北東航路の探検
  Northeast Passage Expedition

SVERIGE
北極の地図
北東航路の地図(
ベーリング↓海峡

スウェーデン↑(黒い所)
スウェーデン 1989/8/22 発行小型シートより
Norfolk
ベーリング海峡の地図

ノーフォーク 1978/8/29 発行
US POSTAGE

ピアリ|の犬ゾリ
北極点への探検
犬ゾリ 1909


原子力潜水艦 USS Nautilus 1959

アメリカ 1959/4/6 発行
原子力潜水艦ノ|チラス号
SVERIGE
スカンジナビア半島の古地図、1662

スウェーデン 1991/1/30 発行

北東航路の探検
  Northeast Passage Expedition
北東航路はヨーロッパから北極海を抜けてアジアへ行く最短航路のことで、16世紀のバレンツ船長など多くの探検航海者が挑んでも達成できませんでしたが、ポモール達(Pomors)はアルハンゲリスク(Arkhangelsk)から東のシベリア北部へ向かう北極海航路(Northern Sea Route、北東航路:Northeast Passage、現在は夏期2ヵ月間航行可)を発見して交易に利用し、流氷の海を航海するためにコッチという船を使っていました。ウラル山脈の東の地方にまで足を伸ばし、16世紀初頭にはヤマル半島(Yamal Peninsula)東部のカラ海(Kara)に面したオビ湾(Gulf of Ob)沿いにマンガゼヤ( Mangazeya)の港を造りました。17世紀初頭にシベリアの遥か東のインディギルカ川(Indigirka River)三角州に成立したルスコエ・ウスティエ(Russkoye Ustye)村の創設者 コッチと同型船

ソ連 1949 発行
をポモール人だとする説もあります。16世紀にはマンガゼヤ〜アルハンゲリスクからスカンジナビア半島北岸を経由し、イギリス(モスクワ会社:Muscovy Co. 1555-1698)やオランダに至る海上貿易も盛んで、ポモール人はシベリア北部で手に入れた毛皮やセイウチの牙、マンモスの牙などを西欧に売って利益を上げました。1750年頃から1920年頃まではノルウェー北部地方の漁民とアルハンゲリスク地方の商人との間の交易が盛んでした。ポモール交易は19世紀には最盛期を迎えましたが、ソビエト連邦(1917/11/7〜74年後の1991年末日)成立により民間貿易が規制されると急速に衰退しました。また、ロシアのロマノフ朝(1613-1917)は中央政府によるマンガゼヤ航路への徴税ができなかったこと、イギリスやオランダが北極海に進出してシベリアへ浸透し勢力を確立することを恐れ、1619年に死刑でマンガゼヤ航路の航行を禁じました。

17世紀にはコサック(Cossack)が毛皮を求め内陸水路を伝って東シベリアへ進出、レナ川(Lena River 4,472km)、ヤナ川(Yana 872km)、インディギルカ川(Indigirka 1,726km)、コリマ川(Kolyma 2,129km)など大河を下って北極海の河口に出て、帆船(koch)で別の大河の河口へ航海するという探検を繰り返しました。1648年にはデジニョフ船長の一行がコリマ川河口から東へチュクチ海を進み、チュクチ半島を回って太平洋側のアナディリ川河口へと往復し、アジアとアメリカの間が陸続きでないことを発見しました。18世紀には毛皮を求める冒険商人に加え、地理学・地図学探検を目的とした学者や軍人による北極海探検が始まり、デジニョフの航海から77年後の1725〜1730年にベーリング船長がシベリアを横断しオホーツク海を渡ってカムチャツカ半島に着き、ここで聖ガブリール号を建造した後、デジニョフとは逆向きに東から西へ航海、1728年夏に北へ出帆してチュクチ海に至り、アジアとアメリカの間に海峡があることを確認。この海峡は彼の名を採ってベーリング海峡と命名されました。第2回カムチャツカ探検は1733〜1743年にかけて行われ、ベーリング船長と副長チリコフ船長が2隻でアメリカ大陸を目指し、2隻は嵐ではぐれ別行動をとり、ベーリング船長達は最初にアラスカ海岸を視認したヨーロッパ人となり、チリコフ船長達は最初にアラスカに上陸したヨーロッパ人となりました。ベーリング一行とは別に、ベーリング第2回カムチャツカ探検には他のロシア海軍軍人も参加し、セミョン・チェリュスキン(Semyon Ivanovich Chelyuskin 1700-1764)達は陸路でタイミル半島の海岸を調査し、1742/5月にタイミル半島の最北端の岬に到達。この岬がユーラシア大陸の最北端で、北東航路の最北端でした。彼は北東岬(Cape East-Northern)と名付けるも、現在はチェリュスキン岬(Cape Chelyuskin)と命名されています。

1764年にはロシアの科学者ミハイル・ロモノーソフ(Mikhail Vasilyevich Lomonosov 1711- 1765)が北東航路探検を計画し、ワシリー・チチャゴフ(Vasili Yakovlevich Chichagov 1726-1809)が3隻の艦隊でアルハンゲリスクを出港するも、航路発見とはなりませんでした。1785〜1795年にエカチェリーナ2世(Yekaterina II 1729-1796)の命令で英国海軍軍人ジョセフ・ビリングス(Joseph Billings 1758-1806)とロシア帝国海軍ガヴリール・サリチェフ提督(Gavril Sarychev 1763-1831)がオホーツク海側から北東航路を探検し東シベリア・アラスカ・アリューシャン列島の詳細な海図を作成しました。1820年代にはウランゲル提督、ピョートル・アンジュー(Piotr Fyodorovich Anjou 1796-1869)、リュトケ提督らが東シベリア沿岸を調査し、1830年代にも調査活動が行われました。

・北東航路の発見
本当に北東航路を通しての航海に成功したのはスウェーデン系フィンランド人の男爵ノルデンショルド博士(Baron Dr. Nils Adolf Erik Nordenskiold 1832-1901)でした。彼は1878年に蒸気式機帆船ヴェガ号(SS Vega 357t)でストックホルムからイェーテボリ(Goteborg)を経由してノルウェーのトロムソ港(Tromso)を出帆、途中ベーリング海で流氷に閉ざされ越冬後、翌夏に脱出し1879/9月に横浜港へ入港、神戸港に寄港後、長崎港から出帆。1880/4/24にストックホルムに帰港したヴェガ号は大勢の市民と花火による大歓迎を受けました。
犬ゾリ 1909

原子力潜水艦 ノーティラス号 1959
逆に東から西へ向かう航海は1915年にロシアのボリス・ヴィルキツキ(Boris Vilkitsky 1885-1961)が成功させました。なお、1958/8/3に米海軍の世界最初の原子力潜水艦ノーティラス号(USS Nautilus SSN-571 nuclear-powered submarine 1954-1980)が北極の氷の下の海中を潜り抜けるのに成功しました。

参考HP:〜
北東航路の地図(現在)
北極圏の地図(北極線”Arctic Circle”は点線)
ベーリング海とベーリング海峡の場所地図

・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。     14/2/3、2017/4/24

スタンプ・メイツ
Copyright(C):Spice
無断転載禁止