★ロシア
ペトロパブロフスク・カムチャツキー
1740
ベーリング船長がペトロバブロフスクと命名

大航海物語
 参考資料★
COOK ISLANDS
カムチャッカ、1779年

クック諸島 1968/9/12 発行
CCCP
ベーリングの航海地図
ベーリング海

ベ|リング ←アラスカ

アリューシャン列島
カムチャッカ半島 ピョトル号
1681 ベーリング生誕275年記念 1956
ソ連 1957/2/6 発行

ペトロパブロフスク・カムチャツキー
  Petropavlovsk-Kamchatsky

   1740年、ヴィトゥス・ベーリングが”ペトロバブロフスク”と命名
ペトロパブロフスク・カムチャツキーはカムチャツカ半島南部アバチャ湾にある港町で、1697年にカムチャツカ半島の領有を宣言したロシア帝国が、ロシア帝国海軍士官ヴィトゥス・ベーリングにシベリア最東部や北太平洋の調査を命じて、1740年にベーリング第2次北東探検隊がカムチャツカ半島の太平洋岸を調査、アバチャ湾(Avacha Bay)に到達・発見、そのアバチャ湾の奥に上陸した所を、その時の2隻の探検調査帆船サンクト・ピョートル号(St Peter:聖使徒ペテロ号スヴャトーイ・ピョートル・アポーストル:Sviatoi Piotr the Apostle)、サンクト・パーヴェル号(St Paul:聖使徒パウロ号スヴャトーイ・パーヴェル・アポーストル:Sviatoi Pavel the Apostle)に因み、”ペトロバブロフスク”(Petropavlovsk)と名付けたのが、その名の起源になりました。

その後、ロシア帝国はカムチャツカ半島からチュコート半島、さらにアリューシャン列島からアラスカへと探検調査を拡大し、さらにクリル諸島(千島列島)の南下を始めるロシア帝国の極東部の軍事・行政の中心地として、また毛皮の捕獲基地として、天然の良港ペトロパブロフスク・カムチャツキーは繁栄しました。1854年にはクリミア戦争(1853-1856)で英仏連合艦隊の攻撃を受けましたが(ペトロパブロフスク包囲攻撃戦)、都市の防衛に成功しました。

アイグン条約(1858)と北京条約(1860)により、ロシアが中国の清からアムール川北岸や沿海州を獲得すると、極東経営の中心はウラジオストク(Vladivostok)に移り、1867年のアラスカ・アリューシャン列島のアメリカへの売却、乱獲による毛皮交易の衰退などにより、ペトロパブロフスク・カムチャツキーの重要性は低下しましたが、カムチャツカ半島では群を抜く規模の大都市として、その後も存在し続けました。

ロシア革命を経てソビエト連邦が成立すると、ペトロパブロフスク・カムチャツキーはソ連海軍太平洋艦隊が太平洋に出撃するための重要な軍港として、また太平洋やオホーツク海における北洋漁業の基地として繁栄。戦後に外国人の立ち入りが禁止される閉鎖都市になり、冷戦時代にはアメリカや日本の沿岸で活動する原子力潜水艦の基地がアバチャ湾対岸のヴィリュチンスク市(Vilyuchinsk)に置かれました。1990年にソ連の崩壊で開放が始まると、アメリカや日本などからの商用客や観光客が訪れるようになり、新たな産業の発展が期待されています。

日本との関係は、18世紀の半ばから19世紀の半ばまでロシア極東部の中心のペトロパブロフスクは、日本の江戸幕府との関係も比較的深かく、1812年に交易商人高田屋嘉兵衛が捕らえられ、翌年までこの地で幽閉されてロシアのゴローニン船長一行との捕虜交換が行われました。1787年にはフランスのラ・ペルーズ船長の探検隊が寄港し、ここで下船させたバルテルミ・ド・レセップス(Jean-Baptiste Barthelemy de Lesseps 1766:仏エロー県セット(Sete)生-1834:リスボン没 )に日本列島やサハリンの近海調査の結果をパリまで報告させ、その後、ラ・ペルーズ探検隊は遭難し全員が死亡したので、この町からヨーロッパにもたらされた地理的知識は非常に大きな価値を持つことになりました。1905年に日露戦争が終結し、ポーツマス条約で日本が北洋漁業の操業権を獲得すると、日魯漁業の漁業基地が設置され、多くの日本人漁業労働者が現地の水産工場で勤務しました。第2次世界大戦の日本敗戦後には日本との交流は途絶え、ソビエトの対日軍事拠点として機能するも、ソ連邦の崩壊後は、開放政策の開始で再び日本人がこの町を訪れるようになりました。

ロシアのカムチャツカ州の州都ペトロパブロフスク・カムチャツキー市の人口は、
  19万8千人(2002)、ソビエト時代末期:27万人を超える
  最近ではカムチャツカ州全体人口の約半分
  首都モスクワからの距離は約6200km
  2005/10/23の投票でカムチャツカ州(Kamchatka Oblast)と
  コリャーク自治管区(Koryak Okrug)の合併が決定
  2007/7/1にカムチャツカ地方(Kamchatka Krai)が成立しました。

1648年、ロシアのセミョン・デジニョフがカムチャッカ半島を探検
1697年、ウラジーミル・アトラソフ(Vladimir Vasilyevich Atlasov 1661-1711)が65人の
      コサックと60人のユカギール族で半島を調査、カムチャツカ川に船着場2つを造り
      そこがロシアの毛皮商人たちの交易の拠点となる
17世紀末、ロシア帝国(ピョートル大帝)がカムチャツカ半島の支配を宣言
1701年頃、ロシア帝国が日本人漂流民の伝兵衛らと出会って日本という国を知る
       なお、伝兵衛らを見つけたのはアトラソフとの説有
1704-06年、コサック達が独自に植民地を形成、先住民カムチャダール族たちを搾取
1705年、ロシア帝国がサンクトペテルブルクに日本語学習所を設置
1711年、ヤクーツクから地域の秩序を取り戻すために派遣されたアトラソフが殺害される
      その後カムチャツカはヤクーツクからの中央の影響を受けない半独立的な地域となる
1713年、約500人のコサックがいたとされ、コサックの過剰な搾取は住民の反乱を招き、
1731年、蜂起した住民がニジネカムチャツキーに暮らしていたコサックたちを殺害
      残ったコサックたちは火器や大砲で反撃して蜂起を治め先住民族を殺害
1740年、ヴィトゥス・ベーリングが”ペトロバブロフスク”(Petropavlovsk)を命名
      その後カムチャツカは流刑地となり、次第に開発され、
      ロシア帝国政府はカムチャツカ半島への入植を奨励
1750年、18世紀初めには約2万人いたとされる先住民族が8,000人になる
1764年、ロシア帝国がイルクーツクに日本航海学校を設置
1768年、ロシア帝国がイルクーツクに日本語学校を設置
1771/7/8、モーリツ・ベニョヴスキー(Maurice Benyovszky, 1746-1786)がカムチャッカから
       脱獄し帆船聖ピョートル号を奪い阿波国徳島藩日和佐(現徳島県美波町)に来航
1774年、シェリコフがオホーツクからカムチャッカに大航海
1787年、フランスのラ・ペルーズ船長が寄港
1809年、ロシアのゴローニン船長が補給物資を輸送してディアナ号で到着
1811年、ゴローニン船長と乗組員8人が日本(クナシリ(国後)島で捕えられる
      ロシアのリコルド副長がディアナ号を指揮してペトロパブロフスク港に帰港
1812年、リコルド副長がディアナ号でゴローニン船長一行の釈放を求めに出帆し、
      観世丸に乗船していた高田屋嘉兵衛を捕えてペトロパブロフスク港に帰港
      先住民族は約3,200人を切るが、ロシア人は2,500人となる
1813年、前年からこの地で幽閉されていた日本の商人・高田屋嘉兵衛が
      ロシアのゴローニン船長一行との捕虜交換で帰国、一方の函館で釈放された
      ゴローニン船長一行がペトロパブロフスクに到着、サンクトペテルブルグへ出帆・帰国
1854年、クリミア戦争で英仏連合艦隊の攻撃を受ける(ペトロパブロフスク包囲攻撃戦
      988人の成人男子が68丁の銃で、206丁の銃を持った2,540人の英仏軍の侵入を撃退
      英仏軍の退却後、ペトロパヴロフスクは軍事的責務を解かれ、
      軍港の機能はウスチ・アムールに移される
1855/4月、守備隊と市民は雪に閉ざされたペトロパブロフスク港を脱出し、
       英仏軍に見つかることのない濃霧の中、デ・カストリ湾のデ・カストリ港へと
       オホーツク海を横断し、アムール河口のニコラエフスク港に到達して脱出に成功
1855/5/21、日本での外交交渉を終えたプチャーチンがヘダ船でペトロパブロフスクに到着
1855年、再び英仏軍がきて港を攻撃するとペトロパヴロフスク港は無人となっていた
1860年、ロシアの沿海州が設置され、カムチャツカ半島はその管理下に置かれる
1858年、アイグン条約
1860年、北京条約
1867年、アラスカがアメリカ合衆国に売却され、アメリカへ渡る商人や探検家の中継地としての
      ペトロパヴロフスクの意義もなくなり衰退
19世紀末、カムチャッカ半島のロシア人は2,500人ほどで、先住民は5,000人に増加
1905年、日露戦争が終結
1932/10/20、カムチャツカ州が設置される
1990年、ソ連が崩壊
1998/8月、北海道の釧路市との港湾友好都市(姉妹都市提携)協定が締結され、釧路空港などの日本国内のいくつかの空港からチャーター直行便が毎年夏に数便飛ぶようになっています。

・参考HP:〜
 ・ペトロパブロフスク・カムチャツキーの場所地図
 ・カムチャツカ半島南部とペトロパブロフスクの場所地図
 ・アバチャ湾の航空写真地図
 ・カムチャツカ半島の地図(ロシア語)
 ・ペトロパブロフスク・カムチャツキーの場所地図(Google Map)
 ・カムチャッカの場所地図(日本語、ペトロパブロフスク・カムチャツキー有)
 ・クリル諸島の地図(クリル諸島=千島列島)
 ・クリル諸島の地図(千島列島、日本語)
 ・ロシアの地図(日本語)
 ・ロシアの州別地図
 ・アムール川付近の地図
 ・パラナの場所の地図
参考:〜
ペトロパブロフスクの包囲攻撃戦 (1854/8/28-9/7)
 Siege of Petropavlovsk

  ペトロパブロフスク守備隊と英仏連合艦隊〜ロシアが撃退、勝利
ペトロパブロフスクの包囲攻撃戦はクリミア戦争(1853/10-1856/2)の太平洋における主要な戦いで、1854年の8月から9月にかけて、ロシア帝国の極東最大の拠点だったカムチャツカ半島のペトロパブロフスク(Petropavlovsk-Kamchatsky)港(当時の沿海州はまだ中国(清領)でロシア領ではない)に対して、イギリス・フランス連合艦隊(Allies)が港に砲撃を浴びせて上陸を敢行しました。これに対して、艦船の数でも兵力でも劣るロシア帝国軍が防衛戦に成功、ロシア側の犠牲者100人ほどに対して英仏連合軍は5倍ほどの犠牲者を出して撤退した戦いです。
カムチャッカ、1779年
ロシア帝国軍は老朽艦パルラーダ号を遠くシベリアのアムール川(River Amur)へと移動させ、イルクーツク(Irkutsk)の東シベリア総督ニコライ・ムラヴィヨフ(Nikolai Nikolaevich Muraviyov-Amurskii、1809-1881)の指揮下にカムチャツカ小艦隊を配備していました。ペトロパブロフスク港にフリゲート艦アヴローラ号(Aurora、44門)と輸送船のドヴィナ号(Dvina、12門)が投錨していました。この他に、遣日全権使節・海軍中将エフィム・プーチャーチン(Yevfimy Vasilyevich Putyatin 1803-1883)指揮下のプーチャーチン艦隊4隻が、対日開国外交交渉のため日本及び清国(中国)の近海に出動していました。

開戦時のロシア帝国海軍戦力:〜
  カムチャツカ小艦隊2隻、その他3隻(計5隻)
カムチャツカ小艦隊:〜
・アヴローラ号(Aurora、 920人 砲:44門艦)、フリゲート艦
・ドヴィナ号(Dvina、砲:12門艦)武装輸送船
・アナディリ号(small schooner, Anadis)、小型スクーナー艦
・シトカ号(10-gun transport Sitka)、武装輸送船
・アヴァッツカ号(commercial vessel Avatska)、商船

プーチャーチン艦隊:〜4隻
・パルラーダ号(Pallada, 60門艦)、フリゲート艦・旗艦〜老朽艦
・ヴォストーク号(Vostok、4門艦)、汽走スクーナー艦(蒸気式戦艦)〜
  1851年イギリスで商船として建造され、1852年に3,375ポンドで
  ロシア海軍が購入後、軍艦に改装された2本マストの帆装と蒸気
ロシアの軍艦

ロシア 1971/12/15 発行
  機関の有るスクリュー・プロペラ方式推進装置付で、
  武装は68ポンド榴弾砲4門、騎兵銃60丁を搭載、
・オリーヴツァ号(Olivutsa、20門艦)、コルベット艦
・メンシコフ公爵号、露米会社武装輸送船
  1853/7月小笠原諸島の父島で合流して4隻の艦隊を編成後、1853/8/22長崎に来航
  なお、プーチャーチン艦隊はペトロパブロフスク防衛のために7月以降解散となる

・ディアナ号(Diana、52門艦)、新造フリゲート艦(1853)〜
  老朽艦パルラーダ号の代艦として回航中で不参加
ヘダ号(Heda)、スクーナー型〜プチャーチン提督がペトロパブロフスク港に1855/5/21到着
  ヘダ号は日本で君沢形と呼ばれる西洋式帆船の型式で、幕末に日本の戸田村などで難破し
  たロシア船員帰国用に同型船10隻を日本使用で建造された、2本マストに縦帆を張った帆船

1854/8/28に英仏連合艦隊のフリゲート(frigate)艦3隻、コルヴェット艦(corvette)、ブリッグ艦(brig)、蒸気式戦艦(steamship)の軍艦6隻に兵2,600人と大砲218門を乗せて、カムチャッカのアバチャ湾(Avacha Bay)に侵入しました。対するロシア軍はフリゲート艦、武装輸送船2隻、小型スクーナー艦、商船などと、海軍大佐ワシリー・ザヴォイコ(Vasily Stepanovich Zavoyko 1809-1898)率いる守備隊1,000人弱が大砲67門で待ち構えて応戦しました。

ロシアの戦争参加艦船:〜
・アヴローラ号、フリゲート艦
・ドヴィナ号、武装輸送船
・アナディリ号、小型スクーナー艦〜連合軍が捕獲
・シトカ号、武装輸送船〜連合軍が捕獲
・アヴァッツカ号、商船〜連合軍が撃沈

1854年
6/21、沿海地方インペラートルスカヤ湾でムラヴィヨフとプーチャーチンが協議、
    東シベリア沿岸の防備強化のためプチャーチンの艦隊を解散し、
    ヴォストーク号とオリーヴツァ号は東シベリア総督の指揮下に編入
    メンシコフ公爵号は露米会社の指揮下に編入、老朽艦パルラーダは、
    捕獲を避けるため武装解除の上アムール川河口へ送ることを決定
    プーチャーチンはパルラーダ号で日本の開国交渉へと出帆
    アヴローラ号とドヴィナ号はペトロパブロフスク港の港内に避難後に、
    ペトロパブロフスク港で予想される英仏連合軍の上陸作戦に備えるため同港で待機
7月、英仏艦隊がハワイのホノルルで合流
8/28、英仏連合艦隊がカムチャツカ半島のアバチャ湾に到着、
8/30、英仏艦隊が湾内のペトロパブロフスク港に前進して艦砲射撃を開始、開戦。この艦隊に
    対し、ザヴォイコ大佐率いる守備隊には大砲が67門しかない苦戦の中で頑強に抵抗し、
    英仏軍は翌日も砲撃を続けることにして、一旦引き揚げました
8/31、プライス提督が乗艦内でピストルで頭を撃って自殺を遂げましたので、湾内上陸をしばらく
    延期するも、イギリス軍指揮をピク号のニコルソン艦長が引き継ぎ、敵前上陸のために
    再度アバチャ湾内に艦隊を侵入させました
9/4、英軍のバーリッジ(Burridge)と仏軍のデ・ラ・グランディエール(de La Grandiere)率いる
   英仏水兵などからなる700人の陸戦隊(Naval Brigade)が湾内に上陸しペトロパブロフスク
   市街への突入をはかるも、待ち伏せいたロシア兵との激戦の後、英軍死傷者は107人、
   仏軍死傷者は101人に達し退却、別働隊970人の英仏連合軍がペトロパブロフスク市街の
   西に上陸するも、360人ほどのロシア軍により撃退されました
9/7、英仏連合軍はペトロパブロフスク占領を断念して撤退し、英艦隊プレジデント号とヴィラー
   ゴ号がロシアの小型船アナディリ号と輸送船シトカ号の2隻を捕獲して撤退しました。

こうして、ロシア帝国軍は2隻と守備隊で応戦、戦死:100人、商船アヴァッツカ号沈没と、捕獲の小型船と輸送船との3隻喪失の損害をこうむりましたが勝利して、軍港都市ペトロパブロフスク港が守り抜かれました。英仏は戦死:500の損害を出して撤退しました。イルクーツクのムラヴィヨフ東シベリア総督に勝利が伝えられ、さらにシベリアを横断して帝国首都サンクトペテルブルクへも朗報が届けられました。ムラヴィヨフ総督は遠隔地で補給もままならないペトロパブロフスク港の防衛の不利を思い、守備隊の撤退を決定し、その決定はイルクーツクから厳冬のシベリアとオホーツク海を越えてペトロパブロフスク港に届けられました。
1855年
初め、パルラーダ号の喫水は深くアムール川河口へは入れず、
    沿海地方のインペラートルスカヤ湾内に係留後に越冬の上、同地で自沈
3月、ムラヴィヨフ東シベリア総督のペトロパブロフスク守備隊撤退命令がカムチャツカに届く
4月、ザヴォイコ大佐率いる守備隊と市民は雪に閉ざされたペトロパブロフスクを脱出し、英仏軍に見つかることのない濃霧の中、間宮海峡の西岸チハチョーフ湾のデ・カストリ港(De-Kastri)へとオホーツク海を横断し、アムール河口のニコラエフスク(Nikolayevsk-on-Amur)に到着
4月、英仏連合艦隊がカムチャッカから完全撤退
5/21、日本での外交交渉を終えたプーチャーチン提督がヘダ号でペトロパブロフスク港に到着
    日本にいたプーチャーチン提督に英仏軍の当地攻撃の情報が伝えられていなかったが、
    残留哨兵から戦闘の発生と守備隊の撤退を知らされたので、直ちにペトロパブロフスク港
    を出帆、途中でイギリス艦に発見されるが濃霧を利用して追跡を振り切る
5月、英仏連合艦隊は再度ペトロパブロフスクを攻撃するも、もはや無人でした。
    その後、カムチャツカを拠点にロシア軍艦船の捜索を行うも全く実りが無く、
    イギリスはカムチャツカの領有を模索することも、カムチャツカに攻撃することもせず
6/20、プーチャーチン提督がオホーツクのニコラエフスク港に到着

・英仏連合艦隊:〜
英仏連合艦隊には海軍少将デイヴィッド・プライス(Rear-Admiral David Powell Price 1790-1854)提督指揮下の大英帝国太平洋艦隊(Pacific Station)の艦船と、海軍少将オーギュスト・フェヴリエ=デポワント(Rear-Admiral Auguste Febvrier-Despointes 1796-1855)率いるフランス軍太平洋艦隊の艦船は、合計9隻(計200門)がありました。イギリスのプライス提督はチリニあるイギリス太平洋艦隊の母港バルパライソ(Valparaiso)から5隻を出撃させ太平洋を横断し、1854/7月にハワイのホノルルでデポワント提督が率いるフランス艦隊と合流。フリゲート艦アンフィトライト号、アルテミス号、トリンコマリー号の3隻を北米カリフォルニア沿岸でのロシア艦船に対する警戒へ出撃させ、本隊はペトロパブロフスク港のロシア艦船と戦うために太平洋を北上、カムチャツカ半島に向かい、英仏連合艦隊は1854/8/28にカムチャツカ半島アバチャ湾に到着。

・英仏連合艦隊の編成:〜
イギリス太平洋艦隊〜3隻
  司令官:提督デイヴィッド・プライス少将
フリゲート艦プレジデント号
  (HMS President, 52門艦 450人 frigate 1,534屯)〜旗艦
  艦長フィチャード・ブリッジ(Captain Richard Burridge)
・5等フリゲート艦ピク号(HMS Pique, 40門艦, fifth-rate frigate.,1,633屯)
  艦長フレデリック・ニコルソン卿
  (Sir Frederick William Erskine Nicolson, 10th Baronet 1815-1899)
・蒸気式戦艦(汽走艦:外輪船)ヴィラーゴ号
  (HMS Virago, 6 paddle steamer Brig 1,696屯)
  艦長エドワード・マーシャル(Commander Edward Marshall)
イギリスの軍艦

フランス太平洋艦隊:〜3隻
  司令官:提督オーギュスト・フェヴリエ・デポワント少将
・フォルテ号(Forte, 砲:60門艦)〜旗艦
・エウリディース号(Eurydice, 砲:30門艦)
・オブリガド号(Obligado, 砲:18門艦)

連合軍の捕獲ロシア軍艦艇:〜2隻
・小型スクーナー艦アナディリ号(small schooner, Anadis)
・武装輸送船シトカ号(10-gun transport Sitka)

・作戦不参加艦艇:〜3隻
イギリス太平洋艦隊:〜(2隻)
・レダ級フリゲート艦トリンコマリ号(HMS Trincomalee, 24門艦, Leda-class frigate 1,053屯)
  艦長ワラス・ヒューストン(Captain Wallace Houstoun)
・レダ級フリゲート艦アンフィトライト号(HMS Amphitrite, 24門艦, Leda-class frigate, 1,036屯)
  艦長チャールス・フレドリック(Captain Charles Frederick)
フランス太平洋艦隊〜(1隻)
・アルテミス号(Artemise, 砲:30門艦)
プーチャーチンの日露和親条約の締結と、
  ヘダ号 (Heda):〜(Treaty of Shimoda 1855)
日本での津波により大破して遭難したロシアのディアナ号船員の帰国用に現:沼津市の君沢(きみさわ)郡(へだ)村でスクーナー型帆船ヘダ号が建造され、プーチャーチン中将はヘダ号で、日本からペトロパブロフスク港に帰りました。それは日本で君沢形と呼ばれる日本最初の西洋式帆船型式で、幕末の日本で同型船10隻が、日本で使用するために量産されていました。
プーチャーチン提督が下田に上陸

ロシア 1971/12/15 発行
そのプーチャーチン提督は、1852年海軍中将・侍従武官長になって、ロシア皇帝ニコライ1世(Nicholai Aleksandrovich Romanov、1796-1855)から平和的に交渉することを命令され、対日開国交渉のために、日本との条約締結の遣日全権使節として、1852/9月にロシア帝国首都サンクト・ペテルブルクを出帆してイギリスに行き、蒸気式スクーナー機帆船を購入、軍艦に改装してボストーク号(Vostok、4門艦)と命名。11月にクロンシュタット軍港を出帆した旗艦フリゲート艦パルラーダ号(Pallada, 60門艦)がイギリスのポーツマス港に到着、修理を行った後、ボストーク号を随伴してポーツマスを出帆。喜望峰を回航、セイロンフィリピンのマニラを経て、1853/7月小笠原諸島の父島でコルベット艦オリバーツァ号(Olivutsa、20門艦)、露米会社武装輸送船メンシコフ公爵号と合流しました。

ペリー提督来航の1ヵ月半後の1853/8/22(嘉永6/7/18)に、パルラーダ号が旗艦のプーチャーチン艦隊4隻が長崎に来航しました。長崎奉行の大沢安宅(在任1852-1854)に国書を渡し、江戸から幕府の全権が到着するのを待つも、クリミア戦争に参戦したイギリス軍が極東のロシア軍を攻撃するため艦隊を差し向けたという情報を得て、11/23に長崎を出帆、一旦上海へと向いました。上海で情報を収集するなどした後、1854/1/3(嘉永6/12/5)再び長崎に到着、幕府全権の川路聖謨(1801-1868 旗本)などと、計6回会談。交渉はまとまらなかったが、将来日本が他国と通商条約を締結した場合にはロシアにも同一の条件の待遇を与えることなどで合意しました。1854/2/5(嘉永7/1/8)に一定の成果を得たプーチャーチン提督はフィリピンへ向かい、マニラで船の修理や補給を行った後、極東シベリアへと出帆。1854/9月にロシア沿海州(プリモルスキー州:Primorsky Krai)のインペラートルスカヤ湾(Imperator Bay(Peter the Great Bay)現:ウラジオストック(vladivostok)付近)に到着。旗艦パルラーダ号は木造の老朽艦のため、本国から回航して来た新造艦ディアナ号に乗り換えました。旗艦以外の3隻の船は、イギリス艦隊との戦闘に備えるため沿海州に残ることとなり、プーチャーチン提督はディアナ号単艦で再び日本に向かい、10/21(嘉永7/8/30)、函館に入港、同地での交渉を拒否されたため大阪へ向かいました。翌月に大阪の天保山沖に到着、大阪奉行から下田へ回航するよう要請を受けて、12/3(嘉永7/10/14)に下田に入港。報告を受けた幕府は再び日本(江戸幕府)側全権の大目付格槍奉行 筒井政憲((1778-1859)と勘定奉行公事方に出世した川路聖謨、勘定吟味役 村垣範正(1813-1880 旗本)を下田へ派遣、プーチャーチンとの交渉となりました。

ところが、交渉開始直後の1854/12/23(安政元年11/4)に安政東海地震(マグニチュード8.4)が発生し下田一帯も大きな被害(7mの津波(tsunami)で約900戸破壊)を受け、ディアナ号も津波により大破し、乗組員にも死傷者が出たため、交渉は中断になりました。津波の混乱の中でプーチャーチン一行は、波にさらわれた日本人数名を救助し船医が看護したので、幕府関係者らにも好印象を与えました。プーチャーチン提督は船の修理を幕府に要請、交渉の結果、伊豆の戸田村(へだむら、現:沼津市)がその修理地と決定し、ディアナ号は応急修理をすると戸田港へ向かうも、その途中、宮島村付近で強い風波により浸水し航行不能となり、乗組員はボートで脱出した他、付近の浜辺から漕ぎ出した数十隻の救助船の村人の救助などで無事でした(約500人)。ディアナ号は漁船数十艘により曳航しましたが沈没しました。プーチャーチン一行は戸田村に滞在し、幕府から代わりの船の建造の許可を得て、ディアナ号にあった他の船の設計図を元にロシア人指導で、日本の船大工により代船の建造に取り掛かりました。1855/1/1(安政元/11/13)に中断されていた外交交渉が再開され、5回の会談の結果、2/7(安政元/12/21)にプーチャーチンは遂に長楽寺で日露和親条約(Treaty of Shimoda 1855、別名:下田条約)の締結に成功しました。

日露和親条約(1855)の主な内容:〜
・千島列島における、日本とロシアとの国境を択捉島(Iturup)と得撫島(Urup)の間とする
・樺太においては国境を画定せず、これまでの慣習のままとする
・ロシア船の補給のため箱館(函館)、下田、長崎の開港(条約港の設定)
・ロシア領事を日本に駐在させる
・裁判権は双務に規定する
・片務的最恵国待遇
本条約では最恵国待遇条項は片務的であったため、1858年に日露修好通商条約で双務的なものに改められました。条約交渉開始時点では樺太の国境を画定する予定でしたが、両国の主張が対立したため国境を画定できず、1875(明治8)/5/7の「樺太・千島交換条約」によって一応の決着をみました。

・ヘダ号
 (Russian Schooner Heda)
1855/4/26(安政2/3/10)に約3ヵ月の突貫工事で代船が完成、戸田村民の好意に感激したプーチャーチン提督は”ヘダ号”(Heda)と命名しました。ヘダ号は60人乗りで、プーチャーチン提督一行が全て乗船することが出来ない大きさでしたので、プーチャーチン提督は下田に入港していたアメリカ船を雇い、前月に159人の部下をペトロパブロフスク港へ先発させていました。ヘダ号完成後の5/8(安政2/3/22)、プチャーチン提督は部下47人と共にヘダ号に乗船、ペトロパブロフスクに向けて出帆しました。5/21ペトロパブロフスクに入港するも、既に英仏連合軍は撃退され、ロシア軍の防衛隊も退却に成功していたため(ペトロパブロフスク包囲攻撃戦)、さらに航海を続け
君沢形ヘダ号の同型船

カンボジア 1958 発行
宗谷海峡を通って、6/20にハバロフスク地方(Khabarovsk Krai)のニコラエフスク(Nikolayevsk-na-Amure)に辿り着きました。同地から陸路を進み、11月にサンクト・ペテルブルクに帰還を果たしました。同年7月には残りの乗組員300人程がドイツ船でロシア領を目指しましたが、途中でイギリス船に拿捕され捕虜となりました。なお、その後ロシア人らは外国の商船を雇い入れるなどして、3グループに分けて無事に帰国したという説もあります。

・ヘダ号の装備:〜
  Heda
、1855、(スクーナー
船 型 ”君沢形”スクーナー船(キミザワガタ:Schooner) ”君沢形”の同型船
帆 柱 2本マスト
長 さ 24.5m、キール(竜骨長):18.93m、
     甲板長:約21m(71feets)
7.23m
深 さ 3m、船足が軽いので、ディアナ号沈没前に出した地金約56屯をバラストに入れ、水面から小縁まで高さ1.8m余となる
積載量 400石(約100屯)、60人乗り
設 計 ロシアの技術将校モジャイスキー大尉
設計が55日後に完成
建 造 戸田村内の船大工棟梁7人と、主として戸田から松崎間の船大工約40人、人夫150人と、沼津から鍛冶師が動員され従事
造船場所 戸田村湾内南岸の牛ガ洞(うしがほら)
臨時奉行所 戸田村字奥南の御用船掛の
勝呂三兵衛(すぐろ・やさべい)宅
設計場所 戸田村字小中島の造船御用掛の大田亀三郎宅、
1.5km離れた宿舎からロシア人は毎日徒歩で通う
作 業 露天でテーブル代わりに逆さまの樽上に納戸の戸を置く
日本側は
西洋式造船術を会得する絶好の機会と考え、
積極的にロシア人に協力することを言明、実行
進 水 設計から約百日の安政2/3/10(ロシア暦4/14)進水式を行い、
15日頃完成、17日に港内外を試験帆走、結果は上々
建造費 3100両、戸田号は大砲ナシ。
戸田港の有る戸田(へた)は沼津藩領と旗本領の入会地で、君沢(きみさわ)郡戸田村の当時の人口は約3000人、石高820石ほどで、他に漁業、船乗りが主な仕事。安政地震の津波で30人の死者が出て、そんな折の西洋艦製造、また異人500人ほどが滞留で困り果てていた上に、各藩からの造船見学者が公式、非公式に訪れていました。露艦製造後、同型の君沢型帆船6隻建造となり、助郷を免除して欲しいとの請願書が残っています。ロシア人がひどく感心した道具は大工が使う「すみ壷」で、ロシア人は六尺棒で墨を引きました。最初は上海行きの大型ボートを急造するとの話で、早出・居残りで作業を急ぎました。ロシア語通訳がいないため、またロシア人にオランダ語の分かるものがいなく、しばらくはひどく混乱。ロシア人の指示に従って手鋸、カンナ、のみ、差し金など日本の道具を用いて熱心に働き、次第に熟練していったことが「『下田日記」にかかれています。例えば松ノ木を蒸し焼きにしてタールをつくり、これを麻に染み込ませ、ロープにすることで腐食防止ロープを作るなど、毎日の仕事に驚嘆しながら、役人や七人の船大工匠は細大もらさず製造工程を克明に記録、また数百人の職人、人夫すべてが一生懸命働きました。設計が行われている間にも、舟を組み立てる台座、滑車などが着々と制作され用意され、「ロシアと日本」には、ロシア職人たちは、滑車を作ったり、その他の部品を仕上げたりするために、旋盤を作ったと記録されています。ロシア乗組員に大工や鍛冶職の心得があるものがいて、日本の船大工や鍛冶職の指揮をとりました。また、その他の乗組員も協力し、日本側からは、七人の船大工匠のほか、下河津の船大工匠の鈴木長吉など、主として戸田、松崎間の船大工約40人、人夫150人が招集されました。また、東海道や近郷の村々の鍛冶職人などが残らず呼び寄せられ、人夫が不足で、下田や江戸からも呼び集められて、ロシア船建造の道具、品々の製造をしました。鍛冶場小屋も新設され、沼津から鍛冶師が動員された。造船用資材として、鋼延べ板・銅棒・銅鋲・地金・釘などが江戸から送られ、木材は主として付近の松、楠木、あるいは御浜岬の松、備蓄中の船材などが用いられました。

嘉永6/9/15(1855)に、1635年(寛永12年の武家諸法度)から200年余続いた「大船建造禁止令」が解除となり、それまで500石(約75屯)以上の大船の建造、2本以上の帆柱や竜骨(キール)使用が禁止されていましたのが自由となり、軍艦製造も自由となりました。竜骨禁止で、和船は逆風の時には櫂(魯、八丁魯など)で漕いでいました。当時の洋船と和船の違いは「大船建造禁止令」で、竜骨(船底の中心線を船首から船尾まで貫通するキール。力学的に船体構造が非常に強くなる)の概念が日本船にはありませんでした。幕府は西洋帆船西洋技術を確かなものにし、また需要が多く、君沢形(別読み:クンザワガタ)は一挙に10隻を建造することになり、6隻は戸田で、残り4隻は江戸石川島で建造。露艦造船世話係だった「7人の大工」を中心に、すべて日本人の手で行われ、戸田村での6隻は6ヵ月で完成。記憶だけではなく、日本人の特性である記録が完全で、作業は無理なく行われたと記録されています。その前に、上田寅吉、鈴木七助の二人は、長崎伝習所に出張を命じられ、中心人物を欠いていましたが、技術レベルは高度で何の問題も発生せず。一隻が2600両との建造費までが記録され、幕府は新造船を各藩に貸与、戸田で建造された6隻は、会津と長州へ2隻ずつ、2隻は幕府が使用。

・参考HP:〜
 ・プリモルスキー州の地図とインペラトール湾の場所地図
 ・アムール川付近の地図
 ・千島列島の地図(日露の国境線有、1845、1855、1875年)

・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。        11/2/3、11/2/11追記
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