切手で綴る 冒険大航海 (Adventure Voyage)
★ブライ物語 United Kingdom

国連 1983 発行

キャップテン・ブライ
1789
バウンティ号の反乱

大航海物語
  ブライ編
TONGA
ボートに追放される艦長たち

バウンティ号の反乱200年記念 小型組合せシート
トンガ 1989 発行
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序 章:生立ちの記
第1章:アイツタキ島
第2章:バウンティ号
・帆 船:レゾリューション号
第3章:反 乱
第4章:カリブ海
第5章:コペンハーゲン
・帆 船:プロヴィデンス号
第6章:オーストラリア
第7章:略 歴
・反 乱:バウンティ号
・反 乱:ラム酒暴動





序 章
AITUTAKI
キャップテン・ブライ

アイツタキ 1974/8/11 発行
PITCAIRN ISLNDS
ウィリアムズたちに捕えられるブライ艦長

1789 バウンティ号の反乱200年記念 1989
ピトケーン 1989/4/28 発行

PITCAIRN ISLANDS
パンの木の苗木と実

ピトケーン 1969/9/17 発行
タヒチ島

仏領ポリネシア 1986/8/28 発行

ブライ艦長はバウンティ号に乗船しイギリス・ポーツマス港を出帆。「パンの木」の苗木を求めてタヒチ島へと向かい、そこで「パンの木の苗木」を積み込んで出帆して反乱を起こされバウンティ号を乗っ取られました。
ウィリアム・ブライ (1754/9/9〜1817/12/7)
 Captain William Bligh
  イングランド王国青色艦隊・海軍中将
   Vice Admiral of the Blue
, Kingdom of England, 927-1707
ウィリアム・ブライは下級税官吏の子息としてイギリスのデヴォン州プリマス港(Plymouth Port, Devon County, South West England Region, England, United Kingdom)で生まれました。
1762/7/1に18才で大英帝国海軍の64門の大砲を備える戦艦モンマス号(HMS Monmouth 64gun)にボーイ(艦長給仕)として乗組んだのが海に出た最初でした。1763年には艦長専属の従卒となって、16才で戦艦ハンター号(H.M.S. Hunter 10gn)に乗り換えを命ぜられ、上等水兵(Able seaman)に成り、まもなく海軍少尉候補生(Midshipman)と成りました。1771年に戦艦クレセント号(HMS Crescent 28gn)に配属を命ぜられ3年間の乗艦勤務をしました。1775年にはレンジャー号(HMS Ranger 24gn)の航海士(Master's mate)に昇進。
Ship's Boy

ジャージイ 1985 発行
参考HP:〜
デヴォン州の場所地図
プリマスの場所地図






★ブライ物語 序 章
第1章
第2章
第3章
第4章
第5章
第6章
第7章
第1章 アイツタキ島
1776、レゾリューション号航海長
1778、アイツタキ島を発見


大航海物語
   ブライ★

Aitutaki
ブライ航海長

アイツタキ島発見200年記念
クック諸島アイツタキ 1984/9/14 発行
SOLOMON ISLANDS
ブライ航海長の乗船レゾリュゥション号

ソロモン諸島 1999 発行

1776年7月にはキャップテン・クックの第3回(1776〜1779)太平洋探検航海のレゾリュ−ション号(HMS Resolution 12gn)に乗組み、航海長(Master)を勤めました。1780年にイギリスに帰港して、クック船長の”最期の第3回航海”を詳細に報告しました。

ブライ航海長はレゾリューション号乗組み中の1778年にクック諸島の”アイツタキ島”(Aitutaki)を発見しました。アイツタキ島とは南太平洋のニュージーランド領クック諸島にある環礁の島で、アイツタキ島と周囲の21の小島からなり、アイツタキ環礁を結成。陸地に続いて発達した珊瑚を持つ火山島(最高地点でも140m)。面積は18.3Kuで現在の人口は約2,300人。島に空港もあり、中心地は島の中心部に位置するアルトゥガで、美しい浜辺と珊瑚礁の海は大勢の観光客を魅了しています。

1781/2/4にエリザベス夫人(Elizabeth Betham、税官吏の娘)と結婚しました。その数日後、フリゲート艦ベルポール号(HMS Belle Poule 36gn)に航海長(Master)として乗組みを命じられ、まもなく勃発した第4次英蘭戦争(1780-1784)の北海で起こったドガーバンクの海戦(1781/8/5)にパーカー提督の指揮下、パットン艦長(Philip Patton)のもとで従軍して英国艦隊が大勝しました。その後、海軍大尉(Lieutenant)に昇進し18ヵ月間は色んな軍艦に乗組みました。さらに1782年には、アメリカ植民地派遣軍総司令官(Commander in Chief, America 1775-1778)でバンカーヒルの戦いロングアイランドの戦いブランディワインの戦いを戦った子爵ウィリアム・ハウ将軍(Lieutenant General Sir William Howe, 5th Viscount Howe, KB, PC, 1729 -1814)の兄でキブロン湾の海戦スピットヘッドの反乱を調停した伯爵リチャード・ハウ提督の指揮下、アメリカ独立戦争(1775-1783)に従軍してジブラルタル方面で戦いました。

戦後は、エリザベス夫人の叔父で「テムズ川の囚人船の管理者であった」ダンカン・キャンベル(の姪)の所で、1783〜87年の4年間を、キャンベルのために西インド交易船々長として商船に乗組んで働きました。

参考HP:〜
ドガーバンクの場所地図
アイツタキ諸島の地図







★ブライ物語 序 章
第1章
第2章
第3章
第4章
第5章
第6章
第7章
第2章 バウンティ号
バウンティ号の艦長となる
1787
”パンの木の苗木”輸送作戦を受領


大航海物語
   ブライ★

PITCAIRN ISLNDS
懐中時計(クロノメーター)

ピトケーン 1969/9/17 発行
在りし日のバウンティ号の勇姿

ピトケーン諸島 1988/5/9 発行・小型シート

PLYNESIE FRANCAISE
パンの木の苗木と実

ピトケーン 1969/9/17 発行
タヒチ島

仏領ポリネシア 1986/8/28 発行

そして、1782年には戦艦バウンティ号(HMAV Bounty)の艦長に任命されました。彼は生涯に3度の反乱事件に遭遇しましたが、それを良く乗り切り、最終的には大英帝国海軍の提督(海軍中将)にまで昇進しました。

・ブライ艦長の遭遇した反乱事件:
1789年〜バウンティ号の反乱  〜バウンティ号艦長。
1797年〜ノアでの海軍大反乱 〜ディレクター号艦長。
1808年〜ラム酒暴動の反乱  〜オーストラリア総督。

1787年に34才で艦長としてバウンティ号に乗船し、人手無用で育つと思われていた食料の木「パンの木の苗木」を求めて、タヒチ島へと、1787/12/23にイギリスのポーツマス港を出帆しました。タヒチから「パンの木の苗木」を、西インド諸島に運び、そこのプランテーションで働く奴隷達の食料とするために植林することを使命として、専門の植木職人も乗り組んでいました。出港から10ヵ月以上の航海の後、1788/10/26にタヒチ島に到着しました。タヒチ島で「パンの木の苗木」が移動可能となるまで5ヵ月間滞在し、1789/4/4に出帆しました。






★ブライ物語 序 章
第1章
第2章
第3章
第4章
第5章
第6章
第7章
第3章 反 乱
バウンティ号を乗っ取られる
1789/4/28
バウンティ号の反乱で、ボートに追放される


大航海物語
   ブライ★

PITCAIRN ISLNDS
クリスチャン副長に船外退去を告げられるブライ艦長

1789 バウンティ号の反乱200年記念 1989
ピトケーン 1989/4/28 発行
ウィリアムズたちに捕えられるブライ艦長

1789 バウンティ号の反乱200年記念 1989
ピトケーン 1989/4/28 発行

FUIJI
ブライ艦長が救命ボートで航海

フィジー 1970/8/18 発行
TONGA
1789 バウンティ号の反乱200年記念 1989

トンガ 1998 発行・小型組合せシート

1789年4月28日に反乱を起こされて、バウンティ号を乗っ取られました。
そして、18人の忠実な部下と共にボート(救命艇、ランチ)に追放されました。
ボートで漂流するブライ艦長たち

マン島 1989/8/28 発行
フィジー水道を抜けるブライ艦長のボート

バウンティ号の反乱200年記念
英領フィジー 1989/4/28 発行
Bounty's longboat being chased
in Fiji waters

ブライ艦長一行が乗せられたバウンティ号のボートがフィージー水道を通過
タヒチ島を出帆後に乗組員の反乱が起こり、ブライ艦長と忠実な18人の部下は小さなボート(救命艇”23フィート”(7m)のランチ)に押し込められて追放されました。ブライ艦長の指揮するボートは41日かけて、海図ナシで、六分儀と懐中時計(クロノメーター)だけで、トンガ島のトフォア島(Tofua)に到達後、武器無しで現地人と争い乗組員が1人死亡しました。さらにフィジー諸島からニューギニアオーストラリアの間の難所トレス海峡を西へ通り抜けオランダ領チモール島にたどり着きました。 六分儀

ソロモン 1979 発行
チモール島

ポルトガル領チモール 1956 発行
懐中時計(クロノメーター)

ピトケーン 1969/9/17 発行
なお、チモール島に着く前のトレス海峡を漂流通過中に、ニューギニア島とオーストラリアとの間にあるアラフラ海のヨーク岬半島沖、トレス海峡の南部にあるオーストラリア領の小島「木曜島(Thursday Island)」を、近くの水曜島、金曜島とともに発見して命名しました。

1790年3月15日にブライ艦長以下全15名が英国に生還(途中2名病死)できました。ブライ達はイギリスに戻って反乱を報告したので、1790年11月にパンドラ号エドワード・エドワーズ艦長)がバウンティ号の追跡・捜索のためにイギリスを出帆しました。

ブライ艦長も軍法会議にかけられましたが、無罪となり大英帝国海軍の軍務に復帰しました。彼の経歴は傷つかず、すぐに別の軍艦の艦長に任命されました。1791/4/16には”プロビデンス号”(HMS Providence)の艦長に任命され、1795年まで乗艦しました。(下表参照
バウンティ号の反乱が成功した要因は、上級士官の数が少なかったことと海兵隊を乗船させていなかったことが挙げられ、彼はその後の航海では上級士官数を増やし海兵隊を乗船させました。1802年3月フランスアミアンへ行き、1804年5月までの約2年間の平和なひと時を過ごしました。

参考HP:〜
トレス海峡の地図
アラフラ海の地図






★ブライ物語 序 章
第1章
第2章
第3章
第4章
第5章
第6章
第7章
第4章 カリブ海
パンの木の苗木輸送に成功
1791
カリブ海(西インド諸島・ケイマン島)に到着

大航海物語
   ブライ★

St.Helena Pitcairn Islands
パンの木の苗木を運んだプロヴィデンス号

セントヘレナ 1998/8/25 発行
パンの木の苗木と実

ピトケーン 1969/9/17 発行

CAYMAN ISLANDS
ブライ艦長 プロビデンス号 パンの苗 木の荷降し フリンダース
”BLIGH'S SECOND BREADFRUIT VOYAGE”
ケイマン島 ブライ艦長200年記念 1989 発行

PITCAIRN ISLNDS
ブライ艦長

ピトケーン 1978 発行
AUSTRALIA
フリンダース

オーストラリア  発行

1791年にブライ艦長はプロビデンス号の艦長として、第2回目のタヒチ島航海をなし遂げ、カリブ海・西インド諸島のケイマン諸島へ 「パンの木の苗木」を運ぶことに成功しました。この時に マシュー・フリンダース が乗組んでいました。その航海記「南海への旅」はロンドンで出版され好評をはくしました。

1795年から、ブライ艦長はフランス革命戦争(1792-1802)に戦列艦の艦長として従軍しました。1796年からはディレクター号(HMS Director)の艦長として勤務していましたが、1797年にロンドン近郷のノア泊地に停泊中に、”ノア”の海軍反乱に遭遇、巻き込まれました。







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第1章
第2章
第3章
第4章
第5章
第6章
第7章
第5章 コペンハーゲン
コペンハーゲンの海戦
1801
ノールウェイ・デンマーク連合艦隊との海戦を闘う


大航海物語
   ブライ★

AITUTAKI
ブライ総督

クック諸島アイツタキ 1978 発行
Isle of Man
コペンハーゲンの海戦

マン島 2005 発行

ユトランド半島 DANMARK
デンマークの地図

デンマーク 1995/5/16 発行







ラン島



コペンハーゲン

1797年にダンカン提督(Admiral Adam Duncan)指揮下の英国艦隊とオランダ艦隊(Admiral Jan Willem de Winter)とが北海で戦った海戦キャンパーダウンの海戦(Battle of Camperdown)が勃発しました。1797/10/11にブライ艦長はディレクター号(HMS Director)の艦長として、オランダ軍艦3隻を向こうにまわして戦い、敵艦3隻に致命的ダメージを与えましたが自艦は7人の負傷者を出しただけという大戦果で勝利。

1801/4/2勃発したデンマークのコペンハーゲンの海戦(1801/4/2)をネルソン提督の指揮のもとに戦いました。この海戦は、イギリス艦隊の総司令官パーカー提督(Admiral Sir Hyde Parker, 1739-1807)とノールウェイ・デンマーク連合艦隊が浅瀬の多いコペンハーゲン湾で激突した海戦でした。激戦の中で、ネルソン副司令官は、パーカー総司令官の「停戦命令」を無視して戦闘を続行し、猛砲撃で敵デンマーク連合艦隊を殲滅して、イギリスの大勝利となりました。ブライ艦長はネルソン提督を支持して戦列戦艦ガラトン号(HMS Glatton)艦長として、大いに活躍して戦果を上げ、ネルソン提督の高い評価を受けました。

バウンティ号の反乱を生き延び、フランス革命戦争に従軍した後に、ほとんど教育を受けてはいませんでしたが学識は広く、またタヒチ島への航海により、サー・ジョゼフ・バンクス(クック船長の第一回”エンデバー号”航海の後援者)の知己を得て、1801年ロイアル・ソサエティのメンバーに選ばれました。

参考HP:〜
コペンハーゲンの場所地図







★ブライ物語 序 章
第1章
第2章
第3章
第4章
第5章
第6章
第7章
第6章 オーストラリア
ニューサウスウエールス総督
1808
オーストラリアで反乱に遭遇(ラム酒反乱)


大航海物語
   ブライ★

POLINESIE FRENCAISE
ブライ艦長と航海地図

仏領ポリネシア 1984/9/14 発行 (200#)



←パンの木
←パンの木の実


←タヒチ島


1805年3月、バンクス卿の推薦により年2000ポンドの給料(前任者の2倍)で、オーストラリアのニューサウスウェールズの総督(1806-1808、第四代)に任命されました。長女のメアリと娘婿のパットランド中尉とともにイギリスを出発しました。1806/8/6オーストラリアのシドニーに到着すると、すぐに総督には就任せず、キング前総督(Philip Gidley King 1758-1808)から土地の無償交付を受けました。また、翌年1月にキング総督夫人に土地の無償交付を行いました。これ自体は必ずしも違法ではありませんでしたが、ブライ総督は他の入植者への土地の交付には法律を極めて厳しく運用して、植民地有力者たちの反感をかいました。他方、彼は非合法な醸造の禁止、蒸留酒の決済手段としての使用の禁止などを命じ、ラム酒の交易などで利益をえていた、ニューサウスウェールズ軍団の将校や植民地の特権階級と対立しました。

1808年頃のオーストラリアの新植民地はニューサウスウェールズ軍団によって軍政がつかさどられていました。しかし、軍政は腐敗していて、植民地将校の営利行為が公然と行われていました。ブライが総督になると植民地の綱紀建て直しのため、不法な取引の中でも、従来から将校が独占していた「ラム酒の不法取引」の一掃に断固たる態度で臨みました。ブライ総督の怒りやすく、妥協を知らない、高圧的な綱紀粛正策は、一部高級将校も含む植民地社会の支配者達の反感をかいました。1808年1月オーストラリア牧羊業の創始者であり、自由移民の代弁者で指導者の一人ジョン・マカーサー(John Macarthur)を逮捕しました。ところが、先任将校のジョージ・ジョンストン少佐(Major George Johnston)は彼を釈放し、逆にブライ総督を捕えました。これが「ラム暴動」(Rum Rebellion)といわれている反乱事件の発端です。

ラム酒暴動の反乱は、1808/1/26、ジョン・マッカーサーに指導されたニューサウスウェールズ軍団(New South Wales Corps、The Rum Corps)の将校たちは、ジョージ・ジョンストン少佐を指揮官とし、ブライを投獄、幽閉し、権力を掌握しました。これがラム酒の反乱と呼ばれる事件です。1809年2月ロンドンに直接向かうという条件でブライ総督は解放されましたが、それを無視し、タスマニア島のホバート(Hobart)に立ち寄り、コリンズ副総督の支援を求めました。しかし、ここでもコリンズと紛争を起こし孤立しました。1810/1/17、後任の総督マクウォリーの到着の報に接しシドニーに戻り、約6ヵ月滞在すると、マクウォリーもブライ総督に批判的になりました。1809/5/12ブライ総督はシドニーをロンドンに向け出港しました。なお、ジョンストンは軍法会議にかけられ、全ての軍務からの免職となりました。

1810年10月25日、ブライはイギリスに帰国。反乱に対する責任は問われませんでした。その後、ブライ艦長は1811年には海軍少将となり、一時ランベスに住みましたが、妻が亡くなり、年金の受給が決まった後に、ケント州のファーニンガムに引退しました。さらに1814年には大英帝国青色艦隊・海軍中将に昇進して、その波乱に富んだ海軍生活を、60才で引退しました。前述のバウンテイ号の反乱ノアの海軍大反乱、「ラム暴動」反乱にあいましたが、その都度地位を剥奪されながらも復活を果たして提督になったわけです。その彼自身も、1817年12月7日にガンで亡くなりました。享年63才でした。その遺体は、ランベスのセント・メアリーズに葬られました。ニューサウスウェールズの所有地は彼の娘たち、後に義理の息子モーリス・オコンネルが継承しました。

参考HP〜囚われるブライ総督。  2007/4/30






★ブライ物語 序 章
第1章
第2章
第3章
第4章
第5章
第6章
第7章
第7章 略 歴
海軍々歴表、乗船名(砲数)

大航海物語
   ブライ★

AITUTAKI
キャップテン・ブライ

アイツタキ 1974/8/11 発行
PITCAIRN ISLNDS
バウンティ号

英領ピトケーン諸島 1988/5/9 発行

Date Rating     Ship 階級 船名
1762/07/01 Ship's Boy HMS Monmouth (64) 8 ボーイ モンマス号
1763/02/21 Captain's Servant HMS Monmouth (64) 9 艦長従卒 モンマス号
1770/07/27 Able Seaman HMS Hunter (10) 16 上等水兵 ハンター号
1771/02/05 Midshipman HMS Hunter 17 少尉候補生 ハンター号
1771/09/22 Midshipman HMS Crescent (28) 17 少尉候補生 クレセント号
1774/09/02 Able Seaman HMS Ranger (24) 20 上等水兵 レンジャー号
1775/09/30 Master's Mate HMS Ranger 21 航海士 レンジャー号
1776/03/20 Master HM Sloop Resolution (12) 22 航海長 レゾリューション号
1781/02/14 Master HMS Belle Poule (36) 27 航海長 ベルポール号
1781/10/05 Lieutenant HMS Berwick (74) 27 海軍大尉 バーウィック号
1782/01/01 Lieutenant HMS Princess Amelia (80) 28 海軍大尉 プリンスアメリア号
1782/03/20 Lieutenant HMS Cambridge (80) 28 海軍大尉 キャンブリッジ号
1783/01/14 Joins Merchant Service 29 民間の商船乗組み
1785 Commanding Lieutenant Merchant Vessel Lynx 31 船長 商船・リンクス号
1786 Lieutenant Merchant Vessel Britannia 32 船長 商船・ブリタニア号
1787 Returns to Royal Navy 33 海軍へ復帰
1787/08/16 Lieutenant HMAV Bounty (14) 33 海軍大尉 バウンティ号
1790/11/14 Commander HMS Falcon (14) 34 司令官 ファルコン号
1790/12/15 Commander HMS Medea (28) 34 司令官 メディア号
1791/04/16 Commander HMS Providence 35 司令官 プロヴィデンス号
1795/04/16 Commander HMS Calcutta (24) 39 司令官 カルカッタ号
1796/01/07 Captain HMS Director (64) 42 艦長 ディレクター号
1801/03/18 Captain HMS Glatton (56) 47 艦長 ギャラトン号
1801/04/12 Captain HMS Monarch (74) 47 艦長 モナーチ号
1801/05/08 Captain HMS Irresistible (74) 47 艦長 イレシスチブル号
Peace of Amiens (March 1802?May 1804) 48 仏のアミアンへ
1804/05/02 Captain HMS Warrior (74) 50 艦長 ウォリアー号
1805/05/14 Appointed Governor of New South Wales 51 総督としてNSWへ
1805/09/27 Captain HMS Porpoise (12), voyage out to NSW 51 艦長 パーパス号
Governor of NSW、 13 August 1806-26 January 1808 52 NSWの総督
1808/07/31 Commodore HMS Porpoise (12), Tasmania 54 司令官 パーパス号
1810/04/03 Commodore HMS Hindostan (50), returning to England. 56 司令官 ヒンドスタン号
1811/07/31 Appointed Rear Admiral of the Blue (backdated to 31 July 1810) 57 青色艦隊・海軍少将
1814/06/04 Appointed Vice Admiral of the Blue 60 青色艦隊・海軍中将

オーストラリアでの反乱事件はラム酒反乱つづく

こちらで
フリンダース艦長
コロンブススペイン
マゼラン (スペイン)
バスコ・ダ・ガマポルトガル
カルティエフランス
バレンツオランダ
ベーリングロシア)
クック船長イギリス
世界遺産
ピラミッドエジプト
パルテノン神殿ギリシャ
姫路城 (日本
をお楽しみください。

・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。#0110 10/3/30、令和 R.3/2/2 (2021)
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