切手で綴る 太平洋戦争 物語
第4部 <帝国の敗戦>
第20章 ポツダム
104 <ポツダム宣言>
カイロ会談
1943/11/22〜11/26
米英中、大日本帝国への対処を会談

カイロ会談を描く台湾発行の小型シートの図案
蒋介石、ルーズベルト、チャーチル、宋美齢(蒋夫人)

Cairo Declaration 1945
第2次大戦勝利50年記念
中華民国(台湾) 1995/11/10 発行

カイロ会談
  (Cairo Conference)、1943/11/22〜11/26
  場  所:エジプトのカイロ
  出席者:米フランクリン・ルーズヴェルト大統領
        英ウィンストン・チャーチル首相(1874-1965)
        中華民国の蒋介石主席(1887-1975)
カイロ会談が開催され、カイロ宣言として、連合国の対日方針などが定められました。カイロ宣言は日時や署名がなく、公文書も存在しておらず宣言として扱うことが適切かについては議論もあるも、エジプトのカイロで1943/11/22と12/4に行われた米のル−ズヴェルト大統領・英のチャ−チル首相・中国政府の蒋介石主席が発表しました。
・カイロ宣言の主な内容は
(1)大日本帝国への徹底攻撃
(2)南洋諸島の奪還
(3)満州・台湾・澎湖諸島の中国帰属
(4)朝鮮の独立、でした。

・カイロ宣言(Cairo Declaration)の邦訳例は、
各軍事使節は大日本帝国に対する将来の軍事行動を協定せり。三大同盟国は海路、陸路及び空路によりその野蛮なる敵国に対し仮借なき弾圧を加ふるの決意を表明せり。右弾圧は既に増大しつつあり。三大同盟国は日本国の侵略を制止し且つこれを罰する為今次の戦争を為しつつあるものなり。右同盟国は自国の為に何らの利得をも欲求するものにあらず。又領土拡張の何らの念をも有するものにあらず。右同盟国の目的は大日本帝国より1914年の第1次世界戦争の開始以後において日本国が奪取し又は占領したる太平洋における一切の島嶼を剥奪すること並びに満州、台湾及び澎湖島の如き大日本帝国が清国人より盗取したる一切の地域を中華民国に返還することにあり。大日本帝国は又暴力及び貪欲により大日本帝国が略取したる他の一切の地域より駆逐せらるべし。前記三大同盟国は朝鮮の人民の奴隷状態に留意し朝鮮を自由且つ独立のものたらしむるの決意を有す。右の目的をもって右三大同盟国は同盟諸国中大日本帝国と交戦中なる諸国と協調し大日本帝国の無条件降伏を齎すに必要なる重大且つ長期の行動を続行すべし。
というものだったといわれています。

参考HP〜
カイロの場所地図(日本語)
カイロの場所地図

参考:〜
蒋 介石 総統
  (Chiang Kai-shek、1887-1975)
  中国の中華民国(1921-1949)の政治家、軍人
  第3代・第5代国民政府主席
  初代中華民国総統(President of the Republic of China)
  中国国民党永久総裁
  国民革命軍・中華民国国軍の特級上将(大元帥)
蒋介石総統は孫文(Sun Yat-sen, 1866-1925)の後継者として北伐を完遂し、中華民国の統一を果たして、中華民国の最高指導者となるも、1949/6/2に中華人民共和国が成立して、国共内戦
孫文と蒋介石総統

国民党11回大会記念
中華民国(台湾)1976/11/12発行
で毛沢東(Mao Zedong, マオ・ツォートン, 1893-1976)率いる中国共産党に負けて、1949年より台湾に移り、その後大陸支配を回復することなく没しました。なお、1928年から1931年と、1943年から1975年に死去するまで国家元首の地位にありました。

・蒋介石総統の略年表
1887 奉化県(現奉化市)渓口鎮に生まれる
1902 毛福梅(当時19才)と結婚
1904 奉化の鳳麓学堂や寧波の箭金学堂で学ぶ(-1905)
1906 保定陸軍軍官学校で軍事教育を受ける
1907 (明治40年)、渡日し東京振武学校へ留学
1909 大日本帝国陸軍に勤務、陸軍13師団 高田連隊 野戦砲兵隊の将校(-1911)
1910 子息の蒋経国(-1988)が誕生
(毛福梅(1882-1939/12/12)出家(1927)離縁、帝国の空襲で奉化県渓口鎮に没)
1911 10月、帰国して辛亥革命に参加(-1912)
10/30、上海に到着
11/4、攻略戦を開始、
11/5、杭州が陥落、浙江省の独立を宣言、上海の軍事顧問となる
後に孫文に認められ、国民党内右派の代表として頭角を現す
1912 1/1、辛亥革命でアジアにおいて史上初の共和制国家の中華民国が誕生
3〜12月、日本に赴き東京で言論活動
1923 孫文の指示により、ソ連の軍制を視察
1924 広州の黄埔軍官学校校長に就任
1925 3/12、孫文が没
1926 7/1、中国国民党・北洋軍閥などに対し北伐を開始
1927 宋美齢(1897(1898、1901など有)-2003)と結婚
1927 上海クーデターで中国共産党を弾圧、党および政府の実権を掌握
9月に満州問題を主題とし田中義一首相と会談し、北伐(中国大陸統一)・対共戦に対する支援の見返りに満州における帝国の政治、経済的な権益に関する特殊な地位を考慮すると語る
1928 政府主席となる(南京国民政府)、基本政策は反共、対日、対英米善隣外交
1931 柳条湖事件で満州事変(1931/9/18-1932/2/18)が勃発
1932 満州国が建国される、中国(中華民国)は国際連盟に提訴
1933 塘沽停戦協定締結(満州事変の軍事的衝突停止)
1935 3/30、中華民国特級上将となる
1936 3月、西南旅行の途次、南京に立ち寄った松井石根大将と会談
12月、西安事件(張学良らによる蒋介石拉致監禁事件)で軟禁され、こで対日・反共政策の見直しを迫られる
1937 7月の盧溝橋事件(1937/7/7)を契機に、抗日を推し進める
12月、帝国による首都南京の占領が不可避と判断し、四川省の重慶へ遷都
1938 トラウトマン工作失敗で日中の和平破綻、泥沼化
1940 桐工作で板垣征四郎と汪兆銘との会談が検討されるも蒋は出席せず
1941 7月、日本をABCD包囲陣で経済封鎖
11月、ハルノートが出される
12/8、帝国の真珠湾攻撃
1942 蒋介石は連合国共同宣言(Declaration by the United Nations、1942/1/1)に署名、中華民国が四大国の一員となる
スティルウェルが中国戦区連合国軍最高司令官・中国戦区参謀長に就任
1943 繆斌(1899-1946)と対日単独講和を検討
11月、ルーズベルトの要請でカイロ会談に参加、四人の警察官構想の一員になり、台湾や満州の返還が約束される
1944 帝国陸軍の最大攻勢の大陸打通作戦で蒋介石の国民党軍が大打撃を受ける
10月、スティルウェルを参謀長から解任
1945 7/28、対日降伏勧告のポツダム宣言が発表される
8/15、大日本帝国の敗戦で抗日戦争(日中戦争)が終戦、
毛沢東との交渉により双十協定を締結
1946 国共内戦(1945/10-1950/5/1)に突入
1948 中華民国の初代総統に就任(反発を受け翌年辞任)
1949 国共内戦で敗北、首都南京を脱出して重慶などを経て、12月に成都を息子の経国と共に飛び立ち台湾へ到着、事実上台北への遷都となる
1950 3月、再び総統に就任(第五任(第5期)まで務め任期中に没)
1969 交通事故で体調を崩し、この年を境に表舞台には出なくなる
1972 6月、肺炎で一時重篤な状態になったが持ち直すも、これを期に以後は公の場に姿を現すことはなくなる
1975 4月5日23時50分、87才没。死因は心臓麻痺とも心臓病とも言われる
任期中のため副総統の厳家淦が後任総統に昇格

中華民国はアジアで2番目の共和国として、1912年に中国大陸に成立し、1971年まで国際連合安全保障理事会常任理事国でした。現在の台湾を実効支配している中華民国は、国連には非加盟国。

参考HP〜
台湾の地図(日本語)
台湾の場所地図(日本語)

こちらで
原子爆弾投下命令承認(米トルーマン大統領)
ナチス第3帝国、降伏
をお楽しみください。

・上記は こちら の文献などを参照させてもらいました。  2016/7/8
・:戦争と平和
スタンプ・メイツ
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