第1回
★ベーリング物語第2回
遭 難

第2回探検航海
1741
アラスカを視認、上陸

大航海物語
   ロシア★
-Grenadines-
of St.Vioncent

氷海に阻まれる船隊
ベ|リング隊長

セント・ヴィンセント 1992 発行
氷海の島に探検上陸

セント・ヴィンセント 1992 発行

TURKIYE
ユーラシア大陸を横断
サンクトペテルブルグ6200km イルクーツク4000kmカムチャッカ
ヨーロッパ カムチャッカ
アジアとヨーロッパを結ぶ”ボスポラス海峡”大橋「渡り初め」記念
トルコ 1970/2/20 発行

第2回カムチャツカ探検(大北方探検)は1733〜1743年にかけて行われました。隊長ベーリング船長と副隊長チリコフ船長は2隻の帆船でアメリカ大陸を目指しましたが、2隻は嵐ではぐれ別行動をとり、サンクト・ピョートル号のベーリング船長達はアラスカ南岸を視認した最初のヨーロッパ人となり、サンクト・パーヴェル号のチリコフ船長達はアラスカ南岸に上陸した最初のヨーロッパ人となりました。チリコフ船長はロシアに帰還するも、ベーリング船長は途中で帰らぬ人となりました。

1733年にロシア政府は多くの専門家を動員した大規模な第2次カムチャッカ遠征隊(大北方探検隊1733-1742)を編制し、隊長(総司令官)にベーリング船長を指名しました。ベーリング船長は北平(北京)経由で日本へ交通路を開くための地図を作成する計画を立案していたともいわれています。1733/4月にベーリング船長は副隊長のチリコフ船長と、日本クリル探検支隊(日本とクリル列島(Kuril Islands 千島列島)への海路探索の地図作成)の任務を受けたマルティン・シュパンベルク達と共に、ロシアとアメリカ大陸北部沿岸の調査のために2度目の探検にぺテルブルグを出発。ベーリング船長は心を許せない士官、手に負えない人夫達、命令を聞かない科学者の集団を抱えてのシベリア横断で悪夢のような3年間を過ごしたと伝えられています。1741/6月にオホーツクで建造した2隻の船隊、サンクト・ピョートル号(聖ペトロ号)とサンクト・パーヴェル号(聖パウロ号)を指揮してオホーツク港を出帆し、海路でカムチャッカ半島東岸に向いました。1740年にベーリング探検隊はカムチャツカ半島の太平洋岸を調査し、アバチャ湾(Avacha Bay)に到達・発見しました。そのアバチャ湾奥に上陸した所を、その時の2隻の探検調査帆船サンクト・ピョ−トル号(Saint Peter:聖使徒ペトロ号(Saint Peter the Apostle):スヴャトーイ・アポーストル・ピョートル)と僚船サンクト・パーヴェル号(Saint Paul:聖使徒パウロ号(Paul the Apostle):スヴャトーイ・アポーストル・パーヴェル)に因み、”ペトロバブロフスク”(Petropavlovsk)と名付けました。それが現在のペトロパブロフスク・カムチャツキーの起源になりました。

1741/7/4にベーリング船長の率いる2隻の船隊、サンクト・ピョートル号と、チリコフ船長の率いる僚船サンクト・パーヴェル号がアメリカ大陸を目指してペトロバブロフスクを出帆。1741/6/20に深い霧と嵐のために2隻の船はお互いを見失い、2隻は離れ離れになりました。サンクト・ピョートル号はアラスカ南岸に到達、1741/7/16アラスカの陸影を視認。数日後アラスカカヤック島に上陸(1741/7/17説有)。その後、カムチャッカに向かい、発見した陸地を海図に記入しながら南西方向へ航海を続けましたが、ベーリング船長は1741/8月末に発病し船室から出られなくなりました。サンクト・ピョートル号はさらに南西に向かい、アリューシャン列島の一部の島々を発見し、1741/8月末にシュマージン諸島の島の一つに上陸。そこで一週間を過ごし、土地の住民のアレウト人とはじめて遭遇しました。また、壊血病で命を落とした乗組員のシュマギンを島に葬り、その名にちなんで、その島をシュマギン島(現:シュマージン諸島 Shumagin Islands)と名づけました。大嵐に見舞われて、1741/11/4にコマンドルスキー諸島無人島の海岸線を視認後に漂着。破損した乗船と多くの病人を抱え、ベーリング船長自身も重い病いのなか、その島に上陸しました。その島にいた海牛(巨大ジュゴン)を獲って飢えをしのぎながら越冬しましたが、ベーリング船長は1741/12/8に60才で亡くなり、その島に葬られました。後にその島がベーリング島と名付けられました。

一方、チリコフ船長のサンクト・パーヴェル号はアラスカ州最南部、アレキサンダー諸島の現在のシトカ市付近に、1741/7/15に到達しました。ベーリング隊は船医の博物学者ステラー博士とワクセル中尉に率いられて、生きのびた乗組員がカムチャッカへ戻りました。ステラー博士は途中で亡くなりましたが、ワクセル中尉と生存者達がアザラシやラッコなどの毛皮を持ってペテルブルグに生還しました。ベーリング探検隊の探検によって、北アメリカのアラスカ南岸方面が世界でもまれに見る良質の毛皮の産地であることが分かり、ロシア人は早速アザラシやラッコの漁を始め、アラスカ沿岸に植民しました。ベーリング島の海牛はステラー博士の研究報告でステラーカイギュウと名付けられましたが、乱獲によって間もなく絶滅しました。ベーリング船長の第2回カムチャツカ探検隊にはセミョン・チェリュスキン達のシベリア最北端探検への分遣隊も参加していました。

第2回探検隊の主な参加者:〜
・大尉ヴィトゥス・ベーリング船長(隊長・総司令官)、デンマーク人〜サンクト・ピョートル号
  ・アンナ夫人はヤクーツクから、ペテルブルグへ(1734/10)戻る
  ・博物学者ゲオルグ・ステラー博士(Georg Wilhelm Steller 1709-1746)、ドイツ人
  ・中尉スヴェン・ワクセル(Sven Larsson Waxell 1701-1762)、スウェーデン人
    サンクト・ピョートル号の先任士官
  ・チハチョフ(Tsjichatsjov)、ブラウチン(Brouchin)、ヒトロヴォ(Khitrovo)など
  ・大尉アレクセイ・チリコフ船長副隊長(副司令官)〜サンクト・パーヴェル号の探検航海
・日本クリル探検支隊:〜
  ・大尉シュパンベルク船長、デンマーク人〜アルハンゲル・ミハイル号の探検航海
   ・シェルチェング船長〜ナデジダ号
   ・中尉ワルトン船長〜聖ガヴリール号の探検航海
・別動隊:〜博物学者など科学者グル―プ
・分遣隊:〜・セミョン・チェリュスキン〜タイミル半島と北極海岸探検

▼第2回探検航海(1733-1742):〜
1733年、第2次大北方探検隊(Great Northern Expeditions of Vitus Bering)を組織
03/06、第1班、第2班がサンクト・ペテルスブルグを出発、
03/07、第3班、第4班がペテルスブルグを出発、
     いづれも馬橇を引いて陸路でシベリアへ向う
04/18、ベーリング船長と夫人アンナがペテルスブルグ出発
05/03、トヴェリ
     ノヴゴロド(Novgorod)着
07/14、カザン(Kasan)着
08/08、別動隊の科学者達がペテルスブルグを出発
11月、エカチェリングブルグ(Jekaterinburg)着
ペテルスブルグ〜モスクワの地図

ソ連 1966 発行
12月、チュメニ(Tyumen)着
1734年、
01月、シベリアの中心都市トポリスク(Tobolsk)着、
    ベーリング隊はヤクーツクへ出発
    別動隊の科学者達は清国との国境の街キャフタ(Kyakhta)へ向う
1735年、
    別動隊がイルクーツク(Irkutsk)着
10月、ベーリング隊がレナ河畔ヤクーツク(Yakutsk)着、
    別動隊の到着を待つ、
    ヤクーツクを基地として資材を集結、鉄工所を建設
    探検準備でヤクーツクに3年間滞在、
1736年、
09月、別動隊がヤクーツク着
1737年、
    ベーリング船長がオホーツクへと出発、
    アンナ夫人はペテルブルグへの帰路に着く
オビ川、エニセイ川、レナ河の地図
サケ鮭 カムチ

ッカ半島
ソ連 1959/7/16 発行
09月、ベーリング隊がオホーツク着、シュパンベルグ大尉の監督で
   ・アルハンゲル・ミハイル号(1本マスト長さ18.3m)を建造、
   ・ナジェジダ号(3本マスト長さ21.3m)を建造、
   ・フォルトゥーナ号(第1回使用の1本マスト古い船(平底船シーチク:10mx4m)を修理
   ・聖ガヴリール号(第1回使用の1本マスト古い船(コッチ船:長さ18.3m)を修理
    シュパンベルグ大尉隊が食料不足で出帆出来ず
10/4、フォルトゥーナ号がカムチャッカからの食料受け取りにボルシェレックへと出帆
    ボルシェレック(Ust Bolsheretky)付近でフォルトゥーナ号が嵐に遭遇、岩に激突・沈没
1738年、
07/13、日本クリル探検支隊のシュパンベルグ船隊がオホーツクを出帆
     ・日本クリル探検支隊の航海:〜1738/7/13〜1739/8/29
        日本側の目撃情報が1739(元文4)年の「元文の黒船」として有
1739年、
08/22、日本クリル探検支隊の聖ガヴリール号ワルトン船長がオホーツクに帰港
08/29、日本クリル探検支隊のシュパンベルグ船隊3隻がオホーツクに帰港
11/19、シュパンベルグ船隊の「日本航海の報告書」をロシア政府へ発送
1740年、
     ステラー博士がオホーツク着
06月、同型船の2隻が完成、進水
   ・サンクト・ピョートル号
     (Saint Peter:聖使徒ペテロ号〜ベーリング船長
     スヴャトーイ・ピョートル・アポーストル:Sviatoi Piotr the Apostle)
   ・サンクト・パーヴェル号
     (Saint Paul:聖使徒パウロ号〜チリコフ船長
     スヴャトーイ・パーヴェル・アポーストル:Sviatoi Pavel the Apostle)
      装備:3本マスト、長さ24.4m、排水量約100屯、
      装備:小型砲14門のパケット船 packet boat
サンクト・ピョートル号
09/06、ベーリング船長がサンクト・ピョートル号、先任士官スヴェン・ワクセルとステラー博士乗船
     チリコフ船長がサンクト・パーヴェル号で、それぞれ1隻の補給船を随伴して
     オホーツクを出帆、
     カムチャツカ半島最南端のロバトカ岬を回航してカムチャツカ半島東岸を北上航海
10/06、嵐をついてアバチャ湾(Avacha Bay)に到着、
     前年夏先発のイワン・ニコラギンが出迎え、
     探検隊はアヴァチャ湾の奥にキャンプを設営し、
     静かな天然の良港に感動して乗船に因んで、ペトロバブロフスクと命名
     その場所が現在のペトロパヴロフスク・カムチャツキーの起源となる
     ペトロパブロフスクで越冬してポルシェレックから食料などを輸送
1741年、
04/18、「ベーリング探検隊の活動報告書」をロシア政府宛に発送、
     ベーリング、チリコフ、チハチョフ、ワクセル、ブラウチン、ヒトロヴォの署名を付ける
05/04、士官会議で航海方針を決定、
     北緯46度まで東南東(East by South East)へ航海、
     幻の陸地(ガマの陸地)を目指す、無ければ東北へ航海することを目論む
06/04、サンクト・ピョートル号は、77人と6ヵ月分の食料で、
     サンクト・パーヴェル号は、75人と6ヵ月分の食料で
     ペトロパブロフスク港を出帆
06/12、北緯46度の「幻の陸地」の予想場所に到着するも陸影は無く、北へ航海、
     東経178度付近で濃霧が発生して両船は共に船影を見失い別々に東へ航海
07/16、北緯58度17分東経142度10分でアラスカ陸影を視認
     高山(セント・エリアス山 5,489.1m)を望見
07/17、サンクト・ピョートル号はアラスカ南岸に到達
7/17、ペトロパブロフスク出帆後、2950kmの航海で
     北緯58度44分の陸地、アラスカ南部の
     カヤック島(Kayak Island)南西端に
     水汲みと偵察に上陸、同島の南西端の岬を
     セント・エリアス岬(Cape Saint Elias)と命名
     サックリング岬(Cape Suckling)に上陸
アラスカの山を望見する一行
07/20、ステラー博士が調査のため当番兵1人と上陸、植物標本を採取
07/21、カヤック島を出帆、帰途に着く、ベーリング船長が発病し体調が悪くなる
08/30、シュマージン諸島で飲料水補給に上陸、自然と住民の観察調査
08/31、サンクト・ピョートル号乗組員ニキータ・シュマージン
     (Nikita Shumagin)が壊血病で亡くなったので、
     シュマージン諸島のナガイ島(Nagai Island)に埋葬して、
     諸島の名前をシュマージン諸島と命名
     ベーリング船長の病状が悪化して船室から出られなくなる
09/04、シュマージン諸島最南端の島でアレウト族が
     バイダルカ(皮船、シーカヤック)で近づいてくる
     6艘のボートで上陸
一人乗りシーカヤック

カナダ 1955 発行
09/06、船はアリューシャン列島を離れて西に向かって航海を続ける

・第2回探検の行程:〜
ベーリング隊はトボリスクからヤクーツクへ
 陸路:ペテルスブルグ〜トヴェリ〜ノヴゴロド〜カザン〜エカチェリングブルグ〜チュメニ〜
     トポリスク〜ヤクーツク〜3年間滞在〜オホーツク到着〜探検2隻を建造
 航海:オホーツク出帆〜ロバトカ岬〜アバチャ湾〜越冬〜ペトロパブロフスク命名
     ペトロパブロフスク出帆〜北緯46度東経178度付近で濃霧〜カヤック島〜
     シュマージン諸島ナガイ島〜アリューシャン列島を離れて西に向かって航海
別動隊(科学者):〜
 陸路:トポリスク〜セミパラチンスク〜クズネツク〜エニセイスク〜クラスノヤルスク〜ウディンスク
     〜イルクーツク〜バイカル湖〜キャフタ〜アルグン〜イルクーツク〜ヤクーツク
分遣隊:〜北極探検隊

サンクト・ピョートル号
  Saint Peter
:聖使徒ペテロ号の装備:〜
  スヴャトーイ・ピョートル・アポーストル:Sviatoi Piotr the Apostle)、1740
船 型  パケット船改良型探検船(packet boat for expdition) サンクト・ピョートル号
帆 柱  3本マスト
長 さ  24.4m
排水量  約100屯
武 装  砲14門
乗 員  77人
積載物資  食料6ヵ月分

別動隊:〜
  (博物学者など科学者グル―プ)
1734年、
01月、別動隊の科学者達はトポリスクから清国との国境の街キャフタ(Kyakhta)へ向い、
      セミパラチンスク(Semipalatinsk)へ行き
      トモスク(Tomsk)近郷のクズネツク(Kusnezk、現在のノヴォクズネツク:Novokuznetsk)
      エニセイスク(Yeniseysk)、
      クラスノヤルスク(Krasnoyarsk)、
      イルクーツク州のウディンスク(Udinsk)着
1735年、
03月、別動隊がイルクーツク州の
    イルクーツク(Irkutsk)着、
    バイカル湖(Lake Baikal)を回って
    清国との交易を学びに
    バイカル湖の東ザバイカルから
    キャフタ着
    チェチェン国(Chechen)の
    アルグン(Argun)から
    イルクーツクへ出発
クロテン(Sable)バイカル湖   バイカル湖の地図と動物分布図

ソ連 1966/6/25 発行

参考HP:〜
第2回カムチャツカ探検の地図(ヤクーツク〜カムチャッカ〜アリューシャン〜アラスカ)
エニセイスクの場所地図(ペテルブルグ〜エニセイ川〜レナ川〜オホーツク、コリマ川有)
ペトロパブロフスク・カムチャツキーの場所地図
カムチャツカ半島南部とペトロパブロフスクの場所地図
カムチャッカの場所地図(日本語、ペトロパブロフスク・カムチャツキー有)
パラナの場所地図(オフォーツク海)
ペトロパブロフスク・カムチャツキーの場所地図(Google Map)
アラスカの場所地図
コルドヴァの場所地図(Cordova有)
ロシアの州別地図
ロシアの主な川の場所地図(ヴォルガ川、オビ川、エニセイ川、レナ川、アムール川)

・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。   08/1/2画像追加、10/7/7追記、11/4/4

★ベーリング物語、第1回、第2回、 遭 難
ベーリング海峡

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