第1回
★ベーリング物語第2回
遭 難

遭 難
1741
ベーリング島に漂着

大航海物語
   ロシア★
POSTA SHQIPTARE
ベーリング船長の航海地図
カムチャッカ - アリューシャン列島 - アラスカ
ベ|リング島の場所地図 ベ|リング船長
アルバニア 1992/1/10 発行

CCCP
”Far Eastern Territories”
1741年ベーリングの航海地図とサンクト・ピョ−トル号
諸島への航海地図
ョ|トル号
カムチャッカ半島 ー アリューシャン列島 ー アラスカ半島
コマンドルスキー諸島 ベーリング島 - メードヌイ島
諸島の地図
地図の左の島が1741年ベーリングの終焉の地となった島
ソ連 極東地域領土 1966/12/25 発行

第2回カムチャツカ探検(大北方探検)でサンクト・ピョートル号はアラスカを視認(セント・エリアス山)後、カヤック島に上陸。1741/9/6にアリューシャン列島を離れて西に航海するも、大嵐に遭い漂流の末、11月にコマンドルスキー諸島の無人島に流れ着きました。船は帆が痛み、乗組員達は壊血病に苦しむなかで、一行は船を放棄してそこで越冬しました。その間に多くの乗組員が壊血病で次々と亡くなり、またベーリング船長自身も壊血病で亡くなり、帰らぬ人となって島に葬られました。後に、この島は船長に因んでベーリング島と名づけられました。

ベーリング船長達がベーリング島に上陸した時には、あまり木や潅木の類は見られなかったと伝えられています。キツネやライチョウの他に大型哺乳類の海牛(ジュゴン)、後にステラー博士の研究報告でステラーカイギュウ(Steller's Sea Cow)と命名された巨大海獣が生息していて、天敵のいない海牛の繁殖地の動物天国でした。乗組員達は、この怪獣を食料として越冬しました。生き残った乗組員達は座礁、大破したサンクト・ピョートル号の残骸の廃材で小型の船を造って聖ピョートル号と名付けました。1742/8/13に生存者が島を脱出のために出帆。14日後にペトロパブロフスクに到着・帰港しました。なお、同年サンクト・ピョートル号乗組みの探検隊員77人の内、45人がペテルブルグへの帰還を果たしました。

1741年、
09/06、サンクト・ピョートル号がアリューシャン列島を離れて西に向かう
09/25、大暴風雨に遭遇、漂流を始める
10/13、病人が21人となる
10/14、病人が24人となる
10/16、病人が28人となる
10/18、病人が32人となる
サンクト・ピョートル号
10/25、ベーリング船長がキスカ島(Kiska Island、別名:鳴神島)を発見
11/05、病人が49人となる
11/07、サンクト・ピョートル号がベーリング島に漂着、
     その無人島に上陸
     島には樹木は無くキツネ海牛(巨大ジュゴン)の繁殖地で動物天国
     重病者から先に島に上陸。次のボートで上陸してみると、病気で死に
     かかっている水夫仲間を襲っているキツネを目撃、追い散らす、キツネ
     は動けない病人を絶好の餌食とみなしていた
11/22、最後の病人を島へ降ろす、屋根が帆布の地下小屋で暮らす
11/28、サンクト・ピョートル号が沈没
12/08、ベーリング島でベーリング船長が壊血病で亡くなり、ステラー博士が
     隊長代行に、スウェーデン人ワクセル中尉が船長代行となる
ホッキョクギツネ
1742年、
01/08、31人が亡くなり、生存者が46人となる
08/10、サンクト・ピョートル号の廃材で新造の聖ピョートル号(boat St. Peter、12m)が進水
08/13、無人島をベーリング島(Bering Island)と命名後、
     生存者が聖ピョートル号で出帆
08/27、聖ピョートル号がペトロパブロフスク港に帰港
1743年、
09/26、ロシア元老院の命令でベーリングの第2回カムチャツカ探検が終結。

・第2回探検その後の行程:〜
 航海:アリューシャン列島を西へ航海〜漂流〜キスカ島〜漂流〜コマンドルスキー諸島の無人島
     ベーリング島に漂着、上陸〜ベーリング船長没〜越冬〜
     生存者がベーリング島を出帆〜ペトロパブロフスク港に到着

・僚船サンクト・パーヴェル号の動静:〜
1741年、チリコフ船長のサンクト・パーヴェル号がアラスカに到達後、
     ペトロパブロフスク港に帰港
10/12、ベーリング隊の捜索に再出帆、
     アッツ島を望見後、嵐に遭遇
1742年、
07/01、サンクト・パーヴェル号が空しくペトロパブロフスク港に帰港

参考HP:〜
ベーリング海とベーリング海峡の場所地図
太平洋の探検航海地図(歴史地図、太平洋の主要な寄港地(港)、フォート・ロス有)
  (ペテルブルグ喜望峰バタヴィアマニラ〜(マカオカントン)〜ペトロパブロフスク〜オフォーツク
  (ペトロパブロフスク〜ウナラスカコディアクシトカヌトカ〜フォート・ヴァンクーバー〜フォートロス
アラスカ湾岸の居住地地図(歴史地図:1790-1884の毛皮取引区域地図、ケナイ半島有)
  (スリーセインツ湾、コディアク、ノヴォ・アルハンゲリスク(シトカ)、フォート・ヴァンクーバー有

日本クリル探検支隊の航海:〜
第2回探検でオフォーツクに到着すると、ベーリング隊長は日本への航路の探検のため、分遣隊長としてデンマーク出身のマルティン・シュパンベルク大尉を任命して、日本の調査に出帆させました。1738/7/13シュパンベルク大尉はアルハンゲル・ミハイル号、ナデジダ号、聖ガヴリール号の3隻に150人から成る船隊でオホーツクから出帆。食糧不足により、いったん8/17にカムチャツカ半島西岸のボリシェレツクへ引き返し、翌年改めて日本への探検を主目的とした第2次航海が行われるこ
ラッコ
とになりました。1隻を追加して5/21(日本では元文4/4/25)にボリシェレツクを出帆。南へ進路を取り、4日後には千島列島(クリル諸島)を通過。その後も南下を継続、6/14に濃霧でワルトン中尉率いる聖ガヴリール号が船隊から離れ別行動になりました。

シュパンベルグ船隊の航海:〜
1738年、
07/13、シュパンベルグ船隊、150人が
   ・アルハンゲル・ミハイル号(Archangel Michael、大天使ミカエル)
      (1本マスト 長さ18.3m)
   ・ナジェジダ号(Nadezhda、希望)
      (3本マスト 長さ21.3m)
   ・聖ガヴリール号(Sviatoy Gavriil=Saint Gabriel、聖使徒ガブリエル)
      (1本マスト 長さ18.3m 幅6.1m 吃水下2.3m)
     の3隻で日本への航路と千島列島の探検にオホーツクを出帆、
     ボルシェレックから南へと航海
     嵐で船隊がバラバラとなりシェルチェング船長の
     ナジェジダ号はボルシェレックに帰港
     シュパンベルグ大尉のアルハンゲル・ミハイル号は
     千島列島を南下して32島を望見後、食糧不足で
18世紀、ロシアの黒船

ソビエト連峰 1971/12/15 発行
     北緯45度(根室近海)で戻って、ボルシェレックに帰港
     ワルトン中尉の聖ガヴリール号は千島列島を南下して26島を望見後、食糧不足で
     43度20分(根室近海)で戻って、
08/17、ボルシェレックに帰港、越冬
1739年、
     越冬中にポリシャ川河口でボルシェレック号を建造して、
05/21、シュパンベルグ船隊4隻、
    ・ボルシェレック号
    ・アルハンゲル・ミハイル号
    ・ナジェジダ号
    ・聖ガヴリール号
     がボルシェレックを出帆
05/25、千島列島(クリル諸島)を通過
06/14、船隊は北緯39度29分でワルトン中尉の聖ガヴリール号を見失う
     シュパンベルグ船隊の3隻は南下
07/03、北緯44度24分付近で3島を発見
07/07、ゼリョスイ島と名付けた島をを発見
07/08、ヌツカム島と名付けた島を発見、
     クリル族のバイダル(皮船)に出会う
     (バイダル=バイダルカ、Baidarka、英:Kayak:カヤック)
07/24、日本の陸地を発見、松前島で多くの日本人に出会うも、
     乗組員は疲労し病人20人余発生で帰途に着く
一人乗りシーカヤック

カナダ 1955 発行
08/29、シュパンベルグ船隊3隻が乗組員13人を失って、オホーツクに帰港

ワルトン中尉の聖ガヴリール号の航海:〜
1739年、
06/14、北緯39度29分でワルトン中尉の聖ガヴリール号は船隊から離れ単独で南下
06/16、聖ガヴリール号が北緯38度29分で日本を望見、南下
06/19、18人乗り小舟が接近、カジミロフ航海士とチェルカシェニン給食員と兵6人で上陸
     飲料水1樽半分を持ち帰り、酒食で歓待されたと報告、
     150艘以上もの小舟が取巻いたので、出帆して帰路に着く
06/22、北緯37度30分で海岸の沖合に投錨、
     岸から日本人が小船で来船、物々交換で交流
     10-12人乗りの小船79艘が船を取巻いたので、上陸は中止して帰路に着く
06/23、北緯33度28分付近で小島に上陸、薬学生が薬草を採取
07/23、ワルトン中尉の聖ガヴリール号がボルシェレックに帰港
08/22、聖ガヴリール号がオホーツクに帰港
1739年、
11/19、シュパンベルグ船隊の「日本航海の報告書」をロシア政府へ発送
     日本側の目撃情報が1739(元文4)年の「元文の黒船」として有

元文の黒船:〜
 (日本側の目撃情報)
元文(げんぶん)の黒船は、日本の江戸時代中頃の元文4年(1739)夏に牡鹿半島、房総半島、伊豆下田などに、ロシア帝国の探検船が来航しました。アメリカ合衆国の黒船(米国東インド艦隊ペリー提督)による、嘉永期の黒船来航に先立つこと114年前の「鎖国」期におけるロシア帝国と日本の江戸幕府との初めての接触でした。

元文4/5/19(ロシア暦1739/6/18)に仙台藩領の陸奥国気仙沼で異国船
日本の古地図

日本 1985/4/5 発行
の目撃情報がありました。さらに4日後の23日に牡鹿半島沖の仙台湾にある網地島にも2隻の異国船が出現。これが上記のシュパンベルク船隊でした。25日にははぐれていたナジェジダ号と合流し、亘理荒浜で3隻が目撃されました。また同日には仙台藩領から遠く離れた幕府直轄地安房国天津村(現千葉県鴨川市)にも異国船が出現。これは別行動をとっていた聖ガヴリール号でした。それぞれのロシア船乗組員が上陸し、住民との間で銀貨と野菜や魚、タバコなどを交換しました。5/28には伊豆国下田でも異国船が目撃されました。その後ロシア船隊は北緯33度30分まで南下(紀伊半島の潮岬に該当)して、ボリシェレツクへ帰港しました。別行動のワルトン中尉の聖ガヴリール号も8/22(日本では7/22)にオホーツクに帰港。シュパンベルク船隊による日本探検は終了しました。この間の両国接触に関しては、ロシア側の航海日誌に詳細な記述が残され、また日本側の史料としては当時の雑説をまとめた「元文世説雑録」に収められました。

参考HP:〜
 ・クリル諸島の地図(クリル諸島=千島列島)
 ・クリル諸島の地図(千島列島、日本語)
 ・アムール川付近の地図

北極(シベリア最北端)への探検:〜
現在の砕氷船、北極地方の地図

ソ連 1984/4/13 発行


←ここが最北端の
  チェリュスキン岬

チェリュスキン探検隊:〜
ベーリング隊長とチリコフ副隊長とは別に、第2回カムチャツカ探検には他のロシア帝国海軍軍人も参加していました。セミョン・チェリュスキン(Semyon Ivanovich Chelyuskin 1700-1764)達が陸路でタイミル半島(Taymyr Peninsula)の海岸を調査し、1742/5月にタイミル半島の最北端の岬に到達しました。この岬がユーラシア大陸の最北端で、北極点から約1,230kmに有って、北東航路の最北端でもありました。彼はそこを北東岬(Cape East-Northern)と名付けました。

チェリュスキンは1701年にピョートル大帝が設立したモスクワ航海技術学校(Moscow School of Mathematics and Navigation)を卒業して、1726年にバルチック艦隊で副航海士(deputy navigator)として働きました。1733年に航海長(navigator)に昇進しました。1739年ベーリングの第2回カムチャツカ探検隊(1739-1742)に参加し、北極探検分遣隊のワシリー・プロンチスチェフ(Vasili Vasilyevich Pronchishchev 1702-1736)、ハリトン・ラプテフ(Khariton Prokofievich Laptev 1700-1763)の探検に、チェレキン(N. Chekin)、メドヴェデフ(G. Medvedev)と行を共にしました。1741年春にハタンガ川(Khatanga River 227km)を航海して、ピャシナ川(Pyasina River 818km)を陸路で探検。タイミル半島のミデンソフ湾(Middendorff Bay)の西岸を探検。ピャシナ川(Pyasina)の河口からエニセイ川(Yenisei 5,539 km)の河口へと探検。1741年から1742年の冬にかけて、ツルカンスク(Turukhansk)からハタンガ川の河口へと探検。ファディ岬(Cape Faddey)からタイミル半島北の海岸線を東から西へとタイミル川(Taimyra River)河口を探検し、アジアの最北端を発見して北東岬と命名しました。そして、1760年にバルチック艦隊で艦長になり、64才で亡くなりました。

チェリュスキン岬
  Chelyuskin Peninsula

チェリュスキン岬はタイミル半島の最北端(北緯77度43分)にある。タイミル半島(Taymyr Peninsula)はシベリア北部にある北極海に突き出た半島。西はカラ海(Kara Sea)に注ぐエニセイ川(Yenisei 5,539 km)が河口で形成するエニセイ湾、東はラプテフ海(Laptev Sea)に注ぐハタンガ川(Khatanga 227km)とハタンガ湾、半島の中央部を高さ1,000mほどのビルランガ山脈(Byrranga Mts)が走り、山脈の南麓にタイミル湖がある。1878/8/18にスウェーデンのアドルフ・エリク・ノルデンショルド船長(Baron Adolf Erik Nordenskiold 1832-1901)が北東航路探検で航海した時に、チェリュスキン岬(Cape Chelyuskin)と命名しました。

参考:〜
セント・エリアス山
 Mount Saint Elias
Alaska、5,489.1m
エリアス山は米国アラスカ州にある山で、カナダのユーコン準州(Yukon)との国境に聳えています。セント・エリアス山脈(Saint Elias Mountains)は米国側とカナダ側に山脈を構成しています。米国ではウランゲル・セントエリアス国立公園保護区(Wrangell-St. Elias National Park & Preserve、Wrangell Mountains 4,996m)に指定されており、カナダではクルエーン国立公園保護区(Kluane National Park & Reserve)
セント・エリアス山

ョ|トル号
ソ連 1943/4 発行
に指定され、ローガン山(Mount Logan 5,959m)があります。エリアス山は、1741/7/16にロシアのベーリング船長がヨーロッパ人として最初に望見しました。

カヤック島
  Kayak Island

カヤック島はアラスカ南岸コルドヴァ(Cordova)の南東100kmの沖合にある北緯59度56分、西経144度22分にある島で、面積:73.695kuの無人島
1741年、ベーリング船長が同島の南西端の岬を望見して、
      7/20の聖エライアスの日だったので、
      サンクト・エライアス岬(Cape Saint Elias)と命名
      ステラー博士が調査に上陸
カヤック
1778年、クック船長がカイェの島(Kaye's Island)と命名
1794年、ヴァンクーバー船長がセント・エリアス岬をハモンド・ポイント(Hamond Point)と命名
1826年、ロシアのセリチェフ船長(Lt. Sarichef)が島の形がカヤックに似ていることから
      カヤック島(Kayak Island)と命名

ベーリング海峡
  こちらでベーリング海峡をお楽しみください。

参考HP:〜
アラスカ・エリアス山国立公園の場所地図
アラスカの場所地図(日本語)
アラスカの場所地図(1895年の古地図”Kayak”有)
カヤク島の場所地図(コルドヴァ(Cordova)の南東100kmにカヤック島”Kayak”有)

・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。   08/1/2画像追加、10/7/7追記、11/4/5

★ベーリング物語、第1回第2回、 遭 難
ベーリング海峡

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