France ![]() 国連 1980 発行 |
切手で綴る フランスの冒険大航海(Great Adventure Voyagee)
(1)フランス大航海 ヒーロー物語 |
大航海物語 フランス編★ |
カルティエ、 シャンプラン![]() カナダ発行 |
ラ・サール![]() フランス発行 |
ブーゲンビル![]() 1729-1811 |
デュルヴィル![]() 1790-1842 |
ラ・ペルーズ![]() 1741-1788 |
ラ・ブルドネス![]() 1690-1753 |
ドゥケーヌ![]() 1610−88 |
サフレン![]() 1729-1788 |
| 2f+0.5=2.5f寄付金付切手 フランス 1988/2/20 発行 (100%) | |||
| ・フランスの大航海と新大陸の植民事業 フランスの大航海は、1524年にフランス国王フランソワ1世(1494生、在位1515 - 47)が雇ったイタリア人ジョヴァンニ・デ・ヴェラザーノ(Giovanni de Verrazano 1485-1528)が最初です。現在のニューヨークからニューファウンドランド島までの北アメリカ海岸を北上しました。フランソワ1世は、さらに1534年にはジャック・カルティエ指揮下の2隻の船を北アメリカへと出帆させました。カルティエは翌1535年9月にカナダ東海岸のセント・ローレンス川河口に到達、そこからさらに上流にさかのぼって現地のヒューロン族と遭遇しました。ヒューロン族の人々は、黄金や香料が山をなすという「サゲネー王国」の話をしてフランス人をもてなしましたが、このホラ話をまにうけた国王フランソワ1世は、さらに1541年に10隻の船を送り込んでセント・ローレンス河上流一帯を探索させることにしました。しかしもちろんこの地域には金も胡椒も存在せず、ただ大量の(金に見えた)黄鉄鉱と(ダイヤモンドそっくりの)石英(水晶)が見つかっただけでした。フランスにおいて「カナダのダイヤモンドのような」とは、まがい物をさす有名な言い回しとなってしまいました。これにより、フランス国家のカナダへの関心は、これ以後約40年の間失われることになりました。 これら北方での試みとは別に、南方の温暖な地方では、海軍提督コリニーによるブラジル植民(「南極のフランス」と称される)がすすめられていました。1555年コリニーの意を受けたヴィルゲニヨンによってブラジルのリオデジャネイロ湾内の小島に植民地コリニー砦が建設されました。当時のフランスは「宗教改革」の荒波の真只中におり、プロテスタント(カルヴィン派)を信奉するコリニーの脳裏には、フランス本国でカトリックに圧迫されるプロテスタント勢力の新天地建設、及び南米でのスペイン・ポルトガル(両国とも熱心なカトリック国)勢力に対抗する橋頭堡としての植民地の役割が想定されていました。しかしこの植民地はそのわずか5年後にはブラジルの完全征服を目指すポルトガル艦隊の攻撃をうけたため、撤収を余儀なくされました。 1562年、今度は北米フロリダ半島にジャン・リーボーによる遠征が行われ、2年後の1564年には根拠地カロリーヌ砦が建設されました。今回もコリニー提督のバックアップを受けていましたが、この様なフランスのプロテスタント勢力による植民活動は、カトリックに立ち、しかも以前からフロリダの支配権を主張していたスペイン王フェリペ2世 の態度を硬化させることになりました。スペイン勢は同じくフロリダにセント・オーグスティン砦を築き、フランス勢力と対決する動きを見せていました。1565年カロリーヌ砦のフランス人たちは先手をうってセント・オーグスティン砦の撃破を図りましたが、攻撃隊を乗せた船団はハリケーンで難破して、その生き残りもスペイン軍に殺され、カロリーヌ砦も破壊されてしまいました。このフォート・カロリーヌの戦いはペドロ・メネンデス率いるスペイン艦隊によっておこなわれ、この虐殺が行われた場所は今日でもマタンサス(大虐殺)と呼ばれています。また、3年後にはフランス艦隊によるフォート・カロリーヌの逆襲戦が起こっています。1568年フランスのドミニク・ド・グルグという人物がフロリダのフォートカロリーヌの復讐戦を行い、スペインの砦を破壊しスペイン人を皆殺しにしました。 この争いの最中、フランスでカトリックとプロテスタントの内乱、世に言う「ユグノー戦争(フランスのカルヴィン派プロテスタント1562ー98)が勃発し、海外での植民地獲得どころの状況ではなくなりました。この10年間の植民地建設に力を振るった提督コリニーもまたユグノー方の中心人物として活躍し、1572年のサン・バルテルミの虐殺(国王シャルル9世の母カトリーヌ・ド・メディシスとカトリック派の指導者ギーズ公のさしがねでプロテスタント5万人を虐殺した事件)で命を落としてしまいました。1598年に36年の長きに渡ったユグノー戦争が終結し、1589年に成立したブルボン朝フランス王国による、新しい海外植民地の建設計画が動き出しました。もっとも、これまでの様な国家による事業とは関係なく、フランス人の漁師たちは100年程も前から北アメリカ沿岸での鱈漁を続けており、彼等の中には原住民と取り引きして毛皮を手に入れる者もいました。アメリカ産の毛皮はコートのひだ飾りや帽子のフェルトの材料として人気があり、その利益に目をつけた冒険商人がカナダの内陸深くへと入り込む様になっていたのです。国内の宗教戦争を終結させたブルボン王家の初代アンリ4世(1553生、在位1589-1610・1598ナントの勅令)は、スペイン等に対抗する植民地の建設を急ぎ、(王室が植民事業をするのは財政的にきつかったので)会社や個人に毛皮取り引きの独占権を与えて植民に必要な費用や人員を負担させることにしました。 こうして1604年ピエール・ドゥグアがセントクロイ島に入植地を建設、翌年にカナダ東岸ノヴァ・スコシアのアナポリス入江に移動して植民地ポート・ロワイアルを建設しました。1606年サムエル・ドゥ・シャンプランなる人物がポート・フォーチュンを探検し、1608年にはセント・ローレンス河を遡った地点に突き出す「ケベックの岩」の下に交易拠点を建設しました。今日に続くケベック市の起源であり、北米大陸におけるフランス植民地「ヌーヴェル・フランス(新フランス)」はこの時ようやく軌道に乗ったのです。この17世紀の最初の10年間はその後の北米の歴史を考える上で極めて重要です。ケベックが築かれた前年の1607年にイギリスの恒久植民地第1号となった「ジェイムズ・タウン」が建設され、以後100年以上に渡る仏、英の長い抗争の歴史がほとんど同時に幕をあげることとなったのです。 北アメリカ大陸のフランス植民地は「ヌーヴェル・フランス(新フランス)」と総称されました。1604年にポート・ロワイアルが、1608年にケベックが建設されて現在のカナダ地域への植民が始まりましたことは前述の通りです。ケベック総督シャンプランはセントローレンス河流域の毛皮産地の確保に全力を尽くす方針をたて、商品作物の栽培といったことには一切目を向けませんでした(気候的に無理という事情もあります)。フランス植民地の防備や規模は全く貧弱なもので、1628年までは農耕すらしておらず、毛皮もヒューロン族やモンタネ族を通して入手していました。しかし毛皮の確保にしても本格的にやろうと思えば恒久的な交易拠点がいくつも必要な訳であり、そのための農業(食糧確保)の必要性が考えられるに至ってきました。1634年にはジャン・ニコレ・ドゥ・ベルボルンがミシガン湖のグリーン湾シェドレス海岸に上陸して友好的な原住民に出会い”グリーン・ベイ交易所を建設しました。”フランス植民地は「百人組会社」という組織によって運営されていました。しかし、農業の振興はさっぱり進みませんでした。イギリス人も現カナダ地域の毛皮に無関心だった訳では決してなかったのです。1670年にハドソン湾沿岸に「ハドソン湾会社」を設立し、そこから熱心に毛皮採集にあたっていました。フランスのカトリックの僧侶は熱心にインディアンへの布教を行いました。これは相当な成功をおさめて多くのインディアンをフランスびいきにすることが出来ました。しかもフランス人は農業に不熱心だったことからイギリス人のようにインディアンの土地を侵食することがなく、おかげでフランス植民地は周囲のインディアンと結束出来ました。そのため、後のフレンチ・インディアン戦争ではフランス植民地は人口的な劣勢にもかかわらずイギリス植民地との互角の戦いを続けることが可能となったのでした。 フランス本国では1643年にルイ14世(1638生、在位:1643-1715)が即位しました。ルイはまだ5才の子供であり、摂政のマザランが国政を主導しました。マザランは後世「我々の艦隊を港で腐るにまかせた」と言われるほど海軍や海外植民地に興味がありませんでした。しかしケベック植民地は、同時期のイギリスのヴァージニアやマサチューセッツほど頑丈ではなく、一人歩きをするには早すぎる状態でした。ニューヨークの西にいるイロコイ族連合(16世紀はじめ頃に結成された5部族の連合体)はオランダ植民地との同盟を固く保持し、1648年にはオランダ人から買った鉄砲の威力のもとに親フランスのヒューロン族を征服、そこにいたフランス宣教師を殺害しました。これは白人と取引きする毛皮産地を確保するための動きであり、ビーバー戦争(1630-1667)と呼ばれています。イロクォイ連合の勢力はセントローレンス河に達し、フランスの毛皮輸送ルートを断ち切ってしまいました。フランス人17人とインディアン5人の遠征隊がイロクォイ軍700人と戦って全滅するという事件も起きました。 1661年フランスで摂政マザランが亡くなり、国王ルイ14世の親政が始まりました。ルイは財務長官コルベールとともに植民地の活性化に乗り出しました。1663年、フランス政府はヌーヴェル・フランスを王領植民地に改変し、1665年に初代軍政総督としてトラシー侯爵を送り込みました。彼は移民としてカリニャン・サリエール聯隊1100人を伴っており、国王からの持参金付きで送られてきた「国王の娘」たちとの結婚を斡旋しました。現在のフランス系カナダ人の多くは、自分たちはこの「国王の娘」と兵士の幸せな結婚から生まれてきたと主張しているのだそうです 1666年フランス植民地軍と友好的インディアンからなる1300人の軍勢がイロクォイ連合の勢力圏へと遠征し、村を焼き払い、女と年寄りを捕虜にしました。状況は一変してイロコイ族に不利となり、もちこたえることが出来なくなりました。フランス植民地軍としては、大した戦果は得られなかったものの,、1667年ついにイロコイ族連合はケベックに使者を送り、フランス人との平和条約に署名したのでした。そしてイロクォイ族連合の動きを、その後20年間に渡って封じることに成功しました。フランス人はその後ミシシッピー河の流域にまで入り込むことになりました。その点で最も活躍したのがロベール・カヴァリエ・ドゥ・ラ・サールでした。彼はまず1679年に五大湖周辺を探索し、1681〜82年の探険ではインディアン諸族と友好関係を結びつつミシシッピー河の船下り(カヌー)を行いました。1682年4月9日には彼はミシシッピー河口、つまりメキシコ湾に到達し、ミシシッピー河及びその支流の全流域の占領を宣言しました。国王ルイ14世の名にちなむ「ルイジアナ」の誕生でした。もちろんこれは現在の合衆国ルイジアナ州だけではなく、合衆国の中部二十数州にまたがるとてつもなく広大な地域でした。報告を受けたルイ14世は最初、そんなものを貰っても仕方がないと思いましたが、ちょうどこの頃敵対していたスペインの植民地を牽制するのに便利ではないかと考え直し、ラ・サール本人に艦隊を与えて改めてミシシッピー河口を確保させたのでした。 スペイン植民地では地方都市の市参事会に関しては土地所有者の選挙によって選出されていましたが、本国の財政難によって植民地への締め付けが強化されたこと等から任命・競売制に変化していました。しかし、ヌーヴェル・フランスでは植民者たちは自分たちの代議機関といったものを持つことは一切ありませんでした。フランス本国ですら、議会(三部会)は1615年をもって停止されていたのであり、これはイギリス植民地・本国との大きな違いでした。ヌーヴェル・フランスではイギリス植民地で禁止されていた拷問も情け容赦なく行われ、そのうち宗教の自由も存在しなくなりました。本国政府はどちらかといえばヨーロッパでの勢力伸長に力をいれており、それらの理由からフランス植民地は移民を惹き付ける魅力というものが薄かったのです。1672年の時点で、ヌーヴェル・フランスの植民者人口はたったの8000人にすぎませんでした。 1740年代以降、イギリス植民地の毛皮商人がミシシッピー河支流のオハイオ川流域に入り込もうとしていました。フランスはオハイオ川上流にフォート・デュケーヌ砦 を築いてイギリス人の進出に対処していました。砦の建設に関してイギリスのヴァージニア総督ディンウィッディーが抗議しましたが無視されました。そこでディンウィッディーはオハイオ川とアレゲニー川の合流点という重要拠点を制圧すべく150人の民兵隊を派遣しました。この時大佐として民兵の指揮をとったのが、後の合衆国初代大統領で、若干21才で、ヴァージニアの大プランターの出身の、ジョージ・ワシントンでした。しかしこれは一足遅く、目的地にはフランス人が”フォート・デュケーヌ”という要塞を築いてヴァージニア民兵隊を待ち構えていました。1754年7月3日怖いもの知らずのワシントン大佐が部下に発砲を命じ、宣戦布告もなにもないまま本格的な戦闘が始まりました。結果はヴァージニア民兵隊の惨敗、3分の1が死傷し、降伏したあげくヴァージニアに帰ることを許してもらうという有り様でした。 イギリス本国からやってきた2個聯隊を率いるブラドック少将はただちに進撃を開始しました。兵力は約1500人、幕僚にはワシントンがいました。目的地のフランス要塞フォート・デュケーヌでした。1755年7月9日、目的地から数マイルに迫ったブラドック軍の後衛がモノンガヒーラ川の浅瀬を渡りきる寸前にフランス軍の不意の攻撃が始まりました。ブラドック軍にはインディアン(地理に詳しい)が8人しかおらず、警戒が不十分でした。フランス軍は正規の士官と兵士73人、民兵150人、友好インディアン637人、と数の上では劣っていたがブラドック軍を収拾のつかない大混乱に陥れました。ブラドックは打ち倒された馬を何頭も乗り換えたあげく自身も胸に弾を喰らって負傷、結局死亡しました。ダニエル・ブーンは馬車の馬具を切って裸馬に飛び乗り全速力で逃走しました。指揮権を引き継いだダンバー大佐やワシントン等がなんとか残兵をまとめて退却しました。死傷者は全軍の3分の2にあたる977人にのぼっていました。いわゆる「ブラドックの敗戦」なのでした。 かくして始まったのがフレンチ・インディアン戦争(1754−63)です。その後しばらくの戦局はフランス側に有利に運び、五大湖方面やヴァージニア西部でイギリス植民地を大いに苦しめました。緒戦の結果を見たインディアンの多くはフランスの方が頼りになると考えました。インディアンは白人との交易で銃を手にし、それは戦争や狩猟になくてはならない道具となってしまっていましたが、自分たちではほとんど修理出来ないため、とにかく強い植民地の味方をする必要がありました。親イギリス派インディアン部族や中立部族もいましたが、中立のイロクォイ連合が「イギリスの政策を代表する機関がヴァージニアやペンシルヴァニア等々いくつもある上にそれぞれ違うことを言うので我々は混乱する」と述べる有り様でした。フランスよりもイギリスの方が(英仏植民地間の)係争地帯に住むインディアンに魅力的な贈物を提供出来たのですが、各植民地間の連絡・協力がまるでなされていないことが今回フランス側に有利に働きました。しかし、優勢なイギリス海軍の活躍で、フランス海軍は徐々に後退し、それに伴って、優勢なイギリス陸軍の上陸を許してしまいました。その結果、ついにはケベックも陥落しました。 1763年2月10日「パリ条約」が結ばれました。フランスは北大西洋ニューファウンドランド島沖のサン・ピエールとミケロンという2つの小島、カリブ海のマルティニーク島・グアドループ島・サントドミンゴ島及びいくつかの小島、インドのポンディシェリーをなんとか返してもらったものの、カナダの全部とルイジアナのミシシッピー河以東を失いました。スペインはキューバ島のハバナとフィリピンを返還されましたがフロリダをイギリスに割譲しました。ただスペインは同盟国フランスからの詫びとしてルイジアナのミシシッピー河以西を譲られました。 フレンチ・インディアン戦争以降のアメリカ植民地へイギリスの課税は北米の13の植民地に対して一括して行われるのであり、バラバラに誕生してそれぞれ異なる社会と利害をもって行動してきた13の植民地を1つにまとめる直接の凝固剤となりました。1607年のジェイムズタウン建設に端を発して以来これまで百数十年かけて全世界に広げた大植民地帝国、1588年のスペインとの戦いから始まって3度の英蘭戦争と4度の対仏植民地戦争を戦い抜き最終的に勝利したイギリス帝国の第一次の隆盛には早くも深刻な翳りがさしていました。「アメリカ独立戦争」の勃発はフレンチ・インディアン戦争の終結からわずか12年後のことなのでした。 1773年にはアメリカ独立戦争(1775−83)の前哨戦といわれる「ボストン茶会事件」が起こりました。そしてアメリカ独立戦争(1775〜1783)が勃発すると、フランスは独立軍を支援して、サフレン提督やブーゲンビル船長やラ・ペルーズ伯爵、デェスタイン伯爵、バウダン船長などの率いるフランス艦隊を大西洋を越えて新大陸へと派遣しました。また、ラ・ファイエット将軍とロシャンポー将軍は1781年のヨークタウンの戦いで重要な役割を果たし、グラス提督は1781年のチェサピーク湾の海戦でイギリス艦隊を封鎖しました。 1783年「アメリカ独立戦争」の決着をつける「パリ条約」が結ばれ、ミシシッピー河以東のルイジアナはアメリカ合衆国領とされることとなりました。同時に結ばれた「ヴェルサイユ条約」ではフロリダがスペイン(アメリカ独立軍を支援していた)に返還されました。フロリダはさらに1819年に合衆国に500万ドルで買収されました。ミシシッピー河以東のルイジアナは1800年の「サン・イルデフォンソ条約」(ナポレオンの軍事的圧力)によってフランス領に戻され、その3年後に合衆国に1,500万ドルで売却されました。 こちらで
・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。 令和8年 2026/2/1追記 |
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