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2011/3/11(金)PM2:46頃にM9.0を記録する「東日本大震災」の発生により、亡くなられた方々のご冥福をお祈り申し上げますとともに、被災された皆様、そのご家族の方々に対しまして、心よりお見舞い申し上げます。一日も早い復旧と復興をお祈り申し上げます。
V 阪神大震災
”1995.1.17.震災モニュメント”

”慰霊と復興のモニュメント”入口・エントランス
 
阪神大震災
1995/1/17
国道2号線上の高速道路が倒壊



神戸市街地
大阪湾の地図





神戸の犠牲者5000人超
Millenium Highlights of the 1990s
ネヴィス 2000/1/4 発行

慰霊と復興のモニュメント碑
”慰霊の灯火”

”慰霊と復興のモニュメント”地下の犠牲者追悼プレート室
JR三ノ宮駅南、神戸市役所タワー直ぐ南に有る「東遊園地」慰霊碑地下の内部
”慰霊と復興のモニュメント”内部の慰霊碑
2009(H7)/1/17、阪神大震災14周年慰霊の日
◆1995平成7年「1.17.あの日あの時!」〜震度7「烈震」の恐怖
▼長田区水木通8丁目
 あれは、そう、もう起きる時間かなと寝床の中で、うつらうつらしていた早朝のことだった。午前5時45分頃だったろうか、突然、身体が宙に持ち上がったかのような衝撃が走ったのだ。次に「横々」と激しい揺れが襲った。家具がガタガタと鳴っていた。「地震だ」と思った瞬間、静かになった。余震が来るぞ〜う、と思い、蒲団を頭から被った。

一呼吸おいて、またもや、「縦々」、そして次に「横々」と猛烈に揺れた。家具が倒れ込んできた。あわや、50インチ大型テレビが腹の横、3センチの所に落ちてきた。スチール机は仰向けに引っくり返っていた。ダイニングキッチンの洗濯機、冷蔵庫は横倒しになり、水浸しの床上には、電子レンジ、オブンがキッチン台から落ちていた。天井の戸袋とクローゼットの中身は床上に散乱し、瀬戸物の食器とガラスの破片とで足の踏み場もない惨状となった。本箱が倒れて書籍が畳の上一杯に散乱していた。4階建てマンションの3階での惨状はこんなものだった。窓から外を見ると薄暗くて何も見えなかったと思ったが、後で解ったんだが、それもその筈、周りの家が倒壊して、ずっと向こうまで障害物が無くなっていたのだ。外へ出ようとドアを開けようとしたが、開かなかった。おもいクソ体当たりして、ようやくドアが開いた。

▼兵庫区大開通8丁目〜木造家屋が全壊
 ビルの外へ一歩、踏み出してみて、驚愕が走った。向かいの家が無いのだ。ペッチャンコになって潰れていた。静寂の中に、微かに「助けて〜ぇ!」との声が聞こえたような気がした。瓦屋根の隙間から、「お〜い、大丈夫〜ぅ!」と声をかけてみると、「助けて〜ぇ!」との声が聞こえた。屋根の材木に手をかけて、持ち上げようとしたが、重すぎて動かなかった。そこへ、ちょうど通りかかった人がいたんで、「手を貸して〜ぇ!」と怒鳴って、大の男2人掛りで持ち上げると、やっとのことで少し隙間が空いたんで、「動けるんなら、出ておいで〜ぇ!」と怒鳴ってみた。すると、ホコリで真白になった顔の人達が這い出してきた。

▼中道通7丁目の惨状
 何分たったんだろう、フト、我に返り、そうだ木造の我が家はどうなっているんだろう? と、見とどけに行こうと、あたりを見ると、今出てきたマンションの両隣の2階建て木造家屋が潰れて南側の道路上に倒れこんでいた。だから、出口の無い小さな空きスペースに立っている自分が解った。これじゃ何処にも行けない。どうしょう! マンションに隣の家が倒れこんで持たれているような所で、少しの隙間を発見。そこに這いこんで、別の道路へ出てみた。すると電柱が45度傾いていて、変圧器のトランスが”ショウト”して「パチ、パチ!」と火を吹いていた。その下をくぐり抜けて、大通りに出てみた。すると7階建て大型マンションが南側の道路へ10度くらい傾いているのが見えた。このビルは”L”字型なので、北側のビルとの「継ぎ目」が離れて鉄筋が剥き出しになっているんが見えていた。

さらに、その先の道路には、やはり北側に有った木造家屋が倒れこんできて道路を塞いでいた。道路の南側の2階建てスーパーは倒れていなかったんで、歩道の障害物を取り除くと、かろうじて何んとか通れた。我が家の2階が、その道路の直ぐ北側に有ったのだ。道路沿いの家は道路上に潰れていた。全ての家屋が南側の家が有った所へ押され、潰れた状態になっていたのだ。すると、またもや静寂の中に、微かに「助けて〜ぇ!」との声が聞こえたような気がした。呼んでみたが返事がなかった。道路上の家の屋根瓦を取り除いて、中を見ようと掘ってみた。すると、通りがかった人が大勢加わってきた。すると、ホコリで真白になったお隣のお年寄りが出てきた。

私は見た!「大勢の善意の人々が、倒壊家屋に閉じ込められている人々を助け出す光景を!」 いざという時は「ご近所」さんが大事! なにせ、道路が塞がって通れないのだから! 助けを待ってはいられない。「生存者を早く、見つけ出さないと」の思いは、ご近所さん全てが同じだったのだ。

向こうの2階の窓から屋根伝いに我が家族が歩いてきた。「お隣さんは何処?」というので、探したが見つからなかった。「隣の家は何処や?」、「確かこの辺やったよ。」 と言うんで屋根の下を片っ端から探してみたのだ。


▼高速鉄道・地下「大開駅」上の道路が陥没

チリ地震







阪神大震災11周年記念;”1.17ながた”
鎮魂の火文字;”1.17ながた”
”1.17NAGATA”ゴスペル・コンサート

・阪神大震災11周年記念;”1.17NAGATA ゴスペル・コンサート”

2006/1/17は如何お過ごしでしたか?
私は1/17夜、長田区役所主催の”阪神大震災11周年記念・鎮魂の”ながた・1.17ゴスペル・コンサート”に招待してもらったんで行ってきました。2時間の予定がだいぶ延長となって、帰ったら夜中になっていました。会場のある”新長田”からは交通が不便で、歩いて帰りましたんでね。我が家からは、ちょうど海へ向かって一直線になりますので、帰りはまるで登山です。神戸は南北の交通が不便でね。 出演最後のグループの一人が2度目のお目出度になったんで、退団するとて花束の贈呈とかのことがありました。彼女の上の子供も花束を持ってきたりして、かなりファミリー的なほほえましい雰囲気があったりしました。観客は身内が多かったんでしょう。最後のアンコールではこの身重の女性のソロとバック・コーラスが一体となって、”アメージング・グレース”のゴスペル版を歌いました。これが最後の舞台になるとの感情をこめた歌声でして、それで幕となり、なかなかの感動ものでした。

沢山の人がカメラを向けていましたんで、私もデジカメを取り出して写真を撮影しました。ゴスペルは、とっても激しく動いているので、なかなか良い状態の写真が撮れていませんでしたが、最後のアンコールのは無事だったんです。もう一枚は、JR新長田駅前でのキャンドル・サービス(?)の写真です。

この広場でも、中学生の合唱や、知的障害者の和太鼓の演奏とかのイヴェントが行われていました。その場所はかなりの風が吹いて、とっても寒かったんです。駅前の復興ビル3Fの演奏会場”ピフレホール”から、キャンドルの火文字が良く見えていたんで、うまいこと撮影できましたんですよ。  2006/2/15






(III-2)06/02/14撮影 最後(?)の震災マンション
震災ビルのある所

←湊川





←ここ




湊川公園↓


復興工事中の東山市場付近のビル
今朝(2/14)は兵庫の熊野橋の近くへ行ってきました。そこには阪神大震災で傷んで放置してあったビルがあるんですが、取り壊しか修繕かの話し合いがつかずに裁判となっていたそうです。それが、ようやくのことで話し合いがついたんでしょう、修繕の工事が始まっていました。実に震災後11年です。記録のために写真を撮影しました。 平成18年の写真(2006/2/14撮影)






(III-3)2018/9/10撮影 新装なった最後(?)の震災マンション
平成30年の写真(2018/9/10撮影)、早くも23年!(@_@!
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