★日 本 長崎の出島 と 阿蘭陀カピタン
1636・出島完成
1642・リーベック
大航海物語★

日本郵便 NIPPON
長崎出島 オランダ商館

ふるさと切手
日本 1997/6/3 発行
NERDERLAND
阿蘭陀カピタン
ヤン・ファン・リーベック


リーベックの南ア上陸300年記念の
銅像建立寄付金付き切手

オランダ 1952/3 発行
日本郵便 NIPPON
世界地図

61回列国議会同盟記念
日本 昭和49年 1974/1/1発行

日本郵便 NIPPON
長崎出島

ふるさと切手
日本 1999/9/1 発行
日本郵便 NIPPON
リーフデ号、出島、阿蘭陀カピタン

日本・オランダ交流400年記念
日本 2000/4/19 発行

長崎の出島完成の223年後に横浜が開港

1859 横浜の開港150年記念 2009
長崎の開港
函館の開港
日本 2009/6/2 発行

長崎の出島と阿蘭陀カピタン;ヤン・ファン・リーベック
ヤン・ファン・リーベック(Johan Jan van Riebeeck)船長は、もともと外科医としてオランダ東インド会社に雇われましたが、東インドのジャワ島バタビア(現ジャカルタ)で色んな職責を勤めあげた後に、出世と金儲けのために貿易に乗り出し、1642年には対日貿易拡大を狙って長崎の出島に来航し、出島勤務となりました。そして闇取り引きの嫌疑をかけられ、1647年に本国召還処分となり、本国へ帰るオランダ船団の中の1隻「ハーレム号」に乗客としてリーベック船長が乗り合わせて帰国しました。

長崎の出島;
1543(天文12)年に一隻のポルトガル南蛮船が嵐で遭難して種子島に漂着しました。これが記録に残っている最初の西洋人との出会いだと言われていますが、その頃にはポルトガル船が中国方面へ探検航海していたので、日本近海にも出没していたに違いありません。その年には種子島で日本最初の鉄砲伝来が有りました。1549(天文18)年にはポルトガル人イエズス会宣教師聖フランシスコ・ザビエルが鹿児島に上陸して、日本最初のキリスト教の伝道を行ないました。その後キリスト教の布教活動ともあいまって、西国の大名諸侯は貿易や信仰のため、ポルトガル船の入港を求めるようになりました。大航海時代のポルトガル貿易は、インドのゴアを拠点に東南アジアのマラッカ、中国のマカオ、日本の長崎などで貿易を行い、約3年をかけて再びゴアに戻るという方法で行われていました。ポルトガル貿易で日本に輸入されたものは、生糸、絹織物、羅紗(らしゃ)、更紗(さらさ)、象牙、珊瑚樹、砂糖などで、日本からは銀を中心に、鉄、屏風、刀剣などが輸出されていました。

1550(天文19)年には平戸に1隻のポルトガル船が入港しました。これが長崎県内に入港した最初のヨーロッパの貿易船で、1561(永禄4年)には5隻のポルトガル船が入港しました。その後、大村領の横瀬浦(現在の西海町)が新しい貿易港となり、さらにポルトガル人は横瀬浦から福田(現在の長崎市福田本町)へと貿易の拠点を移しました。1565(永禄8)年に開港された福田は、直接外海に面しているという欠点があったため、貿易の拠点はさらに島原半島の口之津港へ変わりました。しかし、ポルトガル人たちが大村領内での貿易を希望したため、候補地として挙げられた長崎港の調査が始まり、1571(元亀2)年、ポルトガル船1隻、ポルトガルがチャーターした唐船1隻の計2隻の入港によって長崎港は開港しました。以後、毎年のようにポルトガル船が訪れるようになり、長崎はポルトガル貿易港として急速に発展していきました。

16世紀中頃、長崎は大村純忠の領地で、現在の夫婦川町一帯に家臣の長崎甚左衛門純景の居城・桜馬場城と城下村がありました。1567(永禄10)年に修道士アルメイダが長崎に来て布教し、長崎はキリスト教が盛んな町として発展を始めました。1570(元亀元)年に長崎はポルトガル貿易港として開港しました。1571年3月から長崎の岬に町造りが始まり、8月にはポルトガル船2隻が入港して貿易が始まりました。岬には島原、大村、平戸、横瀬浦、文知、外浦の6町が生まれました。町の発展とともに、佐賀の竜造寺、深堀の深堀氏などとの紛争が起こるようになり、1580(天正8)年に長崎は茂木と共にイエズス会に寄進され、1584(天正12)年には有馬晴信によって浦上の地がイエズス会に寄進されました。長崎はキリシタンの町、南蛮貿易の港として繁栄を誇り、町には多くの教会が建ち並んでいました。ポルトガル人達は町に自由に住み、交易を行っていました。長崎がイエズス会領であることを知った豊臣秀吉は、1587(天正15)年にこれを没収して公領とし、1592(文禄元)年からは長崎奉行を設けて治めさせました。初代の奉行には唐津領主の寺澤志摩守が任命され、役所は本博多町に構えられました。

1580(天正8)年、大村純忠が長崎の町を教会知行地としてイエズス会に寄進したこと、その後、豊臣秀吉は1587(天正15)年に宣教師追放令を出し、長崎を没収して直轄領としたことは前述の通りですが、さらに1597年2月5日(慶長元年12月19日)には京都や大坂地方で捕らえられた宣教師やキリシタンを長崎へ送り、西坂の丘で処刑しました。 これが26聖人の殉教と言われています。その後、江戸幕府は徳川家康以来、貿易を奨励していたため、キリスト教に関しては寛大でした。キリスト教は、広く深く信仰され、1549〜1630(天文18年ー寛永7年)の約80年間にキリスト教に改宗した人は約76万人に達したと言われています。 しかし、幕府はしだいにキリスト教を取り締まるようになり、1614(慶長19年)にキリスト教禁止令を発令し、高山右近をはじめとした多くの信者たちがフィリピンのマニラや中国のマカオに追放されました。その後、取り締まりはさらに強化され、拷問による棄教の強要、密告の奨励、残酷な処刑など、キリシタンへの迫害はさらに厳しさを増していきました。

ところで、1598年オランダのアムステルダムとロッテルダムの商人たちの出資によって組織された船隊が東インドに向かい、さらに進んで香料の主産地であるモルッカ諸島のバンダン、アンボイナにまで到達し、貿易取引に成功しました。しかし、多くの船団の派遣によって利益の減少が生じるようになったため、1602年に諸会社を合同して連合オランダ東インド会社(VOC)を設立しました。この会社は、国家から特別の保護と権限が与えられており、アフリカの喜望峰から南米のマゼラン海峡にいたる地域で独占的に貿易を行うこと、この地域で条約や同盟を結ぶことや軍事力を行使すること、貨幣を鋳造すること、地方長官や司法官を任命することなど、さまざまな権限が認められていました。そして日本にもオランダ東インド会社の船が来航しました。

1598年にオランダのロッテルダム港を”オランダ東インド航路開拓船団”の5隻が出帆し、東インドのバタビア(現ジャカルタ)を経て、1600年に日本近海に到達しました。そして、おそらくは現在の豊後水道沖の太平洋で嵐に遭って、マストは折れ、船体は傷だらけとなって、出帆時110人いた乗組員は、わすかに24人となり、1600(慶長5)年4月19日、豊後国(現、大分県臼杵市佐志生(しゃしゅう))の沖に1隻のオランダ船が漂着しました。これが東インド航路開拓船団の中の1隻デ・リーフデ(慈愛)号(300t)で、5隻の内、唯一この船だけが我が国に到達することができました。 これが我が国に来航した最初のオランダ船で、この漂着を機にオランダとの貿易が開始されました。また、デ・リーフデ号の乗組員であったウィリアム・アダムズ(後の三浦按針)とヤン・ヨーステン(後に東京の八重洲の地名となる)の二人は、その後、家康の外交顧問として活躍し、平戸のオランダやイギリスの商館開設に尽力、その結果、アダムスの招きによりオランダは2隻の交易船を派遣し、1609(慶長14)年に平戸に商館を開設しました。イギリスは商館を1613年に設置しました。こうして、ポルトガル、オランダ、イギリス、中国、そして朱印船貿易を行っていた日本など、貿易競争はますます激しさを増しました。イギリスは赤字続きで1623(元和9)にわずか10年で平戸の商館を閉鎖、日本の貿易から撤退しました。1637(寛永14)年の島原の乱によって、ポルトガルに対してますます警戒を強めた幕府はポルトガル人を追放しました。一方オランダは、この島原の乱で原城を砲撃し幕府への忠誠を示すことで信頼を獲得し、やがて日本との貿易を独占しました。なお、関ヶ原の戦いは1600年10月21日(慶長5年9月15日)に起こっています。

鎖国政策が進むと共に、貿易管理とキリスト教の禁教策を推進するために、1634(寛永11)年、当時長崎における有力者であった有馬休庵、高木彦右衛門など25人に命じて人工の島を築かせました。この25人の町人たちは「出島町人」と呼ばれ、いずれも長崎を代表する豪商でした。これが三代将軍徳川家光の命で作られた扇形の人工島、面積は13000平方メートルの”出島”です。工事は1636(寛永13)年に完成し、出島は海を埋め立てて築いた島ということから「築島(つきしま)」、その形状が扇型をしていたことから「扇島」とも呼ばれていましたが、海の中に島をつくるという発想、工事の設計・監督にあたった人物、その土木技術の詳細については、現在でも謎に包まれています。当初、幕府はキリスト教の布教を阻止するために当時市内に雑居していたポルトガル人を収容する島をつくりました。出島はポルトガル人を収容しポルトガルとの貿易のために築かれましたが、1637(寛永14)年に起こった島原の乱により、幕府はポルトガル人に対して警戒を強め1639(寛永16)年にポルトガル人を追放しました。ポルトガル人を追放すると、長崎の港は唐船貿易のみとなって急激にすさみはじめました。また出島埋築工事を分担した25人の出島町人も,その出資金を償還する方法が断たれて困りました。そこで長崎の官民を挙げて幕府に訴願した結果,幕府は平戸にあったオランダ商舘を閉鎖して出島に移す方針を定め、1641(寛永18)年にオランダ商館が出島に移って来ました。その後、安政の開国までの約218年間、西欧に開かれた唯一の窓として、わが国の近代化に重要な役割を果たしました。

初代オランダ商館館長はジャックス・スペックス(1611-12)で、幕府はキリスト教禁令とポルトガル人追放を徹底するために、宣教師の潜入や、ポルトガル人など旧教勢力に関する情報提供をオランダ人に義務づけました。これはオランダ人が日本渡航を許可されるための重要な条件の一つとされ、オランダ船が入港すると、通詞(つうじ)は商館長を訪れて情報を聞き取り、翻訳し、通詞と商館長が署名・捺印して長崎奉行が江戸に送りました。この文書は「オランダ風説書」と呼ばれていました。

江戸時代、わが国に来航したオランダ船は、1641年から1847年までの227年間に延べ700隻以上にのぼりました。オランダ船が長崎港に入港する時期は、季節風の関係から旧暦の6月、7月が最も多く、バタビアを出港し、バンカ海峡、台湾海峡などを経て、女島諸島、さらに野母崎をめざしてやってきました。オランダ船が出島沖に碇をおろすと、船の出航地や乗組員の人数などの取り調べや積荷の検査、そして2、3日後から荷役作業が始まり、この作業が終わると入札が行われていました。江戸時代の初期にオランダから輸入していた主なものは、ベンガルやトンキン産の生糸、オランダに輸出していた主な品は銀でした。江戸時代の中期以降は、羅紗(らしゃ)、ビロード、胡椒(こしょう)、砂糖、ガラス製品、書籍、サメの皮(刀の柄の滑り止めに使用)などを輸入し、銅、樟脳、陶磁器、漆製品などが輸出されていました。

参考;〜
最後のカピタン、最後の商館長となるドンケル・クルチウスは1852(嘉永5)年、ペリーが滴賀に来航する前年に出島に着任、東インド会社総督の書簡を長崎奉行に提出しました。書簡はオランダ政府の命を受けた東インド会社総督が彼に託したものでした。書簡には、アメリカの艦隊が開国を求め来航することを予告、それ以前にオランダとの通商条約を締結することを勧告するといった内容でしたが、幕府はそれを無視しました。翌年アメリカのペリーの艦隊が浦賀に来航、長崎にはロシア極東艦隊司令官プチャーチンが来航し、日本中が大混乱となりました。こうして幕府は、1854(安政元)年に日米和親条約を締結、さらに、ロシア・イギリス・フランスなどと次々に条約を結ぶこととなりました。

船の来ない出島の時期がありました。それは1810年オランダがフランスに併合され、翌11年にはバタビアがイギリスの占領下に置かれたため、1810年から3年間、出島には1隻のオランダ船も入港しませんでした。通常はオランダ商館長は1年交代で、在島のオランダ人は10人前後でした。この間、食料品などの必需品は、幕府が無償で提供し、長崎奉行は毎週2,3回、人を遣わして不足品があるかないかを問い合わせていました。その他の支払いについては、長崎会所の立て替えを受けてしのいでいましたが、それでも1812(文化9)年には、その総額が8万200両を超えました。この頃、商館長所有の「ショメール家庭百科辞典」を幕府が600両で購入したという記録が有り、当時のオランダ商館の厳しい財政難を物語っています。その後1815年にはネーデルランド王国が成立しましたが、この5年間、世界中でオランダ国旗がひるがえっていたのは、ここ出島だけだったのです。

・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。       

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