Russia

国連 1989 発行
切手で綴る 海軍大航海 (Naval Voyage)
ゲンナジー・ネヴェリスコイ提督
1848
ネヴェリスコイ(間宮)海峡を帆船で通過


大航海物語
  ロシア編

CCCP
ゲンナジー・ネヴェリスコイ

ソ連 1989/12/28 発行

ロシア帝国の
軍 艦 旗→
白地に青色線



大 砲→
イカリ→

    corner label
    DPR KOREA
  マミヤ(タタール)海峡

北朝鮮 2001/10/23 発行
小型シートより


←樺太(サハリン)
北方4島(千島列島)
←宗谷海峡(ラ・ぺルーズ海峡)
←北海道






小笠原諸島


マリアナ諸島

ネヴェリスコイ提督はロシア帝国の海軍提督で、ロシア極東探検(サハリン)をなし、1848年に間宮海峡を世界最初に帆船で通過し、航海できることを実証・成功して航海者・探検家として名を残しました。1809年に日本の間宮林蔵が探検調査した「フヨリ」と呼ばれていた所に、サハリンでロシア最初の居住地「ニコラエフスク・ナ・アムーレ」を建設しました。
ゲンナジー・イヴァノヴィチ・ネヴェリスコイ提督 (1813/12/5〜1876/4/29)
Gennady Ivanovich Nevelskoy

ネヴェリスコイ提督は現在のコストロマ州ドラキノ(Drakino、Soligalichsky District, Kostroma Oblast)で生まれ、ロシア帝国バルチック艦隊に入隊しました。

1848年にネヴェリスコイ提督は輸送艦バイカル号(Baikal)の艦長で、当時ロシア極東の根拠地だったカムチャツカ半島へ物資補給に向かいました。到着すると、ロシア東シベリア総督として極東一帯を管轄していたニコライ・ムラヴィヨフ・アムールスキー(Nikolai Nikolaevich Muraviyov-Amurskii、1809-1881)から、当時「清」の領土であり、まだ地理などがよく知られていなかったアムール川河口周辺の調査を持ちかけられ、承知しましたので、ムラヴィヨフ総督は皇帝ニコライ1世に調査を請願し、政府の許可を取り付けました。

ネヴェリスコイ提督の大航海:〜
・クロンシュタット港(?)〜ペトロパブロフスク港、バイカル号(〜1848)
・ペトロパブロフスク港〜サハリン探検、(1848〜1858)

1848年にネヴェリスコイ提督は探検隊を率いて、ペトロパブロフスク・カムチャツキー港を、サハリン(Sakhalin、樺太 カラフト)及び中国の清の領土だったアムール河流域)の探検航海に出帆しました。そして、サハリン周辺とアムール河々口で詳細な調査を行い、海峡が船舶通航可能であることを確認しました。さらにアムールを遡上しての調査に着手しました。

1850/8/13にアムール河々口から遡上したネヴェリスコイ提督はニコラエフスク砦(現在のニコラエフスク・ナ・アムーレ、Nikolayevsk-on-Amur、ハバロフスク地方)に、ロシア最初の居住地を造りました。そこは41年前の1809年に間宮林蔵が探検調査し、サハリン(樺太)が島であることを確認して滞在した「フヨリ」と呼ばれていた所でした。ただ、船舶通航の可能性については、まだ誰にも知られていませんでしたので、樺太とユーラシア大陸の間の海峡(タタール海峡)の最狭部を通過・航海して、”ネヴェリスコイ海峡”(Strait of Nevelskoy)と名づけました。なお、その周辺はタタール湾(Gulf of Tartary)、タタール海峡(Strait of Tartary)と呼ばれていました。

1787年にはフランスのラ・ペルーズが樺太とアジア大陸の間の海峡の航海を試みましたが失敗。1804年には長崎に来航したロシアのクルーゼンシュテルン提督が帰途サハリン探検を行いましたが、海峡通過に失敗しました。その両者の報告では海峡に奥深く入るにしたがって、海水の塩分濃度が低下することを確認していたため、1800年前後のヨーロッパでは、サハリンは半島ではないかとの議論が起こっていました。その後、シーボルトは間宮林蔵の調査を評価して、その著書「日本」においてタタール海峡の最狭部を「Str. Mamia seto 1808(間宮の瀬戸)」と記載しました。但し、海峡には「Kanaal van Tataryen(タタール海峡)」と記載していました。

ネヴェリスコイ提督はアムール河流域の領有を進めようとするムラヴィヨフと組んで、さらにアムール川を遡り調査を行いました。1850年にアムール河沿岸やサハリンなどに、ニコラエフスク砦の他にも砦を造り、1858年までの間にアムール河を何度も探検しました。これらは1858年のアイグン条約によるロシアのアムール川左岸領有に大いに役立ちました。

1876年にネヴェリスコイ提督は、当時ロシア帝国の首都サンクトペテルブルク(Saint Petersburg)で63才で亡くなりました。

なお、ニコラエフスク砦は町としての資格を認められ、沿海州が設置された1856年にコラエブスキーからニコラエフスクに改称。清のアロー戦争敗北後、外満州一帯は1858年のアイグン条約と1860年の北京条約でロシア帝国に割譲され、ここもロシアの一部となりました。ニコラエフスクはハバロフスクからは977km、コムソモルスク・ナ・アムーレの鉄道駅からは582kmの距離にある。

・参考HP:〜
 カムチャッカ半島、サハリン、北海道の場所地図
 樺太(サハリン)の地図樺太(サハリン)の50度線地図
 コムソモルスク・ナ・アムーレの場所地図
 ボルガ河流域の地図

参考:〜
アイグン条約 (1858/5/28)
 Treaty of Aigun

アイグン条約はロシア帝国と中国の清が、1858/5/28に中国北東部、アムール川中流のアイグン(現黒竜江省黒河市)において結んだ条約。 条約によって、1689年のネルチンスク条約以来、清国領とされてきたアムール川左岸をロシアが獲得し、ウスリー川以東の外満州(現在の沿海州)は両国の共同管理地とされた。また、清はロシアにアムール川の航行権を認めた。 19世紀から20世紀初頭にかけて、清が列強と結ぶことを余儀なくされた不平等条約の一つである。太平天国の乱やアロー戦争(第二次アヘン戦争)による清国内の混乱に乗じたロシア帝国東シベリア総督ニコライ・ムラヴィヨフ・アムールスキーが清国全権・奕山に認めさせた。現在のロシア連邦と中国の極東部での国境線は、このアイグン条約と1860年の北京条約で確定されたものが基本となっているが、その後の河川の流路の変化により、中ソ国境紛争など両国の対立の原因の一つとなっていた。しかし、2004年にようやく国境全部の画定が完了した。 この条約により、実質的にネルチンスク条約の効果は完全に失われた。

ネルチンスク条約(中国語:尼布楚條約) (1689)
 Treaty of Nerchinsk

ネルチンスク条約は、1689年にロシア帝国と康熙帝時代の大清帝国との間で結ばれた両国の境界線などについて定めた条約。清とヨーロッパ国家との間に結ばれた初めての対等な条約で、その内容は満洲(現・中国東北部)での国境を黒龍江・外興安嶺(スタノヴォイ山脈)の線に定めるというもの。その後、1858年のアイグン条約で黒竜江が両国の境界線となり、1860年の北京条約でネルチンスク条約は廃棄された。

・間宮海峡(まみやかいきょう) No.8
 Strait of Mamiya、
  タタール海峡

   Strait of Tartary
     中国語:韃靼海峡
間宮海峡は、樺太(サハリン)とユーラシア大陸(北満州・沿海州)との間にある海峡の、日本における名称で、アメリカ合衆国、イギリス、ロシア、中国をはじめとする諸外国では、この海峡をタタール海峡と呼んでいる。日本でも、タタール海峡と記された地図は多い。この海峡は、北はオホーツク海、南は日本海に通じ、長さはおおよそ660km。最狭部の幅は約7.3km、深さは最浅部で約8m。冬の間は凍結し、徒歩で横断することも可能。海峡を広く見た場合、全体をタタール海峡と呼び、最狭部をネヴェリスコイ海峡と呼ぶことがある。
マミヤ(タタール)海峡↓
「間宮海峡」の名称はタタール海峡と同義に使われることが多いが、最狭部のネヴェリスコイ海峡の意味で使われることもある。

・参考地図HP:〜
 間宮海峡(タタール海峡)の場所

・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。        09/3/25
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