★スウェーデン 冒険航海(Adventure Voyage)
ニルス・アドルフ・ノルデンショルド博士
1879、北東航路発見・通過

大航海物語★
ノルデンシ

ルド男爵
SVERIGE
ニルス・アドルフ・ノルデンショルド博士

スウェーデン 1973/9/22 発行


ガ号

ノルデンショルド船長の探検航海地図、黒い所がスウェーデン


切手帳カバーの図
スウェーデン 1973/9/22 発行


北極海の北東航路
ノルデンショルド博士




←日本
中国
←シンガポール
←セイロン島

←スエズ運河


北極の地図
ノルデンショルド博士の航海地図(
ベーリング↓海峡

スウェーデン↑(黒い所)
スウェーデン 1989/8/22 発行小型シートより


ユ|ラシア大陸
NORGE
スパールバル諸島
スピ
ッツベルゲン島
ノールウェイ 1986 発行
←ノヴァヤ・ゼムリア島



←ストックホルム

スカンジナビア半島の古地図、1662

スウェーデン 1991/1/30 発行

SUOMI FINLAND
フィンランドの地図
スウ


デン
ロシア
フィンランド 1976/3/10 発行
開港頃の横浜港

日本開港150年記念
日本 2010/6/2 発行

現在の神戸港

第3回国際港湾協会総会記念
日本 1967/5/8 発行

開港頃の長崎港

日本開港150年記念
日本 2010/6/2 発行

フィンランド大公国生れのノルデンショルド博士はクリミヤ戦争の影響で祖国を追われてスウェーデンへ行きました。北東航路発見の探検航海へと、1878年にストックホルムから出発してノルウェーのトロムソ港で機帆船ヴェガ号へ乗船・出帆しました。途中ベーリング海峡の北200km付近で流氷に閉ざされ越冬後、翌夏に脱出し、1879/9月に横浜へ入港。日本各地で大歓迎を受け、長崎から離日しました。1880/4/24にストックホルムに帰港したヴェガ号は大勢の市民と花火による大歓迎を受けたと伝えられています。
男爵ニルス・アドルフ・エリク・ノルデンショルド博士 (1832/11/18〜1901/8/12)
  Baron Dr. Nils Adolf Erik Nordenskiold

  スウェーデン系フィンランド人科学者(Swedish-Finnish Scientist)、
  探検家(explorer)、鉱山学者(orientalist)
   生地:ロシア自治領フィンランド大公国のヘルシンキ地方生
   没地:スウェーデン中部スヴェアランドのセーデルマンランド地方(Sodermanland)ダルビョウの
       ノルデンショルド農園(Dalbyo, Sodermanland, Svealand, Sweden)、68才没

ノルデンショルド博士の冒険大航海:〜
1857、スウェーデンの北極海遠征(オットー・トレル北極海探検隊)でスピッツベルゲン島への探検航海
1858、同探検隊でスピッツベルゲン島への探検航海で、北極点まで720kmに到達
1861、第2回オットー・トレル北極海遠征隊でスピッツベルゲン島への探検航海
1864、スウェーデン王立科学アカデミーの北極探検隊長でスピッツベルゲン島へ探検航海、嵐で難渋
1867、同探検隊でスピッツベルゲン島への探検航海
1868、スピッツベルゲン島への探検航海で小型船ソフィア号にて同島最東端に到達
1870、グリーンランド探検で地質調査を実施
1871、スピッツベルゲン島探検にて食糧不足で飢えて死にかける
1872、ソフィア号でスピッツベルゲン島への探検航海
1875、ソフィア号でスピッツベルゲン島への探検航海で最北端(81° 42)に到達
1875、小型船でエニセイ川に到達、陸路で帰る
1878、北東航路発見の北極海遠征航海(1878/7/4-1880/4/24)
    ヴェガ号探検航海で北東航路を発見して北極海を通過
    ベーリング海峡をへて日本に寄港後、ケープタウンからスウェーデンへ帰港
1882、第2回ディクソン・グリーンランド隊航海でソフィア号にてグリーンランド西部ディスコ湾から
    グリーンランド南東部タシーラクに到達
1883、グリーンランドの内陸を踏破して東岸を探検

▼幼少期(フィンランド時代)
アドルフ・ノルデンショルド博士の曾祖父はスウェーデン王国から、17世紀当時はスウェーデンの属領だったフィンランドへ移住し定住した貴族でした。そしてノルデンショルド博士はスウェーデンとロシアの狭間でロシア帝国から自治を認められたフィンランド大公国(Grand Duchy of Finland, 1809-1917、現:フィンランド共和国)の首都ヘルシンキのマンツァラ(Mantsala)にて、鉱山学者・ロシア科学アカデミー(Russian Academy of Sciences, 1724)会員で宝石アレキサンドライト(alexandrite)の発見(1830)者ニルス・グスタフ・ノルデンショルド(Nils Gustaf Nordenskiold, 1792-1866)の7人兄妹の3番目の子として生まれ、鉱山学者の父グスタフ・ノルデンショルドに少年時代から鉱山調査を共にし、母から読み書きを教わりました。13才で兄弟と共にフィンランド南部ウーシマー県の海辺の町ポルヴォー(Porvoo, Uusimaa region, Finland)の有名な小学校(grammar school)に入学しました。

1849年17才で皇帝アレクサンドル大学(Imperial Alexander University, 1640、現:ヘルシンキ大学:University of Helsinki)に入学し、数学(mathematics)、化学(chemistry)、鉱物学(mineralogy)、地質学(geology)を学びました。1852年にはヘルシンキ大学で設立された地質・鉱物学教授の候補に選ばれました。1853年の大学卒業にあたり、父と共にロシアのウラル山脈(Ural Mountains)中のスヴェルドロフスク州にあるニジニ・タギル(Nizhny Tagil)へ鉄・銅などの鉱山調査へ赴き、鉱物を中心とした論文「グラファイト(黒鉛)とコンドロダイト(chondrodite、Silicate:ケイ酸塩鉱物の仲間)の結晶体」(On the crystal forms of the graphite & chondrodite)を書上げました。1853年にノルデンショルド博士は21才の若さで修士号(master's degree)を取得しました。1855年に「フィンランドの鉱物の起源」(Description of minerals occurring in Finland)という論文をを出版。1856年にシベリア調査の奨学金を得て、シベリアからカムチャッカ迄へも行くユーラシア大陸(Eurasia)横断の計画を立てるなど、大学での学者探検家として期待され、1856年に大学の鉱物学講師(Mineralogy Docent)に指名され、1857年に博士号(doctor's degree)の学位を取得しました。

ところが、1853年にロシア帝国とオスマン帝国の間で始まったクリミア戦争(Crimean War、1853-1856)の余波がフィンランドにまで及んできて、ノルデンショルド博士は大学での職を剥奪されました。当時のフィンランドは、ロシアの宗主下における自治保護国の大公国(Grand Duchy)だったので、ロシア総督府はスウェーデンがフィンランド奪回の動きを見せると、フィンランド人の独立の機運を阻止するため、フィンランドへの統制を強めていきました。スウェーデン人の血を引く博士はこの総督府の動きに対し反発を隠さなかったため、大学の職を追われ、また総督府の監視下に置かれてしまうなど、政治問題に巻込まれました。

失業した博士はスウェーデンに渡ることを決意し、1857年夏から冬期の間、スウェーデンのカロリンスク学院(Karolinska Institute)と自然歴史(博物学)博物館(Museum of Natural History)のロヴェン教授(Professor Sven Loven)との縁で、スウェーデンの北極海遠征(Swedish Arctic Expedition、1857、別名:オットー・トレル北極海探検隊:Otto Torell's Arctic Expedition 1856-1859)に加わり、スピツベルゲン島へ探検航海。2度目のアタックで北東ランド(North-east Land)と最北端ヒンロペン海峡(Hinlopen Strait)を海図に記入しました。

そして博士はヘルシンキ大学への復職を望み、1年で大学へと戻るも総督府の監視は続き、大学での成功は絶望的でした。そのためスウェーデン王立科学アカデミー(Royal Swedis Academy of Sciences, 1739)の教授職を持ちかけられると、博士はそれに同意。博士はスウェーデンに渡るのは一時的なことと考えているも、総督府の渡航の許可は事実上、追放処分と同じでした。こうして博士は、1860年にスウェーデンへと渡航しました。

▼冒険航海期(スウェーデン時代)
1861/1月にスウェーデン王立科学アカデミー(Royal Swedish Academy of Sciences 1739)の教授となりました。同年にスウェーデンのオットー・マーチン・トレル(Otto Martin Torell 1828-1900)が率いる第2回スウェーデン北極海遠征隊(Otto Torell's 1861expedition)に加わり、再度スピッツベルゲン島へ探検航海し、動植物地質学の調査(zoological, botanical & geological research)をしました。

1863/7/1にアンナ・マンネルヘイムと結婚し、4人の子供に恵まれました。1864年に第3回北極探検、主としてスピッツベルゲン島の南端方面を調査後、レポート(Svenska expeditionen till Spetsbergen ar 1864)を書きました。1868/7/7に蒸気式機帆船ソフィア号(steamship Sofia)船長オター男爵(navy captain Baron von Otter)で北極点(North Pole)へと出帆。ベア・アイランド(Bear Island)からスピッツベルゲン島へ向い、同島の北西端キングス湾(Kings Bay)で化石を採取。嵐で難渋して、11時間も飲まず食わずでポンプで水を汲み出して港へ退避。北緯81°42′に到達。帰港後の同年にイギリス王立地理学協会(British Royal Geographical Society)から金メダルを受賞しました。

1870年にグリーンランド探検。ヌーク(Nuuk)から氷原56kmを調査するも横断はできませんでした。13年後にも探検するも横断はできず、15年後にナンセンが横断に成功。

1872/秋にスピッツベルゲン島モッセル湾(Mossel Bay)の冬期基地からトナカイのソリ(reindeer sled)1台で北極点へと出発するも、補給の失敗で飢えと壊血病になって、1873/3月に雪嵐で迷った一人の犠牲者を出して終了。

1875年にノールウェイ(Norway)からロシア・シベリアのエニセイ河(Yenisei River, 5,539km)航路(passage)を発見。1876年にフィラデルフィア万国博覧会(Centennial Exposition, Expo 1876/5/10-11/10)を見物。

ノルデンショルド博士のヴェガ号冒険大航海:〜
  (Vega Expedition 1878/6/22-1880/4/24)
スウェーデン王オスカル2世(Oscar II of Sweden, 1829-在位1872-1907、ノルウェー国王在位1872-1905)承認のもと、スウェーデン人類学地理学協会(Swedish Society for Anthropology & Geography)と王立ヨーテボリ科学協会(Royal Society of Sciences and Letters in Gothenburg)が後援し、スウェーデンの豪商オスカー・ディクソン(Baron Oscar Dickson, 1823 -1897)やロシアの豪商アレクサンドル・シビリャコフ(Alexander Mikhaylovich Sibiryakov, 1849-1933)も支援する北東航路(Northeast Passage)発見の北極海遠征航海で、1878/6/22に蒸気式バーク型機帆船ヴェガ号(steamship SS Vega, 1872, 357t)船長ルイス・パランデル大佐(Capt. Swedish naval lieutenant Louis Palander 1842-1920)、乗組員21人に多数の科学者と2年分の物資を積んでストックホルム南方イェータランド(Gotaland)のブレーキンゲ県カールスクルーナ市の軍港カールスクルーナ(Naval Port of Karlskrona(Karlshamn説有), Karlskrona Municipality, Blekinge County, Blekinge Province, Gotaland, Sweden)から北極海を経てアジアへと向かって出帆しました。

・北東航路探検船隊の編成:〜
 ・ヴェガ号(steamship SS Vega, Swedish barque, 1872, 357t)蒸気式バーク型機帆船
   船長ルイス・パランデル大佐、スウェーデン海軍士官(Swedish naval officer)航海士(Navigator)
 ・レナ号(Lena)、物資輸送の支援船
 ・物資輸送の支援船(Cargo ship)、2隻

・ヴェガ号の主な乗組科学者:〜
 ・ノルデンショルド博士(隊長:総司令官)
 ・エルンスト・アルムクヴィスト(Ernst Almqvist, 1852-1946)、26才
   スウェーデン人医師、植物学者・菌類学者(lichenologist)
 ・チャールズ・ジョン・アンダーソン(Charles John Andersson, 1827-1867)、56才
   スウェーデン生まれのイギリス系冒険家、狩猟家、アマチュア博物学者
 ・ジアコモ・ボーヴ(Giacomo Bove, 1852-1887)、26才
   イタリア人船長、船の位置をクロノメーター時計と天測で測定
 ・アンドレアス・ピーター・ホーブガード海軍中尉(Andreas Peter Hovgaard 1853-1910)、25才
   デンマーク人気象学者、気象や磁気を観測
 ・フランス・レインホルド・キェルマン(Frans Reinhold Kjellman 1846-1907)、32才
   スウェーデン人植物学者、北極海や日本の藻類を研究
   スウェーデンの新聞(Stockholms Dagblad)にこの航海の日記を掲載
 ・オスカー・フリチオフ・ノルドクビスト海軍中尉(Oscar Frithiof Nordquist 1858-1925)、20才
   フィンランド人水路学者・動物学者、ロシア語の通訳を務める
 ・アントン・スタックスベルグ(Anton Stuxberg 1849-1902)、29才
   スウェーデン人動物学者

・ヴェガ号の冒険大航海:〜
1878年
6/22、スウェーデンの軍港カールスクルーナ港を出帆
7/04、イェーテボリ港(Goteborg)に寄港
7/17、ノルウェーのトロムソ港(Tromso)に寄港、ノルデンショルド博士が乗船
    北東航路の発見へと出帆、支援貨物船3隻レナ号他が随行
    バレンツ海(Barents sea)を東へと航海
    ノヴァヤ・ゼムリア島(Novaya Zemlya Island)南からカラ海(Kara Sea)を航海
8/06、ロシア最北クラスノヤルスク地方の港町ディクソン港(Dikson)到達、支援船2隻と別れる
8/28、レナ河(Lena river 4,400km)に到達
    レナ号はレナ河を遡上してヤクーツク(Yakutsk)へ向う
    ユーラシア大陸最北端チェリュスキン岬(Cape Chelyuskin)を史上初めて船で回航に成功
9月中旬、チュク海(Chukchi Sea)を航行
9/28、チュクチ半島(Chukchi Peninsula)のコリューチン湾(Kolyuchin Bay)に投錨
    ベーリング海峡(Bering Strait)迄、210kmとなる
9/30、ベーリング海峡近くで流氷に閉ざされ越冬
    アメリカ海軍のデロング隊(DeLong Expedition)ジャネット号が救出のためサンフランシスコ港
    からベーリング海へ向うも、ヴェガ号と遭遇できずに北極点へ向うが、氷で破壊され沈没
1879年
7/18、ヴェガ号がベーリング海峡の北200km付近で流氷から解放される
    チュクチ族の民俗学的調査を実施
7/20、アジア最東端のチュクチ半島(Chukotka peninsula)デジニョフ東岬(Cape Dezhnev)を回航
   一人の死者も出さずに脱出、北東航路の通過に成功、
   ベーリング海峡を通過
   セント・ローレンス島(St. Lawrence Island)沖を航海
   コマンドルスキー諸島(Commander Islands)沖を航海
   カムチャツカ半島沖を航海
   太平洋を南下
9/02、横浜港へ入港
9/15、歓迎の祝典が旧東京帝国大学工学部の前身、工部大学校で開催される
9/17、明治天皇に謁見
    神戸港に寄港、
    ヴェガ号の一行は神戸、京都などを観光した後、
10/21、長崎港を出帆、帰国の途につく
     中国(China)に寄港
     シンガポール(Singapore)に寄港
     セイロン島(Ceylon)コロンボ港に寄港
     インド洋を横断
     スエズ運河を通過
1880年
2/04、ナポリ港(Naples)に寄港
    地中海を西進後、大西洋を北上
4/24、ストックホルム港に帰港
    男爵に叙されて、ノース・スター勲章(Order of the North Star)を受勲
1881年、「アジアとヨーロッパを巡るヴェガ号の航海」を出版

▼帰港後(晩年)
それまでバレンツ船長など多くの探検航海者が挑んでも達成できなかったヨーロッパからアジアへ抜ける最短航路の、北大西洋から氷の北極海を通って太平洋へ出るという北東航路の発見・通過を成し遂げたノルデンショルド博士の偉業は、横浜からストックホルムへ打電して知らされました。帰国したノルデンショルド博士一行は、国内外から賞賛と大歓迎を受けました。その中に若きスヴェン・アンデシュ・ヘディン(Sven Anders Hedin 1865−1952)がいて、ノルデンショルド博士の偉業に感動して探検家の道へ進む決心をさせたといわれています。1884年に初めてヘディンはノルデンショルド博士に会って生涯師事し、探検家への思いをますます強めました。ヘディンはノルデンショルド博士の息子グスタフ・ノルデンショルドと親友になりました。グスタフもまた父と同じく探検家の道を志すも、1895年に南米を探検中に遭難して亡くなりました。

1882年に第2回ディクソン・グリーンランド探検隊(2nd Dickson Expedition, 1882-1883)でソフィア号にて、スカンジナビア半島北部ラップランドからロシア北部コラ半島に居住するサーミ人(Sami people)3人と共にグリーンランド西部ディスコ湾からグリーンランド南東部タシーラク(Tasiilaq:旧称アンマサリク(Ammassalik)に到達しました。1883年にはグリーンランドの内陸を踏破して東岸を探検。1893年にスウェーデン学士院(Swedish Academy, 1786)の第12代院長に就任しました。ノルデンショルド博士は1899年に、中央アジア探検(ペルシア、メソポタミア旅行:1885−86や、ペルシア派遣使節団の一員でメルヴ、ブハラ、サマルカンド、カシュガルなどを旅行:1890−91)で名声を得ていたスヴェン・ヘディンと共にロシアのサンクトペテルブルクに滞在し、ロシア帝国最期の皇帝ニコライ2世Nicholai II、1868-在位1894-19173/15-1918/7/17)にフィンランドに対する自治権回復の嘆願書を携え、使節団の一員として謁見を求めるも、ニコライ2世は謁見を拒否しました。でも皇帝は数時間前にスヴェン・ヘディンとは謁見していました。その後ノルデンショルド博士はフィンランドとの繋がりを大切にして講演活動などをしながら、生涯スウェーデン王立科学アカデミーの教授として、1901年に亡くなるまでスウェーデンのストックホル近郷で暮しました。

▼家族
・父:ニルス・グスタフ・ノルデンショルド(Nils Gustaf Nordenskiold, 1792-1866)、74才没
  鉱山学者・ロシア科学アカデミー(Russian Academy of Sciences, 1724)会員で
  宝石アレキサンドライト(alexandrite)の発見(1830)者
・母:ソフィア・マルガリータ・フォン・ハートマン(Sofia Maragareta von Haartman, 1829結婚-1860没)
・妻:アンナ・マリア・マンネルヘイム(Anna Maria Mannerheim, 1840-1924、婚期1863-1901)、84才没
子供:〜
・エヴァ・マリア(Eva Maria, 1864-1886)、22才没
・グスタフ・エリク・アドルフ(Gustaf Erik Adolf, 1868-1895)、28才没
  スピッツベルゲン島と北米メサ・ヴェルデ探検(Mesa Verde)
・アンナ・ソフィア(Anna Sofia, 1871-1941)、70才没
・ニルス・アーランド・ハーバート(Nils Erland Herbert, 1877-1932)、55才没
  南米探検(Patagonia, Argentina, Bolivia, Peru, Brazil)、南アメリカ民族誌学 (ethnographer)
・もう一人は夭折
母方の甥
・ニルス・オットー・グスタフ(Nils Otto Gustaf Nordenskjold 1869-1928)、59才没、極地探検

こちらで、
リンネ博士
リンネソウ(Linnaea borealis)
をお楽しみください。

参考HP:〜
ニルス・ノルデンショルドの航海地図(北東航路の地図)
スパールバル諸島の場所地図(ベア・アイランドとカラ海有)
カールスクルーナの場所地図(赤丸)
チュクチ半島の場所地図
ベーリング海峡の場所地図

フィンランドの地図(日本語)
スウェーデンの地方(ランドスカープ:Landskap)の地図(区分地図)
スウェーデンの地図(Uppsala、Umea, Lulea有)

・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。     14/3/14、2017/2/24
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