★アメリカ ポーハタン大酋長
1607
ポカホンタスの父
大航海物語★

UNITED STATES POSTAGE
羽飾りをつけたインディアンの酋長

American Indian Chief
アメリカ 1922-25(大正11-14年)発行・通常切手(200%)
MARSHALL ISLANS
ポーハタン大酋長

American Indian Chief Powhatan
マーシャル 1999/2/1 発行

GUYANA
村人と話し合う
ポーハタン大酋長
ポーハタン大酋長が娘のポカホンタスに
ココウムとの結婚を勧める

ディンギー(dinghy)で行くジョン・スミス船長を見送るポーハタン大酋長とホカホンタス




スミス船長





ポ|
ハタン大酋長

ホカホンタス

ジョン・スミス船長をかくまうポカホンタス

ホカホンタス







スミス船長



ミ|コ
(アライグマのMeekoが挨拶)
祖母の精霊に自分の行く道を教わるポカホンタス
ポカホンタス






祖母の霊
ディズニー・アニメ(映画)の一場面
(アライグマのMeekoが挨拶)

ガイアナ 1995/6/23 発行

ポーハタン大酋長の父はポカホンタスの祖父で、スペイン人の新大陸フロリダ入植で定住地を奪われ、ヴァージニアへ移動してきていました。その後を継いで、30部族を支配して大酋長になりました。
ポーハタン大酋長 (1550頃〜1618)
  Master Chief Powhatan

ポーハタンの父はスペイン人によってフロリダを追われてきた酋長と伝えられています。ヴァージニアに定着した父酋長はその地の5部族を制圧して統合、自ら統率していました。ポーハタンはこれを継承し、さらに他の部族を征服してゆきました。ジェームス・タウンが建設される頃には30もの部族を支配し8000人を擁する大酋長となっていました。彼はジェームス・タウンから15マイル(1.609x15=24.135km)のヨーク川北岸ウィローコモコ村を拠点とし住居はジェームス川急流地帯(現在のリッチモンド付近)に有って、その周辺がポーハタンとして知られていたのでイギリス人が彼をポーハタンと呼んだのでした。彼には数人の妻と20人の息子と10人の娘がいました。その娘の一人がポカホンタスでした。

1607年イギリス人がジェームス・タウンを建設して、食糧難から彼のもとにトオモロコシを求めてやってきましたが、彼はイギリス人を信用せず売らなかったと伝えられています。1608年には部下のインディアンがジョン・スミス船長を捕えてきたので、たたき殺すところを娘のポカホンタスが助けました。1609年にはヴァージニア会社の命令で、クリストファー・ニューポート大尉がイギリスから取り寄せた金メッキの王冠をポーハタンに贈って”インディアン皇帝”とあがめましたが、彼は王冠を頭にのせるために身をかがめることはなかなか聞き入れなかったとも伝えられています。1610年ジョン・スミス船長が彼を捉えようとして失敗したことからインディアンが攻撃を開始しました。1613年サムエル・アルゴール艦長がポカホンタスを捕えてポーハタンの勢力を制圧してから、不気味な休戦状態に成りました。

イギリス人と原住民のインディアンとでは文明や宗教(多神教)の違いはもとより、特に土地についての考え方が相違していました。インディアンは狩猟民族もいましたが農耕の民もいて、一説によれば南北両大陸に1500万人以上も住んでいたとされています。土地はトオモロコシなどの農作物や狩の対象のバッファローなどの獣を生み出す神聖な「母なる大地」と考えており、女性が祭祀を司っていました。土地は個人の所有物ではなく万民の物であり、一時的に神様から借りていると考え、狩猟部族は移動しながら土地の借地権を当然のこととしていました.だから土地を個人で所有したり、イギリス人のように売買の対象とするなどはもってのほかの事でした。

1614年にポカホンタスとイギリス人ジョン・ロルフが結婚してから、ポーハタンが68才で1618年4月に亡くなるまで平和が続きました。その後、彼の次弟イトパティンが後を継ぎましたが、2〜3年後から、再びインディアンとイギリス人の戦闘が始まりました。イトパティンはイギリス人を信用する事が出来ず1622年インディアン大連合軍がジェームス・タウンを襲撃して、人口の1/4を殺害しました.イギリスは本国より入植者を続々と補充して、1640年には人口は8100人になりました。1644年に入植者軍はインディアンに大反撃を加えて、イトパティン軍を制圧しました。

・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。     12/4/13追記、12/5/15、12/6/8
スタンプ・メイツ
Copyright(C):Spice
無断転載禁止