France

国連 1980 発行
切手で綴る フランスの冒険大航海(Great Adventure Voyagee)ビーバー戦争(II-11

キャディラック
1701
デトロイトに上陸
大航海物語
 フランス編

デトロイト川

US POSTAGE
キャディラックのデトロイト上陸

1651 デトロイト300年記念 1951

アメリカ 1951 発行

GUINE-BISSAU
丸木舟カヌー75隻でデトロイト上陸

ギニア・ビサウ 2007 発行
US Postage
5大湖
スペリオル、ミシガン、ヒューロン、エリー、オンタリオ
グリーンベイ→

ミルウォーキ→
シカゴ→

ケベっク

←モントリオール



←デトロイト
アメリカ 1966/6/28 発行 (200%)

United State of America
ルイジアナの総督

ルイジアナ買収100年記念博覧会記念
当時のルイジアナの地図
アメリカ 明治37年 1904/4/30 発行
USA
ミシシッピ河開発・牢獄に収監
5大湖とミシシッピ河流域の地図


グレートリバー道路開通記念
アメリカ 1966/10/21 発行

キャディラック総督が1701年にデトロイトに砦を作ったのが、デトロイト市発展の始まりとなりました。その後キャデラックの名前は、GM社の高級車の名前になり、キャデラック家の紋章が、車のエンブレムになりました。
アントワーヌ・ド・ラ・モット・キャデラック総督
 (Antoine de la Mothe Cadillac、1658/3/5〜1730/10/15)
キャディラック総督はフランス・ガスコーニュ地方現在のオクシタニー州オート・ガロンヌ県(#66)の寒村サン・ニコラ・ド・ラ・グラーヴ(Sent Micolau de la Grava)で由緒ある貴族の家に生れました。 幼い頃は私立の陸軍学校で学び、17才で現在のベルギーにあるシャルルロワのダンピール・ロレイン連隊の士官候補生になりました。2年後にティオンヴィルのクレランボー連隊の士官になりました。1677年19才でクレンボー連隊の士官に任官し、軍務に服しました。1682年にはティオンヴィルのアルブレ連隊に加わりました。

1683年25才で大西洋を渡り、カナダのノバスコシア・アカディア地方のポート・ロイヤルに到着しました。そしてヌーヴェル・フランス総督フロンテナック総督が士官に任官させました。後に大尉に昇進しました。1687/6/28、28才でヌーベル・フランスのケベックでフランス系カナダ人の令嬢と結婚し多くの子供(7〜13人?)をもうけました。1688年侯爵ドノンヴィル総督からドナック地方(Donaquec)に土地(現メイン州ユニオン川一帯とデザート・マウンテン島)を与えられました。1689年イギリス植民地のニューイングランド問題協議のためフランスへ渡航しました。

1691年キャディラックはラ・マリーン植民地軍(Troupes de la Marine)の士官に任官し、家族と共にケベック市に移りました。1694年ミシガンのミシリマキナック砦(Fort Michilimackinac)の指揮官に任命され、1697年までそこにいました。

1701/7/24、キャディラックはエリー湖へ流れているデトロイト川の北岸から75隻のカヌーでデトロイトに上陸しました。直ぐに砦の建設に取り掛かり、高さ3.6m(12f)の杭垣で4,000u(1ac)の土地を囲い込んで築かれたフランスの砦が完成すると、フォート・ポンシャルトレイン・デュ・デトロワ(デトロイトのポンチャートレイン砦:Fort Pontchartrain du Detroit、1701-1796、後のイギリスのフォート・デトロイト砦)と命名しました。それがデトロイトの始まりとなりました。最初に出来た建物は教会でした。翌年春に、キャディラック夫人は副官夫人と一緒に到着しました。

教会の建設に来ていたイエズス会士と対立し、フランシス・ドゥ・グスリス(Francois Vaillant de Gueslis)神父を2,3ヵ月後にモントリオールに強制退去させました。キャディラックはデトロイトでの交易の管理と利益、1部族の原住民との争いについて、ケベック及びパリと対立し、たびたび彼の権利擁護のために東部に行き、砦を留守にしていましたが、ついに指揮官を解任されました。1710年に新任の砦の指揮官ビュイソン(Charles Regnault, Sieur du Buisson)が到着しました。同じ1710年にルイジアナ総督に任命されました。

1711/11月フランスに戻りました。ミシシッピ河開発計画の投資家代表者ジョン・ローに訴えられて、バスチーユ牢獄に収監されましたが、疑い晴れて、裁判無しで短期間で釈放されました。1722/8月カステルサラシン総督(Castelsarrasin)の地位を与えられました。1730年72才で同地で亡くなりました。

※なお、マザラン枢機卿によりサン・ニコラ・ド・ラ・グラーヴの判事の副官に任命され、後に判事に任命されました。若い頃にイエズス会の機関で神学、法学、農業、植物学、動物学を厳格に学びました。25才の時、フランスから北アメリカへ逃れました。父親はカステルサラシンで弁護士との訴訟に敗れ、経済的に困難に直面しました。さらに、枢機卿マザランの没後、財政的支援を失い、プロテスタントに対する不寛容に苦しみ、不法移民としt帰国したという説も有ります。

参考:〜
・デトロイト川
 Detroit River、51km
デトロイト川は北アメリカにある五大湖水系の全長約51kmの川で、デトロイト(Detroit)とはフランス語で海峡のことを意味し、セントクレア湖から流れ出しエリー湖へ注ぐ。カナダとアメリカの国境になっており、アンバサダー橋および自動車用と鉄道用の二つのトンネルがアメリカ、ミシガン州のデトロイト(人口:約98万人、2008)とカナダ、オンタリオ州のウィンザー(人口:約21万人、2006)を結んでいる。デトロイト川にはパシェ島(Peche)、ベルアイルズー島(Belle Isle、Zug)、ファイティング島(Fighting)、グロスイル島(Grosse Ile)、ボイスブランク島(Bois Blanc)があり、500万人以上の飲料水の供給源になっている。

参考HP:〜
フランスの地図:22地域圏(regions)、96県(departments)
デトロイト川の衛星写真(セントクレア湖より下がデトロイト川)

・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。   2006/10/25、09/10/31、令和8年 2026/3/4
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