大航海物語
ニューオーリンズの戦い
 1815/1/8
米英戦争(War of 1812)中の戦い


参考資料
USA
ニューオリンズの戦い
Gneral Andrew Jackson

1815 ニューオリンズの戦い150年 1965
Sesquicentennial Medal
USA 1965/1/8 発行
アンドリュー・ジャックソン

USA 1965-78 発行

ミシシッピ河 BAHAWARUPUR
コットン(綿花)

バハワルプール  発行
1812 ルイジアナ州150年 1962
ミシシッピ河の川船・外輪船

USA 1962/4/30 発行

←5大湖






←メキシコ湾
河口がニューオリンズ
USA 1966/10/21 発行

ニューオーリンズの戦い (1814/12月〜1815/1/8)
 Battle of New Orleans
 (Battle of Chalmette Plantation)
1803年のルイジアナ買収以降のルイジアナは、1804年のハイチ革命で多くの難民がルイジアナに流れ、主にニューオーリンズ(New Orleans, Louisiana)に上陸しました。ルイジアナの西の国境はスペイン領テキサスと接しており、サビーン自由州が中立の緩衝地帯として働き、受刑者の天国にもなっていましたが、開拓が進み、ニューオーリンズは交易と海運が著しく増加。中西部から出荷された農産物や工業製品がミシシッピ河を下って海外に向けて船積みされ、ニューオーリンズ港に入った国際船で輸入された物が内陸に送られました。港は蒸気船、平底船および帆船で賑わい、多くの国から来た様々な言語を話す労働者がいました。ニューオーリンズは綿花と砂糖の主要輸出港でした。市の人口は増加し、この地域は極めて豊かになりました。深南部の他の地域以上に市内に職を求める移民が集まり、豊かな輸入品も陸揚げされていました。ニューオーリンズは合衆国最大の奴隷市場(競売市場)となりました。奴隷輸入の禁止によって国内市場に対する需要が増加。アメリカ独立戦争(1775-1783)後の数十年間、百万人を越える奴隷化されたアフリカ系アメリカ人がアップランドサウス(Upland South)から深南部(Deep South)への移動を強制され、その3分の2は競売市場の奴隷取引によっていました。他の者は奴隷所有者としての主人によって西部の新天地に移動させられ、アップランドサウスにおいて、農園主達がタバコから労働集約的ではない作物の組み合わせに移行するという農業の変化で、農園主は過剰な労働力を持つにいたりました。多くの者は新しい辺境に行くために奴隷達を取引業者に売ることになり、奴隷達は取引業者によってアップランドサウスから陸路を連れて行かれるか舟でニューオーリンズに運ばれました。ニューオーリンズで売られた後はミシシッピ河を運航する蒸気船で、ナチェズ(Natchez, Mississippi)やメンフィス(Memphis, Tennessee)など上流の市場やプランテーションに運ばれました。1760年代に始まったとされるイギリス産業革命の基盤である綿工業は、奴隷貿易が呼び水となって開始されたといわれ、イギリス産の綿の原綿は、主にアメリカ南部の奴隷労働による綿花プランテーションで栽培され、主にニューオーリンズから積み出されたものでした。ニューオーリンズの戦いは、このような状況の中で、米英戦争(1812/6/18〜1815/2/18、第2次アメリカ独立戦争)の末期に戦われ、米軍の勝利となりました。米英戦争の勝利はガン条約(1814/12/26、Treaty of Ghent)でイギリスに合衆国のルイジアナとフロリダ西部の所有権を認めさせました。

1814/12/12までにコークレーン提督(Admiral of the White Sir Alexander Forrester Inglis Cochrane GCB RN 1758-1832)のイギリス艦隊がルイジアナ沿岸に到着、10000人のイギリス軍をポンチャートレイン湖(Lake Pontchartrain)とボーグン湖(Lake Borgne)の東岸に揚陸し、1814/12/13にイギリス軍は布陣しました。ジャクソン大佐が率いるアメリカ軍は ニューオリンズからミシシッピ川を下流へ5mils(8km)のチェルメット(Chalmette, Louisiana)に陣を構え、イギリス軍へ速攻をかけるべく準備。1814/12/23にイギリス軍キャンプを夜襲、イギリス軍を撤退させ、装備、補給品を奪いニューオリンズへ帰還。これによりイギリスの進軍は延ばされ、その間にアメリカ軍はミシシッピ川東岸に土塁工事をして大砲を設置しました。

1814/12/28にパッケンハム将軍(Sir Edward Michael Pakenham GCB=バス勲章 1778-1815)率いるイギリス軍はアメリカ軍土塁を攻撃、アメリカは土塁に砲列を設置(Line Jackson)。1815/1/1にイギリスの主力軍が到着、大砲でアメリカ土塁に攻撃、両軍の大砲での打ち合いが3時間続き、アメリカは大砲数台と土塁の一部が破壊され、イギリス軍の弾薬が無くなった時に、アメリカ軍の弾薬は未だありました。

パッケンハム将軍はイギリス全軍(英軍の他、アメリカ先住民(Hitchiti)、イギリス領西インド諸島の黒人兵士など)を集結して総攻撃をかけ、1/8にイギリス軍は3回にわたって攻撃するもアメリカ軍に食い止められ、パッケンハム将軍は3回目の攻撃で負傷、死亡に至る前に更なる攻撃を命令しました。パッケンハム将軍の死後に指揮を継いだランバート将軍(Sir John Lambert GCB ?-1847)は撤退を命じました。

アメリカ軍の民兵軍にジャン・ラフィット船長率いる海賊仲間の義勇軍1000人が加わって勇戦しました。彼らは赤い服を着ていて、イギリス軍も赤い服を着ていた為に紛らわしく、何人かの海賊はイギリスの隊に紛れ込み、彼らが敵だと気づく前に攻撃しました。

両軍は約2週間前の1814/12/24に終戦し、ガン条約が調印されていたことを知らずに闘いました。ジャクソン大佐は功績を評価され、後に第7代合衆国大統領に就任しました。ニューオリンズの戦い(Battle of New Orleans)という歌が、1959年のグラミー賞(Song Of The Year)を受賞しています。

・参考HP:〜
 ニューオーリンズの古地図
 アップランドサウス地図
 ディープ・サウス(深南部)地図
参考:〜
ガン条約 (1814/12/26)
 Treaty of Ghent

  (南ネーデルラント(ベルギー)のヘント(ガン)で締結)
互いに決定打を欠いたまま戦争が長引くと、アメリカとイギリス共に経済的にも軍事的にも疲弊し、講和の動きが出て、1814/12/26にベルギーのヘント(ガン)でガン条約が結ばれ、米英の講和が成立して米英戦争は終結しました。ところが、その知らせが届くのが遅れたために、アンドリュー・ジャクソン率いるアメリカ民兵軍がニューオーリンズのジャックソン砦(Fort Jackson)でイギリス軍を撃破した”ニューオーリンズの戦い”が起こりました。これは当時、新旧大陸間の連絡には船で数週間かかり、講和成立の知らせがすぐには届かず、停戦が遅れたために起こったのでした。この勝利でアンドリュー・ジャクソンは国民的な英雄となり、後にアメリカ合衆国第7代大統領となりました。その後、ガン条約の取り決めにより、両国が占領した地域は全て元に戻されることになりました。

・アンドリュー・ジャクソン (1767/3/15〜1845/6/8)
  Andrew Jackson

アンドリュー・ジャクソンは第7代アメリカ合衆国大統領(1829-1837)で、ジャクソンは貴族生まれでない最初の大統領。「オールド・ヒッコリー」(Old Hickory、頑固親父)の愛称で呼ばれました。「アメリカン・フロンティア」に暮らし、独立13州に関係しなかった最初の大統領。ジャクソンはアメリカ史の象徴となりました。
ジャックソン大統領
アメリカ独立戦争と南北戦争の間、その時代はエイジ・オブ・ジャクソンとかジャクソン・エラ(Jackson Era)としばしば呼ばれました。 史上唯一、議会から不信任決議をされた大統領で、またアメリカ大統領史上初の暗殺の標的になりました(未遂)。

ジャクソン大統領は1767年にカロライナのワクスハウエリア(Waxhaws area)の未開拓森林地域で生まれました。13才の時に彼は急使として大陸会議軍に加わり、彼の肉親はアメリカ独立戦争時に全て死亡し、彼自身は英軍の捕虜になりました。戦後ジャクソン大統領は1800年に若き弁護士としてテネシー州に移住。彼は名門の生まれではなかったが、すぐに開拓時代の無秩序の中で頭角を現し、州市民軍の大佐となり軍歴を積み重ねました。1812年の米英戦争でジャクソンは勇敢に戦い功績を挙げ、軍隊で名声を得ました。森林地帯の戦場で「古いヒッコリーのように頑丈」(tough as old hickory) と呼ばれ、「オールド・ヒッコリー」との愛称になりました。1815/1/8の「ニューオーリンズの戦い」での彼の指揮は全国的な名声を得ました。彼はその戦功で大将に昇進。戦後、ジャクソン大統領は急速に政治的経歴を積み、上下両院の議員に選出され、最高裁判所に勤務。1818年に再び軍務に就き、フロリダのアメリカ領を防衛する対スペイン戦役に従軍。その後彼は同地の知事に任命されました。

ジャクソン大統領の時代までに白人男子普通選挙制が確立したこともあり、彼の時代は「ジャクソニアン・デモクラシー」とも称されました。官吏の多くを入れ替えて自らの支持者を官吏とする猟官制(スポイルズ・システム)を導入しました。当時においてはこの政策が汚職構造の打破と考えられて慣例化しました。

ジャクソン大統領は連邦議会が認めた第二合衆国銀行の特許更新に対して拒否権を発動して破産に追い込みました。ジャクソン大統領は連邦に対して州の権利を重要視する南部出身の「州権主義者」でした。彼の時代、連邦政府は均衡財政を維持し、負債を出しませんでした。ところが、サウスカロライナ州で連邦法を州の権限によって無効にし、州は合衆国から自由に離脱できるとする運動が起こったとき(無効化の危機)、ジャクソン大統領はこの動きを強く牽制して、サウスカロライナの離反はさけられました。

ジャクソン大統領が定めたインディアン強制移住法は、連邦最高裁判所ジョン・マーシャル長官が「このインディアン強制移住法は違憲である」という判決を下しましたが実施。インディアンから強制的に土地を収奪して、この法律によってインディアンの多くは大陸西部へと追いやられました。

・参考HP:〜
 ミシシッピ河流域地図
 ミシシッピ河流域地図
 現在のミシシッピ州地図

・上記々述はこちらの文献などを参照させてもらいました。     09/8/8
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