大航海物語
イギリス市民戦争
1642-1651
English Civil War

参考資料
イギリス市民戦争

1642 イギリス市民戦争350年記念 1982
イギリス 1982/6/16 発行

イングランド内戦(市民戦争)
  English Civil War (1642-1651)
  ・第1次市民戦争(First English Civil War 1642-1646)
  ・第2次市民戦争(Second English Civil War 1648-1649)
  ・第3次市民戦争(Third English Civil War 1649-1651).
イングランド内戦は清教徒革命においてイングランドで行われた国王派と議会派の軍事衝突のことで、1642年に始まった国王軍と議会軍の内戦は、当初は国王軍に有利に推移しました。しかし議会派の組織改革などによって議会軍が勝利し、つづいて勝利した議会派内でも深刻な対立を招きました。議会での長老派対独立派の争いは、次第に議会対軍・民衆という構図にかわってゆき、1649年に国王チャールス1世の処刑(1/30)と共和政の樹立(5/19:宣言)という帰結になりました。戦争はその後、1651年にイングランドのウスターシャー州の中心都市ウスターでの”ウスターの戦い”(Battle of Worcester、1651/9/3)でチャールズ皇太子(後のチャールズ2世)が敗れ、大陸へ亡命するまで続きました。

清教徒革命 (ピューリタン革命、1641-1649)
  Puritan Revolution (Wars of the Three Kingdoms)
清教徒革命(ピューリタン革命)は、狭義には1641〜1649年にイングランド・スコットランド・アイルランドで起きた内戦・革命で、広義には1638年の主教戦争から1660年の王政復古までを含み、「大反乱」「三王国戦争」(Wars of the Three Kingdoms)もしくは「名誉革命」(Glorious Revolution 1688-1689)とあわせて「イギリス革命」「ブリテン革命」とも呼ばれています。 ステュアート朝(Stewert dynasty、1371-1714:スコットランド起源王朝)のイングランドは国教会による王の絶対主義によって維持され、富をえて上昇する者と没落する者が錯綜し、社会のしくみが絶対主義の確立されたテューダー朝(Tudor dynasty、イングランド王国(1485-1603)およびアイルランド王国(1541-1603)の王朝)とは大きく異なってきていました(ただし、ステュアート朝期における王室と議会の対立の源となった社会矛盾の多くはテューダー朝期に由来)。そのなかで王室は財政難に苦しみ、チャールズ1世は王権神授説にもとづき議会と対立し、変化に対応する能力を失っていました。内戦は1641年のアイルランドのカトリック蜂起(アイルランド同盟戦争の発端)から始まり、翌1642年にイングランドでも王と議会の対立から内戦が起こりました。スコットランドでも、チャールズ1世がイングランド国教会の形式にもとづく祈祷書をスコットランドに強制したことが原因で、1639年(第1次)および1640年(第2次)の2度起こり2度ともスコットランド側の勝利となった主教戦争(Bishops' Wars)をへて、1644年に盟約派と国王派の間で内戦が始まりました。特にイングランドではピューリタニズムの影響を受けて民衆運動となり、次第に過激化・大規模化してゆきました。国王派(騎士党)と議会派(円頂党)の内戦は議会派の勝利に終わりましたが、議会派内でも内部対立が起こって国王処刑も行われました。内戦はそれぞれの勝利した陣営によって三つ巴の戦争に発展し、特にアイルランドでは現在も続くアイルランド問題の発端となりました。この戦争を制した共和政イングランドも安定せず、大きな軍事的功績をおさめたオリバー・クロムウェル(Oliver Cromwell, 1599-1658)が担ぎ上げられる形で護国卿(Lord Protector)となりました。しかし護国卿政は大虐殺や3万人の新大陸移住などが起こって5年で破綻し、王政復古によって革命は失敗に終わりました。かくしてイングランド・スコットランド・アイルランドは王政に復しましたが、王室庁や独自の財源を失った王権の弱体化は明らかで、実権を掌握しつつあったイングランド議会は王権神授説や絶対王政を志向する王との溝を深めてゆき、それはやがて名誉革命を招くことになりました。

名誉革命 (1688-1689)
  Glorious Revolution
名誉革命はステュアート朝のイングランド王ジェームズ2世(スコットランド王としてはジェームズ7世)が王位から追放され、ジェームズ2世の娘メアリー2世((Mary II of England, 1662-1694/12/28、イングランド・スコットランド・アイルランド女王::在位1689/2/13-1694/12/28)とその夫でオランダ総督ウィリアム3世(ウィレム3世:William III (of Orange), 1650/-1702/3/8)がイングランド王位に即位したクーデター事件。これにより「権利の章典」(Bill of Rights1689)が発布されました。イングランドではほぼ無血革命だったため「名誉革命」と呼ばれていますが、スコットランドやアイルランドでは戦乱が起こりました。清教徒革命と併せて、「イギリス革命」と呼ばれることもあります。

・イングランド内戦に遭遇した大航海者:〜
 ・サー・エドモンド・アンドロス総督
 ・サー・トーマス・ワーナー船長

参考HP:〜
イングランド内戦の地図(王党派と市民派の区分地図)
イングランド内戦の地図(内戦勃発の地図)
イングランド内戦の地図(内戦の勃発年)

・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。      12/2/12、12/3/12

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