★イギリス
総督エドモンド・アンドロス卿
1674
初代
(第4代)ニューヨーク州総督
大航海物語★
1660年カステロのニューアムステルダム古地図 17世紀のガレオン船

画像はヘクター号

ココス諸島 1984/10/10 発行 
ニュ
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ク総督アンドロス卿
 地図左端:1635年オランダ建設ウォール(街)
Sir Edmund Andros、1668 画像:200%

ボストン市民に捕らわれる
ヴァージニアの総督官邸
1637 アンドロス生誕350年記念 1987
ガーンジー 1987/7/7 発行

1660年カステロのニューアムステルダム古地図
Castello map of New Amsterdam 1660
Castello Plan:city map of Lower Manhattan
by Jacques Cortelyou 1625-1693

5大湖と、チェサピーク湾(西)とデラウェア湾(東)とに挟まれたデルマーヴァ半島(Delmarva Peninsula)の地図





五大湖地方

               デルマーヴァ半島       ガーンジー島、サーク島
イギリス軍







ノルマンディ|半島

ガーンジー 1996/6/8 発行

エドモンド・アンドロスは17世紀中葉のロンドンに生まれました。それは英国の市民革命の勃発や、3次に渡る英蘭戦争の時期であり、新大陸では蘭仏との植民地獲得競争中の時期でもありました。そういう激動の時期に新大陸ニューイングランドへ総督として派遣され、活発な海外進出中のイギリスの現地責任者として、英仏蘭の衝突や、植民地入植者同士や入植者と現地人インディアンとの紛争の調停をなし、時には裏切りや暴動で本国送還にあいながらも、紛争解決に長期間に渡って奔走しましたが、遂に老たるアンドロスは病いとなって不本意ながら本国へ帰国しました。なお、アンドロスが囚われたボストン暴動事件は100年後のボストン・ティー・パーティー事件の前哨戦とも言われています。
総督エドモンド・アンドロス卿 (1637/12/6〜1714/2/24)
 Sir Edmund Andros

  ロンドン生、76才ロンドン没、聖アン教会埋葬
   (Resting place St Anne's Church, Soho, London, England Religion Anglican)
  ・ガーンジー島執行官
   (バイリフ・オブ・ガーンジー:Bailiff of Guernsey 1674-1713)
  ・初代(第4代)ニューヨーク植民地総督
   (4th Colonial Governor of New York、1674/2/9〜1683/4/18)
  ・ニューイングランド総督
   (Governor of the Dominion of New England、 1686/12/20〜1689/4/18)
  ・ヴァージニア植民地総督
   (Colonial Governor of Virginia、1692/9〜1698/5)
  ・ガーンジー島副総督、アン女王(Anne, Queen of Great Britain 1665-1714)から受領
   (Lieutenant Governor of Guernsey 1704-1708)
   ・なお、”Scott”では
    (Lieutenant Governor of Guernsey 1704-1706)
    (Statesman of Colonial America 1672−1710)となっている。
エドモンド・アンドロスはガーンジー島執行官バイリフ・オブ・ガーンジー(Bailiff of Guernsey、在任:1661-1674)の父親アミアス・アンドロス(Amias Andros 1610/9/5-1674/4/7)と母親エリザベス・ストーン(Elizabeth Stone)の第3子としてロンドンで生まれました。父は1649年のピューリタン革命で処刑されたチャールス1世(Charles I:1600-1649)の堅い支持者で、母の姉妹は国王の姉エリザベス・ステュアート(Elizabeth Stuart 1596-1662、チャールズ1世の姉)に仕えていました。
・コルネット城の包囲攻撃に遭遇
1649年にイギリスで市民革命(English Civil War 1642-1651)が勃発、ピューリタン革命で共和国政府(1649-1660)が成立。アンドロスは1643年からのガーンジー島王党派コルネット城の包囲攻撃戦争を体験し、8才の1645年に母とガーンジー島を脱出しました。なお、コルネット城は1651年に陥落しました。1656年に叔父のサー・ロバート・ストーン卿(Sir Robert Stone)に騎兵隊長(captain of a cavalry company)に任命され、第1次北方戦争(First or Little Northern War 1655-60)での
コルネット城の包囲攻撃戦

ガーンジー 1993/5/7 発行
コペンハーゲンの攻撃戦(Assault on Copenhagen 1659/2/11)にデンマークのコペンハーゲン(Copenhagen, Denmark)で従軍し、フランス語・スエーデン語・オランダ語(French, Swedish, Dutch)を習得して堪能となりましたが、戦争は同盟国デンマークの勝利になりました。アンドロス一家は追放されていたスチュワート家(Stuart dynasty)の堅固な支持者として残り、1662年にチャールス2世(Charles II 1630-在位:1649-1685)が即位するとアンドロス・ファミリーは擁護されました。エドモンド・アンドロスはエリザベス・ステュアートに1660年から亡くなった1662年迄出仕。1660年代は対オランダ戦争中のイギリス陸軍に入隊。1662年に護衛連隊(Regiment of Guards)少尉任官。1666年にはトバイアス・ブリッジ卿連隊(regiment of Sir Tobias Bridge)のバルバドス連隊(Barbados Regiment)で大尉(Captain)に任官してバルバドス島(Barbados)に派遣されました。1667年にバルバドス竜騎兵連隊(Regiment of Dragoons)の少佐(major)に任官して、翌年の1668年にイングランドに帰国しました。1671/2月に女王の側近クレーヴァン伯爵(William Craven, 1st Earl of Craven, PC 1608-1697)の従兄弟で現:北ヨークシャーのトーマス・クレーヴァン(Thomas Craven of Burnsall in the West Riding of Yorkshire)の御令嬢メアリー・クレーヴァン(Mary Craven)と結婚しました。1674年父没後にアンドロス少佐はガーンジー島執行官バイリフ・オブ・ガーンジー(bailiff of Guernsey)の名を相続して襲名しました。

▼第4代ニューヨーク州総督の時期(1674/2/9-1683/4/18)
  (Governorship of provinces of New York, East and West Jersey, Virginia, and Maryland)
ニューヨークは、1664/3月にイギリス国王チャールズ2世がオランダが入植していたニューネーデルラントを併合する決定を下し 、1664/8/27に総司令官ヨーク公が率いるイギリスのフリゲート艦4隻がニューアムステルダムの港に侵入して、ニューネーデルラントの明け渡しを要求し、十分な守備兵や武器弾薬が不足したままのオランダ総督ストイフェサント(Peter Stuyvesant 1612-1672、在任:1647−1664)は降伏し、イギリスが占領してイギリス人入植者の到着が始まりました。1667年に第2次英蘭戦争が終わると、オランダはニューアムステルダム(後のニューヨーク)の自治権をイギリスに明け渡す代わりに、当時北米よりもさらに価値のあった東インド諸島中バンダ諸島のラン島(Pulo Run)を獲得しました。ところが、1673/8月にオランダは当時の北アメリカでは最大の21隻の艦隊でニューネーデルラントを再占領して、ニューオラニエ(New Orange)と改名しました。ウエストミンスター条約(Treaty of Westminster 1674/2/19)が調印されて第3次英蘭戦争が終結。戦争終結後にオランダはニューネーデルラントをイギリスに本格的に割譲し、1674/11/10に南米のスリナム(Surinam)とニューネーデルラントを植民地交換しました。

11才でヨーク公爵(Duke of York)になっていた41才のジェームズ(後ジェームス2世 James II of England 1633-1701在位1685/2/6-1688:名誉革命でステュアート朝イングランド王ジェームズ2世(スコットランド王ジェームズ7世 James VII of Scotland)が王位から追放され1688/12/11に逃亡するも捕らえられて後フランスに亡命)からアンドロスは、1674/7/2に第4代でもオランダが正式に割譲した後は、最初のニューヨーク州総督(first proprietary governor of the Province of New York)に指名されました。そのジェームズ2世の弟ヨーク公爵はオルバニー公爵・海軍総司令官の称号を得てイングランド海軍を束ね、第2次(1665-67)と第3次英蘭戦争(1672-74)に従軍して北アメリ ニューヨークの古地図
アンドロス総督
カのニューネーデルラント植民地を占領していました。その栄誉を称えて中心都市をヨーク公に因んでニューアムステルダムをニューヨークに、フォート・オレンジ(Fort Orange)をオルバニー公爵に因んでオルバニー(Albany)と改め、ニュージャージー植民地も手に入れ、1674/6/29にチャールス2世から弟ジェームズがその土地を与えられました(後に友人ジョージ・カートレット卿に譲渡)。

ニューヨーク州(Province of New York)の領土にはウエストミンスター条約(Treaty of Westminster 1674/2/19)でイギリスに割譲された現:ニュージャージー、即ちニューネーデルラントのハドソン川(Hudson River)のオルバニーからニュー・アムステルダム(New Amsterdam、後のニューヨーク:New York City)とロングアイランド(Long Island)、マーサズヴィニヤード(Martha's Vineyard)、そしてナンタケット(Nantucket)の領地が含まれていました。1664年にチャールス2世が弟ジェームス(James II 在位:1685-1688)に現在のメイン州ケネビック(Kennebec、Maine)とセント・クロイ川(St. Croix Rivers)間に残っていたオランダ領の地域の全てを譲っていました。 ダッチ・ガレオン船、1653
当時






ニューヨーク300年記念
アメリカ 1953/11/20 発行

1674/10/31にアンドロス総督がニューヨーク港に到着、オランダ総督と領土の移管交渉を実施した結果、同年11/10に第3代総督アンソニー・クローヴ(Anthony Colve:在任1673/9/19−1674/2/9)が退去してニュージャージーへ行き、ニューヨークはアンドロス(イギリス)の支配となりました。アンドロス新総督はオランダ人居住者の財産とプロテスタント(Protestant:新教)宗教を保証しました。輸出入にはニューヨーク市の税金をかけ、商業は6年間で10倍になりました。30家の商人が繁栄した一方で、1600人の奴隷が貧困に喘ぎました。

・コネチカットのバウンダリー・ディスピュート(境界論争)
 (Connecticut boundary dispute)
コネチカットのバウンダリー論争は当初コネティカットのハートフォード条約(Treaty of Hartford 1650)で遥か東のコネティカット川(Connecticut River 655km)迄オランダだとしていたのを、ヨーク公主張の通りに、1664年にハドソン川東32km線としました。1675年早くにフィリップ王戦争が勃発すると、1675/7月に少数の戦力を船でコネティカットへ派兵して確保しました。1675/7/8にアンドロス総督がコネティカッ河々口近くのディープ川(Deep River)のセイブルーク(Saybrook)に着くと、コネティカット市民軍が砦を占領してイギリス国旗を掲げていましたので、砦の隊長と簡単な会見をしてニューヨークへ帰りました。

・フィリップ王戦争
 (King Philip's War 1675/6−1676/8)
アンドロスはコネティカット遠征後、フィリップ王戦争中にイロコイ族国(Iroquois country)との友好確立に出かけました。友好的に受け入れられたので、小火器(firearms)がオランダから供給されることに同意。それはイロコイ族とフランスの関係を悪化させました。イギリスではフィリップ王(King Philip)として知られていたワンパノー(Wampanoag)の酋長マタコン(Metacom)に、ニューイングランドでも兵器を供給。それは1675/12月ロードアイランド南キングストン(South Kingstown)近郷での対ナラガンセット族(Narragansetts:ロードアイランド州ナラガンセット湾に定住していた種族)戦の大スワンプ戦闘(Great Swamp Fight 1675/12/19)で、ニューイングラング軍、コネチカット州インディ アン部族ピクォート族(Pequot)とコネチカット州上部テームス川インディアン部族モヘガン族(Mohegan)との連合軍が勝利したもののインディアンに使用されたので、フィリップ王と関連しているのが明確に知られた種族に武器弾薬の取引を禁止しました。その結果、アンドロス総督の行為がロンドン
イロコイ族

カナダ 1976 発行
で承認されましたが、現地の酋長達との仲は険悪になりました。フィリップ王はイロコイ族の戦いを望んではいませんでしたが、ニューヨーク州ハドソン川上流キャッツキル山地に住んでいて狩猟や漁猟で生活していたモヒカン族(Mohicans(オオカミ)=マヒカン族:Mahicans=モヒカン刈り=モホーク刈り髪型)は
交戦的で、オルバニー(Albany)で白人入植者と衝突しましたので、アンドロス総督がニューヨーク軍にフィリップ王攻撃にマサチューセッツへ派兵するように要請するも、コネティカット川秘密作戦のため拒否されました。だが、オルバニー(Albany)地域のモホーク族(Mohawks=モホーク刈り)はフィリップ王と交戦後に追われて東へと移動して行きました。コネティカットの権威筋はアンドロス総督に抗議しましたが、アンドロス総督は「それは可笑しい。あのとき何故に動いて、助太刀しなかなかったのか!」と返答。1676/7月にモヒカン族他に対するインデアン戦争難民避難所をニューヨークのレンセラ−郡(Rensselaer County)シャティコーク(Schaghticoke)村に建設。1676年にフィリップ王戦争は収束するも、なお北部ニューイングランドのアベナキ族(Abenaki)とイギリス人入植者との不穏な情勢は続きました。こうした動きの中、アンドロス総督は公爵領のメーン(Maine)へ兵を送り、ペマキッド(Pemaquid 現:(Bristol)ブリストル)に砦を建設しました。1677/11月にイギリスへ出帆して翌年まで滞在。この間に、総督としての数々の業績により、チャールス2世から爵位(knight)を受領してアンドロス卿(Sir Andros)となりました。
爵位の親授式

ヴァ−ジン諸島 1980 発行
貿易庁(Board of Trade)から、マサチュセッツ・ベイ・コロニーの貿易の権利が認められました。

・南部境界紛争
 (Southern border disputes)
おおよそデラウェアー(Delaware)の北部一帯となっている公爵領最南端の所を、メリーランド総督チャールス・カルヴァート男爵ボルティモア卿(Lord Charles Calvert, 3rd Baron Baltimore, 2nd Proprietor and 6th and 9th Proprietary Governor of Maryland 1637-1715)がそのメリーランド領地(Province of Maryland)を拡張したいとして欲しが
マサチューセッツ
ベイコロニー発行


USA 1930 発行
っていました。同時期にカルヴァート総督はサスケハナ族(濁った川:Susquehanna、別名:サスケハノック族:Susquehannock、コネストーガ族:Conestoga)がポトマック川(Potomac River)へ移動し、そこがメリーランド地域(Maryland territory)に抱合されて、北のイロコイ族とのフロンティア戦争の終結を望んでいました。なお、デラウェア湾(Delaware Bay)を支配していたレナペ族(Lenape、別名:デラウェア族:Delaware)はヴァ−ジニアとメリーランドの白人入植者に土地を取られて、1673年にオランダがニューヨークを再取得した時から、戦いが起こりそうになっていました。というのは、1672年にボルティモア卿(Lord Calvert)はニューヨーク植民地の支配下にあったデラウェア湾西岸のホアキルズ開拓地をメリーランドに含めると宣言し、軍隊を派遣してこの開拓地を襲い占領。ニューヨークはその後間もなくオランダに占領されたために直ぐに反応できませんでした。メリーランドはオランダがその同盟者であるイロコイ連邦を使ってこの開拓地を再奪取しにくることを恐れ、1674/11月にニューヨークがオランダから取り戻されたときに、この開拓地もニューヨーク植民地に戻していたので、不穏な情勢になっていました。

アンドロス総督がニューヨークに来て、その状況の安定に取り掛かりました。レナペ族酋長達(Lenape sachems)にイギリス人と他部族との調停者になってもらって、もう一度友好関係を築こうとしました。1676年にアメリカの植民地で起こった反乱としては初めての、不満を抱いた開拓者が参加して、急進的なインディアン対策を要求したベーコンの反乱(Bacon's Rebellion、バージニアの反乱:Virginia Rebellionとも)がポトマック川サスケハナ族砦を攻撃して反乱が起こされましたが、同じ年にメリーランドでも類似した反乱が起こり、メリーランドで突然起こった時、平和が訪れようとしました。サスケハナ族の生き残りは、ある夜にデラウェア湾の東へとこそこそと逃れてゆきました。

1676/6月にアンドロス総督はインディアン居住地へ移動するとイギリス入植者とイロコイ族から保護してやると提案しました。さらに、サスカチェノックスへはモホーク族(Mohawk)から与えられると拡張提案。それらはインディアンには受け入れられましたが、男爵カルヴァート総督のメリーランド権威筋はアンドロスの原住民との提案を信ぜず、デラウェアーに進軍しました。アンドロスはメリーランドに着いていたサスケハナ族(Susquehannocks)がニューヨークへ退却するよう要求しました。サスケハナ族がいないとメリーランド入植者が直接イロコイ族の攻撃にさらされると提案。1677/2と3にイロコイ連合シャカマクソン族(Shackamaxon)のレナペ族村(現:Philadelphia)で会議が開かれ、主要な部族が参集し インディアンとの和解協力

ガーンジー 1987/2/10 発行
ましたが、最終合意はでませんでしたので、4月にレナペ族の族(Shackamaxon)をニューヨークに残し、他は立ち退かせました。メリーランドはヘンリー・コージー(Henry Coursey)をアンドロス総督の援軍として送り込み、ニューヨークのデラウェア湾(Delaware Bay)の測量調査もしましたが、コージーはアンドロス総督とモホーク族を通じて交渉することになりました。コージーはアンドロス総督に£100ポンドの賄賂を贈って、その土地をインディアンから取り上げようとしましたが、アンドロス総督は断りました。そこはヨーク公がウィリアム・ペン(William Penn 1644-1718)に譲って、デラウェア州(state of Delaware)の一部になりました。ヨーク公、後のチャールズ2世はペンの父親に借金があり、1681/3/4にニュージャージーの広大な西部地区(Pennsylvania)と南部地区(Delaware)を与え保証することで弁済に当て、ペンはこの領地をシルバニア(Sylvania、ラテン語で「森の国」)と名付けましたが、チャールズ2世は父ペンに敬意を表してこれを「ペンシルベニア(ペンの森の国)」と改め、ペンはイギリスの植民地だった現在のアメリカ合衆国にフィラデルフィア市を建設しペンシルベニア州を整備しました。1677/夏に平和交渉がもたれ、コヴェナント・チェーン(Covenant Chain:チェーン盟約)と呼ばれる平和調印がオルバニー(Albany, New York)で調印されて平和が訪れました。

・ニュー・ジャージーの支配
 (Control of the Jerseys)
ジャージーでも問題が起こりました。ヨーク公はハドソン川(Hudson River 507km)西部地域をジョン・バークレ−男爵(John Berkeley, 1st Baron BerkeleyOfStratton 1602-1678)とジョージ・カートレット準男爵(Vice Admiral Sir George Carteret, 1st Baronet 1610-1680)に与え、バークレ−はそこ現:西ジャージー(West Jersey)をクエーカー教徒(Quaker)に譲りました。1674年に紛争が起こりヨーク公が再譲渡。1680年にカートレット没後に紛争が再燃。アンドロス総督が東ジャージーを越えてその支配を拡張しょうとしましたが、カートレット準男爵に代わって従兄弟のフィリップ・カートレット総督(Philip Carteret 在任1665-1673)が治めました。

1680年カートレット準男爵の没後、東ジャージーはニューヨークのものとアンドロス総督が主張。アンドロス総督とカートレット総督は個人の友好関係にも関わらず、領土問題でカートレット総督を捕えることになりました。ハドソン川の関税問題で、
フィリップ・カートレットの
エリザベスタウン上陸1664


ニュージャージーの地図
USA 1964 発行
1680年にアンドロス総督はカートレット総督の住むエリザベスタウン(Elizabethtown)へ軍隊を差し向け、カートレット総督を捕えてニューヨークの牢獄にぶち込んで鞭打ったりと酷い扱いをしました。アンドロスが主催した審判で、陪審はカートレット総督を放免。ジャージーに戻ったカートレット総督は捕らえられていた時の扱いがもとで病気となり、1682年に亡くなりました。その余派でヨーク公はカートレット総督の東ジャージーの主張を取り上げ、アンドロスの主張を退けました。ウィリアム・ペンが送った入植者がニュージャージーのバーリントン(Burlington)を確立。西ジャージーはアンドロス総督が文句をつけても、1680年にヨーク公が承認していたので、ペンが送った入植者のものとなりました。

・左遷
 (Recall)
アンドロス総督の政敵はヨーク公に、オランダ人に依怙贔屓しているとか個人で儲けているとかと非難中傷を告げ口しました。ヨーク公がアンドロス総督を左遷してロンドンに呼び戻したので申し開きのために、1681/1月にブロックホールズ(Anthony Brockholls)管理下で、メアリー夫人を残してニューヨークからイングランドへと出帆しました。

▼ニューイングランド植民地連合(ドミニオン)総督の時期(1686/12/20〜1689/4/18)
 (Governorship of Dominion of New England in America 1686-89 首都:ボストン:Boston)
ニューイングランド植民地はマサチュセッツ湾植民地(Massachusetts Bay Colony)から拡大した現在の8州:メーン州(Maine)、ニューハンプシャー州(New Hampshire)、ヴィーモント州(Vermont)、マサチュセッツ州(Massachusetts)、ロードアイランド州(Rhode Island)、コネティカット州(Connecticut,)、ニューヨーク州(New York)、ニュージャージー州(New Jersey)の連合体でしたが、イギリス本国の名誉革命(Glorious Revolution 1688-1689)の一報が伝わると、イギリス国教会の代表とみなされたアンドロス総督に対する清教徒(ピューリタン)によるボストン暴動(1689 Boston revolt)が、1689/4/18に起こってドミニオンは解体されました。

1686年にアンドロス総督はニューイングランド植民地連合の第3代で最後の総督( 指名:1686/6/3、在任:1686/12/20〜1689/4/18)に指名され、1686/12/20にボストン(Boston)に到着しました。メアリー夫人はボストンで合流して、1688年に亡くなりました。

・イギリス国教会
  (Church of England)
アンドロス総督は到着後まもなく、ボストンにあるピューリタンの教会(Puritan churches)をイギリス国教会(Church of England)の集会所に使用させるように諮問しましたが、拒否されました。1687年にサムエル・ウィラード牧師(Reverend Samuel Willard 1640-1707)の第3教会の鍵を没収。1688年に牧師(Reverend Robert Ratcliff)の木造教会「キングス・チャペル(King's Chapel)」ができるまで使用して、市民にイギリス国教会の代表とみなされました。

・税法
  (Revenue laws)
アンドロス新総督はイギリス本国にならって税法などを制定し、1687/3月に植民地連合(ドミニオン)全地域で施行すると宣言しました。また取り扱いが増加していた酒類(alcohol)にも課税しました。税法施行は特にマサチュセッツで強い反対に遭いましたが、納税しない者は逮捕してボストンに投獄しました。

・タウンミーティング法(市民集会禁止法)
  (Town meeting laws)
税法抗議が活発となって、市民集会が度々開かれるようになると、総督はそれを禁止しました。市民は税法はマグナ・カルタ(Magna Carta 1215/6/15:大憲章:Great Charter)違反だと抗議しました。

・土地に課税(改訂)
  (Land title reform)
アンドロス総督はイギリス本国に倣って、マサチュセッツ州から、ニューハンプシャー州、メーン州と順次に土地税(Quit rents:土地の権利絡みの法)を課しましたので、地主の反発が起こりました。コネティカット、ロードアイランドへと拡大すると、土地の略奪だと、さらなる反発を買いました。マサチュセッツ州プリマスのピューリタンの土地所有が進むと課税反対が加熱し、不法侵入令状(writs of intrusion)を発行しました。

・コネティカット憲法
  (Connecticut charterof 1662)
アンドロス総督は、1687年にコネティカット総督ロバート・トリート(Robert Treat 1622-1710:コネティカット総督在任1683-1698)が着任後まもなく、彼にとって代わって、植民地連合に統合しょうと、1687/10月にコネティカットへ出かけ、10/31にハートフォード(Hartford)着。植民地リーダーと会見。オーク憲法(Charter Oak 1687)が成立して植民地連合に加盟しました。その後、全ての植民地を回って、ボストンに帰りました。1687/10/29に植民地連合会議(dominion council)を全植民地連合に適用しました。

・ニューヨークとジャージーの統合
  (Inclusion of New York and Jerseys)
1688/5/7にニューヨーク・イーストジャージー・ウェストジャージー(provinces of New York, East Jersey, West Jersey)の各州が植民地連合(Dominion)へ加えられ統合されました。それらはボストンから遠かったので、副総督(Lieutenant Governor)を置き、1687年に総督の護衛の儀仗兵(honor guard)としてボストンに来ていた陸軍大尉フランシス・ニコルソン(army captain Francis Nicholson)を副総督に、秘書官にはウィリアム・ブラスウィト(William Blathwayt)を指名しました。1688年夏にアンドロス総督はニューヨークとジャージーを視察に行き、イギリスの支配が確立していることを確かめましたが、その支配はボストン暴動で、1689年に崩壊しました。
ニュージャージーの古地図

サー・ジョージ・カートレット

・インディアン対策(外交)
  (Indian diplomacy)
1687年にヌーベルフランス総督デノンヴィル侯爵(Marquis de Denonville 1637-1710:ニューフランス在任:1685-1689)が、1677年にアンドロス総督がニューヨーク総督時代に締結していたイロコイ族連盟(Iroquois confederatio)とイギリスのオルバニーとの貿易条約で平和だったコヴェラント・チェーン(Covenant Chain)の一角を崩そうと、海から上陸して現:西ニューヨークのセネカ族(Seneca)の村を攻撃しました。イギリスのニューヨーク総督トーマス・ドンガン(Thomas Dongan)が英本国に救援を求めてきましたので、英国王ジェームス2世がアンドロス総督に支援を命じ、同時に仏国王ルイ14世(Louis XIV)と交渉を始めて、北西フロンティア辺境地(northwestern frontier)に緊張が走りました。ニューイングランド北東辺境地(northeastern frontier)では、それ迄英国人居住者に不平を持っていたアベナキ族(Abenaki)が1688年の早くに攻勢をかけてきました。アンドロス総督はメーン遠征をなし、多くのインディアン居住地を襲撃しました。また、1674年にヌーベルフランスのフロンテナック総督の命でメーン州ペノボスコット湾(Penobscot Bay)でアベナキ族と居住地していたジャンヴィンセント・ドゥアバディ(Jean-Vincent d'Abbadie de Saint-Castin 1652-1707)の村も襲い、カトリックのカスティン礼拝所(Catholic Castin's chapel)は注意深く保存しましたが、後にカトリックのポペリー(popery)の非難の対象となりました。

1688/8月にアンドロス総督はニューヨークの支配を引き継ぎ、オルバニーでイロコイ族と会見、契約を一新し、イロコイ族を刺激しました。総督はボストンに帰りましたが、アバナキ族はフランスに唆されて攻撃を続けました。メーン州の状況は、イギリス入植者がインディアン部落を襲い、捕虜を船でボストンに送ったので、再び悪化してきました。総督はその不当行為を厳しく罰して、インディアンをメーンに戻すように命令。アンドロス総督はメーンに戻って移住者を保護するために武装を強化しました。アンドロス総督はメーンで冬を過ごし、イギリスで革命が起こりそうだと聞くと、3月にボストンに戻りました。

・ボストン暴動 (1689/4/18)
  (Revolt、1689 Boston revolt)
1689/4/18に、オランダのオラニエ公ウィレム3世(1650-1702:ジェームズ2世のプロテスタントの長女メアリー妃)がイングランド議会の要請でオランダ軍2万を率いて、1688/11/5にイングランドのデヴォン海岸に上陸して起った無血クーデターでの名誉革命(Glorious Revolution 1688-1689)で、カトリックのイングランド王ジェームス2世が1688/12/11に逃亡後フランスに亡命して、メアリー2世(在位1689/2/13-1694/12/28:ウィリアム3世の共同統治者としてのイングランド・スコットランド・アイルランド女王、Mary II of England, 1662-1694/12/28)とウィリアム3世(在位:
ボストン市民
1689/2/13-1702/3/8:イングランド王・スコットランド王・アイルランド王、William III (of Orange) 1650-1702、オラニエ公・ナッサウ伯(在位1650/11/14-1702/3/8)、オランダ総督:在任1672/6/28-1702/3/8)の即位で、権利の章典の発布(Bill of Rights 1689/12/16批准)、立憲君主制および議会制民主主義の確立がなされたとの知らせがボストンに到着すると、反イギリス即ち反アンドロス総督にボストン市民が立上がりました。よく組織されたモッブ(mob:群集)は植民地連合士官達や英国国教会信者達(Anglicans)を捕えました。アンドロス総督は部下達と街の南部にある守備隊の駐屯地フォート・メアリー(Fort Mary)砦へ逃れました。1689/4/18にフォート・メアリーが暴徒モッブの下に陥落しました。アンドロス総督は沖合に碇泊していたフリゲート艦ローズ号(frigate Rose)で逃走を図りましたが、乗り込もうとしたボートが途中で捉えられ降伏して捕虜になり、もとのフォート・メアリーへ連れ戻されました。モッブはマサチュセット湾植民地の最後の総督サイモン・ブレッドストレート(Simon Bradstreet 1603-1697)を支持して、降伏したアンドロス総督をアッシャー・ハウス(自宅)に、マサチューセッツ湾植民地ロクスベリー生まれでイギリス領アメリカ植民地の裁判官ジョセフ・ダドリー(Joseph Dudley, 1647-1720)や他の士官達と共に閉じ込め、植民地連合の出納係ジョン・アッシャー(treasurer John Usher)に監視させ監禁しました。モッブは集会を開いてアンドロス総督一行を裁き、植民地連合の出納係ジョン・アッシャー(treasurer John Usher)に監視させ7/7にボストン港沿岸南部のキャッスル・アイラント(Castle Island Massachusetts)監獄に移しました。1689/8/2に女装し、召使が歩哨を酔わせている間に脱獄に成功。ロードアイランドまで逃げましたが、再度捉えられ、今度は独房にぶち込まれました。アンドロス総督はダドリーや他の自治領の幹部達と共にその監獄で10ヵ月間も囚われました。

その後ウィリアム3世の命令により、アンドロスや他の自治領の幹部達と共にイングランドに召喚されました。植民地当局はアンドロスとダドリーを起訴するも、ロンドンのマサチュセッツ代理人達は、誰も告訴を取り仕切る態勢になかったため、代理人達は解任され、2人は釈放されました。アンドロス総督は「何故に「暴政」を強行したのか」と問われると「イギリス本国の法を植民地に施行しただけである」と言い放ちました。アンドロス総督がロンドンを出帆する前にボストン暴動は終息していました。

裁判官としてのダドリーは、1686/12月にアンドロス総督が到着して直ちに仕事に取り掛かかり、ニューイングランド自治領全域に税法、タウンミーティング法、そして土地の権利絡みの法を施行したので多くの住民はダドリーがアンドロス総督の「暴政」の中核を担っていると思っていて、この上なく厳しい批判と苦情に晒されました。特にアンドロス総督から強要された税法、タウンミーティング法、そして土地の権利絡みの法を施行した時の批判は大きく、1688年の名誉革命の知らせがマサチューセッツに届くと、1689年にボストン暴動が起きて4月にアンドロス総督が逮捕され、ダドリーはその時ボストン市外にいたので戻って来たところを逮捕されました。ダドリーはこの時体調を崩しており、1,000ポンドの保釈金を払って逮捕を免除され、家に戻ったところを暴徒が家まで押し掛けて来て、彼を監獄へ連れ戻しました。ダドリーは監獄で10ヵ月過ごし、ウィリアム3世の命令により、アンドロスや他の自治領の幹部たちと共にイングランドに召喚され起訴されましたが釈放されました。

▼ヴァージニア総督の時期(1692/2月-1698/5月)
  (Governor of Virginia、首都:ジェースタウン、後ウィリアムズバーグ、現リッチモンド)
アンドロスはロンドン滞在中の1691/7月に前夫人の家族と関係のあったエリザベス・クラファム(Elizabeth Crisp Clapham)未亡人と再婚。1692/2月にエフィンガム男爵フランシス・ハワード卿(Lord Francis Howard, 5th Baron Howard of Effingham 1643-1694)の縁で、ヴァージニア州総督(governor of the Province of Virginia)に推挙されました。ニューイングランド植民地連合フランシス・ニコルソン(Francis Nicholson)副総督がヴァージニアでの上位の地位を希望していましたが、ウィリアム3世はアンドロスにその地位を授与し、ニコルソンにはメリーランド(Maryland)の副総督の地位を授与しましたので、反目されることになりました。

1692/9/13にヴァージニア州総督サー・アンドロスがヴァージニアに到着、1週間後には仕事を始めました。ニコルソン副総督は優雅に出迎え、その後間も無くロンドンへと出帆。後にウィリアムズバーグ(Williamsburg)になるミドル・プランテーション(Middle Plantation:中央農園)を整備・建設し、1695年まで居住しました。ベーコンの反乱(Bacon's Rebellion)や奴隷の反乱(slave rebellions)で以来、荒れ果てていた州を苦労して組織再編しました。タバコに依存していた州の経済を多様化するよう奨励。膨張政策をとるフランス王ルイ14世とアウクスブルク同盟に結集した欧州諸国との大同盟戦争(Nine Years' War 1688-1697)の影響で北米ではイギリス領のニューイングランドとフランス領のヌーベルフランス間の最初の交戦ウィリアム王戦争(King William's War, 1689-1697)となって貿易も酷く傷つけられ、商船は(convoys)を要求。数年間に渡ってヴァージニアは軍隊の援護がなく、ヨーロッパへ生産品を輸出できませんでした。アンドロス総督は綿亜麻や繊維産業(cotton 、flax, and the manufacture of fabric)等の新しい作物の導入を奨励。ヴァージニアでの最初の仕事は地方の組み合わせでした。議会(House of Burgesses)との関係は概して親しいものでしたが、特に戦争、および植民地の備えに関する処置に、彼はある反対に会いました。武装船を借上げて植民地の海面をパトロールさせて、ニューヨークの備えを財政的に支え、フランスやインディアンのヴィージニアへの侵入に対する備えとなりました。1696年にアンドロス総督は国王に軍隊の派遣を要請し、議会はその費用に£1,000ポンドを渋々準備しました。アンドロス総督の植民地防衛の経営はヴィージニアで成功し、戦時中なのにニューヨークやニューイングランドのような攻撃を受けませんでした。ウィリアムズバーグの米国で2番目に古いウィリアム・アンド・メアリー大学(College of William and Mary in Williamsburg)の創立者ジェームス・ブライアー(James Blair 1656-1743)がニコルソン副総督と、大学の設立を支持しなかったとしてアンドロス総督の辞職を画策しました。1693年に大学が設立された時、アンドロス総督は大学の礼拝堂(chapel)建築用レンガ(bricks)の費用を寄付し、議会は大学に年£100ポンドの資金供与を認めました。

1697年にブライアーはアンドロス総督の貿易庁(Board of Trade)と英国国教会(Church of England)に対する不正や背信行為を色々とでっち上げて、ロンドンに行って訴えました。ジェームス2世の即位に反対したホイッグ党(Whig Party)が力を持ってくると、アンドロス総督の支持者の力が弱くなり、貿易庁の支持をも失いました。英国国教会の司教達(Anglican bishops)はブライアーとニコルソン副総督を強力に支持しました。1698/3月にアンドロス総督は長年の労苦の疲労で病気になり、辞任の伺いを申し出ました。

▼その後
  (Later years)
1698/5月にアンドロス総督の辞任がロンドンで発表され、ニコルソンが総督になって、アンドロスはロンドンへ呼び戻されました。アンドロスは再びバイリフ・オブ・ガーンジーとなり、ロンドンとガーンジー島デンマーク・ヒル(Denmark Hill)の家を往復しました。1703年に2番目の夫人が亡くなり、1707年にエリザベス夫人(Elizabeth Fitzhebert)と再々婚しました。1704年にアン女王が副総督(lieutenant governor of Guernsey)に任命し、1708年迄務めました。1714/2/24にロンドンで亡くなり、ソホーのセント・アン教会(St Anne's Church, Soho)に埋葬されました。1717年に婦人が亡くなり、近くに埋葬されました。その教会は第2次世界大戦で破壊され、墓所は無くなりました。

アンドロス総督はバハマのアンドロス島(Andros Island)にその名を残しています。

・アンドロス総督の生涯略年表:〜 
記 事
1637 0 12/6:ロンドンで誕生
1643 6 ガーンジー島にイギリス市民革命軍攻めてきて、島の王党派はコルネット城に集結して籠城
1645 8 母とガーンジー島を脱出
1649 12 1/30:国王チャールス1世が王宮前広場で斬首刑の公開処刑
5/19:共和政の樹立宣言(市民(ピューリタン)革命)護国卿オリバー・クロムウェルらが指導
1651 14 チャールズ皇太子(後のチャールズ2世)が大陸へ亡命
コルネット城が陥落
1652 15 第1次英蘭戦争が開戦
1654 17 第1次英蘭戦争が終結
1656 19 叔父サー・ストーン騎兵隊で騎兵隊長に任命される
1658 オリバー・クロムウェル没
1659 22 デンマークでコペンハーゲンの攻撃戦に従軍
1660 23 エリザベス・ステュアート宮廷に出仕(-1662)
3/16:スコットランド駐留軍司令官ジョージ・モンクがイングランド議会を解散
5月:ロンドンに入城したチャールズ2世が即位、イングランド王となり王政復古
1662 25 護衛連隊少尉任官
1665 第2次英蘭戦争が開戦
1666 29 バルバドス連隊(Barbados Regiment)大尉任官、バルバドス島へ派遣される
1667 30 バルバドス竜騎兵連隊(Regiment of Dragoons)少佐任官
第2次英蘭戦争が終結
1668 31 イングランドに帰国
1671 34 2月にメアリー・クレーヴァンと結婚
1672 35 第3次英蘭戦争が開戦
1673 36 オランダがニューヨークを再占領
1674 37 ニューヨーク州総督にヨーク公爵が指名
第3次英蘭戦争が終結
ウエストミンスター条約で南米スリナムとニューヨークを植民地交換
父没後バイリフ・オブ・ガーンジー(-1714)を相続して襲名
10/31:アンドロス総督がニューヨーク港に到着
1675 38 コネチカットのバウンダリー・ディスピュート
フィリップ王戦争が開戦
1676 39 フィリップ王戦争が終結
原住民と入植者の紛争調停に奔走する
1677 40 ジェームス2世から爵位を受領、サー・アンドロス(卿)となる
1680 43 ジェームス2世が植民地暴動とロンドン商人の告げ口で左遷
1681 44 1月ロンドンへとニューヨークを出帆
1685 48 アン女王デンマーク軍騎兵隊の中佐で隊長になる
1686 49 ジェームス2世が新大陸の新設植民地連合総督に指名(-1689)
12/20:ボストン到着
1688 51 アン女王軍とジェームス2世の敗北でオレンジ公ウィリアムを支持する名誉革命が始まる
メアリー夫人が亡くなる
1689 52 ボストン暴動でアンドロス総督がボストン港のキャッスルアイランド牢獄に囚われ、後にロンドンへ戻る
1691 53 エリザベス・クラファム未亡人と再婚
1692 55 3/1:ウィリアム王とメアリー女王からヴァージニア総督に指名される
9/13:アンドロス総督がヴァージアに到着
1693 56 ウィリアム王戦争の課税金£600をニューヨークへ送る
1695 58 ブルゲス議会がウィリアム王戦争税金£500のニューヨーク送りを承認
4月:アンドロス総督とジャマス・ブライア−議員(James Blair)が争って、
 ブライアーが議会から追放される
11月ブライア−が総督議会に復帰
1696 59 聖職者の給与を£64相当のタバコ16,000ポンド(約7260kg)に引き上げる
1697 60 4月に航海条例(Navigation Act of 1696)でブライアー判事が議会から追放される
9月狡猾で狡い官僚ビューロクラット(William Blaythwayt)が権力を奪うため強力な船団をロンドンから送ってくる
12月にブライアーが総督は大学設立と教会建設に協力しないとロンドンに告げ口
1698 61 3月にヴァージニア総督が不健康を理由に辞任申請
3/31に辞任が許可される
10月に病気でアンドロス総督事務所を閉める
10/20にジェームスタウン議会が火災消失
12月フラニス・ニコルソンがヴァージア総督事務所を引き継ぐ
1699 62 早くに病気でヴァ−ジニアを去りロンドンに戻る
1703 66 8月にエリザベス夫人が亡くなる
1704 67 ガーンジー島総督(-1706)
1707 70 4/27にエリザベス・フィッツバートと再々婚
1714 76 2/27に亡くなり、教会(Saint Anne's Church in Soho, Westminster)に埋葬
・参考HP:〜
 ・アンドロス総督時代のニューヨーク州の場所地図(1688年頃)
 ・列強による北アメリカの領土区分地図(1660年頃)
 ・コネティカット植民地の場所地図(1636〜1776年頃)
 ・インディアン部族の居住地の場所地図(マサチュセッツ湾植民地の地図)
 ・ニューヨーク、ジャージー、ペンシルヴェニアの場所地図(17世紀中頃)
 ・マサチュセッツ湾植民地の場所地図(1630〜1691年頃)
 ・モヘガン湖の場所地図(ヴァージニア州ヨークタウン近郷)
 ・ニューヨーク州の地図(現在の行政区画地図)
 ・ニューヨーク州の場所地図(現在の地図)
 ・ヴァージニア州の地図(現在の地図)
 ・ヴァージニア州の場所地図(現在の詳細地図)
 ・コネチカット州の場所地図(現在の地図)
 ・コネチカット州の地図(現在の行政区画地図)
 ・マサチュセッツ州の場所地図(現在の詳細地図、ボストン有)
 ・メイン州の場所地図(現在の詳細地図)
 ・ニューイングランドの場所地図
 ・ニュージャージーの場所地図(現在の詳細地図)
 ・ボストンの場所地図(USAの主要都市有)
 ・USA東部州と主要都市の場所地図(日本語)
 ・ハドソン川流域とモホーク川の場所地図(日本語)

参考:〜
▼フィリップ王戦争 (1675/6月〜1676/8月)
  King Philip's War

  (別名:First Indian War, Metacom's War)
場所:マサチューセッツ、コネチカット、ロードアイランド、メーン
結果:
・白人入植者連合の勝利:〜
  ・ニューイングランド連邦、
  ・モヘガン族(Mohegan):
   コネチカット州上テームス川のインディアン部族、
  ・ピクォート族(Pequot):
   コネチカット州のインディアン部族。
・インディアン諸部族連合の敗戦:〜
  ・ワンパノアグ族(Wampanoag):
イロコイ族和平300年記念
Great Peace of Montreal, 1701

モントリオール和平条約300年記念
カナダ 2001 発行
   ニューイングランドのマサチューセッツ州南東部の部族、
  ・ニプマク族(Nipmuc):マサチューセッツ州ウースター郡に先住した部族、
  ・ポデュンク族(Podunk):コネティカットに先住した部族、
  ・ナラガンセット族(Narragansetts):ロードアイランド州ナラガンセット湾に定住していた種族
  ・ナシャウェイ族(Nashaway):マサチューセッツのナシャウェイ川渓谷(Nashua River valley)の部族
  ヨーロッパではファルツ継承戦争(1688〜1697)と呼ばれ、
  新大陸ではウィリアム王戦争(1692〜1699)と呼ばれるインディアンとの戦いが起こりましたが、
  白人入植者の勝利となり、最終的にはオランダのライスワイクでのライスワイク条約
  (Treaty of Ryswick 1697/9/20)で講和が結ばれて平和が訪れました。
新大陸でのフィリップ王戦争は、1675年にニューイングランドで白人入植者とインディアン諸部族との間で起きたインディアン戦争で、フィリップ王とはワンパノアグ族(Wampanoag)の酋長メタコメット(Metacomet 1639-1676/8/12、別名:メタコム:Metacom)のことで、白人入植者は彼をそう呼んでいました。イギリス(白人)がニューイングランドと名付けた入植地で、彼らはワンパノアグ族から手厚い保護を受け、食料を贈られ厳しい冬の飢餓と寒さを越えることが出来ました。白人達の入植地の拡大はエスカレートし、やがてはインディアン達の領土をよこせ、と要求し始めたのでした。インディアンにとって土地は共有財産であり、誰の物でもなかったのですが、白人の要求はインディアン全てを立ち退かせる排他的なものでした。当然インディアン達は激怒。また白人はこの取り決めを「公平」に「条約」で行おうとし、その署名者として彼らの酋長を選びましたが、インディアンの社会は白人の独任制と違い、合議制でした。部族を代表する首長や君主は存在しませんでした。酋長はあくまで調停者で部族を代表するものではないのでしたが、白人にはこれが理解できませんでした。入植者は酋長と盟約すればワンパノアグ族は納得するものと思い込んでいましたが、それは全くの思い違いでした。元々ワンパノアグ族は白人入植者達に対して友好関係を築いており、1620年に酋長のマサソイト(Massasoit、別名「黄色い羽」の意味:オウサムクイン:OusaMequin 1581-1661)は慣れない環境による寒さや病気、飢えで苦しむ白人入植者を助け、平和と友情による条約を結んでいました。1621年の秋の感謝祭の際にマサソイトは多くの食料を持参して列席。しかし急激に増加した白人の入植者はインディアンに土地を売るように要求したり、強引なキリスト教への改宗強制や、インディアンに不利な裁判を行い、インディアンの白人に対する反感を買いました。インディアンに「土地を売る」という概念はそもそもなかったし、個人の選択として宗教を受け入れることはあるも、部族全体を従わせようとする白人の思考はインディアン共同体には理解不可能でした。さらに白人と友好を築いていたマサソイト酋長が死ぬとさらに状況は悪化。マサソイト死後、ワンパノアグ族酋長は息子のワムスッタ(Wamsutta 1634-1662)になり、白人側は彼らが住む土地にまで入植地を拡大して行きました。そのためワムスッタは「調停者」たるインディアンの酋長の役目として、白人が父マサソイトに要求して結んだ入植の土地の譲渡と和平条約に異議申し立てをプリマス入植地で行い、侵略行為を止めるよう説得するも、プリマス入植地から村に帰る途中、ワムスッタはなぜか病気(毒殺説有)による謎の死を遂げました。新たに24才のワムスッタの弟メタコメット(Metacomet、1639-1676/8/12、別名:アレキサンダー)が新酋長になると、白人との関係はさらに悪化。メタコメットも兄ワムスッタと同様に、調停者として最大の努力を払い、白人との友好関係を続けていくことに苦心するも、誇り高いワンパノアグ族とメタコメット酋長は合議の結果、部族の土地を侵す白人に対して、ついに宣戦布告の準備を始めました。1675/6/25にキリスト教に改宗したワンパノアグ族で、ハーバード大学のインディアン・カレッジで学んだジョン・ササモン(John Sassamon)がプリマス入植地の総督ジョシア・ウィンスロー(Josiah Winslow (1628-1680)に「ワンパノアグ族のメタコメット酋長が白人に対して戦争準備をしている」と通報。その後ササモンは別部族のインディアンに殺されました。

ニューイングランドのインディアン部族はこれ以上白人の横暴を許せず、メタコメット酋長らのワンパノアグ族は、ニアンティック族(Niantic)、ペナクック族(Pennacook)、ノーセット族(Nauset)らワンパノアグ族と同盟を結んでいた部族と共同して、プリマス入植地を攻撃。攻撃された入植地の白人側も武装して、ワンパノアグ族と敵対するモヒカン族(Mohican)やモホーク族(Mohawk)などの部族を味方に付け全面戦争が勃発。インディアン側はニプマック族(Nipmuck)やナラガンセット族も参戦。プリマス入植地総督のウィンスローはナラガンセット族の婦女子を大虐殺して怨みをかいました。こうしてマサチューセッツ植民地とコネチカット植民地を引き込んでのニューイングランド一帯に置ける大戦争に発展。激しい戦闘が繰り広げられ、双方大規模な打撃を受けました。ナラガンセット族のカノンチェット酋長(Canonchet、白人は指導者と思っていた)が1676/4/3に逮捕及び処刑され、白人に対して反旗を翻し戦いを挑んだワンパノアグ族ではメタコメット酋長が3ヵ月後の8/12に戦死し、侵略者側が勝利する形で戦争は終結。戦いで600人の白人入植者と4000人以上のインディアンが犠牲となり死亡。戦死したメタコメット酋長の遺体は白人達により八つ裂きにされ、首は槍の先に突き刺され、白人達の村に24年間飾られ、捕虜となったメタコメット酋長の家族を始めとするインディアン達は奴隷として西インド諸島などに売り飛ばされました。インディアンに「司令官」はいないという、彼らの文化は白人には理解できず、侵略者はただメタコメットを「戦争を始めた首謀者」と一方的に見なし、理不尽な辱めを与えて勝利を祝ったのでした。
・参考HP:〜
 ・フィリップ王戦争の場所地図(1675-76年)
 ・インディアン部族の居住地の場所地図(Pennacook族など)
 ・インディアン部族の居住地の場所地図(マサチュセッツ湾植民地の地図)
  (Wampanoag、Narragansetts、Niantic、Pequot、Mohegan、Nipmuck、Nauset族など)
 ・インディアン部族の居住地の場所地図(Mohawk、Mohican族など)

▼ミドル・プランテーション
  (Middle Plantation、 Virginia)、現ウィリアムズバーグ(Williamsburg)
ミドル・プランテーションは最初、1632年に設立。ジェームズタウンや他の川と航行可能な水路沿いに建てられていた初期の植民地とは違って、このミドル・プランテーションはジェームズ川とヨーク川の間、バージニア半島のおよそ中間にある高地にありました。半島の高地にあっただけでなく、プランテーションは半島の低地末端にある海面まで東に斜面が下がったタイドウォーター地域の高原の西端にも置かれていました。一帯は、現地のネイティブ・アメリカンとの初期の対立が起こっている中、こうした半島の低地まで防衛線を建設するにはごく自然な場所でした。 1676年にジェームズタウンの州議会がベーコンの反乱で焼かれた後、バージニア植民地議会は近接していたミドル・プランテーションで会合を開催。1693年にウィリアム・アンド・メアリー大学が創設され、1694年の初めにはミドル・プランテーションの近隣へ移転。初代大統領のジョージ・ワシントンもこの大学で測量士の資格を取得しました。ジェームズタウンの州議事堂(議会議事堂建物)は、1698/10/20に再び焼失。その後再び議員達はミドル・プランテーションで会議を開催。1699年に入植者達により行われた会議の中で、ウィリアム・アンド・メアリー大学の学生団体が、当時猛威をふるっていたマラリアや、感染した蛾から身を守るため、植民地政府をミドル・プランテーションへ移設する提案書を提出。その後バージニア植民地の政府はミドル・プランテーションへと移転。そのすぐ後、ミドル・プランテーションはイギリスのウィリアム3世の栄誉をたたえ、発案者の王室総督フランシス・ニコルソン(Francis Nicholson 1655-1727)によってウィリアムズバーグと改名されました。
・参考HP:〜
 ・ヴァージニア半島の場所地図(現ウィリアムズバーグ:ミドル・プランテーションの場所)
 ・ジェームズタウンの場所地図
 ・ジェームズタウンの場所地図(日本語:ロアノークなどの入植年付)

▼ベーコンの反乱 (1675/7〜1676/10)
 (Bacon's Rebellion、バージニアの反乱:Virginia Rebellionとも)
1676年にアメリカの植民地で起こった反乱としては初めての、不満を抱いた開拓者が参加して、急進的なインディアン対策を要求したベーコンの反乱がイギリス領バージニア植民地(現:バージニア州)で、ナサニエル・ベーコン(Nathaniel Bacon (1647-1676)によって、ジェームズタウンの総督に対して向けられ、ポトマック川サスケハナ族砦を攻撃して、反乱が起こされました。1675/7月にバージニアのノーザンネック地区、ポトマック川の近くにあったトマス・マシューズのプランテーションをドーグ族インディアンが襲撃し、闘争が起こされました。それで植民地の住人は報復のために間違ってサスケハノック族を攻撃し、これが更にインディアンによる大規模な襲撃を呼んで大変な事態になりました。バークリー総督は更なる攻撃を避け、事態を沈静化させるために事情の調査を命じ、その結果、関係者間の会合を開いた時に数人のインディアン酋長を殺害してしまうという悲惨なことになりました。この危機の間にバークリー総督は植民地住人の自制を常に要求していました。だが、ベー
アルゴンキン族

カナダ 1976 発行
コンを含め数人が言うことを聞かず、ベーコンは友好的なアポマトックスのインディアン数人をトウモロコシを盗んだという嫌疑で捕まえることで、総督の直接命令を無視することになりました。バークリー総督は妥協を生むために、インディアンに弾薬を供給し、1676/3月には「長い会談」を召集するも、ジェームズタウンに戻った後で、ベーコンとバークリー総督支持者の間に紛争が起こいました。ベーコンの一党はバークリー派に打ち勝ち、総督はバージニアの東海岸に逃亡。ベーコンの一党は首都を3ヵ月間占領し、1676/9/19に貴族政府の象徴である町を焼いて破壊。この時16年前に終わっていたイングランド共和国に倣って、 1676/7/30に人民宣言(Declaration of the People of Virginia)が発せられました。ベーコンは1676/10/26に赤痢(Dysentery)で亡くなりました。反乱は、ロンドンを母港とする数隻の武装商船がバージニアに到着しバークリー総督に従う時まで続きました。これらの船は貿易船であり、その船長達は到着するまで反乱のことを知りませんでした。1677/1/末にバージニア総督ウィリアム・バークリー卿が略奪・焼討された首都ジェームズタウン(Jamestown, Virginia)に戻りました。
・参考HP:〜
 ・ベーコンの居住地の場所地図(1675-76年)
 ・ベーコンの反乱の関連地図(1675-76年)

ビーバー戦争、17世紀中葉
  (Beaver Wars)
  フランスとイロコイ族の戦争(French and Iroquois Wars)とも
17世紀半ばに北アメリカ東部で戦われた、インディアン部族とフランス植民地軍との一連の「インディアン戦争」の総称。1649年に白人(フランス)入植者とイロコイ族との間で、ビーバー戦争が勃発。サスケハノック族はイロコイ族と同盟を結び白人と戦い、1675年に敗北しました。また、サスケハノック族は白人が持ち込んだ天然痘などの伝染病や戦争で、その人口を大幅に減らしました。
・参考HP:〜
 ・ビーバー戦争の場所地図(17世紀中葉、五大湖他)
 ・イギリス軍の進行ルートの関連地図(1695年)
 ・インディアン部族の居住地の場所地図
  (1600年頃ニューイングランド南部のアルゴンキン語族の分布地図)
 ・北米インディアン部族のアルゴンキン語族の分布地図

▼エリザベス・ステュアート
  Elizabeth Stuart, 1596-1662

   (Queen Elizabeth of Bohemia)
エリザベス・ステュアートはスコットランド王ジェームズ6世(Charles James Stuart 1566-1625、イングランド王ジェームズ1世、在位:1603-1625)と王妃アン(Anne of Denmark 1574-1619)の長女、チャールス1世(在位:1625-1649)の姉。プファルツ選帝侯フリードリヒ5世(在位:1610-1623:ボヘミアの「冬王」独:Friedrich V., 1596-1632、ボヘミア王:フリードリヒ1世、Friedrich of Bohemia 在位:1619-1620)の王妃。エリザベスが生まれた当時、父ジェームズはまだスコットランドのみの王でした。娘が老いたイングランド女王エリザベス1世の後継者となることを望んだジェームズは女王の歓心を買うつもりもあって、自らの長女に女王と同じ名を付けました。1603年にエリザベス女王は死去し、ジェームズはイングランドとアイルランドの王位を新たに継承。1613年にエリザベスはプファルツ選帝侯フリードリヒ5世と結婚し、宮廷のあったハイデルベルクに居住。フリードリヒ5世は1619年にボヘミア王に即位するも、翌1620年にボヘミア(現チェコ)の首都プラハ近郊の「白山の戦い」(Battle of White Mountain, 1620/11/8)に敗れて王位を追われ、1622年にはライン川西側一帯の本国プファルツもハプスブルク軍の侵攻を受けてオランダ共和国へ逃亡。エリザベスは夫に従ってオランダに亡命し、以後はハーグに居住。夫に先立たれた後、1661年にイングランドへ帰り、翌1662年にロンドン没。陽気で美しく慈悲深かったエリザベスはイングランドでも人気がありましたが、嫁ぎ先のプファルツやボヘミアでも人々に慕われ、「ブリテンの真珠」「イングランドの薔薇」「慈愛の王妃」などと呼ばれました。夫フリードリヒ5世との間には13人の子をもうけ、長男フリードリヒ・ハインリヒは若くして水死し、家督を継いだ次男カール・ルートヴィヒは三十年戦争終結後に選帝侯位と所領の大半を回復。一方、三男ループレヒト(ルパート)と四男モーリッツ(モーリス)はイングランドでエリザベスの弟チャールズ1世に仕え、イングランド内戦で王党派の一員となって活躍。五女ゾフィーはハノーファー選帝侯エルンスト・アウグストと結婚、その息子ゲオルク・ルートヴィヒはハノーヴァー家のジョージ1世で、エリザベスの孫であることを根拠にイギリス王位を継承して「イギリス王ジョージ1世」(在位:1714-1727)となりました。
・参考HP:〜
 ・プファルツ選帝侯領の場所地図

▼ニューヨーク植民地総督列伝:〜
 (Colonial Governor of New York 1664-1783)
第1代〜リチャード・ニコルス(1664年の占領軍司令官)
       (Richard Nicolls 1664/9-1668/夏)
第2代〜フランシス・ラブレイス
       (Francis Lovelace 1668/夏- 1673/4)
第3代〜アンソニー・クローヴ(オランダ支配時期)
       (Anthony Colve 1673/9/19-1674/2/9)
第4代〜エドモンド・アンドロス卿(1674-1681以降は総督代理を置く)
       (Sir Edmund Andros 1674/2/9-1683/4/18)
第5代〜アンソニー・ブロックホール
       (Anthony Brockholls 1681-1683(総督代理)
第6代〜トーマス・ドンガン
       (Thomas Dongan 1683/8-1688/8/11)
7 Francis Nicholson 1688-1691 (事実上:1689/6迄)
8 Jacob Leisler 1689-1691(反乱)
9 Henry Sloughter 1691
10 Richard Ingoldesby 1691-1692(総督代理:acting governor)
11 Benjamin Fletcher 1692acting governor1697
12 Richard Coote, 1st Earl of Bellomont 1698-1701
13 John Nanfan 1701-1702(総督代理)
14 Edward Hyde, Viscount Cornbury 1702-1708
15 John Lovelace, 4th Baron Lovelace 1708-1709
16 Peter Schuyler 1708-1709(総督代理)
17 Richard Ingoldesby 1709-1710(総督代理)
18 Gerardus Beekman 1710(総督代理)
19 General Robert Hunter 1710-1718
20 Peter Schuyler 1719-1720(総督代理)
21 William Burnet 1720-1728
22 John Montgomerie 1728-1731
23 Rip Van Dam 1731-1732(総督代理)
24 Sir William Cosby 1732-1736
25 George Clarke 1736-1743(総督代理)
26 Admiral of the Fleet The Hon. George Clinton 1743-1753
27 Sir Danvers Osborn, 3rd Baronet 1753-1753
28 James DeLancey 1753-1755(総督代理)
29 Admiral Sir Charles Hardy 1755-1758
30 James DeLancey 1758-1760(総督代理)
31 Cadwallader Colden 1760-1762(総督代理)
32 Lieutenant-General Robert Monckton 1762-1763
33 Cadwallader Colden 1763-1765(総督代理)r
34 Sir Henry Moore, 1st Baronet 1765-1769
35 Cadwallader Colden 1769-1770(総督代理)
36 John Murray, 4th Earl of Dunmore 1770-1771
37 William Tryon 1771-1774
38 Cadwallader Colden 1774-1775(総督代理)
39 William Tryon 1775-1780
40 General James Robertson 1780-1783(軍司令官:military governor)
41 Andrew Elliot 1783/4/17-11/25(軍司令官)
・参考HP:〜
 ・ニューヨーク植民地の場所地図
 ・ニューネーデルラント植民地の場所地図(1614-1667)

▼ニューイングランド植民地連合の総督と副総督
 (Governor in Chief of the Dominion of New England 1686-1689)
・ジョセフ・ダッドリー総督(ニューイングランド(議会)議長、1686-1686)
  (Joseph Dudley(1647-1720)、President of the Council of New England )
 ・ウィリアム・ストートン副総督(議長代理)
  (Lieutenant Governor William Stoughton、Deputy President)
サー・エドモンド・アンドロス総督
  (Sir Edmund Andros 1686/12/20〜1689/4/18)
 ・フランシス・ニコルソン副総督
  (Lieutenant Governor Francis Nicholson 指名:1688/4)
・参考HP:〜
 ・ニューイングランド植民地連合地の場所地図

・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。       2012/2/12

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