日本固有の領土の帰属をめぐる紛争 (3)
<日本 vs ロシア>

航海物語
Japan

国連 1982 発行
北方四島 紛 争 北方四島 Rassian Federation

国連 2013/5/2 発行

地図
北方四島
1946〜
Kuril Islands dispute
現在も係争中

日本郵便 NIPPON

日本固有の領土”北方4島”
地図とエトピリカ
地図とチシマサクラ
地図とハマナス


←エトロフ(択捉)島
←クナシリ(国後)島
←シコタン(色丹)島
←ハボマイ(歯舞)諸島




日本 2005/8/22 発行

日本郵便 NIPPON


北海道
北海道と北方4島

日本 2005/8/22 発行


←エトロフ(択捉)島
←クナシリ(国後)島
←シコタン(色丹)島
←ハボマイ(歯舞)諸島



ラッコ
    DPR KOREA
  マミヤ(タタール)海峡↓


←樺太(サハリン
←北方4島(千島列島)
←宗谷海峡(ラ・ぺルーズ海峡)
←北海道







小笠原諸島


マリアナ諸島
北朝鮮 2005 発行
小型シートより

CCCP(USSR)
ロシアの地図
北方四島は北海道からカムチャッカまで連なる千島列島の南西端に有
←カムチャッカ半島


サハリン(樺太)

←北海道
生産力増大5ヵ年計画
第23回共産党大会記念

ソ連 1966/9/29 発行


MOCANBIGUE
北方四島の場所地図
サハ↓リン  ↓北方四島

モザンビーグ 1991 発行



←エトロフ(択捉)島)
←クナシリ(国後)島道
←シコタン(色丹)島太)
←ハボマイ(歯舞)諸島

北方四島
  Kuril Islands dispute

  (日本固有の領土の帰属をめぐる紛争)
北方四島の領土問題は、北海道の知床半島と根室半島の間の沖合に浮かぶ島々を、
現在ロシア連邦が実効支配している所が、実は日本固有の領土なのです。
その島々とは:〜(北から)
・択捉島(Iturup Island、エオトロフ島):3,185.65ku、北海道根室振興局管内に所属、日本最北端で、
      日本の主な島では最大の大きさで、四国に次ぎ、国後島の2.1倍強、沖縄本島の約2.7倍、
      大きい方から択捉島、国後島、沖縄本島(1,208ku)、佐渡島(855ku)、奄美大島(712ku)
      対馬(696ku)、淡路島(592ku)・・・・・等々
・国後島(Kunashir Island、クナシリ島):1,490ku、北海道根室振興局に所属、
      沖縄本島より大きく、北方四島で2番目の大きさを持つ島、中部に火山が多数聳える島
・色丹島(Shikotan Island、シコタン島):255ku、北海道根室振興局管内の色丹郡色丹村に所属、
      島全体が比較的なだらかな山地・丘陵になって、
      島の南北両岸には天然の良港が多く、コンブ・サケなどが豊富
・歯舞群島(Habomai Islands、ハボマイ群島):約100.9ku、
      小笠原諸島(104ku)とほぼ同じ、1959年根室市編入、
      地質構造的には色丹島と共に根室半島の延長が部分的に陥没したものとされ、
      地形や植生なども根室半島に似て、台地状の平坦な島々が多く、馬の放牧が盛んでした、
      (大きい島6有)、
       ・多楽島 11.7ku
       ・志発島 45ku〜群島で最大の島
       ・勇留島 10.6ku
       ・秋勇留島 2.7ku
       ・水晶島 13.7ku
       ・貝殻島 (満潮時水没すること有)、など
    北方四島の領土合計:約5,036ku
これらの島々の北方領土を日本が返還を求めている領土問題。なお、貝殻島は低潮時には海面上に有るも、高潮時には水没するため、国連海洋法条約での低潮高地で、島ではないことになります。
日本政府は「日本はロシアより早くから北方領土の統治を行っており、ロシアが得撫島(ウルップ島:Urup:アイヌ語”紅鱒”(ベニマス)の意)より南を支配したことは、太平洋戦争以前は一度もない」と主張しています。その周辺には古来よりアイヌ人が先住していました。

1635年、(寛永12)江戸幕府に蝦夷地を与えられた松前藩が藩士に命じ、北方4島へ調査隊を派遣、
      国後・択捉などを含む蝦夷地の地図を作成、4島を自藩領と認識する
1643年、(寛永21)オランダ東インド会社のフリースがウルップ島、エトロフ島、クナシリ島に上陸、
      ウルップ島に「コンパニースラント」(東インド会社の土地)と命名・領有宣言の十字架を建立
      エトロフ島には「スターテンライト」(オランダ国の島)と名付ける
1644年、(正保元)幕命により松前藩が提出した自藩領地図「正保御国絵図」にクナシリ(国後島)、
      エトロホ(択捉島)、シイモシ(占守島)、ウルフなど39の島々が描かれ
      択捉島などが日本地図に記載された最初の4島とされている。(1661:寛文元)
1661年、択捉島伊勢国の七郎兵衛の船が漂流、アイヌの助けで国後島を経て蝦夷(北海道)へ渡る
1662年、(寛文2)七郎兵衛が江戸へ帰着(勢州船北海漂着記)
1700年、(元禄13)に松前藩は千島列島を含む蝦夷地の地名を記した松前島郷帳を作成、幕府に提出
      この郷帳に北海道本島からカムチャツカ半島までが記載さる
1711年、(宝永8)ロシアの囚人兵らがカムチャツカ半島から北千島の占守島に侵攻
      占守島でアイヌとの交戦があるも、降伏
1712年、(正徳2)「恵渡路部漂流記」には薩摩国大隅の船が択捉島に漂着
      従って「択捉島には日本人よりも先にロシア人が到達した」という説明は誤り
1713年、ロシア人のコズイレフスキーが北千島の幌筵島(パラムシル島)に上陸占領、アイヌ人を支配
1715年、(正徳5)幕府に松前藩主が「北海道本島・樺太・千島列島・勘察加」は松前藩領と報告
1731年、(享保16)国後・択捉の首長らが松前藩主のもとを訪れ献上品を贈る
1745年、(延享2)5月に竹内徳兵衛ら多賀丸の漂流民11人が中部千島の温禰古丹島に漂着
1754年、(宝暦4)松前藩が家臣の知行地として国後場所に属する国後・択捉・得撫の三島を開く
      当初の「国後場所」の領域には択捉島や得撫島も含まれる
1766年、ロシアのイワン・チョールヌイがカムチャツカ半島から南下、
      (明和3)ロシア人が初めて得撫島以南に到達、毛皮目的のラッコの捕獲などを開始、以後、
      日露両国の活動が交錯、得撫島では住み始め、現地アイヌを使ってラッコ猟をし、得撫島の
      チョールヌイが択捉島アイヌからサヤーク(毛皮税)を取り立てる(ロシア最初の文献記録有)
1770年代、ロシア人がラッコなどの毛皮を求めて千島列島(クリル諸島)を
      南下してきて、南千島の択捉島、国後島などに現れる
1770年、(明和7)択捉島のアイヌがロシア人の目を避けて得撫島沖で
      ラッコ猟をしてロシア人に見つかり逃げたアイヌが襲撃される
1771年、(明和8)アイヌが得撫島のロシア人を襲撃、同島から追い出す
      ハンガリー人アウリツィウス・アウグスト・ベニヨフスキーがロシア
      帝国による千島列島南下(南下政策)を警告、次第に幕府や
      学者は「北方」に対する国防を唱えるようになる
ラッコ
1772年、得撫島で千島アイヌとロシア人が衝突、ロシア人が島から退去するも、その後も来航する
1776年、(安永5)ロシア商人シャパーリンが択捉島アイヌからサヤークを受け取る
1778年、(安永7)北海道・霧多布にロシア人が現れ交易を求めるが、ロシア人の所持していた
      地図には国後島までがロシアの色で塗られ、これに対し松前藩の役人は抗議
1786年、(天明6)幕府が幕吏の最上徳内を派遣、「国後場所」の択捉島と得撫島を初の本格的調査
      そして択捉島にはロシア人3人が居住、アイヌの中にロシア正教を信仰する者がいて、
      ロシアは国家に帰属し納税意識を持たせるため進出した地でロシア正教を布教と報告
1789/5月、松前藩の飛騨屋がアイヌ人を酷使したので、国後島泊の運上屋(交易拠点)を襲撃。
       対岸の根室・標津方面へ広がり、「国後目梨の蜂起」(クナシリ・メナシの戦い)が勃発
       松前藩は260人の鎮圧部隊を送り込み、首謀者のアイヌ人37人を全員処刑して鎮圧
       その結果で日本人の国後島領有が確立
1791年、(寛政3)最上徳内が択捉島と得撫島を再度探検
1796年、イギリスのプロヴィデンス号ブロートン船長が新知島(シムシル島:Simushir)に来訪、
      ブロートン船長に因んで武魯頓湾(ブロートン湾:Brouton Bay)命名
1798年、(寛政10)幕府による北方視察が大規模に実施され、近藤重蔵がアイヌのエカシ(首長)の
      了承のもと、「大日本恵土呂府」の木柱を立て日本領を主張、
      その翌年には蝦夷地を幕府の直轄地(天領)にし、高田屋嘉兵衛に航路を運営させる
      それは択捉島を影響下に置く意図をもつロシアに対抗するため
1800年、(寛政12)国後場所から新たに択捉場所が分立して「エトロフ会所」を振別に開設、
      その他にほとんどがアイヌである当時の択捉島住民1,118人の人別帳を作成、
      高田屋が老門に番屋を建て漁場10ヶ所を開き、
      和人による漁業・越年を始めるなど、各村の礎が築かれる
1801年、(享和元)幕府が富山元十郎と深山宇平太を得撫島に派遣、
      「天長地久大日本属島」の標柱を建て領有宣言
1804年、(文化元)7/18に継右衛門ら慶祥丸の漂流民6人が北千島の幌筵島東浦に漂着
1807年、(文化4)幕府が東蝦夷地を直轄地としてから色丹島と共に
      歯舞群島に出稼ぎ労働者によるコンブの採取が始まる
1807/4月、択捉島北東部の紗那と内保(留別村)の集落がロシア海軍大尉のフヴォストフ(Khvostov)
      率いる露米会社の武装集団が襲撃(シャナ事件)、紗那は弘前藩と盛岡藩が警固を行うも、
      火力の差に圧されて奥地へ退避、会所にいた間宮林蔵も巻き込まれる。この時に日本側に
      動員されたアイヌと日本側を攻撃したアイヌもいた。その後は盛岡藩などが警備
1811年、(文化8)ディアナ号がエトロフ島のホープ海峡から同島東海岸までを測量、地図作製
      ディアナ号がクナシリ島を探検・測量している時に日本の松前藩に拿捕される
      ゴローニン艦長と乗組員8人が捕えられ、2年間も箱館で投獄・幽閉される
1813年、一時帰港していたディアナ号の副艦長リコルド海軍大尉の尽力で、
       ロシア側が捕らえた高田屋嘉兵衛らの日本人を解放するのと引き換えに
       ゴローニン艦長が捕虜交換で解放される(文化10/9月)
1845年、(弘化2)露米会社の船が択捉島に来航して交易を要求する
1855年、(安政元)日露和親条約(下田条約)を結び、択捉島と得撫島の間を国境線とする
      択捉島以南が日本領として画定
1857年、(安政2)日本はアイヌを日本国民とし、アイヌの生活圏が日本領であると主張
      ロシアが択捉島の日本領有を認める、
      開国後は択捉島は仙台藩領となり、仙台藩兵が駐留し警固
1869年、蝦夷地を北海道と改称し、国後島・択捉島の行政区分を合わせて「千島国」とし五郡を置く
1872年以降、イギリスなどの船が入り込み、ラッコやオットセイの狩猟を開始する
1872年、中部千島・捨子古丹島の火山が噴火し、出猟中の千島アイヌ13人が死亡
1875/5/7、(明治8)サンクトペテルブルク樺太・千島交換条約が締結され
       樺太と北千島(18島)が交換され、全千島列島が日本領となる、
       なお北千島(Kouriles Islands:クリル群島)は得撫島(ウルップ島)
       以北、すなわち日露和親条約で定められた国境より南の南千島
       (北方四島)は含まれないとする説
1877年、(明治10)歯舞群島定住が始まり、昆布採取の生産者・漁師などが
      居住、その後も島内の産業は昆布や海苔、ホタテ貝の採取が主で、
      タラなどの沖合漁業も行う、
      勇留島や志発島、多楽島では約200頭ずつ馬を飼育
1884年、(明治17)イギリス船長スノー(Henry James Snow、1848-没年不詳)
      がリッチリバー号でラッコなどの密猟をしながら10年に渡って測量を
      行い、千島列島の地図を作製、帰国後に叙勲(Sir H. J. Snow)される
大日本帝国の領土地図

昭和5年1930/9/25発行
1893年、千島報效義会の会員が北千島の占守島、幌筵島、捨子古丹島で越年して、幌筵島1人、
      捨子古丹島9人全員が死亡、日本政府は国策として国防を理由に千島アイヌを色丹島に
      強制移住させ、慣れない生活と風土のため、アイヌの人口が激減
1904年、日露戦争(-1905)
      ポーツマス条約で南樺太が日本に割譲される
1914/6/28、オーストリア・ハンガリー帝国皇太子フェルディナント大公夫妻がサラエヴォで暗殺される
1914年、第1次世界大戦勃発(-1918)、サラエボ事件がキッカケで開戦といわれている
1917年、ロシア革命(-1918)
1918年、シベリア出兵(-1922)
1919年、世界大戦々勝国側の大日本帝国が南洋諸島を委任統治(-1947)、ヴェルサイユ条約(1922)
      10万人以上が移住、第2次世界大戦後は米国領で、その後に独立、現在の北マリアナ諸島、
      パラオマーシャル諸島ミクロネシア連邦の地域(赤道以北の旧ドイツ領ニューギニア地域)
      (赤道以南の旧ドイツ領ニューギニアの地域はオーストラリアニュージーランドが委任統治)
1931年、満州事変勃発
1932年、満州国が建国される(-1945)
1937年、日中戦争勃発
1939/5/11、ノモンハン事件(-1939/9/16)、大日本帝国の敗戦
        満州国とモンゴル人民共和国の間の国境線について起こった日ソ両軍の国境紛争事件
1939/8/23、ドイツとソ連の間で「独ソ不可侵条約」が締結される
1939/9/01、ドイツ軍がポーランドへ侵攻、第2次世界が大戦勃発(-1945)
1940/9/27、(昭和15)「日独伊三国同盟」が日本、ドイツ、イタリアの間で締結される
1941/4/13、(昭和16)「日ソ中立条約」が締結される(有効期間5年)
1941/6/22、ドイツがソ連に奇襲攻撃をかけ独ソ開戦、
        ドイツの攻撃を知った駐日ソ連大使が日本外務省に「日ソ中立条約」の順守を要請すると、
        「日本は順守する」との返事で、ソ連大使が涙を流して喜んで礼を述べたと伝えられている
1941/12/8、(日本時間)日本のハワイ真珠湾奇襲攻撃で日米開戦
1942/ 6/17、新任アメリカのソ連大使スタンリー将軍がルーズベルト大統領親書をスターリンに手交、
        大統領は再び日本軍のソ連侵攻に言及し、極東に米軍基地建設を求めるもスターリン
        は独ソ戦の激戦が続く間、日本との関係を悪化させないとスタンリー大使に言明
1943/10/30、米・英・ソ三国外相のモスクワ会談で開催されたクレムリンのエカテリーナ広間晩餐会で、
         スターリンは隣に座るハル国務長官に対し、ドイツ戦終了と同時に対日参戦すると
         ソ連の意思を伝えも「耳打ち」として秘密扱いとなる
1943/11/25、カイロ会談(米・英・中首脳会談)
         米・英・中の同盟国は日本国の侵略を制止し、罰するために戦争をしていること、
         日本の無条件降伏を目指すことが宣言され、第一次世界大戦以後に日本が諸外国より
         奪取した太平洋諸島の領土を剥奪すること、台湾・満州の中国への返還、日本が暴力・
         貪欲により略取した地域からの駆逐が定められる。南樺太や千島列島には触れられず
1943/11月末、テヘラン会談(米・英・ソ首脳会談)
1944/1/14、カサブランカ会談(米・英首脳会談)
1944/12/14、スターリンがアメリカ駐ソ大使ハリマンに対し南樺太や千島列島などの領有を要求
1945/02/04、(昭和20)ヤルタ会談(米・英・ソ首脳会談、-2/11)〜現在の北方領土問題の端緒
         戦勝国間で終戦後の戦勝権益の分割が話し合われる
         日本については、早期に敗北に追い込むため、 ルーズベルト大統領が千島列島などを
         ソ連に引き渡すことを条件に、日ソ中立条約の一方的破棄、すなわちソ連の対日参戦を
         促す(秘密協定となる)、ドイツ降伏後90日以内にソ連が対日参戦すること、モンゴルの
         現状を維持すること、樺太(サハリン)南部をソ連に返還すること、千島列島をソ連に
         引き渡すこと、満州の港湾と鉄道におけるソ連の権益の確保などが取り決められる
1945/04/05、 ソビエトが日ソ中立条約の破棄を通告
1945/07/26、(ポツダム会談、米英ソ3巨頭会談
         対日降伏のポツダム宣言(米英中)が発表される
1945/8/8、ヤルタ協定通りにソ連が日ソ中立条約を破棄し対日宣戦布告
08/11、樺太の北緯50度線国境を侵犯してソ連の赤軍・第一極東軍が南樺太に侵攻
     千島列島はソ連軍機の攻撃を受ける
08/11、ソ連軍が国境を侵犯し南樺太に侵攻
08/14、御前会議で米・英・中・ソの共同宣言(ポツダム宣言)の受諾を決定、
     大日本帝国は連合国に対してポツダム宣言受諾を表明・通告(無条件降伏)
08/15、昭和天皇が「玉音放送」で無条件降伏を国民に向けて発表
08/17 、ソ連赤軍が千島列島へ侵入を開始
08/18、カムチャツカ半島ロパトカ岬から砲撃が開始され、
     ペトロパブロフスク・カムチャツキーから出撃の赤軍・第2極東軍が占守島に上陸
08/18-8/23、(占守島の戦い)
     大日本帝国がポツダム宣言の受諾を宣言後、ソ連軍が占守島北部の竹田浜に上陸、
     ソ連軍と大日本帝国軍守備隊と戦闘に突入、占守島は千島列島で唯一の激戦地となる
     玉音放送後の戦闘であるため停戦に応じ、武装解除となる
08/25、ソ連第2極東軍部隊が南樺太を占領、8/18カムチャツカ半島より千島列島に出撃の
     ソ連第1極東軍部隊が8/31迄に得撫島以北の北千島を占領
08/28-9/1、ソ連軍が北方領土の択捉・国後・色丹島に上陸、占領
09/02、大日本帝国が連合国が作成した降伏文書に調印(ソ連も署名)
     同時に一般命令第1号(陸、海軍)で「満洲、北緯38度線以北の朝鮮、南樺太・
     千島諸島の大日本帝国の先任指揮官ならびに一切の陸上、海上、航空及補助部隊
     はソヴィエト極東軍最高司令官に降伏すべきこと」とする(北海道は含まれず)
09/03-9/5、ソ連軍が歯舞群島を占領
1946/1/29、GHQ指令で沖縄や小笠原・竹島・南樺太・千島列島・歯舞・色丹などの地域に対する
        日本の行政権が一時的に停止され、ソ連は南樺太・千島を自国領に編入
1946/2/2、ソ連が併合措置(ソ連邦最高会議一九四六年二月二日付命令)。
       北方領土の日本国民約1万7千人在住が、占領当初は本国帰還は認められず
1946/12月、GHQとソ連との間で、樺太・千島からの日本国民全員の引き上げが合意される
1949/7月迄、ほぼ全員の日本国民が帰国、GHQ指令によって日本国籍を離脱していた朝鮮人は
        その後も帰還することができず、多くはサハリン(樺太)に移住
1951年、サンフランシスコ平和条約締結(ソ連はこの条約に未調印)、日本は千島列島を放棄
1956/12/7、日ソ共同宣言の批准書を交換、同日発効
        (国境確定問題を先送りした日ソ国交回復共同宣言
1957年、ソ連国境警備隊が貝殻島に上陸、
      日本は日米安保条約下にあったが、このとき米軍は一切出動せず
1968/6/26、(昭和43)小笠原諸島が日本に復帰(小笠原返還
1972/5/15、(昭和47)沖縄が日本に復帰(沖縄返還)、
        隠された約束(沖縄返還密約):〜(2006/2/8北海道新聞)
        当時の外務省アメリカ局長で対米交渉した吉野文六氏(87)が北海
        道新聞取材に佐藤栄作首相判断で「復元費用400万ドル(当時換算
        約十億円)を日本が肩代わり」と告白、また日本政府が連邦準備銀
        行に1億8700万ドルを25年間無利子で預けて自由に使わせたことも
        告白する。この肩代わり問題は外務省密約事件として、警視庁が
        当時の毎日新聞記者西山太吉氏(74)を逮捕(外務省機密漏洩事
        件)、国民の知る権利をめぐる論議になるも国家公務員法違反で、
        2審にて逆転有罪となる
1974/12月、佐藤栄作元首相がノーベル平和賞を受賞
1977年、上記事件不買運動で発行部数減少の上、オイルショックの広告収入減
      などで毎日新聞が倒産
1981年、北方領土の日設定、毎年「2月7日」を北方領土の日とする
沖縄本島の地図

琉球政府 1963/4/30 発行
1991年、ソビエト連邦が崩壊、ロシア連邦が独立して領土問題を引き継ぐ。

・参考:〜
千島列島の主な島々(Kuril Islands chain)、北から〜
(北千島)
 ・占守島 (しゅむしゅとう、Shumshu Island、シュムシュ島)388ku
    1945/8/18ソ連軍が島の北部の竹田浜に上陸、大日本帝国軍と戦闘となり、8/21停戦
 ・阿頼度島 (あらいどとう、Atlasov、アトラソフ島)150ku、1996年火山が噴火
 ・幌筵島 (ほろむしろとう、Paramushir、パラムシル島)2,053ku、2008年火山が噴火
 ・志林規島 (しりんきとう、Antsiferov、アンツィフェロヴァ島)7ku、
    トドの繁殖地で、エトピリカなどがコロニーを作り繁殖
(中部千島)
 ・磨勘留島 (まかんるとう、Makanrushi、マカルン島)49ku、アシカや海鳥の繁殖地がある
 ・温禰古丹島 (おんねこたんとう、Onekotan、オネコタン島)425ku
 ・春牟古丹島 (はるむこたんとう、Kharimkotan、ハリムコタン島)68ku、
    1812/9/24薩摩の永寿丸漂流民、喜三左衛門ら6人が漂着、その内3人がここで病没
 ・越渇磨島 (えかるまとう、Ekarma、エカルマ島)30ku、
    1893年に捨子古丹島で越冬した 9 人の内 5 人がここに出漁・遭難・全員が没
 ・知林古丹島 (ちりんこたんとう、Chirinkotan、チリンコタン島)6ku、2004年火山が噴火
 ・捨子古丹島 (しゃすこたんとう、Shiashkotan、シアシュコタン島)122ku
 ・牟知列岩 (むしるれつがん、ロヴシュキ列岩)現在オットセイやトドの繁殖地
 ・雷公計島 (らいこけとう、Raikoke、ライコケ島)4.6ku、
    1883年のH.J.スノーが15,000頭以上のトドを観察、現在は無
 ・松輪島 (まつわとう、Matua、マトゥア島)52ku、2009/6月大規模な噴火が有
 ・羅処和島 (らしょわとう、Rasshua、ラスシュヤ島)63.2ku、1805/9月〜1806/2/18継右衛門ら
    慶祥丸漂流民6人がアイヌやロシア人ズヴェズドチョトフと共に滞在
 ・摺手岩 (すりでいわ、Srednii、スレドネワ島)
 ・宇志知島 (うししるとう、Ushishir、ウシシル島)南北2島の火山島で計約5ku
 ・計吐夷島 (けといとう、Ketoy、ケトイ島)73ku、1960年に噴火
 ・新知島 (しんしるとう、Simushir、シムシル島)227.6ku
    1796年イギリスのプロヴィデンス号ブロートン船長が来訪
 ・武魯頓島 (ぶろとんとうBroutona、ブロウトナ島)7ku
    1796年イギリスのプロヴィデンス号ブロートン船長が来訪
 ・知理保以島 (ちりほいとう、Chirpoy、チルポイ島)南北2島で16+21ku、続縄文時代の大規模集落
    (40以上の竪穴式住居群跡)と土器片・石器類が出土、エトピリカなどの海鳥が多く飛来する
 ・得撫島 (うるっぷとう、Urup、ウルップ島)1,450ku
    北端のカストリクム岬は最大のラッコの生息地で300〜400頭を確認
(南千島・・・・・北方四島)5,036ku
 ・択捉島 3,185.65ku
    平地は少なく火山が多い島で、南部の中程に単冠湾(ひとかっぷわん)が有、
    単冠湾は1941/11/23に真珠湾攻撃で大日本帝国海軍機動部隊が集結した場所
 ・ 国後島 1,490ku
    1811(文化8)年ディアナ号ゴローニン艦長が国後島で南部藩兵に捕えられる
 ・色丹島 255ku
 ・歯舞群島 約100.9ku
など。

歯舞群島の島々の位置関係:〜(14の島と岩礁)
  (色丹水道)
・歯舞群島(Habomai Islands:ハボマイ群島)
 ・多楽島(たらくとう)、11.69ku、最北
  ・カナクソ島(カナクソとう)
  ・カブト島(カブトとう)
  ・カナクソ岩(カナクソいわ)
  ・海馬島(海驢島:とどじま)、約0.18ku
   ・カブ島(カブとう)
    (多楽水道)
  ・志発島(しぼつとう)、45ku
    (志発水道)
 ・勇留島(ゆりとう) 10.6ku
  ・春苅茂尻島(ハルカ リモシリ島)、別名:春苅島、2ku
    (勇留水道)
  ・秋勇留島(あきゆりとう)、5ku
 ・水晶島(すいしょうじま)、21ku
  ・貝殻島(かいがらじま)、満潮時に水没、西へ3.7kmで納沙布岬
  ・オドケ島(オドケとう)
  ・萌茂尻島(もえもしりとう)
    (珸瑤瑁水道:ごようまいすいどう)、以上が歯舞群島(計100.9ku)
・納沙布岬(のさっぷみさき)、北海道根室市にある岬。
・日本政府の公文書公開:〜
  (沖縄返還密約は有った
2009/9/16に政権交代で自民党から民主党に代わった民主党主導の鳩山由紀夫内閣が成立しました。そしてその内閣の岡田克也外務大臣が外務省に、かねて計画していた情報公開の一環として、密約関連文書を全て調査の上で公開するよう命じました。これで設置された調査委員会が2010年3月に全てについて沖縄密約及び密約に類するものが存在していたことを認めました。また、岡田外務大臣は同年5月に作成後30年を経過した公文書については、全て開示すべきことを定めました。
沖縄復帰

日本 1972/5/15 発行

北方四島の場所地図
MOCANBIGUE
サハ↓リン  ↓北方四島

モザンビーグ 1991 発行

DPR KOREA
朝鮮半島の地図





北極
















南極

北朝鮮 2005 発行



人工衛星








北方四島


参考地図HP:〜
北方四島(クリル諸島)の場所地図(英語)
北方四島の場所地図(日本語)
北方四島の場所地図(面積を表示)
択捉島の地図(紗那、内保湾:有)
国後島の地図
色丹島の地図
歯舞群島の地図(8島、4水道=海峡:有)
歯舞群島の地図(12島有)
 ・志発島の地図
 ・多楽島の地図(カブ島有)
北方四島の地図(単冠湾有)
千島列島の場所地図
千島列島の地図
クリル諸島(千島列島)の地図(英語)

参考HP:〜
ようこそ・北の宝島・へHP
北海道の島へ行こうのHP
独立行政法人・北方領土問題対策協会のHP(納沙布岬からのライブカメラ有)
北海道庁の北方4島返還への取り組みHP

こちらで領土の帰属をめぐる紛争地帯の
南砂諸島
西砂海戦
竹 島
尖閣諸島紛争
ガ ザ
パレスチナ紛争
フォークランド戦争
チャコ戦争

サハリン (州、ロシア)
をお楽しみください。

・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。   12/2/29(水)、令和元年 2019/12/19、令和 R3:2021/9/30
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