Austria
国連 1984 発行
切手で綴る 冒険大航海 (Adventure Voyage)
ユリウス・フォン・パイアー
1873/8/302
フランツァ・ヨシファ・ランド発見


大航海物語
オーストリア編

MAGYARORSZAG
テゲトホッフ号北極探検隊

テゲトホ
ッフ号

航海地図




パイア|隊長
ハンガリー 1994/4/1 発行
REPUBLIK OSTERRICH
絵 画
”氷に閉じ込められたテゲトホッフ号”

"Tegetthoff off Franz Josef Land"
by Julius Ritter von Payer


ユリウス・リッター・フォン・パイアー作
フランツァ・ヨシファ・ランド発見100年記念

オーストリア 1973/8/30 発行

MAGYARORSZAG
スカンジナビヤ テゲトホッフ号北極探検隊の航海地図
カラ海
        フランツァ・ヨシファ・ランド





ゼヴァルナヤ諸島
ノーヴァヤ・ゼムリャー

ハンガリー 1994/4/1 発行(拡大)

ボヘミア生まれのパイアーはオーストリア・ハンガリー帝国陸軍で数々の戦争に従軍し、地理学を学んでアルプスの地形図を作って、ドイツの地理学者に知己を得たことから北極探検をなし、オーストリア・ハンガリー帝国の北極探検隊を率いて北極海で乗船が氷で閉じ込められるという不運に遭遇するも、フランツァ・ヨシファ・ランドを発見して母国に凱旋帰国しました。
ユリウス・ヨハンス・ルドヴィカス・リッター・フォン・パイアー (1841/9/2〜1915/8/19)
 Julius Johannes Ludovicus Ritter von Payer

  オーストリア・ハンガリー帝国(1867-1919)の北極探検家、北極風景画家
  (Austro-Hungarian arctic explorer、Arctic landscape artist)
  テプリツェ生、ブレッド:74才没
ユリウス・リッター・フォン・パイアーはボヘミア(Bohemia)のテプリツェ(Teplitz(Teplice)現:チェコ)で生まれました。パイヤーが14才の時に、退役軍人の父フランツ・パイヤー(Franz Anton Rudolf Payer)が亡くなって、ポーランドのクラクフ (Krakow)近郷ロブゾワ(Lobzowa、現:オーストリア東部の街)の陸軍幼年学校(k.k. cadet school)入隊。1857〜1859年の間はウィーン(Vienna)南の近郷ウィーナー・ノイシュタット(Wiener Neustadt)のテレシアン士官学校(Theresian Military Academy)に入隊しました。1859年18才で北イタリアのヴェローナ(Verona)に准尉(sub-lieutenant)として第36歩兵連隊(36th infantry regiment)に入営して、ソルフォリーノの戦いに従軍しました。1860〜1863年の間はヴェローナ駐屯軍に赴任して、1863年にはオーストリア東部のアイゼンシュタット(Eisenstadt, Austria)士官学校(cadet school)の歴史教師(history teacher)を命じられました。大尉(lieutenant first class)任官後にはイタリアのヴェネチア(Venetia)駐屯軍で服務しました。

パイアーは1862年から探検を始め、まずイタリア・アルプス( Italian Alps)と中央東部アルプス山脈(Central Eastern Alps)のホーヘ・タウアーン(Hohe Tauern)を軍務の休暇中に探検しました。1864〜1868年にはアダメロ・プレサネラ山地(Adamello-Presanella Group)とオルトラー・アルプス(Ortler Alps)を探検して、アダメロ山(Adamello 3,554m)の初登頂に成功しました。探検結果を縮尺1/56,000の詳細な地形図(topographical map)に描き上げました。その業績で、ウィーンのオーストリア陸軍地学院(Austrian Military Cartographical Institute)に推挙され服務しました。1866/6/24に24才で第3 次イタリア独立戦争に従軍して、ヴェローナ南西12kmのソンマカンパーニャ(Sommacampagna)町近郷で勃発したクストーツァの戦い(Battle of Custoza)で、オーストリア軍がイタリア軍に勝利し、パイヤーは大砲2門で守備して英雄になりました。 アルプス
オーストリア 1973-78 発行
◆パイヤーの大航海:〜
・1868年(27才)〜第2次ドイツ北極探検隊に参加
・1871年(30才)〜ノーヴァヤ・ゼムリャー諸島の探検航海に参加
・1872-74年〜オーストリア・ハンガリー帝国北極探検隊隊長で大航海

▼1868年にパイヤーはドイツ地理学者(geographer)オーガスト・ペテルマン(August Heinrich Petermann 1822-1878)の紹介で、ドイツ人のカール・コ-ルドゥウェイ(Carl Koldewey)の「第2次ドイツ北極探検隊」(2nd German North Polar Expedition 1869-1870)に招待されました。
氷で動けないテゲトホッフ号
1869年にパイアーは蒸気式帆船ゲルマニア号(propeller steamboat Germania)に地図製作の測量技師(surveyor)として乗り組みました。ゲルマニア号にはその他に5人の科学者:天文学者(astronomers)で物理学者(physicists)のカール・ボーゲン(Karl Nikolai Jensen Borgen)とラルフ・コープランド(Ralph Copeland 1837-1905)、動物学者(zoologist)、植物学者(botanist)、内科の医者(physician)アドルフ・パンシュ(Adolf Pansch)が乗り組みました。僚船のポール・ヘゲルマン船長(captain Paul Friedrich Hegemann)の帆船ハンザ号(sailing ship Hansa)には医者(physician)、動物学者R.ブカロフ(zoologist R. Buchholz)、地質学者(geologist)グスタフ・ラーベ(Gustav Carl Laube)の科学者3人が乗り組んで随伴しました。1869/6/15に第2次ドイツ北極探検隊がゲルマニア号とハンザ号に乗船して、ドイツのヴェーザー川(Weser、452km)河口でブレーメン(Bremen)の北60kmのブレーマーハーフェン港(Bremerhaven)を北極海への探検航海へと出帆しました。両船は7/20に分かれて別行動をとり、ゲルマニア号は1869/8/5にサビーン島(Sabine Island)に到達。8/14にグリーンランドの東のシャノン島(Shannon Island)で北緯75度30分に到達しました。パイアーがシャノン島の地図を描きました。1869/8/27〜1870/7/22の間はサビーン島の越冬キャンプで過ごしました。その間にパイアーは島内をソリで前進して探検し、グリーンランド近くの島々を地図に描きましたが、探検隊最大の功績はグリーンランド南東に有るカイザー・フランツ・ヨーゼフ・フィヨルド(Kaiser Franz-Joseph Fjord)の発見と探査でした。ハンザ号は1869/10/19に氷に閉じ込められて崩壊し、隊員は氷上で救助されました。

▼1871年にパイヤーは「リッサ島の海戦」(Battle of Lissa 1866)で名をはせたオーストリア・ハンガリー帝国海軍の探検家カール・ワイプレヒト船長(Karl Weyprecht 1838-1881)のオーストリア・ハンガリー北極探検隊(Austro-Hungarian expedition)に参加して、北極探検の予備調査としてノーヴァヤ・ゼムリャー諸島(Novaya Zemlya)へ探検航海しました。

▼オーストリア・ハンガリー帝国北極探検隊 (1872〜1874)
  Austro-Hungarian North Pole Expedition
   テゲトホッフ号北極探検隊(Tegetthoff North Pole Expedition)
ユリウス・フォン・パイヤー隊長が率いるオーストリア・ハンガリー帝国北極探検隊は北東航路(north-eastern passage)の探索とワイプレヒト船長の主張する北極点(north pole)到達を目指して北極海への航海が計画されました。その探検費用175,000フロリンス(florins)はオーストリア・ハンガリー帝国の貴族達が拠出しました。それはヨハン・ウィルツェック伯爵グラフ・フォン・サーム伯爵カール・アレクサンドルゲオルク・ヴィルヘルム将軍アレクサンドル・フォン・クロバティン元帥オーストリア大公レイナー・ヨシファ・ヨハンオーストリアのルドルフ皇太子、ハンガリーのオドン・ジッヒー伯爵などでした。パイヤー隊長は44ギルダン(Gulden)を拠出してソリ探検(sledge journeys)に備えました。
テゲトホッフ号北極探検隊
テゲトホ
ッフ号

ソリで脱出
航海地図

パイア|隊長

1872/7月にパイヤー隊長とワイプレヒト船長が率いる北極探検隊24人が、ノルウェー北部トロムセ県の中心都市でラップランドの中ではムルマンスクに次いで第2の街トロムセ港(Tromse)をテゲトホッフ号で出帆しました。1872/8月にノーヴァヤ・ゼムリャー島の北東海域を探索航行中に、流氷(pack-ice)に閉じ込められて身動きが取れなくなり、未知の北極圏を流氷の流れのままに漂流をはじめました。1873/8/30に島に流れ着き、未知の土地を発見しました。その土地をオーストリア・ハンガリー帝国皇帝フランツ・ヨーゼフ1世に因んでフランツァ・ヨシファ・ランド(Franz Josef Land)と命名しました。その最初に発見した島(土地)ホールランドの東にある湾に浮かぶでした。1873/9月にサーム島で、翌年の春までの冬期間を越冬しました。1874/5月に氷に閉じ込められたテゲトホッフ号に崩壊の危機が迫り、ワイプレヒト船長がパイヤー隊長と船を放棄することを決定して、ソリで脱出を図りました。そして、サーム島を取り巻く島々の1つで同島南西に有るウィルツェック島を発見して、1873/11/1に亡くなったオットー・クリッシュ隊員(Otto Krisch)を氷結している砂浜を掘って埋葬し、出資者に因んでウィルツェック島と命名しました。その後にカール・アレクサンドル島を発見し、その北東沖の小さな岩礁島の一つコブルグ島(Coburg isles)で宿営。1874/8/14に開けた海に到達し、9/3にボートでノーヴァヤ・ゼムリャー島ブラック・ケープ(Black Cape)に向けて出発。そして、ロシア船フョードル・ヴェローニン船長(Captain Feodor Veronin)のニコライ号(Russian schooner Nikolaj)に出会って、ノルウェーのバレンツ海に面する不凍港で最も東にある町ヴァードー(Vardo, Norway、雪合戦大会で有名)に入港できました。その港で南へ行く郵便船(mail boat)に便乗して、ドイツのブレーメン港(Bremen)に到着しました。そこで、ドイツ地学協会(German geographical societies)主催のディーナー・パ−ティーに招待されて、大歓迎を受けました。ブレーメンからは、列車でオーストリアのウィーンに帰着。ウィーンで新聞に祝辞が掲載され、数千の市民の出迎えを受けました。探検は気象学(meteorology),天文学(astronomy),測地学(geodesy)、地磁気学(magnetism)、動物学(zoology)、オーロラ気象学(sightings of aurora borealis)の発展に寄与し、スウェーデン系フィンランド人のアドルフ・ノルデンショルド(Adolf Erik Nordenskiold)の北東航路の発見に貢献。1878年に科学アカデミー(Academy of Sciences)から「オーストリア・ハンガリー帝国北極探検」(Austro-Hungarian North Pole Expedition 1872-74)が出版され、パイヤーはテゲトホッフ号を主題とした極地画を発表しました。2005/6/8にはオーストリアの北極探検記念硬貨が「隊長と船長の背景に氷結した船」を描いて発行されました。

▼その後:〜
1876/10/24にオーストラリア貴族(Austrian nobility)に列せられ、リッター・フォン(Ritter von)の称号を与えられました。1877年に36才でフランクフルト(Frankfurt am Main)の銀行家の娘アリス夫人(Alice)と結婚し、後に2人の子供に恵まれました。1877〜1879年にフランクフルトのスタッデルシェス学院(Stadelsches Institut)で絵を学び、1880〜1882年にはミュンヘンのビデルデン・クンステ・アカデミー(Akademie der bildenden Kunste)でも絵を学びました。1884〜1890年の間はフランスのパリ(Paris)で絵を描いて働きました。1890年に夫人に離婚されましたので、ウィーンに戻り、絵画女学校(painting school for ladies)を始めました。1895年にグリーンランド北東のカイザー・フランツ・ヨーゼフ・フィヨルドの絵を描くことを計画。1912年70才で潜水艦(submarine)で北極への探検を計画。1915年にスロベニア共和国(旧ユーゴスラビア)のブレッド(Bled:Veldes)にて、73才で亡くなりました。

参考HP:〜
ボヘミアの地図(Tepelice 有)
オルトラー・アルプスの場所地図(イタリア北東部の地図)
ブレーマーハーフェンの場所地図(ブレーメン有)
カイザー・フランツ・ヨーゼフ・フィヨルドの場所地図
シャノン島の場所地図(右上はスヴァールバル諸島、右はアイスランド島
北極の地図

参考:〜
・アドミラル・テゲトホッフ号の装備:〜
  
Austrian Admiral Tegetthoff Ship、1872、オーストリア・ハンガリー帝国海軍(1867-1918)
船 型 蒸気式帆船、スクーナー(Schooner 氷に閉じ込められたテゲトホッフ号の絵

Tegetthoff off Franz Josef Land
ユリウス・フォン・パイアー作
帆 柱 3本マスト (Steam Ship)
全 長 38.34m
重 量 220屯
機 関 100馬力(hp, 75kw) 蒸気機関搭載
乗組員 24人:ほとんどが自国人(外国人は少し)
進 水 1872年、独ブレーメン州ブレマーハーフェン
最 後 1873年にフランツァ・ヨシファ・ランドで氷に閉じ込められ崩壊
テゲトフ号はドイツのブレーメン州ブレマーハーフェン(Bremerhaven)で建造されて、オーストリア・ハンガリー帝国の海軍々人で、イタリア海軍を相手にした1866年の「リッサ島の海戦」で勝利したテゲトホッフ提督の名に因んで名づけられました。

ヴィルヘルム・フォン・テゲトホッフ提督
  
Wilhelm Freiherr von Tegetthoff (1827‐1871、44才没)
テゲトホッフ提督と
リッサ島沖の海戦をこちらでお楽しみください。

・参考HP:〜
 ・アドリア海の場所地図
 ・リッサ島の場所地図

カール・クリスチャン・コ-ルドゥウェイ
  Carl Christian Koldewey
 (1837/10/26〜1908/5/17)
コルドゥウェイはドイツのニーダーザクセン州ヴェーザー川(Weser)の河畔の町ホーヤ(Hoya)から2kmの町ビュッケン(Bucken)で生まれました。1868年にグリーンランド号(Gronland)の船長で最初の北極海探検航海(first Arctic expedition)で、グリーンランドへ向かい、 ノルウェーのスヴァールバル諸島を回って、その最東端にある無人島でクヴィ島 (Kvitoya、Gillis-Land、682ku)付近の北緯81°5'に到達して戻りました。1869年には「第2次ドイツ北極探検隊」(German North Polar Expedition 1869-1870)で蒸気式帆船ゲルマニア号に船長として乗船し、ポール・ヘゲルマン船長の帆船ハンザ号を随伴して、北極海へ探検航海しました。1869/6/15にブレーメンを出帆した両船は、7/20に分かれて別行動をとり、ハンザ号は10/19に氷に閉じ込められて崩壊し、隊員は氷上で救助されました。ゲルマニア号は1869/8/5にサビーン島に到達、8/14にグリーンランドの東のシャノン島で北緯75°30'Nに到達しました。パイヤーがシャノン島の地図を描きました。1869/8/27〜1870/7/22の間はサビーン島の越冬キャンプで過ごしました。島内をソリで前進。グリーンランドの東の島々を地図に描き、最大の発見はカイザー・フランツ・ヨーゼフ・フィヨルド(Kaiser-Franz-Joseph-Fjord)の発見でした。その後は、海軍省の海事展示場の役員として働きながら執筆活動をなし、1905/7/31に海軍省の重役を引退して、71才でハンブルグ(Hamburg)にて亡くなりました。甥のロバート・コ-ルドゥウェイ(Robert Koldewey 1855-1925)はドイツ考古学建築の歴史学者として名を遺しています。

カール・ワイプレヒト船長
  Captain Karl Weyprecht
 (1838/9/8〜1881/9/8)
ワイプレヒト船長をこちらでお楽しみください。

・参考HP:〜
 ・ホーヤの場所地図(北海に注ぐヴェーザー川有)
 ・ヴェーザー川の場所地図(ホーヤは”Bremen”と”Minden”の中間付近)

ソルフェリーノの戦い
  Battle of Solferino
 (1859/6/24)
ソルフェリーノの戦いは、イタリア統一戦争中にイタリアのソルフェリーノを中心に行われた戦い。ナポレオン3世率いるフランス帝国軍とヴィットーリオ・エマヌエーレ2世率いるサルデーニャ王国軍の連合軍が、フランツ・ヨーゼフ1世率いるオーストリア帝国軍と戦い、仏伊連合軍(Franco-Sardinian)が勝利。1859/7/11にヴィッラフランカの和約(Armistice of Villafranca)が締結されて、第2次イタリア独立戦争が終結。
戦 場 イタリア北部のソルフェリーノ 野戦砲

アセンション 1985/7/21 発行
仏伊連合軍 オーストリア軍
兵 力 170,000人 150,000人
大 砲 約400門 約500門
結 果 勝利 敗戦
損害 戦死者 2,492人 3,000人
負傷者 12,512人 10,807人
捕虜不明 2,922人 8,638人
この戦いでフランス軍に新式のラセン式大砲(旋条砲)が出現、その使用したラセン式大砲の射程(飛距離)と命中精度が、それまでの滑空式大砲に遥かに勝っていたため、ラセン式大砲が使用されるようになって、滑空式大砲が廃れました。

・ジャン・アンリ・デュナン
  Jean Henri Dunant
 (1828〜1910)
アンリ・デュナンはスイスの実業家で、厳格なカルヴァン派の伝統のなかで育ち、1859年にイタリア統一戦争に介入してオーストリア帝国と戦っていたナポレオン3世に会いにいき、両軍合わせて20万を超える軍隊が衝突し、4万人近くの死傷者が出る激戦の「ソルフォリーノの戦い」の現場に遭遇して、戦場の惨状に強い衝撃を受けました。デュナンは戦場に放置された死傷者の姿をみて、その救援活動をしている地元の女性たちの群れに入り、自らも救援活動に参加。何故敵味方分け隔てなく救済するのかと尋ねられ、「人類はみな兄
赤十字社
日本 1945 発行
弟」と答えたと伝えられています。1862年その体験を書いた「ソルフェリーノの思い出」(A Memory of Solferino)を出版、戦場において敵味方の区別なく負傷者の救護に当ることを目的とする赤十字の創設の契機となり、後の赤十字運動へと発展、国際赤十字社を創設(International Red Cross)し、1901年老人ホームにいたデュナンが73才で第1回ノーベル平和賞を受賞しました。
・参考HP:〜
 ・ソルフェリーノの場所地図(ガルダ湖の南)
 ・ガルダ湖の場所地図

クストーツァの戦い
  Battle of Custoza
 (1866/6/24)
クストーツァの戦いは第3次イタリア独立戦争(3rd Italian Independence War 1866)で、イタリア軍120,000人とオーストリア軍75,000人がヴェローナ(Verona)近郷のクストーツァ(Custoza, Venetia, Italy)で激突して、死傷者がイタリア8,147人、オーストリア5,650人で、オーストリアの決定的勝利となりました。

クストーザの戦いは、イタリアのヴェネト州ヴェローナ県クストーザ(Custoza, Verona province, Veneto region, Italy)で勃発した戦いで、ハプスブルク家(House of Habsburg, 11世紀-1780)のアルブレヒト大公(Archduke Albrecht, Duke of Teschen, 1817-1895)指揮のベネチア王国(Venetian Kingdom (Kingdom of Lombardy-Venetia), 1815-1866)とオーストリア帝国(Austrian Empire, 1804 -1867)の連合軍が、イタリア王国(Kingdom of Italy, 1861-1946)のアルフォンソ・フェレロ・ラ・マルモラ将軍(Alfonso Ferrero La Marmora, 1804-1878)とガエータ公爵エンリコ・チャルディーニ(Enrico Cialdini, Duca di Gaeta, 1811-1892)率いる数的優位のイタリア軍を撃破しました。

・参考HP:〜
 ・クストーツァの場所地図(ヴェローナの西に有:赤 X 印)
 ・19世紀イタリアの地図

上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。   2011/7/11
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