バウンティ号
の反乱物語

マイケル・バーン
1791
”パンドラの箱”で地獄を見る、放免、吟遊詩人となる

大航海物語
イギリス
PITCAIRN ISLANDS
タヒチ島に置き去りにされたバーンたち

1789 バウンティ号の反乱200年記念 1989
ピトケーン 1989/4/28 発行
バウンティ号

英領ピトケーン 1988 発行
REPUBIQUE FRANCE
ヴァイオリン

The Red Violin by Raoul Dufy
フランス 1965 発行

パンドラ号

トケラウ諸島(現NZ領) 1999 発行
FIJI
クイーンズランド海岸の地図と
座礁したパンドラ号

ノーフォーク島 1991/8/28 発行

盲目のヴァイオリン弾き”マイケル・バーン”はバウンティ号のブライ艦長と専属契約を結んで水兵として乗り組みましたが、反乱には加わらずタヒチ島に置き去りにされていたのを、反乱者の捜索に来たイギリス軍艦パンドラ号に捕らえられ、「パンドラの箱」と呼ばれた牢獄に押し込められ地獄をみました。またパンドラ号が遭難したときも生き延び、イギリスに送還された後の軍法会議では無罪放免となりました。
マイケル・バーン (1761〜没年不詳)
 Michael Byrne

マイケル・バーンはアイルランドのキルケニー(Kilkenny)で生まれた、身長167cm、色白の小柄な少年で、盲目のヴァイオリン(fiddle)弾きでした。1787年に15才で、ブライ艦長のもとで艦長専属のミュージシャン上等水兵としてバウンティ号に乗組み、1787/12/23にイギリス・スピツヘッド海峡近くのポーツマス港を出帆しました。バウンティ号は乗組員は45人の小規模な帆船で、太平洋のタヒチ島から「人手無用で育つ食料の木」と思われていた”パンの木”の苗木を、西インド諸島に運び、そこのプランテーションで働く奴隷達の食料とするために植林することを使命として専門の植木職人も乗り組んでいました。

航海中はブライ艦長が乗組員全員に対して、幾つもの欠点をあげつらっては猛烈に叱責しました。1ヵ月後にブライ艦長の命令でマゼラン海峡ではなく、南アメリカ最南端で「吠える60度」という南極海からの強風で年中荒れ狂っていて、船乗りに恐れられていた難所中の難所のホーン岬Cape Horn)を回航してドレーク海峡を抜けて、太平洋へ出てることになりました。フライヤー航海長の冷静な指導のもとで嵐の中にホーン岬を望見できましたが、折りしもさらなる大嵐が襲いかかりました。ブライ艦長は「進路を見失った」としてドレーク海峡の突破を断念して、喜望峰への転舵を命令しました。喜望峰周りで無事にインド洋へ出ましたが、そのために2ヵ月もの遅れを出したとして、艦長は航海長のフライヤーを降格し、上級士官の1人フレッチャー・クリスチャン1等航海士を副艦長に抜擢しました。1788/3/10にはクィンタルがその横柄で反抗的な態度に、ブライ艦長から24回の鞭打ち刑を受けました。その後の航海中もブライ艦長の厳しい態度に、乗組員の多くが不満を抱いていきました。
バウンティ号はさらに西へ帆走して、10ヵ月以上の航海の後、1788/10/26にタヒチ島に到着しました。1789年4月までの約半年間を”パンの木”の苗木やその他の植物を搭載するためにタヒチ島に滞在しました。その期間中、クリスチャン副長はタヒチの女性と結婚し、その他の多くの乗組員も現地生活を楽しみ、島での約6ヵ月間の生活は水夫たちにしてみれば楽園だったのでした。水夫の多くは短気なブライ艦長と再び航海に出るのをますます嫌うようになりました。3人の水夫が仕事を放棄して脱走しようとしたため、ブライ艦長は鞭打ちの刑を科しました。そして”パンの木”の苗木を積み込んだバウンティ号は、1789/4/4にタヒチ島を出帆しました。 タヒチ島

仏領ポリネシア 1986/8/28 発行
1789/4/28にフレンドリー諸島(トンガ)近海に差しかかった時に反乱が起きました。イギリス出帆時から艦長の厳しさに不満を抱いていた乗組員達は、”パンの木”の苗木を積み込んでからの、水の制限により、不満が一気につのりました。クリスチャン副長をそそのかして味方につけ、1789年4月28日早朝に副長と反乱者達が船を乗っ取り、ブライ艦長達を1隻のボート(longboat、ランチ・救命艇)に押し込めて船から追放しました。当時乗組んでいた46人の内、途中で死亡していた2人を除き、反乱者はクリスチャン副長以下12人でした。ブライ艦長以下19人はボートに乗せられて追放され、反乱に加わらなかった者のうち艦長と行を共にしなかった(ボートに乗れなかった、また、直接手は下さなかったが反乱に同調した、という説も有)13人は船に残されました。
バーンズはこの船に残された13人中の1人でした。
その後、バウンティ号はポリネシアのツバイ島(Tubuai 、Austral Islands)に寄航し、定住地建設を試みましたが、原住民の攻撃にあって失敗しましたので、タヒチ島に戻りました。クリスチャン副長はイギリスの手の及ばない南海の未知の島に移住しようと覚悟を決め、1789年9月に23人の反乱者のうち、14人をタヒチに残し、8人の反乱者と原住民を連れて島を後に出帆してしまいました。

残された元乗組員はヘイヲッドの指揮のもとで、タヒチ島の部族紛争を解決し、島の統一に貢献して平和に暮らしていました。ところが・・・・・
タヒチの女(浜辺にて)
ゴーギャン 1891年作オルセー美術館蔵


仏領ポリネシア 1958/11/3 発行
1789/6/12にブライ艦長が指揮するボートは、海図無しで艦長が持っていた六分儀と時計のみで航行し、トンガのトフォア島を経由して45日かけて、ニューギニアとオーストラリアの間の早い潮流の難所トレス海峡を通り、オランダ領チモール島にたどり着きました。約1年後の1790/3/4ブライ艦長以下15人が英国に生還できました。同年3/15にブライ艦長たちはイギリスで反乱を報告しました。ブライ艦長たちの報告を聞いたイギリス海軍は反乱者達を探すためフリゲート艦パンドラ号を派遣することを決定しました。
1790年11月に軍艦パンドラ号はバウンティ号の捜索のためにイギリスを出帆し、1791年3月にタヒチ島に到着しました。タヒチ島にいたバーンは「自分は王党派の者で、反乱者ではありません」と自ら進んで自首しましたが、他の叛徒と同じく「海賊の極悪人」として逮捕されました。パンドラ号には牢がなかったので、クォーターデッキ(後甲板)に「パンドラの箱」とあだ名される木造の箱で臨時の牢獄を造り,手かせと足に鉄の鎖をして反乱者たちを収監しました。 タヒチ島に到着したパンドラ号

ノーフォーク島 1991/8/28 発行
その箱は換気が悪い上に直射日光が当たり、それはもうサウナに閉じ込められているのと同じで、赤道直下での窓のない「箱の中」は強烈な熱さと異臭に満ちて、地獄の状態だったと伝えられています。バーンズたちはその中に4ヵ月間も閉じ込められました。パンドラ号はその後も3ヵ月ものあいだ副長たちを探しましたが、ようとして行方が解らず、1791/8/30にオーストラリア近海のトレス海峡近くクイーンズランド海岸で座礁、沈没してしまいました。この時に叛徒3人が水死しました。 座礁したパンドラ号と地図
遭難後に4隻のボートにバーン他98人が分乗し、15日間の航海後にチモール島に着き、その後オランダ東インド会社の帆船でバタビアに連行されました。そこからイギリス軍艦ゴーゴン号(HMS Gorgon)でケープタウン経由で、バーン他の叛徒は本国送還となり、1792年6月にイングランドに到着しました。同年の軍法会議で10人の内3人が絞首刑となりましたが、バーンは無罪となり釈放されました。
バーンの、その後は歴史家の間でも解明されておらず消息不明と言われていますが、吟遊詩人として旅に出たのではないかとも伝えられています。

・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。      08/2/7

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