★ロシア
ゲラシム・イズマイロフ船長
1775、アリューシャン列島の探検航海
1784、コディアック島に入植

大航海物語★
CCCP
イズマイロフ船長の乗船
セント・ポール号の同型船

ソ連 1949/1/30 発行

ラッコ
Sea Ota


ソ連 1971/8/12 発行
ベーリング海アリューシャン列島の地図
カムチャッカ半島 〜 アラスカ半島


ソ連 1943/4 発行

ロシア生れのイズマイロフ船長はカムチャッカで脱獄したベニョヴスキーに船を乗っ取られ、千島列島のシムシル島に置き去りにされました。貝や草を食べて生き延び、アイヌ族に助けらましたが、イルクーツクで裁判にかけられ投獄され、1774年に釈放になりました。1775〜78年の間にセント・ポール号でアリューシャン列島の探検航海をなし地図を作製。1783年にはオホーツクからシェリコフ船長の遠征隊と共にアラスカ南のコディアック島に大航海して入植を果たしました。その後、アラスカのケナイ半島へロシア初の航海をなし地図を作製。1794年に行方不明になっていたプリブロフ船長と乗組員をセントポール島で見つけて救助しました。
ゲラシム・グリゴリェヴィッチ・イズマイロフ船長 (1745- 1795)
 Gerasim Grigoryevich Izmaylov

   ロシア帝国の冒険商人(毛皮)・探検家
   アラスカ植民地建設者(Alaska Colonizer)
   アラスカのコディアック島:50才没
イズマイロフ船長は生涯のパートナーとなったドミトリー・ボカロフ(Dmitry Bocharov)とヤクーツク現地人(Yakutsk)の航海学校をオホーツク(Okhotsk)で始めたと伝えられています。1771年に、ポーランドからカムチャッカ(Kamchatka)のボルシェレツキー島(Bolsheretsky island)に流刑になっていたモーリツ・ベニョヴスキーが反乱を起こしてイズマイロフ船長の船を乗っ取り、「聖ピョートル号」(Saint Peter)と名づけて日本に向かいましたが、濃霧で千島列島の中部にあるシムシル島(Simushir、新知島)に流れ着き、そこでムチ打ち後にその島に置き去りにされました。イズマイロフ船長は帆立貝(ホタテガイ scallops)や草(grass)、木の根(roots)を食べて生き延び、1年後にアイヌ族(Yasak:ヤスク族?)に救出されました。その後、反乱共謀の罪で逮捕されてイルクーツクで裁判にかけられ投獄されましたが、1774年に釈放になりました。

イズマイロフ船長の大航海:〜
・探検航海(1775〜1778)〜アリューシャン列島の探検航海:サンクト・パウロ(セントポール)号
・遠征航海(1783〜1786)〜オフォーツク〜コディアック島:サンクト・クリソストモス号
・探検航海(1789)〜アラスカのケナイ半島の探検航海

1771年、ベニョヴスキー反乱の連中に船を乗っ取られてボルシェレツキーを出帆、
      霧で船が千島列島のシムシル島に流れ着き、島に置き去りにされる
1771/7/8、イズマイロフ船長の船を乗っ取ったベニョヴスキーがカムチャッカから脱獄して
       帆船聖ピョートル号で日本の阿波国徳島藩日和佐(現:徳島県美波町)に来航
1772年、イズマイロフ船長が救出された後、イルクーツクで裁判にかけられて投獄される
1774年、釈放される
1775年、小型コッチ帆船サンクト・パウロ号(boat St.Paul)で、
      アリューシャン列島を探検調査(〜1778?)して地図を作製
1778/10月、ウナラスカ島(Unalaska)を探検
   10/14、ウナラスカ島でクック船長に出会い、
        カムチャッカとオホーツク海、そしてクリル諸島の地図を見せる、
        クック船長からメルカトル図法の北米北部西海岸(western coast of North
         America)の地図を見せてもらう。カムチャッカ当局(Kamchatka authorities)と
        ペトロパブロフスク総督への紹介状を頼まれて書く
   10/21、クック船長からイギリス海軍省へ送る手紙を預かる
1783/8月、シェリコフ船長がギリシャ正教会の聖人でナザレの3聖人(スリー・セインツ:Three
       Saint(Three Holy Hierarch)=Basil the Great 1/1, Gregory theTheologian 1/25
       John Chrysostom 11/13)に因んで名付けた3隻、通称:スリー・セインツ号、
       ・商船:サンクト・ワシリイ号(Saint Basil the Great)、シェリコフ船長
       ・商船:サンクト・グレゴリイ号(Saint Gregory the Theologian)、ゴリコフ船長
       ・商船:サンクト・クリソストモス号(Saint John Chrysostom)、イズマイロフ船長
       オフォーツク(Okhotsk)を出帆、アラスカ南岸方面のコディアック島(Kodiak Island)の
       スリー・セインツ湾(Three Saints Bay)と名付けた所に到着、
       シェリコフ、ゴリコフら遠征隊と共に上陸、現地人と親しく交流する
1784年、スリー・セインツ湾にロシア最初の居住地を建設してパブロポフスカヤ(Pavlovskaia)
      と名付け、現地人にロシア語の読み書きを教える学校を作り、ロシア正教を伝える
1786/12月、シェリコフ船長が3年間のコディアク島滞在後、乱獲で毛皮をとる動物が
        いなくなることを憂いながらロシアへ帰国
1789年、アラスカのケナイ半島(Kenai Peninsula)へのロシア初の航海をなし地図を作製
1791年、ロシア船のプリブロフ船長と乗組員が行方不明になる
1792年、ウナラスカ島で越冬して、プリブロフ諸島のセントポール島(Saint Paul Island)を探検
1793年、毛皮用オットセイ狩(Fur seal)のプリブロフ諸島を再発見・命名
1794/6月、プリブロフ諸島のセントポール島でプリブロフ船長と乗組員を発見・救助し、
       ペトロバブロフスクへ送り届ける
1794/9/24、ヤオサフ神父(Father Joasaph 1761-1799)の率いるアメリカ正教会の
        布教団(Orthodox missionaries)がコディアック島に到着して布教
1795年後半、アメリカ正教会の布教団ヤオサフ神父のもとで休養をとり、
        最後の年を過して、50才で亡くなりました。

・参考HP:〜
 ・クルスク州の場所地図
 ・アラスカの地図(ケナイ半島とコディアック島が有)
 ・コディアック島の地図(コディアクとシェリコフ海峡が有)
 ・アラスカ半島とコディアック島の地図
 ・ケナイ半島の地図
 ・アラスカ半島の地図(火山の場所地図)
 ・クリル諸島の地図(千島諸島)
 ・アリューシャン列島の場所地図
 ・アリューシャン列島の地図
 ・ウナラスカ島の地図

参考:〜
コッチ(小型帆船)と北東航路の探検
   Koch
(boat) & Northeast Passage Expedition
コッチは12世紀以降に白海沿岸に移住したスラブ系民族集団のロシア人入植者ポモール人(Pomor)が北極海で使用していた小型帆船で、北極海探検家セミョン・デジニョフもポモール人でした。コッチはオーク材で造られ、北極海の航行に適した断面や形状をした船体に喫水部分を補強して海氷に備えた構造で、1本マスト、長さ:18.3m、幅:6.1m、32kgの錨を2個持ち、1.5〜2屯の積荷を積み、乗組員は6〜12人でした。
白海やシベリアなどで使用されていた:〜
船 型  氷海の航海用は両側に側板張で補強の小型帆船 コッチと同型船
帆 柱  1本マスト(m)
長 さ  18.3m
 6.1m
喫 水  0.153-0.183m (Draft)
積 荷  1.5〜2屯
乗組員  6〜12人
用 途  海上輸送船(Sea Cargo Ship)
後に2本マストで斜檣に三角帆を付けた40人乗りか、45屯積にと大型化した船もできました。

シーチク
  Shitik

11世紀以降に白海(小型帆船)やレナ河(平底船)などで使用されていた:〜
船 型  くり抜いた太い丸太の両側に側板張の無甲板船
帆 柱  1本マスト(0.8m)
長 さ  10〜15m
 3〜4m
喫 水  0.18m (Draft)
積 荷  15〜24屯
用 途  海上輸送船(Sea Cargo Ship)
川船(River boat)の場合は喫水が(30〜40cm)の平底船が主でした。

バイダルカ
  Baidarka
(露語)、英語:カヤック(Kayak)
バイダルカはアラスカからアリューシャン方面で使用されていたシーカヤック(Sea Kayak):〜
船 型  アザラシ皮を縫い合わせたカヤック型ボートで
 接合部(縫い目)は獣脂などで防水
エスキモーの1人乗カヤック

カナダ 1955 発行
形 状  骨(木)組みに皮を張った小舟、狩猟や長距離移動用
積 荷  エスキモー(1人乗り)のカヤックより吃水が深く
 積載能力も高い
用 途  狩猟の他、長期にわたる沿岸航海にも使われた
 海上用ボート(Sea Kayak)
2人乗りで、後にロシア人が3人乗りにしたと言われていて、
数千年の歴史があるも、現在では実利用が断絶しています。
なお、エスキモーのカヤックは1人乗りで、現在も使用されています。

モーリツ・ベニョヴスキー
 Moric Benyovszky
、1746-1786
ベニョヴスキーは、当時ポーランド領だったスロバキアのヴェルボ(Vrbove Slovakia)で生まれ、首都ブラチスラヴァ(Bratislava)で教育を受けました。1760年に母が亡くなり遺産を相続して、兄弟妹の面倒を見ました。7年戦争(Seven Years' War 1755-1763)の間の1762年同地で入隊し士官になりましたが、間もなく脱走してスピス(Spis)に行きました。1764年教会から異端者にされ、ドナウ川の河畔の街ニトラ (Nitra)に行き、1765年艦隊を編成。1768年ポーランド(Poland)でロシア帝国への反乱バール連盟の闘い(Bar Confederation 1768-72)に加わってロシア帝国軍に捕えられ、ロシアに反乱を起こした犯罪者としてロシア連邦に属するタタールスタン共和国の首都カザン(Kazan, Tatarstan, Russia)に追放されました。その後、カムチャッカ半島西岸のボルシェレック(Bolsheretky)に流刑になりました。
18世紀、ロシアの黒船

ソビエト連峰 1971/12/15 発行
1771年に「ベニョヴスキーの反乱」(Benevsky mutiny)を起こし、他の囚人と共謀して看守らを殺害、脱獄、イズマイロフ船長の帆船を奪って「聖ピョートル号」と名づけて日本に向かいました。同年夏に日本阿波国徳島藩日和佐(現徳島県美波町)に来航、「ロシア帝国による千島列島南下(南下政策)」を警告しました。その後、マカオからマダガスカル島を経由してヨーロッパに戻りました。1772年にフランスのパリに着き、ルイ15世(Louis XV)に謁見し、1776年にマダガスカル島(Ampansacabe of Madagascar)の軍司令官(local tribal chiefs)に任命され、そこでの活躍で将軍に昇進し、ルイ16世(Louis XVI)から終身年金(life pension)を与えられました。1779年にはアメリカへ行き、イギリスに対するマダガスカル支援を取り付け、1786年にマダガスカルでフランス軍と共に闘って亡くなりました。

参考HP:〜
インディギルカ川の場所地図
  (6月から10月までの夏の一時期を除き一年の大半は凍結)
レナ川の場所地図(世界で第10位の長さ)
  (9月末から6月初めまでの7ヵ月は凍結しツンドラ状態)
  (1632年コサックが砦を造ったのが始まりのヤクーツク有)
ヤナ川の場所地図(レナ川、インディギルガ川、コリマ川、アナディリ川が有)
  (5〜6月に氷が解ける)
コリマ川の場所地図
  (凍結していない時期は6月初めから10月までの間)
エニセイ川の場所地図(世界で第5位の長さ、5,539km、バイカル湖が有)
  (一年の半分が氷に閉ざされるツンドラ地帯を抜けてカラ海に注ぐ)
 ・北極海航路の場所地図(赤線)
太平洋の探検航海地図(歴史地図、太平洋の主要な寄港地(港)、フォート・ロス有)
  (ペテルブルグ喜望峰バタヴィアマニラ〜(マカオカントン)〜ペトロパブロフスク〜オフォーツク
  (ペトロパブロフスク〜ウナラスカコディアクシトカヌトカ〜フォート・ヴァンクーバー〜フォートロス
アラスカ湾岸の居住地地図(歴史地図:1790-1884の毛皮取引区域地図、ケナイ半島有)
  (スリーセインツ湾、コディアク、ノヴォ・アルハンゲリスク(シトカ)、フォート・ヴァンクーバー有

・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。        11/2/22
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