(12)コロンブスのそのごの記の(三) ころんぶすのそのごのきの3 C・MENU もどる

←コロンブスの
全4回の探検航海地図



グレナダ 1992 発行
コロンブス新大陸発見500年記念

コロンブスは、アジアの「黄金の国(おうごんのくに)」や「香料(こうりょう)」をさがしに、
ぜんぶで4回の探検航海に、スペインから出帆しました。
 パロス港出帆 インディアス到着 インディアス出帆 スペイン 帰港
第1回 1492/8/03 1492/10/12 1493/01/14 1493/03/15 パロス港
第2回 1493/9/25 1493/11/03 1496/03/10 1496/06/11 カディス港
第3回 1498/5/31 1498/08/31 1493/10/01 1500/10/25 パラメダ港出帆〜カディス港帰港
第4回 1502/5/09 1502/06/29 1493/09/12 1504/11/07 カディス港

・コロンブスの第4回めの探検航海
←コロンブスの第4回めの航海地図

1502/05/09に4隻で140人がカディス港を出帆、
1502/06/29にイスパニョーラ島サント・ドミンゴ沖に到着、
1504/09/12にイスパニョーラ島サント・ドミンゴ市を出帆
1504/11/07にカディス港に帰港。

ジャマイカ 1992 発行

←第4回めの探検航海(たんけんこうかい)で、
 金を調べているコロンブス


ギニア 1992 コロンブス新大陸発見500年記念発行

←パナマ地峡地帯を探検航海しましたが、
 そこが新大陸であることはわかりませんでした。


パナマ  1992 発行

コロンブスが第4回目の航海に出帆する前に、8船隊がスペインから南アメリカのパリア湾方面(ばりあわんほうめん)の探検航海に出帆しました。これらの船隊は真珠を探しにいったとつたえられています。その船隊の一つが、1499年5月アロンソ・デ・オヘーダフアン・デ・ラ・コーサビセンテ・ピンゾンアメリゴ・ヴェスプッチが乗り込んだ航海が行われてパリア湾から、1500年6月にスペインに帰っていました。

1501年9月スペイン国王は正式なイスパニョーラ島の総督(そうとく)にニコラス・デ・オバンドを任命(にんめい)しました。1502年2月オバンドは30隻の船隊に2,500人を乗せてイスパニョーラ島へと出帆しました。3ヵ月後の1502/5/9にコロンブスは4隻の船で140人が乗船してカディスを出帆しました。弟のバルトロメと息子フェルナンドも乗船していました。コロンブスはかえりいがいはイスパニョーラ島へ行くことを禁止(きんし)されていました。6/29にコロンブスの船隊はイスパニョーラ島のサント・ドミンゴ沖(おき)につきました。こわれた船をしゅうりするために部下(ぶか)をつかいにだして、オバンド総督に入港許可(にゅうこうきょか)をもとめました。オバンドは入港をことわりました。そのころオバンドをつれてきた船隊がスペインへ出帆しょうとしていたので、コロンブスは嵐(あらし)がちかづいているため出帆を1週間(しゅうかん)おくらせるように知らせました。オバンドはそれを無視(むし)して、29隻の船隊が出帆しました。島の東端(ひがしはし)で嵐にあいほとんどの船が大破沈没(たいはちんぼつ)しました。ボバディリャ、ロルダン、コロンブスの部下トーレスたち約500人が死亡(しぼう)しました。この船隊のうちスペインに帰りついたのは、さしおさえられたコロンブスの財産(ざいさん)をつんだアグア号だけだったとつたえられています。

1502/7/27にホンジュラス沖のグアナハ島につき、7/30にニカラガのモスキート海岸につきました。この島の近くでマヤ人の丸木舟(まるきぶね)をとらえ、かれらがこうどな文明生活(ぶんめいせいかつ)をおくっているのを知りました。そのご、嵐に苦しみながら香料諸島へ抜ける海峡(かいきょう)をさがして航海をつづけました。海峡を探し続けているコロンブスは住民が金の鏡(かがみ)をもっていて、近くに金が採れる所があることをききました。 カリブのイカダ丸木舟

グレナダ 1975 発行
ペラグアという所に金鉱があることを知り、1503/1/9にパナマのポルト・ベロちかくに”リオ・ベレン”砦をつくり、バルトロメに守備隊を預けてまもらせました。4/6に住民がせめてきたため砦を放棄しました。4/16にポルト・ベロを出帆してキューバへと航海しました。

コロンブスは5/13にキューバのピロン港につき、ジャマイカ島へ出帆、6/25にジャマイカ島で水もれをおこした船2隻を海岸に乗り上げ砦として乗組員116人を残しました。1504/ 6/29に一年ぶりに乗組員を救出しました。8/13にイスパニョーラ島のサント・ドミンゴにつきしました。コロンブスは9/12にイスパニョーラ島を出帆、バルトロメ、エルナンドほか22人が乗船し、1504/11/7にスペインのカディス港に帰りつきました。
←島々の海岸ちかくを航海する
 コロンブスの船隊


どの島も、緑なす木々でおおわれた美しい島でしたが、”黄金の国”もスパイスも見つかりませんでした。


ドミニカ 1988 発行

このさいごのの航海のムリがわざわいして、急速に健康をわるくしました。通風(つうふう)だったといわれています。クリストファー・コロンブスは、新しく発見した所は”アジア”の一部であるとしんじたまま、1506/5/20にスペインのバリャドリードで、55才でえいみんしました。
ほんとうは、西インド諸島の発見でしたね。
コロンブスのすぐあとの時代に、カンティーノという人がつくったとされている地図では、新大陸(しんたいりく)のいちぶがえがかれています。


←コロンブスと
  カンティーノの古地図


←コロンブス没後500年記念
  スペイン 2006 発行

初回 コロンブスの3隻の船隊
総司令官クリストファー・コロンブス隊長
サンタマリア号

ファン・デ・ラ・コーサ船長
ピンタ号

マルティン・ピンソン船長
ニーニャ号

ヴィセンテ・ピンソン船長

総司令官コロンブス隊長










サ船長
マルティン

ピンゾン船長
1492 コロンブスのアメリカ発見500年記念 1992
サハラ 1992 発行
コロンブスの紋章

1506 コロンブス没後500年記念 2006
ソロモン 2006 発行 (画:300%)
参考HP:〜コロンブスの紋章

・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。    令和 R.3/10/23(2021)追記
C・MENU もどる 完 07/7/31

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