★オランダ
カッテンディーケ艦長
1857、咸臨丸が日本に来たる
ヤッパン号を日本へ運ぶ

大航海物語★
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咸 臨 丸

日本 昭和52年 1977/1/20 発行

Nederland
オランダの地図

オランダ州会議450年記念
オランダ 1981/10/1 発行
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世界地図

61回列国議会同盟記念
日本 昭和49年 1974/1/1発行
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日本の古地図

名古屋輸入博記念
日本 昭和60年 1985/4/5 発行

オランダのカッテンディーケは徳川幕府が発注していた咸臨丸をオランダから長崎へ海上輸送してきました。1857年に長崎に到着し、その後、幕府の海軍伝習所で航海術などを教えました。
ヴィレム・ヨハン・コルネリス・ホイセン・ファン・カッテンディーケ
Willem Johan Cornelis ridder Huijssen van Kattendijke(1816/1/22〜1866/2/6)

カッテンディーケはオランダの海軍軍人で、幕末に徳川幕府が発注していた軍艦ヤッパン号(後の咸臨丸)を長崎に回航し、1857/9/21に到着しました。そして、幕府が開いた長崎海軍伝習所の第1次教官ペルス・ライケンの後任として、第2次教官となりました。勝海舟などの幕臣に精力的に航海術・砲術・測量術などの近代海軍の教育を行いました。2年後の1859年に長崎海軍伝習所は閉鎖となり帰国しました。

なお、第一次教師団の団長であったライケンは、「狭く、深く」追求するタイプで、何事も中途半端な知識をとても嫌いました。一方の第二次教師団の団長であったカッテンディーケは、「広く、浅く」のタイプで、できるだけ伝習生には多くの知識を教授するよう努めた正反対の人物でした。勝海舟勝海舟の江戸っ子気質と、このカッテンディーケの大らかさは、何か通じるものがあったのでしょう、勝海舟にオランダ語の文法書を贈るほど、カッテンディーケと海舟は気が合いました。

帰国後の1861年には、オランダの海軍大臣となり、一時は外務大臣も兼任し、オランダで、50才で亡くなりました。     08/2/30

参考:〜:(1)
・長崎海軍伝習所、大百科事典などより
長崎海軍伝習所 日本郵便 NIPPON

日本・オランダ交流400年記念
日本 2000/4/19 発行
長崎・出島


阿蘭陀カピタン
安政2年(1855年)に江戸幕府が海軍士官養成のため長崎に設立した教育機関。幕臣や雄藩藩士から選抜して、オランダ人教師によって西洋技術・航海術・蘭学・諸科学などを学ばせた。 安政2年(1855年)第1期生は江戸出身者37名と他藩128名(薩摩藩16名・肥後藩5名・筑前藩28名・長州藩15名・肥前藩47名・津藩12名・備後福山藩4名・掛川藩1名)、安政3年(1856年)第2期生は幕臣12名、安政4年(1857年)第3期生は26名集まったが、安政4年(1857年)3月に総監永井尚志はじめ多数の伝習生が新設された築地軍艦操練所に移動したため、長崎海軍伝習生は45名程になった。安政6年(1859年)には閉鎖され、慶応2年(1866年)には横浜海軍伝習所が設立された。

・総監:〜:永井尚志、木村喜毅
・教師:〜
航海術:運用術 ペルス・ライケン
航海術:砲術・測量術 ホイセン・ファン・カッテンディーケ
医 学 :舎密学(化学) ポンペ・ファン・メーデルフォールト
造船学:砲術 スガラウェン
船具学:測量学 エーグ
算 術 :デヨング
機関学:ドールニキス
機関学:エフエラールス
・伝習生:〜
第1期幕臣:頭取 勝海舟
第1期幕臣:矢田堀鴻(景蔵)、永持亨次郎、望月大象、
鈴鹿勇次郎、中島三郎助、下曽根次郎助、佐々倉桐太郎、石井修三
第1期肥前藩:鍋島斉正
第1期薩摩藩:川村純義
第1期薩摩藩:五代友厚
第1期佐賀藩:佐野常民
第1期 津藩 :柳楢悦
第1期:小野友五郎、真木安左衛門

第2期幕臣:頭取 伊沢謹吾、
第2期幕臣:榎本武揚
第2期佐賀藩:中牟田倉之助

第3期幕臣:沢太郎左衛門、赤松大三郎、内田恒次郎
田中久重、松岡磐吉、伴鉄太郎

・練習艦:観光丸、咸臨丸、朝陽丸、コットル船。

・「朝陽丸」の建造当時の装備は、ほぼ次の通りでした。
総トン数 : 300屯
マスト数 : 木造外輪式の蒸気船で、3本マスト。
全  長 : 49m
全  幅 : 7.27m
主  機 : 蒸気機関100馬力での速力6ノットの外輪船
備  砲 : 12門の小型コルベット艦。
江戸幕府が咸臨丸ともに初めてオランダに発注した軍艦でオランダで名付けられた旧名はエド(江戸)号。 維新後、明治新政府の手に渡り、函館湾で壮絶な最期を迎えました。
函館湾海戦〜慶応4年(1868年)に戊辰戦争が勃発して江戸幕府が瓦解すると、朝陽丸は明治政府の手に渡りました。肥前出身で、かつて長崎でオランダ海軍の伝習を受けた中牟田倉之助が艦長となり、旧幕府軍を追撃して蝦夷地へ向けて北上。明治2年(1869年)の箱館戦争で、5月11日の箱館総攻撃において、かつては僚艦だった旧幕府軍艦蟠竜丸の砲撃で、朝陽丸の火薬庫に命中し、大爆発を起こして轟沈。己巳役(きしのえき)とも言う。


参考:〜:(2)
・神戸海軍操練所、大百科事典などより
神戸港ポートタワー 日本郵便 NIPPON
神戸港の風景

港湾協会総会開催記念
日本 1967/5/8 発行




神戸港中突堤
神戸港の遊覧船
江戸時代の1864年(元治1)5月に、軍艦奉行の勝海舟の建言により幕府が神戸に設置した海軍士官養成機関、海軍工廠のことである。 幕臣でありながら幕府の瓦解を予見していた勝の元には、倒幕派の志士も多く集っていた。この操練所が神戸に出来て以後、漁村であった神戸は港町としての成長を見せ始めるようになる。それを見越していた勝は、地元で自分の世話をしてくれた者に「今のうちに土地を買っておくがいい」と助言したところ、見事に地価が高騰し、その者は大きな利益をあげた、というエピソードがある。 しかし、八月十八日の政変で失脚した長州藩が京都へ進攻した禁門の変の責を問われて勝は軍艦奉行を罷免される。さらに土佐脱藩浪士や長州に同情的な意見を持つ生徒が多かったこの操練所は、幕府の機関でありながら反幕府的な色合いが濃いとして、翌年1865年に閉鎖された。ちなみに、神戸海軍操練所と勝海舟個人の私塾は別物として考えねばならないという説が、松浦玲や篠原宏といった研究者から出されている。

主な塾生:〜
・坂本龍馬:土佐脱藩。塾頭。勝海舟に見出され、操船術を学ぶが、そのほとんどは我流であった。脱藩後の青春の舞台であった操練所の閉鎖と、師である勝の罷免は彼を失望させ、これ以後倒幕運動に本腰を入れ始める。操練所解散後は、ここでの経験を生かし亀山社中を結成。ただし、松浦玲などの意見を採用するならば、龍馬は神戸海軍操練所には入れず、勝海舟個人の私塾の塾頭でもなかった。実際のところ、勝海舟の私塾を取り仕切っていたのは龍馬ではなく、佐藤与之助であったと考えられる。しかし、勝自身が、『氷川清話』のなかで、坂本竜馬が塾頭であったと語っていることから、坂本が、神戸の海軍操練所あるいは、それに付随した塾と全く関係がなかったということはできないだろう。
・陸奥宗光:坂本の引き立てによって副長格となる。竜馬の秘書的な役割を担った。後の日清戦争時、外務大臣。
・伊東祐亨:薩摩藩出身。後に初代連合艦隊司令長官となり、黄海海戦の指揮をとる。
・北添佶摩・望月亀弥太:土佐脱藩。坂本の制止を振り切り池田屋事件に関与。これが元で勝海舟の立場が悪くなったとも言える。

参考HP:〜:長崎海軍伝習所

・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。       
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