切手で綴る 太平洋戦争 物語
第3部 <米国の反抗>
第10章 反攻前夜
51 <ドーリットルの東京空襲>
1942/4/18
ドーリットル攻撃隊

爆撃機隊の指揮官
ジミ−・ドーリットル中佐
(Lieutenant Colonel James "Jimmy" Harold Doolittle, 1896-1993)


空母ホーネット号から発艦する
アメリカ陸軍B-25ミッチェル爆撃機

ミクロネシア 1996 発行
太平洋上の航空母艦ホーネット号から発艦した
アメリカ陸軍B-25ミッチェル爆撃機
Doolittle Raid on Tokyo 1942
この切手は小型シートの図柄
B25s take off to raid Tokyo, April 18, 1942

パラオ 1993 発行
サンフランシスコ港を出港

San Francisco-Okland Bay Bridge
USA 1947 発行
空母ホーネット号から発艦

マーシャル諸島 1992 発行
海面すれすれで発艦、一路・東京へ

USA 1992/8/17 発行

昭和17年4月1日大きなB-25陸軍爆撃機16機を飛行甲板一杯に積んだアメリカ航空母艦ホーネット号が東京空襲のため、サンフランシスコ港を出港しました。爆撃機隊の指揮官はジミ−・ドーリットル中佐。当時、苦戦中のアメリカ国民の士気を鼓舞しようとの計画でした。帝国の哨戒線外から爆撃機を発進させて、東京を空襲し、中国の麗水飛行場へ着陸しようとの企図でした.ハルぜー提督指揮下のエンタープライズ号(2万t)の援護のもと、東京から東へ1,150キロ付近にて、帝国の哨戒艇「第23日東丸、乗組員6人90屯」に発見され、「敵航空母艦2隻見ゆ、地点犬吠崎東600浬」と緊急電信を打たれましたので撃沈しました。予定より200浬(東京から700浬)以上もありましたが、ホーネット号は直ちに爆撃機隊16機を発艦させました。ドーリットル隊は東京、横浜、川崎、横須賀、名古屋、大阪、神戸などを爆撃し、帝国本土、初空襲を成功させました。

本土初空襲:
真珠湾奇襲から帝国海軍は太平洋全域で快進撃を続け、米軍は後退を余儀なくされていました。ルーズベルト大統領は、沈滞しがちであった米国民の士気を高揚させる反撃作戦として帝国本土空襲の構想を示しました。検討の結果、航続距離の長い陸軍の双発爆撃機を空母から発艦させ、帰投せずそのまま支那大陸に片道飛行させ、蒋介石軍の航空基地に着陸させるという大胆な計画を立案。この計画実行には、B25を通常の滑走距離の1/3で離陸させねばならず日本本土の防空体制も未確認であり非常に危険を伴うものでした。指揮官は米航空界での第一人者・ジェームス・H・ドゥーリットル陸軍中佐が任命され、1ヵ月の猛訓練の後、サンフランシスコ港を出港、一路帝国に向かいました。しかし開戦前から米機動部隊による本土空襲を予想していた帝国海軍は徴用した漁船を中心に本土東方に哨戒線を張っており、また内地にある基地航空部隊も木更津と南鳥島から哨戒を行っていました。

4月18日12:15、B-25が来襲しました。帝国軍の裏をかいて海面スレスレの低空飛行で本土に侵入したのです。ドゥーリットル中佐の一番機は、12:30頃東京上空に達し高度を400Mまで上昇させ東京初空襲の第1弾を投下。全16機のうち13機が東京・川崎・横浜・横須賀、1機が名古屋、1機が四日市、1機が神戸を爆撃、荒川区尾久町、川崎の日本鋼管、昭和電工のガスタンクなどが被害。陸海軍の防空戦闘機や高射砲部隊も低空での侵入のため不意をつかれて、確たる反撃はできぬまま本土を横断して西方に飛び去り中支方面に向かいました。

監視艇2隻沈没、数隻に被害を受け、戦死33人 戦傷23人。空襲の犠牲は、死者45人、重症153人、家屋全焼160戸、全壊21戸、少数機の空襲にしては被害は小さくありませんでした。しかしそれ以上に大きいものは、国民に与えた心理的影響で、その後しばらくは敵機来襲の誤報が続き、一般国民から軍への非難の声があがりました。なお16機のB-25は、1機がウラジオストックへ、残る15機は大陸まで飛行、8人が帝国軍の捕虜。捕虜のうち3人は帝国軍によって処刑されました。これは空襲の死者のなかに新宿区山吹小学校の生徒がおり、無差別空襲に対する報復措置であったといわれています。注:機数が合わず調査中(何故の捕虜?)。

・アメリカの艦隊編成:〜
第18任務部隊
(Task Force 18)
マーク・ミッチャー艦長
(Admiral Marc Mitscher 1887-1947)
・空 母 ホーネット(USS Hornet CV-8)
・重巡洋艦 ヴィンセンス
・軽巡洋艦 ナッシュビル
・第52駆逐隊
  ・駆逐艦 グイン、グレイソン、メレデス、モンセン
  ・給油艦 シマロン
第16任務部隊
(Task Force 16)
司令長官ウィリアム・F・ハルゼー中将
(Fleet Admiral William Frederick Halsey Jr.1882-1959)
・空 母 エンタープライズ(USS Enterprise, CV-6)
重巡洋艦 ソルトレイクシティ、ノーザンプトン
・駆逐艦 ヴァルチ、ベンハム、ファニング、エレット
・給油艦 サビン

航空母艦ホーネット号の装備:〜就役:1941/10/20
  (USS Hornet, CV-8、アメリカ海軍の航空母艦)
2万屯級空母 1943年 米:空母ホーネット号

マーシャル諸島 1991 発行
建造所 ニューポート・ニューズ造船所
全 長 247m
全 幅 32.7m
吃 水 7.79m
排水量 19,800t
最大速力 最大速33kt
搭載機 艦載機90機、エレベーター3
乗 員 1,889人
武 装 5インチ砲8基、1.1インチ機銃16基
※1942/10/26ソロモン海域で行われた日米両軍の機動部隊による南太平洋海戦(米呼称はサンタ・クルーズ諸島海戦)にて帝国の航空攻撃隊に撃沈される。

ノースアメリカン B-25 ミッチェル爆撃機の装備:〜初飛行:1940/8/19
  (アメリカ陸軍の双発中型爆撃機)、運用開始:1941年
略 称 B-25 ミッチェル 米:B25ミッチェル爆撃機

USA 1992/8/17 発行
機体略号 B-25J
全 長 16.1 m
全 幅 20.6 m
全 高 4.8 m
最大離陸重量 19,000 kg
最大速度 442km/h
実用上昇限度 7,600m
航続距離 4,300km
乗 員 6人
製造者 ノースアメリカン社
生産数 9,816機
武 装 12.7mm 機銃 x12門
※1942/4/18ドーリットルの東京空襲に使用。


太平洋上の航空母艦ホーネット号から発艦する
アメリカ陸軍B-25ミッチェル爆撃機
Doolittle Raid on Tokyo 1942
この切手は小型シートの図柄
B25s take off to raid Tokyo, April 18, 1942

セントビンセント・グレナディーン諸島 1995 発行


こちらで
ミドウェイ海戦(2)
ルーズベルト
ミドウェイ海戦(1)
をお楽しみください。

参考HP〜
ドーリットル東京空襲の空路地図(KobeとNagoyaの表示ミス有)
日本の領海地図(排他的経済水域、東京から東へ約700浬から発進)

・上記は こちら の文献などを参照させてもらいました。    15/9/29
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