Pirates of Caribbian
Jolly Roger

海賊ジャン・ラフィット船長
1812
ニューオリンズ沖メキシコ湾の海賊となる

大航海物語
 ★アメリカ
GRENADA
海賊 ジャン・ラフィット

グレナダ 1970/2/1 発行
SAINT LUCIA
海賊船の襲撃

セント・ルシア 2007 発行

Jamaica
商船を襲うカリブの海賊船
BUCCNEER(バッカニーア)

MERCHANTMAN SURENDERING
TO PIRATE SCHONER

ジャマイカ 1971/5/10 発行
St.VINCENT
アメリカ南部、メキシコ湾、カリブ海の地図

メキシコ湾
大西洋

カリブ海
セントヴィンセント 発行

海賊ラフィット船長が何処かに宝物を隠している!
Turks & Caicos Islands
ディズニーが描く海賊の宝物

ディズニー・アニメの一場面
1955 ディズニーランド30年記念 1985

タークス・カイコス諸島 1985/10/4 発行
Jamaica
羊皮紙の宝島地図(?)
Treasure Island Map、1576


ジャマイカ 1976/3/12 発行

フランス生まれのラフィット船長は19世紀初期のニューオリンズ沖メキシコ湾の海賊で、第2次アメリカ独立戦争(米英戦争)の「ニューオーリンズの戦い」に千人もの仲間を率いて義勇軍でアメリカ合衆国に味方してイギリス軍と戦い、勝利しました。その後は海賊家業に精を出し、41才頃にカリブ海の藻屑と消え去りました。
ジャン・ラフィット (1782〜1823)
 Jean Laffite

ジャン・ラフィットはフランスのボルドー地方(Bordeaux、アキテーヌ地域圏ジロンド県のポーイヤック町 Pauillac近郷)で、ピエール・ラフィッテ(Pierre Lafitte)と2番目の妻マーガレット・デステイル(Marguerite Desteil)の6人の子供の1人として、1782年頃(1782/9/15生説有)に生まれ、1786年に洗礼を受けました。少なくとも3人は女の子で、最初の妻(Marie LaGrange)との間に生まれた男の子にはピエールと名付けて、2人の男の子ピエールとジャンには基礎教育を受けさせていました。ジャンは20才頃まで父の船に乗っていたと伝えられていますが、詳しいことは不明です。1790年遅くか1800年の早くにラフィット兄弟は新世界のフランス植民地サン・ドマングに渡りました。

▼サン・ドマング時代(Saint-Domingue 現ハイチ、1795頃〜1808)
ジャンとピエールの兄弟は、西半球で起こったアフリカ人奴隷の反乱の中でも最も成功したハイチ革命(ハイチ革命、Revolution haitienne, 1791-1804)の最中に、サン・ドマングでのフランス人に対する迫害と暴力からを逃れて、1803年の早い時期(ルイジアナ買収でフランスがルイジアナを手放した頃)に難民輸送船(refugee ship)に便乗して、新大陸アメリカの現ルイジアナ州のミシシッピ河の河口付近の街でジャズの発祥地ニューオーリンズに渡りました。

▼ニューオーリンズ時代(New Orleans,Louisiana、1803〜1808)
若い頃のジャンはミシシッピ河デルタ地帯やニューオーリンズ近郷の湿地や沼地性の入り江を探検して、遂に誰よりも「メキシコ湾岸のミシシッピ河デルタのあらゆる入江(inlet)の知識」が詳しくなりました。その頃に兄ピエールがサン・ドマングで私掠許可証(Letter of marque)を手にいれて私掠船に乗組み海賊を始めたので、ニューオーリンズでの商品の取り扱いを手伝うようになりました。1805年頃にはニューオーリンズで倉庫を持ち、フレンチ・クオーターのロイヤル・ストリート (Royal Street、フランスの植民地時代からあるアメリカ合衆国ルイジアナ州ニューオーリンズの通りの名称)に、兄ピエールが買ったフレンチ・クオーターのフィリップ通りとバーボン通りの角の家で、兄と共に”ラフィット・ブラックスミス”(Lafitte's Blacksmith Shop、ラフィット鍛冶屋) という名の居酒屋を開きました。兄ピエールの海賊を手伝って海賊家業にも精出すようになりました。

1807/6/21のイギリス軍艦レオパード号事件後、東部13州が独立(1783)して間もないアメリカ合衆国のジェファーソン大統領(Thomas Jefferson 1743-1826、第3代大統領 1801-1809)は、1807/12/22に定められた入出港禁止令(Embargo Act of 1807)を1808/1月に発動してアメリカ船のイギリス・フランス領海内航行を禁止しました。これはニューオーリンズの商人にとっては死活問題の一大事でしたので、ラフィット兄弟は別の場所、バラタリア湾へ根拠地を移すことにしました。

参考地図HP:〜
ニューオーリンズの場所地図
ルイジアナ州(ニューオーリンズ)の地図

▼バラタリア時代(Barataria Bay, Louisiana、1808〜1817)
 (湾口のグランデ島が砂州(さす、sand bar)でニューオーリンズ本土と繋がっている)
ジャン・ラフィット船長はニューオリンズ近くのバラタリア湾の島に移動し、海賊仲間と共に"海賊王国"を建設しました。バラタリア湾にはグランド・テール島(Grande Terre)の砂州島々(barrier islands)とグランデ島(Grande Isle)の間の狭い航路(pass)があり、その狭い航路のほとんど誰も住んでいなかった小さい島に居住地街を建設して、海賊(privateers)の獲物の必需品などの物資を集積して、ニューオーリンズの商人(密輸業者、smugglers)へ届け大成功を収めました。いつしかその街は「海賊王国」(Privateer Kingdom)と呼ばれるようになりました。

バラタリア湾はもともとルイジアナがフランス領だったので、合衆国東部の海軍基地からは遥かに離れており、官憲(税関 customs officials)の目を逃れて、安々と密輸品の取引ができました。品物は小舟(pirogues)や運搬船(barges)に積み替えられて、沼地性の入り江(bayous)や砂州(sand banks)を通ってニューオーリンズの商人のもとへと運ばれました。兄ピエールはニューオーリンズに居を構え、ラフィット船長は密輸品の商いに精を出し、兄のもとへも密輸品を送り込みました。1810年頃には"海賊王国"の港は大ブームを起こし繁栄の限りを尽くすようになりました。船乗りどもは港に群がって集まり、港で造船や船の修理をしたり、倉庫の荷物を取り扱う所などで働くか、海賊の乗組員になるか、どちらでも仕事があって選べるようになりました。1812年にはジャン達は湿地(swamps)の水先案内に忙殺されるようになりました。1810年にメキシコ独立戦争(Mexican War of Independence 1810-1821)が勃発した頃までは商売を続けました。

1812/10月頃にラフィット船長は商売だけでは飽き足らず、スクーナー船(schooner)を購入して海に乗り出し無許可の私掠船家業、すなわち海賊を始めました。1813/1月に77人の奴隷を輸送中のスペインのブリガンティン船(ハーマフロダイトブリッグ hermaphrodite brig)を捕え、奴隷と積み荷を売り払って$18000儲け、船はドレイダ号(Dorada)と名付けて私掠船に仕立てました。数週間を待たずにドレイダ号は1隻のスクーナー船を捕え、$9,000以上の積み荷を奪いましたが、船は私掠船には向かないので乗組員共々に船長に返し放免しました。
こうして海賊ラフィットは船と乗組員を殺さずに元に返す海賊だとの評判をとりました。間も無く14ポンド大砲12門を備える第3の船ラ・ディリジェント号(La Diligent)を獲得し、ドレイダ号をペチット・ミラン号(Petit Milan)と改名しました。海賊ラフィット船長は、今や3隻からなるコルセール船隊(corsair fleets、コルセールはフランス海賊のこと)となりました。数か月の間、ラフィット船隊はバラタリアからニューオーリンズへ直接、通常の荷物を持ち込み、密輸の食料を持ち帰りました。ニューオーリンズの税関は積み荷のリストを メキシコ湾の海賊船
正確には検査しませんでした。船隊はラフォーシェ湿地(Lafourche Bayou)を巧みに利用して密輸品を船積みしました。

1810/9月にルイジアナ州初代知事ウィリアム・クレイボーン(William Charles Cole Claiborne 1775-1817)が知事代理のトーマス・ロバートソン(Thomas Bolling Robertson 1779-828、後のルイジアナ検事総長、アメリカ合衆国下院議員)を残してニューオリンズを留守にしました。すると、ロバートソン知事代理は「我々の海岸を横行して我々の国にはびこる盗賊」との高札を掲げて、バラタリア海賊の取締りに乗り出してきました。ニューオリンズの市民は、入出港禁止の時に贅沢品を提供するラフィット船長に感謝していたので、ロバートソン知事代理の取締りを迷惑がりました。戻ってきたクレイボーン知事はその件を不問に付しました。

1812/6/12に合衆国がイギリスに宣戦布告(米英戦争、War of 1812、1812/6/12-1815/3/23)した時に、イギリスには強力な海軍が有りましたが、合衆国の海軍は貧弱なものでしたので、海賊船隊に私掠許可証を発行して合衆国の海軍に加わるようにと、主としてバラタリア湾のラフィット船長の所で働いていたた密輸業者を誘いました。ニューオリンズでは6度も誘いが有ったと伝えられています。また、密輸業者はあちこちの国から、しばしば他国商船拿捕免許状を受け取っていました。それは、とにもかくにも異なる国からの戦利品(Booty)を奪う権限を彼らに与えることになるのでした。イギリス船からの戦利品はアメリカ当局(税関)に持ち込まれましたが、それ以外の物はラフィット船長の手に渡りました。その結果、密輸品がアメリカ当局の戦利品を凌ぐようになり、当局は海賊の取締りに乗り出すことになってきました。アメリカ海軍は弱体なので、当局は法的行動をとり始めました。1812/11/10に連邦検察官(federal prosecutors)ジョン・グリムス(John R. Grymes)は売上法違反(violation of the revenue law)を発動して告発しました。4日後にグリムス検察隊40人(soldiers)がバラタリア湾にラフィットを待ち伏せして、ラフィット兄弟を捕えました。11/16には25人の非武装の密輸業者を捕えました。密輸業者は数千ドルの密輸品を保釈保証業者に提供して、放免になりました。1819/3月に起訴中であるにもかかわらず、ラフィット船長はブリッグ船ゴレット・ラ・ディリジェンテ号(Le Brig Goelette la Diligente)でニューヨークへ出帆しました。するとスペイン領のカルタヘナ(Cartagena, Colombia)が私掠許可証を与えましたが、そこではなんの獲物も無かったので、バラタリア湾へ戻りました。

1813/3/15に怒れるクレイボーン知事の指名手配書は新聞(Niles' Weekly)にも掲載されました。10月に待ち伏せがありましたが、うまく逃れましたので、知事は船長に賞金$500を懸け、町中に貼りだしました。船長は知事に「海賊行為の非難の間違い」を証明する個人書簡(Personal Note)を届けました。1814/1月に船長はテンプル(Temple)で戦利品の競売をして成功しましたが、ニューオリンズの仲買業者の客が儲けたので、ニューオリンズ当局は激怒しました。しかも当局が競売を邪魔して発砲したので、銃撃戦となり当局の1人が死亡し2人が負傷しました。兄ピエールは逮捕されて投獄されました。クレイボーン知事は州議会に調査を要求し、調査委員会が調査にあたりましたが、委員はラフィット船長から何がしかの利益を得ていましたので、なし崩しになり、軍隊の派遣はありませんでした。

・イギリスの提案(British offer)
兄ピエールが投獄されている間、ラフィット船長は密輸稼業を続けました。その数ヵ月後イギリスはメキシコ湾のパトロールを強化し、1814/8月にはペンサコーラ(Pensacola, Florida)に海軍基地を建設しました。1814/9/3にソフィア号(HMS Sophia)がバラタリアへ帰港中の船を大砲で砲撃しました。ところがソフィア号が浅瀬につかまり白旗を上げるという事件が起こり、降伏したロッキヤー艦長(Nicholas Lockyer)は2通の親書を差出しました。1通はイギリス国王ジョージ3世(George III、George William Frederick、1738-1820)の親書で、「合衆国海軍との戦いを手伝い、最近スペインから奪った資産を返すことを約束したら、イギリスのアメリカ植民地での市民権、および土地借用権を与える。拒絶したらイギリスはバラタリアを破壊する」と書いてありました。もう1通はイギリス陸軍マックウィリアムス大尉(British army Captain McWilliams)からラフィット船長にあてた個人書簡で、「申し出を受け入れることを強く勧める」ことが書いてありましたので、ラフィット船長は合衆国の最終勝利を確信しました。

ラフィット船長はアメリカ海軍ダニエル・パターソン艦長(Daniel Todd Patterson 1786-1839)が、海賊がイギリスと同盟することを恐れて、バラタリアを攻撃する計画を持っていることを警戒して、パターソン艦長に「バラタリアがアメリカと同盟する」ことを信じさせる必要があると思っていたので、イギリスへの最初の返答は「喜んで手伝う」というものでしたが、15日間の猶予を求めました。バラタリア作戦を牛耳っている州議会のブランク議員(Jean Blanque)へイギリスの親書の写しを送り、兄ピエールの釈放を求めました。クレイボーン知事への手紙には「私は迷える子羊です。家へ帰りたいと願う子羊です。もし貴方が少しでも私の罪を許すお気持ちがあるならば、私と仲間は貴方のもとへ馳せ参じて戦います」としたためました。その2日後に、兄ピエールは牢獄から脱獄しました。

・アメリカの取締りと提案(American invasion 侵略)
ラフィット船長の信書がアメリカ合衆国に「彼の忠義を証明する」ことを望んだにもかかわらず、1814/9/13にパターソン艦長がアメリカ戦艦カロライン号(USS Carolina 14guns 230tons 乗組員100人)に乗船して、6隻のガンボート(six gunboats)と補助ボート(tender)とディンギー(dinghy)数隻を随伴して
バラタリアへと出帆しました。艦隊はバラタリア湾グランド・テール沖に停泊し、ガンボートは攻撃に移りました。海賊たちは10隻の私掠船を炎上させる抵抗線を張って逃げ去りました。アメリカ軍は浜沿いに進軍しましたが抵抗を受けませんでした。80人の海賊が捕まり、ラフィット船長はかろうじて脱出できました。アメリカ軍は合計20門の大砲相当のスクーナー帆船(schooner)6隻、ファルーカ帆船(felucca)、ブリッグ帆船(brig)など、$500,000相当の物資を捕獲しました。9/23にパターソン艦長と艦隊は全ての拿捕船を伴って、ニューオリンズへの帰路に出帆。新聞(Niles' Weekly Register)は合衆国の大勝利を書きたてました。 ファルーカ船
当時の慣習で、ラフィット船長は没収された船と積み荷の返還を求めて、でパターソン艦長を訴えました。「我々は公海上で、しかもカルタヘナの旗印を掲げていて、合衆国になんらの敵意もなかった」と申し述べましたが、物資は売却され、船は連邦保安官(US marshal)の管理となりました。

クレイボーン知事は合衆国検事総長リチャード・ラッシュ(Richard Rush 1780-1859、US Attorney General)に「ラフィット船長が合衆国にお味方すると言っている」との書簡を送りました。知事は、さらにアンドリュー・ジャクソン将軍(Andrew Jackson 1767-1845、第7代大統領 1829-1837)にも書簡を送りました。すると、将軍から「彼ら海賊共は信用できるのか?」との返書が来ました。

・第2次アメリカ独立戦争(米英戦争、War of 1812)中の
 ”ニューオーリンズの戦い”(Battle of New Orleans、1815/1/8)
1814/12/1にジャックソン将軍が少数の部隊と共にニューオリンズに到着し、ニューオリンズの街の防御体制がなっていないことを知りました。街には訓練不足の1000人の兵と2隻の軍船がありました。拿捕船はありましたが、水兵が不足していました。ほとんどのバラタリア海賊は捕まっていませんでしたが、拿捕船で働くのは嫌がっていました。12月中旬にジャックソン将軍はラフィット船長と面会して、「合衆国軍に加わって街の防衛に参加したら、恩赦を与える」と提案し、合意を得ました。12/19にルイシアナ州議会も恩赦を議決しました。こうして、ラフィット船長は1000人以上の仲間と共に合衆国のジャクソン将軍陣営のニューオリンズ市民軍に加わり、3個部隊を編成しました。

12/23にパッケナム将軍(Edward Pakenham)率いるイギリス軍先遣艦隊がミシシッピ河(Mississippi River)に到着。ラフィット船長はアメリカの防御線が短すぎて、イギリスに包囲されてしまうと思いましたので、ジャックソン将軍に近くの湿地帯(swamp)まで防御線を拡張することを提案し、防御線は湿地帯まで広げられました。12/28に英艦隊が砲撃を開始しました。レナード(Renato Beluche)とドミニク(Dominique Youx)に率いられたラフィット船長の優秀なアメリカ船隊に乗り組んだ砲撃部隊が応戦し、撃退しました。海賊共の砲戦の腕前は英軍艦よりも上回り、それを見ていたパターソン艦長は彼らを褒めそやしました。海に陸に砲撃戦は続きました。レナードとドミニクには海賊船が戻され、彼らの部下と勇敢なニューオリンズ市民が乗り組み、防御船隊の一翼を担いました。そして、ジャックソン将軍は正式にラフィット船長の一味を合衆国軍と認め、拿捕船を戻して合衆国軍に編入しました。海賊達は赤い服を着ていてイギリス軍と見分けがつかなかったので、イギリス軍陣地に潜入攻撃をしかけるゲリラ戦術で戦果をあげ、バッカニーア(Buccaneer)と呼ばれ、勝利を勝ち取りました。1815/2/6にジャックソン将軍は船長達に正式な恩赦を与えました。

参考地図HP:〜
ニューオリンズのバラタリア湾の地図

▼ガルベストン島時代(Galveston Island,Texas、1817〜1821)
ラフィット船長は、メキシコ独立戦争(Mexican War of Independence 1810-1821)の中頃の、1815年遅くから1816年早くの間はスペインと交易をしました。ラフィット船長はナンバ−サーティーン(Number thirteen)と呼ばれました。兄ピエールはニューオリンズのスペイン人にメキシコの情報をもたらしました。1817年頃にラフィット船長は、スペインのカヴェサ・ド・ヴァカの乗船が遭難(1528)したガルベストン湾の南にあるガルベストン島(Galveston、現テキサス州沖、当時はスペイン領)にコルセール海賊の基地がありましたが、その海賊共が居なくなったことを聞きつけ、彼の根拠地を建設しました。

ガルベストンはフランス海賊ルイ・ミッシェル・オーレイ(Louis-Michel Aury、French Corsair 1788-1820)が1816/9月に建設していた海賊基地でしたが、オーレイ船長と手下共が、メキシコ独立戦争で島を留守にしている間に、ラフィット船長はやすやすと自分達の基地を作り上げました。そして、堀によって取り巻かれて、赤く塗った屋敷に、メイソン・ルージュ(Maison Rouge)と名付けて住み、上階にガルベストン湾に向けて大砲
陸上の砲台

ガーンジー 1993/5/7 発行
を備え付けて要塞化しました。海上ではプライド号(Pride)に乗船していました。

1817年の初頭には、メキシコ独立派の連中がガルベストン島に集ってきていました。3月にラフィット船長がガルベストン島に行って2週間後には、革命家の2人の指導者が島を去り、その翌日、ラフィット船長は島を乗っ取りました。そこを基地としていたフランス系海賊やメキシコ独立派の連中などを追い出して、原住民のカランカワ族(Karankawa)以外を駆逐しました。1817/4/18にはニューオーリンズへと出帆して、"海賊王国"についてのスペインの承認を取り付けて戻りました。ラフィット船長は急速に基地を充実し、既存の建物は取り壊し、200軒もの家を建設しました。潜在的なスペインの侵略を心配したラフィット船長は、ガルベストンから出帆する船にはメキシコの旗を掲げました、しかし、それらの船は、いかなる革命的な活動にもかかわりませんでした。数ヵ月後に海賊オーレイが戻ってみると、もう彼に組する海賊共はいないことがわかり、7月には島を去りました。

1年もたたぬ内に200人ほどの海賊が家族連れで集まり、ラフィット船長への忠誠を誓いましたので、私掠許可証を与え、国籍を選ばず各国船を襲撃しました。1818/4月に合衆国議会は国内のいかなる港へも奴隷の輸入を禁止する法案を可決していましたが、その法律には幾つかの抜け穴が有りました。拿捕船の奴隷は例外でしたので税関当局の手で奴隷が売られて、利益の半分を没収しました。アラモの戦いで有名なジェームズ・ボーイ(James "Jim" Bowie 1796-1836)、別名:ジム・ボウイ (Jim Bowie) などの密輸業者はラフィット船長と奴隷取引をして儲けました。1818年カランカワ族の子供が誘拐される事件が起こり、ガルベストンに原住民が襲撃してきて、5人の男が殺害されました。海賊共は砲撃で対抗して、種族のほとんどの男を報復殺害しました。9月に強力なハリケーンが襲ってきて、多数の死傷者をだし、4隻の船が破壊され、ほとんどの建物が倒壊し、6軒だけがかろうじて使用できました。1820年頃にラフィット船長はフランス人移住者のムラート(mulatto mistress 混血夫人)のマデリーン・レガウド(Madeline Regaud)と結婚しました。1820年秋頃に、兄ピエールがユカタン半島北部で亡くなったと伝えられています。
黒人奴隷の輸入
三角貿易の地図


奴隷解放150年記念
トリニダード・トバゴ
 1984/10/22 発行

なお、米英戦争中にジム・ボーイとその兄弟は、「ニューオーリンズの戦い」でイギリス軍と戦うため、コールマン・マーティン大佐のルイジアナ民兵隊に参加しました。1815/1月に2人がニューオーリンズに到着した時には戦争は終結していましたので、彼らは故郷に戻り、アメリカ合衆国が奴隷の輸入を禁止していたにもかかわらず奴隷貿易を始めて、海賊ラフィット船長が送り込んだ先の密輸業者の競売で違法に獲得した奴隷を購入し、ミシシッピ河上流のセントランドリー郡で売り払いました。兄弟は$65.000ドルを貯めて奴隷貿易を辞め、土地投機(鉱山 San Saba Mine)に替りました。ジム・ボーイはその後のアラモノ戦いで戦死しました。

ジェームズ・ロング総督(James Long 1793-1822、初代テキサスを独立させるために雇うとしましたが、ラフィット船長は中立を保ちました。 1821年にメキシコが独立した後
ディズニーが描く奴隷のオークション(競売)
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も、ラフィット船長はガルベストン島に留まりました。

海賊の横行でアメリカ商船の被害が続いたので、1821年にガルベストン海賊がアメリカの商船を襲撃したのを契機に、ラフィット船長と海賊を一掃するために、アメリカ海軍エンタープライズ号(schooner USS Enterprise 135tns 12x6pounders)がガルベストン島に派遣されてきて、1821年5月にラフィット船長は立ち退きを要求されました。

ラフィット船長は無血開城を決意して、居住地に火を放ち焼き払って、多くの仲間、宝物、酒などと共にガルベストン島を立ち退きました。その時に船長が島に宝物を埋めて隠したといわれています。現在まで何度も宝探しが行われましたが見つかっていません。メイソン・ルージュの基礎部分が現在も島に残っています。
海賊の宝島
参考地図HP:〜
テキサス州(ヒューストン)の地図
ヒューストンとガルベストン湾の地図

その後(1821〜1823)
1821/5/7に2隻の船、ヴィクトリア号(General Victoria )他に分乗してラフィット船長と夫人と幼い息子と海賊一味はガルベストン島を出帆。2週間の航海の後に、1隻のスペイン船を拿捕し、ニューオーリンズでの積荷の荷揚げ(密輸)に向かわせました。その後、逮捕者が出たりした後に、分け前のことで仲間の半数が加担する反乱が起りヴィクトリア号のマストが折られ破壊されました。からくも反乱を逃れたラフィット船長は、なおもメキシコ湾沿岸のガルベストンやニューオーリンズ近郷の砂州島(barrier islands)を利用してスペイン船を求めて海賊稼業を続けしました。ルイジアナ議会の代行は、連邦政府が何か密輸を止めるものをすると要求し始めましたので、海賊の取り締まりは厳しくなり、海賊は減少しました。

1821/9か10月にラフィット船長はキューバのプエルト・プリンシペ(Puerto Principe 現Camaguey)で待ち伏せを食い、捕えられ、投獄されました。1822/2/13にラフィット船長は外部からの手助けでそこを脱獄しました。数ヵ月後にキューバの海岸に、「利益の株」を地方役人に賄賂として贈ることで、海賊基地を建設しました。4月にアメリカ船を分捕った後で、逮捕されましたが、地方役人に手を回して解放されました。ラフィット船長と海賊一味はキューバへの商船を襲撃しましたので、キューバの役人は激怒しました。1822年の終わり頃に、キューバ官憲が急に攻め入って来て、全ての商取引を禁じました。

1822/6月にはコロンビアに接触し、スクーナー帆船ジェネラル・サンタンデル号(General Santander 40-tns schooner)を獲得しましたので、スペイン船を襲撃しました。キューバ近海に獲物を求めながら、1822/11月に彼はアメリカのスクーナー帆船を砲撃したことが、その後にアメリカの新聞のニュースで報じられました。

1823/2月に2隻のスペイン船を襲撃しましたが反撃されて海戦となり重症を負い、2/5の夜明けに亡くなり、ホンジュラス湾で水葬に付されました。コロンビア・カルタヘナ市の新聞ガセタ・カルタヘナ誌(Gaceta de Cartajena)に「海賊ラフィット船長」の死亡記事が掲載されたのを最後に、その消息は2度と新聞に載ることはありませんでした。

参考地図HP:〜
ホンジュラス湾の地図
テキサス州ヒューストンの場所地図


参考:〜
・出自について
ジャン・ラフィットはロープ職人でフランス人の父親アントーニュ・ラフィット(Antoine Laffite)と、スペインのバスク自治州ビスカヤ県ビルバオの南オルデュナ(Orduna)生まれの母親ギュルメット(Guillemette Chataigne)の3男として、フランスのボルドー(Bordeaux)で生まれ、長兄ピエール(Pierre Lafitte 1780-1844)、次兄アレクサンドレ・ラフィットもボルドー生まれという説もありますが、
▼出生
出生については諸説有って、フランスのボルドー(Bordeaux)説、バイヨンヌ(Bayonne)説、サン・マロ(Saint-Malo)説、ブレスト(Brest)説、スペインのオルデュナ(Orduna)説、アメリカのニューヨーク州ウエストチェスター郡(Westchester County, New York)説などがあります。しかし、ラフィット船長の伝記作家ラムゼイ(Jack C. Ramsay)の説によれば、「フランス植民地サン・ドマング(Saint-Domingue、現ハイチ)で生まれ、母親がニューオーリンズに兄のピエールとジャンを連れて移住し、1784年に彼の母がニューオーリンズの商人オーブリー(Pedro Aubry)と再婚し、ジャンは母と居て、兄はルイジアナの何処かへ行った」と述べています。

なお、ジャン船長は1826年ユカタン半島に上陸したハリケーンで死んだとも、家族と共に生活した後、1840年代にセントルイスで亡くなったとも言われていますが、定かではありません。多くが謎に包まれています。

・ハイチ革命(1791-1804)
 Revolution haitienne

イスパニョーラ島西部の現ハイチで黒人奴隷が反乱を起こして共和国となる。西半球で起こったアフリカ人奴隷の反乱の中でも最も成功した例なので革命と呼ばれる。

・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。      09/4/30、12/7/30
スタンプ・メイツ
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