★日  本 勝  海 舟
1860
太平洋を越えてアメリカへ大航海
大航海物語★

日本郵便 NIPPON
日本の使節団と咸臨丸
米国大統領謁見の図 咸臨丸
1860 日米通商条約100年 1960
日本 昭和35年 1960/5/17 発行
勝 海舟 カツ カイシュウ
 (Katsu Kaishu)1823/3/12〜1899/1/21

  文政6年1月30日〜明治32年1月21日
石高41石余の貧乏旗本「勝」家に生まれ、通称「麟太郎」、名は「義邦」、後に「安芳」と改名、「海舟」と号し、「安房守」と名のりました。勝家は父「小吉」が婿養子になる形で同家の旗本株を買ったもので、小吉の生家の旗本「男谷」家も金貸しの小吉の祖父の男谷検校が小吉の父のために買ったものでした。父小吉が無役で町中で無頼の生活をしていた関係で、周辺には庶民の雰囲気がありました。そんな中で麟太郎は剣は直心影流の島田虎之助に学び、代稽古をつとめるほどになったが、島田の勧めで西洋兵学を学び、猛勉強の後に、嘉永3年(1850)には自宅で蘭学塾を開くようになり、安政2年(1855)には大久保忠實(一翁)に推挙されて、蕃書翻訳所に仕官できました。このあたりの事情は、映画「父子鷹」(おやこだか)に「トンビがタカを生んだ」として、その勉強ぶりなどが、お涙ちょうだい式に詳しく描かれていました。また、同年さらに海軍伝習生頭役として、長崎の出島近くの海軍伝習所に行き、オランダ士官から航海術の訓練をうけました。3年後に江戸に帰り軍艦操練所教師方頭取となりました。

万延1年(1860)には日米修好通商条約批准使節の新見正興に随従して、咸臨丸福沢諭吉と共に太平洋を横断することになりました。 日本人だけでの太平洋横断を指揮して、米国に行き、アメリカで近代社会を見聞して来ました。帰国後に、倒れかかった幕府で近代海軍を建設する仕事にとりかかり、各職を歴任したのち、文久2年(1862)軍艦奉行並みとして、神 戸海軍操練所を開設し、幕臣だけでなく、坂本龍馬や龍馬にさそわれた勤皇の志士達などを含めて広く人材を集めました。ところが、2年後に、海舟は免職となり操練所は閉鎖されるにいたりました。この間に、木戸孝允や西郷隆盛らと接触があり、彼らに大いに影響を与えました。この後、江戸の無血開城など明治維新で活躍しました。その後、駿府にいましたが、明治2年(1869)新政府の兵部太丞に就任してから、海軍大輔、参議兼海軍卿を歴任し、のち元老院議官、枢密院顧問官となり、伯爵になっています。その後、隠居してからは旧幕府の歴史の著述をし「海軍歴史」「陸軍歴史」「吹塵録」など、また、「海舟座談」などが知られています。明治32年1月19日に76才で東京にて永眠しました。

・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。

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