大航海物語
アンネ・フランク
1945
ホロコーストの犠牲者

参考資料

アンネ・フランク、12才頃

アムステルダムの隠れ家、1942
ドミニカ 1999/12/31 発行
アンネ・フランク、15才没

ドイツ 1979/5/17 発行

ユダヤ人絶滅収容所
電気が流れる鉄条網の塀と監視塔


強制収容所開放10年記念
フランス 1955/4/23 発行
ナチス敗戦で開放される囚人服姿の人々

フランス 1965/4/1 発行

ナチスの旗印 ”カギ十字”
ハーケン・クロイツ


Hakenkreuz
ドイツ 1934 発行
ナチスの総統
アドルフ・ヒトラー


Adolf Hitler、56才没
1889/4/20-1945/4/30

ドイツ 1942 発行
連合軍兵士と強制収容所

ナチス敗戦で収容所が解放される
ドミニカ 1999/12/31 発行

日本では「アンネの日記」の著者として紹介されて、アンネ・フランクとして知られている少女は、ユダヤ系ドイツ人でドイツのフランクフルト・アム・マインに生まれました。ところが折から起こった反ユダヤ主義を掲げるナチス(国家社会主義ドイツ労働者党)の政権掌握後、迫害から逃れるため、フランク一家は故国ドイツを離れてオランダのアムステルダムへ亡命して、そこでの約2年間の生活を日記に記していました。
アンネ・フランク、15才没 1929/6/12〜1945/3月上旬頃(3/31説有)
  Anne Frank
  (アンネリース・マリー・フランク:Annelies Marie Frank)
アンネリース・マリー(愛称:アンネ)はユダヤ系ドイツ人の少女で、ドイツ(Deutschland:Germany)ヘッセン州(Land Hessen)ダルムシュタット県(Regierungsbezirk Darmstadt)フランクフルト市(Frankfurt am Main:ライン河(1,233km)支流のマイン川(524km)下流域)に生まれ、反ユダヤ主義(Anti-Semitism)を掲げる国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス党:Nazi Party)の政権掌握後、迫害から逃れるためにフランク一家は故
国ドイツを離れてオランダのアムステルダム(Amsterdam, Netherlands)へ亡命するも、第二次世界大戦(1939-1945)中にオランダがドイツ軍に占領(1940/5/17)されると、オランダでもユダヤ人狩りが行われ、1942/7/6に一家は、父オットー・フランクの職場(ジャム造りのペクチン製造会社)があったアムステルダムのプリンセンフラハト通メルウェーデ(Merwedeplein)広場263番地のアパート三階の隠れ家での生活に入ることを余儀なくされ、フランク一家の他にヘルマン・ペルス(Hermann van Pels、1898-1944:アウシュヴィッツ強制収容所ガス室没)一家やフリッツ・プフェファー(Fritz Pfeffer、1889-1944:医師でノイエンガンメ強制収容所没)もこの隠れ家に入り、計8人のユダヤ人が隠れ家で暮らしました。ここでの生活は2年間に及び、その間にアンネは隠れ家でのことを ナチスがアムステルダムを空爆

オランダ 1935/10/16 発行
日記に書き続けました。1944/8/4にゲシュタポに隠れ家を発見され、隠れ家住人は全員がナチス強制収容所で囚われることになり、絶滅収容所のアウシュヴィッツ強制収容所に送られました。ついでアンネは姉のマルゴット・フランクと共にプロイセン州ハノーファー県ベルゲン市ベルゼンのベルゲン・ベルゼン強制収容所(Bergen-Belsen concentration camp、17万人以上死亡:1945/4/15開放)へ送られました。そこは絶滅収容所ではなかったものの居住環境は劣悪で、チフスが蔓延していました。同収容所の不衛生な環境に耐えぬくことはできず、ナチス敗戦(1945/5/8)を待てずにチフスに感染して15才で亡くなりました。

ゲシュタポに荒らされた隠れ家にはアンネが付けていた日記が残されていました。オットーの会社の社員で隠れ家住人の生活を支援していたオーストリア系オランダ人女性ミープ・ヒース(Miep Gies、1909/2/15-2010/1/11)がこれを発見し、戦後まで保存。8人の隠れ家住人の中でただ一人戦後まで生き延びたオットー・フランクはミープからこの日記を手渡され、オットーは娘アンネの戦争と差別のない世界になって欲しいという思いを全世界に伝えるため、日記の出版を決意。この日記は60以上の言語に翻訳され、2500万部を超える世界的ベストセラーになりました。父はユダヤ系ドイツ人のオットー・ハインリヒ・フランク(Otto Heinrich Frank、1889/5/12-1980/8/19)。母は同じくユダヤ系ドイツ人のエーディト・フランク(Edith Frank、1900/1/16-1945/1/6、(Hollander)旧姓ホーレンダー)。父オットーは銀行家で、母エーディトはアーヘンの有名な資産家の娘でした。アンネは次女で、3才年長の姉マルゴット・フランク(Margot Betti Frank、1926/2/16-1945/3月上旬、愛称:マルゴー、1944年冬チフス感染、翌年3月上旬没で数日後アンネ没)がいました。 強制収容所を開放

フランク一家はオランダ北東部のホーフハーレン(Hooghalen)のヴェステルボルク通過収容所(Westerbork transit camp)を経て(1944/8/8-9/3)、アウシュヴィッツ・ビルケナウ強制収容所へ移され(10/30)、エーディトはオットーと切り離され、アンネ、マルゴーと共に女子ブロックに収容されました。わずかな食糧での過酷な強制労働、シラミによる病気に悩まされる環境の中、エーディトは娘たちを守ろうと必死になり、自分に支給されたパンを娘たちに分け与えました。エーディトは娘たちがベルゲン・ベルゼン強制収容所に移された後もアウシュヴィッツに残され、衰弱が激しくなり餓死したと伝えられています。

アウシュヴィッツ強制収容所 (1940/5〜1945/1)
  Auschwitz concentration camp
第二次世界大戦中のナチス・ドイツがユダヤ人などに対して組織的に行った大量虐殺ホロコースト(The Holocaust)の被害者数は575万人とも、600万人ともいわれています。

アンネの家の場所地図(アムステルダム地図の一部分)
アムステルダムの場所地図
フランクフルトの場所地図(日本語)

・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。        12/2/22、18/4/15
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