大航海物語
江戸城
1590/8/30(天正18/8/1)
徳川家康が入城


参考資料
日本 Nippon
江戸城の天守閣

日本 2003/5/23  発行

江 戸 城 (えどじょう)
  Edo-jo Castle
   別名・千代田城 (Tiyoda-jo Castle)
   住所:東京都千代田区千代田(武蔵国豊嶋郡江戸)
   築城主:太田道灌
   城郭構造:輪郭式平山城
   天守構造:不明・非現存
   築城年:1457年(長禄元年)
   主な改修者:徳川家康、秀忠、家光(江戸期)、宮内省・宮内庁(明治以降)
   主な城主:太田氏、後北条氏(戦国期)、徳川将軍家(江戸期)、皇室(明治以降)
   遺構:現存櫓・門、石垣・土塁・堀
   指定文化財:国の重要文化財(桜田門、田安門 清水門) 特別史跡
   再建造物:富士見櫓、伏見櫓・多聞櫓 桜田巽櫓、大手門
江戸城は麹町台地の東端に、扇谷上杉氏の家臣太田道灌が築いた平山城で、近世に徳川氏によって段階的に改修された結果、総構周囲約4里と、日本最大の面積の城郭となり、徳川家康が江戸城に入城した後は徳川家の居城となり、江戸幕府の開幕後は幕府の政庁となりました。明治維新後の東京遷都で宮城(皇居)になり、以後は吹上庭園が御所、旧江戸城西ノ丸が宮殿の敷地とました。その東側にある旧江戸城の中心部である本丸・二ノ丸と三ノ丸の跡は皇居東御苑として開放されています。南東側の皇居外苑と北側の北の丸公園は常時開放され、それらの外側は一般に利用できる土地になって、国の特別史跡に指定されています。

・江戸城の略史:〜
平安末期〜鎌倉初期、江戸重継の居館が後の本丸・二ノ丸となる
1456、(康正2年)太田道灌25才の時、武州荏原郡の館は地の利が悪いと、江戸に築城、
     子城(本丸)・中城・外城の三重構造で、周囲に切岸や水堀を巡らせて門や橋で結ぶ
1457、(長禄元/4/8)道灌が居城とする
1467、(応仁元)京で応仁の乱が勃発
1476、(文明8)駿河守護今川義忠が遠江で討ち死
1482、(文明14)古河公方成氏と両上杉家との間で都鄙合体(とひがったい)和議が成立、約30年
    に渡る享徳の乱(1455-1483:室町幕府8代将軍足利義政時代の関東地方の内乱)が終結。
    道灌は30数回の合戦を戦い抜き、ほとんど独力で上杉家の危機を救う
1486、(文明18/7/16)扇谷定正が糟屋館(神奈川県伊勢原市)に招き道灌(55才)を暗殺
1524、(大永4)関東制覇に燃える小田原の北条氏綱の攻撃を受け、江戸城は落城
    (扇谷上杉氏を破った後北条氏の北条氏綱が支配することになる)
    上杉家や北条氏の城代や太田氏が入れ替わり入城
1543、(天文11/12/26)徳川家康が生誕
1560、(永禄3)桶狭間の合戦、今川義元が敗死・織田信長の勝利
1590、(天正18/4/22)徳川勢が江戸城を攻略、接収
1590、(天正18/7/5)豊臣秀吉が小田原攻め(小田原征伐)で小田原城を攻略、
    北条氏政と弟の氏照が降伏・切腹して早雲以来百年五代に渡る北条氏が滅亡。
    その後、秀吉と家康が関東地所わけ相談する有名な「小田原の連れ小便」で、
    秀吉から家康が後北条氏旧領の関八州を与えられる
1590/8/30、(天正18/8/1)徳川家康が駿府から江戸城に入城.(8/1(八朔)が祝日となる)
1603、(慶長8)江戸開府
1604、(慶長9)家康が将軍となり天下の府たる「将軍家の城」の増築工事に着手
1638、(寛永15)三代将軍家光の時代まで工事が続き、世界にも希な大城郭が完成
    中心部の本丸、西の丸、三の丸、紅葉山、吹上御苑、代官町などでも
    面積:222,182坪、周囲20町15間、総面積は290,549坪
    城門:外郭25、内郭11、城内87、城橋:総数30、
    大天守、小天守各1、三重櫓が6、二重櫓10、単層の櫓4、多聞櫓26
1639、(寛永16)大火が発生、火元は本丸大奥で、天守と僅かな櫓を残して灰塵に帰す
    以降、江戸城は火災と復興の連続で「火事は江戸の華」と20数回の大火に見舞われ
    本丸は5回、西の丸は4回も全焼
1657、(明暦3/1/1)俗にいう「振袖火事」が本郷の本妙院本堂より出火、
    大江戸の城も城下も総なめにして、天守閣も炎上、その他多くを焼失。
    町の復興を優先し、また経済的な理由から天守は再建されず
1868、(明治元)明治天皇が江戸城に入城、「東京城」と改称される
    翌年、皇城と名付けることが発令され、皇居造営に着手される
1868、(慶応4年)4月4日、江戸城は明治新政府軍に明け渡され、
    10月13日に東京城(とうけいじょう)に改名された。
1869、(明治2年) 東京奠都。皇城と称される。
1873、(明治6年) 皇居として使用していた西ノ丸御殿が焼失。
1874、(明治6)西の丸の御殿から出火し、多くが焼失
1888、(明治21年) 明治宮殿の完成によって宮城(きゅうじょう)と称される
1923、(大正12/9/1)関東大震災で残っていた建造物は大きな被害を受け、
    和田倉門(櫓門)は復旧されず
    他の被害を受けた門は、上の櫓部分を解体して改修される
1945、(昭和20)連合軍B29の空襲で大手門が焼失、戦後は放置される
1948、(昭和23)皇居と改称される
1964、(昭和39)東京オリンピック(1964/10/10)を迎えて、
    北の丸に清水門、田安門が復元される
1968、(昭和43/10)新宮殿が竣工
1967、(昭和42)江戸城一般公開記念で大手門が復元される、
    伏見櫓・富士見櫓の白セメントを落として白漆喰に塗りかえられる
2006、(平成18/4/6)日本100名城(21番)に選定される
皇居の新宮殿

縄張は本丸と西ノ丸が独立している一城別郭の形式。武蔵野台地の東端にある地形を活用しており、特に山の手側は谷戸を基に濠を穿ったので曲面の多い構造をしていますが、逆に下町は埋立地なので、直線的に区画された水路や街並みを見ることができます。石垣を多く見ることができるも、これらは天下普請の時にはるばる伊豆半島から切り出され、船で送られたものです。それまでは他の関東の城と同じく土塁のみの城でした。関東で石垣を多用した近世城郭は江戸城と小田原城しかありません。それでも外郭や西ノ丸、吹上などは土塁が用いられており、特に吹上の土塁は雄大です。

参考HP:〜
江戸城総構えHP
現在の江戸城の航空写真
江戸城の皇居・東御苑の案内図

こちらで日光東照宮を、
こちらで安土城を、
こちらで岐阜城を、
こちらで小田原城をお楽しみください。

・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。      09/5/11
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