乱の主役を演じたニューサウスウェールズ軍団は本国召還となりました。マッカーサーは植民地での逮捕・訴追を逃れるため、1817年までイングランドに滞在しました。

1810/10/25にブライ総督はイギリスに帰国し軍法会議に付されましたが、反乱に対する責任は問われませんでした。

参考HP〜
囚われるブライ総督
タスマニア島の地図
ホバートの場所地図
オーストラリアの地図
参考:〜
ジョージ・ジョンストン少佐 (1764〜1823)
 Major George Johnston

ジョンストン少佐はスコットランドのアナンデイル(Annandale, Dumfriesshire, Scotland)生まれで、「ラム酒の反乱」の首謀者の1人で、フィリップ提督第1船団でニューサウスウェールズ(New South Wales)に着いた海兵隊将校の1人でした。第2船団でニューサウスウェールズ(NSW)軍団の到着後、その将校となり、ラム酒の反乱では指導的な役割を果たしました。イングランド軍法会議で免職された後、NSWに戻り、有力な地主になりました。
オーストラリア地図

アイルランド 1988 発行
ジョンストン少佐はパーシー卿(ノーサンバーランド公)の副官であった父の関係で、1776年海兵隊少尉となり、西インド諸島などで海戦に参加、その後、オーストラリアへの囚人輸送の第1船団に加わり、レディ・ペンリン号でイギリスを出帆、1788/1/26にポートジャクソンに到着しました。1790年にNSW軍団の到着により、海兵隊が任務を解かれると、フィリップ総督は大尉に昇進していたジョンストンに元海兵隊の部隊を編制させ、NSW軍団に統合しました。1800年に少佐に昇進、その間、ハンター総督の副官やNSW軍団の指揮官代理を務めました。他方、軍団の特権に介入するキング総督、やブライ総督と対立することもあり、1800年には蒸留酒の不正取引により逮捕され、イングランドに送られましたが、裁判を受けることなく、翌年シドニーに帰還しました。1804/3月にシドニー北西31kmに有るカッスル・ヒル(Castle Hill)で反乱を起こしたアイルランド系の囚人と、ヴィネガー・ヒル(Vinegar Hill)で対決して策略を用いて鎮圧しました。

ブライ総督はラム酒などの蒸留酒の交易を抑圧し小農民を保護しようとして、NSW軍団の将校などと対立しました。その性格の激しさや口の悪さ、強圧的な態度から、ジョン・マッカーサーを指導者とするNSW軍団の反乱が起こりました。ジョンストン少佐はマッカーサーらの説得により反乱に加わり、1808/1/26にブライ総督を捕縛・幽閉して植民地の支配権を掌握しました。これがラム酒の反乱と呼ばれました。同年7月にイギリス本国から到着したフォヴォウ副総督が指揮権を取りましたが、NSW軍団による実質的な支配は、マックワイアー総督の到着した1809年まで続きました。マックワイアー総督はジョンストン少佐をマッカーサーと共にイングランドに送り、裁判に付しました。

1811/6月にロンドンで開かれた軍法会議では、ジョンストン少佐は有罪になりましたが、単に免職を命じられただけでした。さらに植民地省はジョンストンの要請に応じて、NSWへの帰還費用を負担し、マックワイアー総督にジョンストンを一般の入植者と同じように扱うことを命じました。1813/5/30にジョンストンは植民地に帰還しました。

1814年にジョンストンは、すでに彼との間に多くの子供をもうけていた囚人女性エサー・ジュリアンと正式に結婚し、その後、彼とその家族はマクウォリー総督の寵愛を受けるようになりました。ジョンストンは軍人であると同時に、無償の交付土地や家畜を利用して農業をする農民でもあり、与えられた土地はレイク・イラワラ(Lake Illawarra)の1,500エーカー(約607万ku)の土地や、その他に2,000エーカー(約809万ku)などがあり、その総面積は4,162エーカー(約1680万ku)に及びました。

1823/1/5にジョンストン少佐は亡くなりましたが、その遺体はピーターシャムのアナンデイル農場に埋葬されました。そこは、初めてノーフォーク島からノーフォーク松が移植された所でした。     09/6/26
ノーフォーク松

ノーフォーク 1974 発行

ジョン・マッカーサー (1767/9/3〜1834/4/11)
  John Macarthur

ジョン・マッカーサーはイングランドのプリマス近くで生まれ大英帝国陸軍に入隊し、オーストラリアにニューサウスウェールズ軍団が派遣されることになると、流刑囚人輸送の第2船団でオーストラリアに渡り、イギリスからメリノ羊を移入して牧羊業の創始者の1人となり、その発展に貢献しました。植民地総督の多くと対立しラム酒の反乱では指導的な役割を果たしました。
マッカーサー移入のメリノ羊

オーストラリア 1934/11/1 発行
マッカーサーはイングランドのプリマス(Plymouth, Devon)近くストーク・ダメレル(Stoke Damerel)で、スコットランド人服地商の父アレクサンダー(Alexander Macarthur)の2番目の息子として生まれました。ジャコバイト・ライジング(Jacobite Rising)で西インド諸島に渡り、服地(リンネル)商い(linen draper)を手伝いました。アメリカ独立戦争(1775-1783)が勃発すると、1782年15才でアメリカ遠征を準備中の大英帝国陸軍フィッシュ軍団(Fish's Corps)に入隊し旗手になりましたが、アメリカへ出帆する前に戦争が終わり、1783年に軍団は解体されました。予備役になったマッカーサーは故郷近くホルスワーシイ(Holsworthy Devon)の農場に落ち着き、農業を始めました。1788/4月に第68歩兵連隊(68th Regiment of Foot、ダーハム軽歩兵:Durham Light Infantry)に少尉として復帰し、1785年にジブラルタルに移動し駐屯しました。1788/10月コーンウォール(Cornwall England)出身の家系につながるエリザベス(Elizabeth Veale 1766-1850)と結婚し、イングランドのバス(Bath, Somerset, England)で長男エドワード(Sir Edward 1789-1872)が生れました。

1789/4月オーストラリアに、ニューサウスウェールズ軍団(New South Wales Corps)を派遣することになり、マッカーサーはその軍団に転属し中尉(lieutenant)になりました。1790/1/19に流刑囚人輸送の第2船団ネプチューン号(Neptune、809t)、ドナルド・トレイル船長(Donald Traill)で妻と幼いエドワードと共にイギリスを出帆しました。ところが航海長のギルバート大尉(Gilbert, first Master)と仲たがいして決闘騒ぎになり、洋上を航海中にもかかわらずスカーボロー号(Scarborough、430t)に乗り換えました。喜望峰では重病にかかり奇跡的に回復しましたが、後々まで苦しみました。1790/6/28にNSW軍団がオーストラリアのポート・ジャックソンに到着し、マッカーサーはシドニー近郷パラマッタ近くのローズ・ヒル(Rose Hill)駐屯地の司令官(commandant)になりました。ところが、その傲慢な性格でフィリップ総督のしっ責を受けて、一時総督官邸への出入りを禁じられました。

副総督(acting governor)のフランシス・グロス少佐(Major Francis Grose)のもとで、1792年に軍団の主計官になり、翌年公共工事の視察官となりました。これはマッカーサー自身の個人的な商取引の拡大に大いに役立ちました。1793/2月にグロス副総督がローズ・ヒルに100エーカー(0.40 ku)の土地をマッカーサーに無償交付しましたので、エリザベス農場と名づけて無償の囚人労働で土地を開墾しました。1794/4月にはさらに100エーカーの土地を手に入れました。こうしてマッカーサーは植民地で最も有力な農業経営者となり、1794年には政府に農産物を売るまでになり、NSW軍団のコネにより勢力を拡大し、1795/5/6に大尉に昇進しました。1795/9/11 に第2代ハンター総督が着任すると、総督はNSW軍団の専制政治の構造を改革しょうと、1796/2月にマッカーサーの公共事業検査官の職を解きましたので、マッカーサーは総督と対立して総督の本国召喚を画策し、1800/9月にハンター総督は帰国しました。続くキング総督が1800/9/28に着任して、NSW軍団の専制の改革を始めましたので対立しました。

1801/9/14にマッカーサーは上官のパターソン中佐と決闘して傷つけたので、キング総督に直ぐ逮捕されて軍法会議でイギリスに送還されることになり、1801/11月にハンター号(HMS Hunter 18-gun brig-sloop)で2人の息子を連れてシドニーを出帆しました。マッカーサーは途中でモルッカ諸島アムボイナ島(Ambon, Maluku)に寄港した時に、幸運にもイギリス皇太子(Prince of Wales)主治医ウォルター・ファーカー卿(Sir Walter Farquhar)の息子と友人となり、強力な後ろ盾を獲得しました。マッカーサーがNSWを出帆する前にキング総督がバンクス卿(Sir Joseph Banks)に送っていたNSWの「羊毛の見本」が、ナポレオン戦争(Napoleonic war、1803-1815)のために戦略物資が不足していた時だったので、高く評価されていました。1802/12月にイギリスに着きましたが、本国では事件の詳細を調査することが不可能であるという理由で、軍法会議にかけられず、NSW軍団からの除隊を認められました。そして、マッカーサーはカムデン卿(Lord Camden(2nd Earl Camden)John Jeffreys Pratt, 1st Marquess(侯爵) Camden KG, PC 1759-1840)から5,000エーカー(約2020万ku)の土地の無償交付を約束され、羊毛産業の発展のために貢献することを認められました。その時に国王のメリノ羊を獲得して捕鯨船アルゴー号(whaling ship Argo)に乗船してイギリスを出帆し、1805/6/8にメリノ羊をシドニーに持ち帰ることができました。

本国で獲得した後ろ盾を背景に、マッカーサーは植民地で最良の5,000エーカーの土地をシドニー南西のカウパスチャー(Cowpastures NSW)に獲得し無償の囚人労働も得たので、貿易も始めました。しかし、マッカーサーは、次のブライ総督とも対立しました。1808/1月にマッカーサーはニューサウスウェールズ軍団の指揮官だったジョンストン少佐を説得し、「ラム酒の反乱」のクーデターを起こしました。彼自身が植民地長官の地位について、1808/4/25に着任したフォヴォウ副総督が、1808/7/18に指揮権を掌握するまで、事実上植民地を支配しました。

1809年にフォヴォウ副総督代理のパターソン大佐は、弁明のためにマッカーサーが帰国することを許可しました。マッカーサーはイングランドに着くと、イングランドでは一般市民を反逆罪では告訴できないとの理由で起訴を免れました。ところがカースルレイ子爵(Viscount Castlereagh、Robert Stewart, 2nd Marquess of Londonderry KG, GCH, PC, PC Ire 1769-1822)がNSWでの起訴を命じたので、NSW植民地に戻ることができなくなりました。

1817年になってマッカーサーは公的な問題に干渉しないという条件で、ようやくNSWへ戻る許可を得て、1817/9月にロード・エルドン号(transport Lord Eldon)でシドニーに着きました。マッカーサーは、第5代マックワイアー総督が、彼への無償の土地交付や経済的特権の付与に消極的だとわかると、あらゆる努力を払いその本国召喚を実現しようとしました。1819年に植民地の調査に来たコミッショナーのビッグ(Commissioner John Thomas Bigge、1780-1843)がイギリス本国へ提出したビッグ報告書に大きな影響を及ぼし、本国政府の囚人労働による大牧場経営という植民地の将来構想の策定に貢献したと言われています。

1820年代前半には植民地における最も優れた羊毛の生産者として、ロンドンで認められ、NSWでさらに無償の土地交付を受けました。1820年代末頃には彼の農場カムデン・パーク(Camden Park)は6万エーカーもの規模になりました。第6代ブリスベーン総督はマッカーサー家の人々を寵愛し、1822年にはマッカーサーを治安判事(magistracy)に任命しようとしましたが、ジョン・ワイルド法務長官(Sir John Wylde 1781-1859)やバロン・フィールド判事(Barron Field 1786-1846)などの反対によって、取り消されました。1824年にはオーストラリア農業会社(Australian Agricultural Company)の設立に成功し、100万ポンドの資本金を集め、ポート・スティーヴンズ(Port Stephens)に100万エーカー(約40億5000万ku)の土地の無償交付を受けました。

1825/7月にマッカーサーは新設の立法評議会(Legislative Council )の議員になると、ピュア・メリノ牧羊業者の代弁者としての地位は揺るぎのないものになりました。しかし、総督との対立は続き、第7代ダーリング総督とは立法評議会の構成をめぐる長い争いを起こし、1829年にも再度立法評議会議員に任命(1825〜1832)されましたが、1832年に第8代ボーク総督によって狂気を理由に解任されました。マッカーサーは66才でシドニーのカムデン(Camden, Macarthur Region of Sydney, NSW)で亡くなり、カムデン・パークに埋葬されました。マッカーサーが初期NSW植民地で、大きな影響力を及ぼすことができたのは、パトロンであったカムデン卿の力でした。また、妻エリザベスと子供たちが農場の運営を行ってマッカーサーを支えました。

参考HP〜
 ・イギリスの州の区分地図

・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。#0115  10/5/25、令和 R.3/2/6 (2021)
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