切手で綴る 太平洋戦争 物語
第4部 <帝国の敗戦>
第22章 無条件降伏
108 <昭和天皇>
「玉音放送」
1945/8/15
大日本帝国、ポツダム宣言受託
帝国、無条件降伏


昭和天皇

Emperor HIROHITO ruled Japan during World War II
セントビンセント・グレナディーン諸島 1995/12/7 発行

・昭和天皇の玉音放送、1945/8/15(昭和15年8月15日)
  (Jewel Voice Broadcast by Japanese Emperor Hirohito)
最高戦争指導会議での即時和平派、近衛、細川、高松宮、木戸内大臣、鈴木首相、東郷外相、米内海相と統帥部の徹底抗戦派、梅津参謀総長、阿南陸相、豊田軍令部総長の抗争あるも、御前会議での天皇の発言は「それならば自分の意見を言おう。自分の意見は外務大臣の意見に同意である。念のために理由を申しておく。大東亜戦争が始まってから陸海軍のしてきたことを見ると、どうも予定と結果が大変違う場合が多い。今陸海軍では先ほども大臣、総長が申したように本土決戦の準備をしており、勝つ自信があると申しているが、自分はその点について心配している。このような状態で本土決戦に突入したらどうなるか。あるいは日本民族は皆死んでしまわなければならなくなるのではなかろうかと思う。そうなったら、どうしてこの日本という国を子孫に伝えることができるか。今日となっては一人でも多くの日本国民に生き残って貰ってその人達に将来再び立ち上がって貰う他に、この日本を子孫に伝える方法はないと思う。自分のことはどうなっても構わない。耐え難い事忍び難い事ではあるが、この戦争を止める決心をしたのである」と伝へられています。

昭和15年8月12日午前0時15分サンフランシスコ放送によるバーンズ国務長官名での対日回答の放送が傍受されました。「天皇の地位は降伏条項の実施のため、その必要と認める措置をとる連合国司令官の制限の下に置かれる。最終的な日本国政府の形態はポツダム宣言に従い、日本国民の自由に表明する意思により決定さるべきである」。この訳文をめぐって、外務省と陸軍省が対立。原文は”Subject to”ですが陸軍省はこれを「隷属する」と訳し(外務省は「制限の下に置かれる」)、統帥部では受諾反対の態度を固め、午前8時20分に梅津参謀長と豊田軍令部総長が、受諾が危険であるとの上奏を天皇に行い、東郷外相は午前8時の段階で「不満足ながらも受諾」との方針を決定。午前11時、天皇陛下から東郷外相に「直ちに応諾するように」との指示がありました。陸軍省は受諾反対で阿南陸相を突き上げ、陸相は午前11時半、鈴木首相を訪ねて受諾反対を申し入れ。閣議決定で天皇大権が不明確なら戦争継続だったからです。8/12午前3時、対日回答にかんする閣議が開かれ、東郷外相は即時受諾「戦争継続は決定的壊滅を招き、国体護持は不可能になる。我が方の了解事項を承認したものと認める」と主張。阿南陸相は受諾に全面反対。

8月14日午後1時から閣議が開催され、終戦詔勅案を審議。公布手続きが完了したのは午後11時でした。同時にポツダム宣言受諾通告も発信されました。

<ポツダム宣言受諾>
米英ソ支四国に対する8月14日付帝国政府通告:〜
ポツダム宣言の条項受諾に関する8月10日付帝国政府の申入並びに8月11日付バーンズ米国務長官発米英ソ支四国政府の回答に関連し帝国政府は右四国政府に対し左の通り通報するの光栄を有す。
一天皇陛下におかせられてはポツダム宣言の条項受諾に関する詔勅を発布せられたり
二天皇陛下におかせられてはその政府及び大本営に対しポツダム宣言の諸規定を実施する為必要とせらるべき条項に署名するの権限を与え且つ保障せらるるの用意あり。又陛下におかせられては一切の帝国陸海空軍官憲及び右官憲の指揮下にある一切の軍隊に対し戦闘行為を終止し武器を引渡し前記条項実施の為連合国最高司令官の要求することあるべき命令を発することを命ぜらるの用意あり。

<玉音放送>
昭和20年8月15日正午、「大東亜戦争」の終結を国民に告げる為になされたラジオ放送、いわゆる「玉音放送」で知られる昭和天皇の詔勅。終戦前日の8/14、御前会議に於いて、昭和天皇の「御聖断」により実施となったもので、ラジオ放送で使われた円盤(レコード盤)への録音は同日深夜、宮内省内の天皇政務室で行われました。「玉音放送」に関しては、降伏反対・戦争継続を主張した近衛師団等による録音盤奪取未遂事件等、「長い一日」(8月14日〜15日)の中で予定通り放送され、日本は「現人神」(あらひとがみ)昭和天皇の「鶴の一声」で降伏を甘受、整然と矛を収め、粛々と武装解除に応じることとなりました。

大東亜戦争終結の詔書<原文>
朕深ク世界ノ大勢ト帝国ノ現状トニ鑑ミ非常ノ措置ヲ以テ時局ヲ収拾セムト欲シ茲ニ忠良ナル爾臣民ニ告ク。朕ハ帝国政府ヲシテ米英支蘇四国ニ対シ其ノ共同宣言ヲ受諾スル旨通告セシメタリ。抑々帝国臣民ノ康寧ヲ図リ万邦共栄ノ楽ヲ偕ニスルハ皇祖皇宗ノ遣範ニシテ朕ノ拳々措カサル所。曩ニ米英二国ニ宣戦セル所以モ亦実ニ帝国ノ自存ト東亜ノ安定トヲ庶幾スルニ出テ他国ノ主権ヲ排シ領土ヲ侵スカ如キハ固ヨリ朕カ志ニアラス。然ルニ交戦已ニ四歳ヲ閲シ朕カ陸海将兵ノ勇戦。朕カ百僚有司ノ励精。朕カ一億衆庶ノ奉公各々最善ヲ尽セルニ拘ラス戦局必スシモ好転セス。世界ノ大勢亦我ニ利アラス。加之敵ハ新ニ残虐ナル爆弾ヲ使用シテ無辜ヲ殺傷シ惨害ノ及フ所真ニ測ルヘカラサルニ至ル。而モ尚交戦ヲ継続セムカ終ニ我カ民族ノ滅亡ヲ招来スルノミナラス延テ人類ノ文明ヲモ破却スヘシ斯ノ如クムハ朕何ヲ以テカ億兆ノ赤子ヲ保シ皇祖皇宗ノ神霊ニ謝セムヤ。是レ朕カ帝国政府ヲシテ共同宣言ニ応セシムルニ至レル所以ナリ。朕ハ帝国ト共ニ終始東亜ノ解放ニ協力セル諸盟邦ニ対シ遺憾ノ意ヲ表セサルヲ得ス。帝国臣民ニシテ戦陣ニ死シ職域ニ殉シ非命ニ斃レタル者及其ノ遺族ニ想ヲ致セハ五内為ニ裂ク。且戦傷ヲ負ヒ災禍ヲ蒙リ家業ヲ失ヒタル者ノ厚生ニ至リテハ朕ノ深ク軫念スル所ナリ。惟フニ今後帝国ノ受クヘキ困難ハ固ヨリ尋常ニアラス。爾臣民ノ衷情モ朕善ク之ヲ知ル。然レトモ朕ハ時運ノ趨ク所耐ヘ難キヲ耐ヘ忍ヒ難キヲ忍ヒ。以テ万世ノ為ニ太平ヲ開カムト欲ス。朕ハ茲ニ国体ヲ護持シ得テ忠良ナル爾臣民ノ赤誠ニ信倚シ。常ニ爾臣民ト共ニ在リ。若シ夫レ情ノ激スル所濫ニ事端ヲ滋クシ。或ハ同胞排擠互ニ時局ヲ乱リ為ニ大道ヲ誤リ信義ヲ世界ニ失フカ如キハ朕最モ之ヲ戒ム。宜シク挙国一家子孫相伝ヘ確ク神州ノ不滅ヲ信シ任重クシテ道遠キヲ念ヒ総力ヲ将来ノ建設ニ傾ケ道義ヲ篤クシ志操ヲ鞏クシ誓テ国体ノ精華ヲ発揚シ世界ノ進運ニ後レサラムコトヲ期スヘシ。爾臣民其レ克く朕カ意ヲ体セヨ。
(御名御璽)昭和二十年八月十四日。
以下、内閣総理大臣・鈴木貫太郎はじめ、閣僚16人が連署。

昭和20年8月15日午前5時半過ぎ陸相官邸で阿南陸相が割腹自殺。遺書は「一死以って大罪を謝し奉る」。阿南陸相は敗戦が決定した後、淡々と手続を進め、ポツダム宣言受諾詔勅案に副署した上での割腹自殺を選択。昭和史を政略で塗りつぶした帝国陸軍において、阿南陸相が謝し奉った大罪は、彼自身としては敗戦の責任のつもりなるも、大きな眼で見れば、昭和軍閥が犯した、統帥権の独走そのものだったとも言えますね。

<対日回答>
連合国の対日回答案の鍵を握るのはアメリカであり、トルーマン大統領を囲んだ次の4人。バーンズ国務長官、スチムソン陸軍長官、フォレスタル海軍長官、リーヒ大統領付幕僚長。このうちスチムソン長官は満州事変当時の国務長官で知日派です。「戦争が長引くことに比べれば、天皇制は小さな問題だ。承知してやればいい。」バーンズ長官を除く3人は、このスチムソン長官の考え方に同意。しかし、主務者であるバーンズ長官は、無条件降伏を主張して来た経緯もあり、天皇制は否定しないが明瞭に保証もしないという案を作りました。フォレスタル長官は、もう少し明瞭にした方がよいと考えますが、バーンズ長官は 「誰が天皇になっても、天皇制さえ残ればいいんだろう」と応答。こうして、対日回答案が承認され連合国内の調整を経て、日本に回答されました。

こうして停戦となり、連合軍が帝国へ上陸・進駐、帝国は占領されました。そして、1945/9/2に東京湾の米戦艦ミズーリ号上で帝国の降伏文書調印式が挙行されました。

参考:〜
・裕仁:第124代(昭和)天皇(1901-在位1926(大正15)12/25-1989(昭和64)/1/7)88才没
・近衛文麿:公爵(1891-1945/12/16服毒自殺)
・細川護貞(もりさだ、1912-2005)第2次近衛内閣総理秘書官(1940/7/22-1941/7/18)
・高松宮宣仁:親王(のぶひと、1905-1987)
・木戸 幸一:侯爵(1889-1977)内大臣、東京裁判で終身刑後に仮釈放(1955)
・鈴木貫太郎:男爵(1868-1948)内閣総理大臣(在任1945/4/7-8/17)
・東郷茂徳(1882-1950) 鈴木内閣外務大臣(在任1945/4/9-8/17)
・米内光政(よない、1880-1948/4/20)第23代連合艦隊司令長官(1936/12/1-1937/2/2)
  第39-41、49-52代海軍大臣、第37代内閣総理大臣(在任1940/1/16-7/22)
・梅津美治郎(よしじろう、1882-1949)、東京裁判で終身刑後に獄中死
  参謀総長(1944/7/18-1945/9/2)大本営全権で降伏文書調印式に出席
・阿南 惟幾(これちか、1887-1945/8/15自殺)鈴木内閣の陸軍大臣(在任1945/4/9-8/15)
・豊田副武(そえむ、1885-1957)第29・第30代連合艦隊司令長官(1945/5/1-5/29)
  最後(第19代)の軍令部総長(1945/5/29-8/15)

・田中静壱 陸軍大将 (Shizuichi Tanaka)
  (1887(明治20年)/1945/8/24、自決)
  (敗戦時:第12方面軍司令官兼東部軍管区司令官)
敗戦当時は東日本の本土防衛を担う第12方面軍司令官兼東部軍管区司令官。空襲で明治神宮や明治宮殿が焼失。帝都防空の責任により進退伺を出すも、昭和天皇に慰留されました。米軍上陸に備えて迎撃の計画も練り上げているも、叛乱鎮圧が田中将軍の最後の任務となりました。宮城事件(玉音放送阻止)が起きると自ら皇居に乗り込んで叛乱将校を付添憲兵に捕縛させ混乱を収束させるなど鎮圧に貢献して後、帝国を無事に終戦に導いた立役者とも称されて
田中将軍

トーゴ 1995 発行
います。昭和天皇はその働きに対して同日の8/15夕刻拝謁を賜るも、それから9日後の8/24、最後の叛乱となった川口放送所占拠事件を鎮圧した夜、司令官自室にて拳銃で自殺。

・宮城事件
宮城事件は、1945/8/14の深夜から15日にかけて、宮城(皇居)で一部の陸軍省勤務の将校と近衛師団参謀が中心となって起こしたクーデター未遂事件。帝国の降伏を阻止しようと企図した将校達は近衛第一師団長森赳中将(もり たけし、1894-1945/8/15、陸士28期)を殺害、師団長命令を偽造し近衛歩兵第二連隊を用いて宮城を占拠するも、陸軍首脳部や東部軍管区の説得に失敗した彼らは日本降伏阻止を断念し、一部は自殺もしくは逮捕されました。これで帝国の降伏表明は当初の予定通り行われました。首謀者は、上原重太郎大尉(1921-1945/8/19、陸士55期、神戸市生)、畑中健二少佐(1912-1945/8/15、陸士46期、京丹波町生)、窪田兼三
宮城(皇居)

明治天皇、東京御着輦
日本 1968 発行
少佐(くぼたけんぞう、陸士50期:1937/12卒)、井田正孝中佐(1912- 2004、陸士45期、岐阜県生)、椎崎二郎中佐(しいざき じろう、1911-1945/8/15、陸士45期、和歌山県生)など。
8/12: 午前9時、近衛歩兵第二連隊第一大隊が完全武装で宮城に入城
(その後、宮城から出ることなくクーデターに参加)
8/14 午前7時、陸軍省で阿南陸相と梅津参謀総長が会談。
この席で梅津はクーデター計画に反対し、阿南も同調。
15時過ぎ、畑中少佐は東部軍管区司令部で司令官の田中静壱大将に面会を求めた。彼は東部軍のクーデター参加を求める予定なるも、入室した途端に田中大将に怒鳴られ、萎縮し転がるように退室。昭和天皇による玉音放送の録音は、23時30分から宮内省政務室において行われ、録音盤(玉音盤)は徳川義寛侍従に渡されて、皇后宮職事務室内の軽金庫に保管。
8/15
決起
午前0時過ぎ、玉音放送の録音を終了して宮城を退出しようとしていた下村宏情報局総裁と放送協会職員など数人が、坂下門付近において近衛歩兵第二連隊第三大隊長佐藤好弘大尉により身柄を拘束された。彼らは兵士に銃を突き付けられ、付近の守衛隊司令部の建物内に監禁された。井田中佐と椎崎中佐は、近衛第一師団司令部で義弟の第二総軍参謀白石通教中佐と会談中であった師団長森赳中将に面会を強要し、クーデターへの参加を求めた。井田の記録によると、森師団長は否定的な態度を堅持していたが、「明治神宮を参拝した上で再度決断する」と約束したとされる。井田中佐はこの言葉を聞き一時部屋を退出したと述べている。入れ替わりに師団長室に入った畑中少佐は、しばらくすると部屋を出てきて、この日別件で近衛第一師団司令部を訪れていた航空士官学校の上原重太郎大尉とその同志である陸軍通信学校の窪田兼三少佐を引き連れ再度入室した。畑中少佐は無言のまま森師団長を拳銃で撃ち、さらに上原大尉が軍刀で斬殺。同席していた白石中佐も上原大尉と窪田少佐によって斬殺された。森師団長と白石中佐の殺害の詳しい経緯については、窪田少佐が東部憲兵隊で聴取を受けた時の聴取記録が残っており、概ね明らかである。(なお、窪田少佐は白石中佐の首を刎ねたものの、森中将には手をかけていないことが東部憲兵隊の公式記録や事件現場の状況、本人の証言等から判明。上原大尉は森師団長の肩を斬ったことが同様に判明)。
占拠 この殺害後、師団参謀の古賀秀正少佐は畑中少佐が起案したと考えられる近作命甲第五八四号を各隷下部隊に口頭下達、近衛歩兵第二連隊に展開を命じた。ただ、古賀少佐がクーデター計画にどの程度積極的に関与したかについてははっきりとしていない。また、玉音放送の実行を防ぐために内幸町の放送会館へも近衛歩兵第一連隊第一中隊が派遣された。宮内省では電話線が切断され、皇宮警察は武装解除された。玉音盤が宮内省内部に存在することを知った古賀少佐は第二大隊長北村信一大尉や佐藤好弘大尉らに捜索を命じている。宮内省内にいた石渡荘太郎宮内大臣および木戸幸一内府は金庫室などに隠れて難を逃れた。井田中佐は水谷一生参謀長に随行して東部軍管区司令部へと赴き、東部軍管区(第十二方面軍司令部を兼務)のクーデター参加を求めたが、田中軍司令官と高嶋参謀長は既に鎮圧を決定していた。高嶋参謀長は午前4時過ぎに芳賀豊次郎近衛第二連隊長との電話連絡に成功し、森師団長の殺害を知り畑中少佐らの言動に疑問を感じていた連隊長に対し、師団命令が偽造であることを伝えた。芳賀連隊長はその場にいた椎崎、畑中、古賀らに対し即刻宮城から退去するように命じた。宮内省内では御文庫へ反乱発生を伝えた後に帰還していた徳川侍従が兵士と口論になり、第一大隊の若林彦一郎軍曹に殴打された。殴打した理由について若林軍曹は後日、 「周囲の人間は殺意をもって徳川侍従を包囲しており、このままでは侍従が殺されてしまうと思った。それを防ぐためにとっさに本人を殴り、気絶させることで周囲を納得させた」 と親族に語っており、直接の殺意や害意は無かったと思われる。宮城を離れた畑中少佐は第一中隊の占領する放送会館へと向かい決起の声明の放送を要求するも、職員の機転によってこれは防がれた。
鎮圧 日が昇ってすぐの午前5時頃、東部軍の田中軍司令官が数人だけ連れて、自ら近衛第一師団司令部へと向かい、偽造命令に従い部隊を展開させようとしていた近衛歩兵第一連隊の渡辺多粮連隊長を止めた。連隊長のそばに居た近衛第一師団参謀石原貞吉少佐は東部憲兵隊に身柄を保護された(逮捕されたのではなく、石原は当日夕方には師団司令部に復帰している)。なお、田中司令官は乾門付近で芳賀連隊長に出会い兵士の撤収を命じると、そのまま御文庫さらに宮内省へ向かい反乱の鎮圧を伝えたとの説も有。午前6時過ぎ頃、陸相官邸では阿南陸相が自刃した(「阿南陸相は、5時半、自刃、7時10分、絶命」との記録も有)。竹下中佐は陸相印を用いて大臣命令を偽造しようと井田中佐に示唆したが、井田は既にクーデターの失敗を悟っていて実行にはならず。放送会館では東部軍からの電話連絡を受けた畑中少佐が放送を断念し、守衛隊司令部では拘束されていた下村情報局総裁らが解放された。

午前8時前に近衛歩兵第二連隊の兵士が宮城から撤収し、宮内省内の地下室に隠れていた石渡宮相と木戸幸一内府はここを出て御文庫へと向かった。2枚の録音盤は1回目に録音された録音盤を「副盤」、2回目に録音された録音盤を「正盤」として皇后宮職事務室から運び出され、正盤は放送会館へ副盤は第一生命館に設けられていた予備スタジオへと無事に運搬された。最後まで抗戦を諦めきれなかった椎崎中佐畑中少佐は宮城周辺でビラを撒き決起を呼び掛けた(佐藤大尉と藤原憲兵大尉が撒布したとの証言もある)が、午前11時過ぎに二重橋と坂下門の間の芝生上で自殺。また、古賀参謀は玉音放送の放送中に近衛第一師団司令部二階の貴賓室に安置された森師団長の遺骸の前で拳銃と軍刀で自殺。午前11時30分過ぎ、放送会館のスタジオ前で突然、1人の憲兵将校が軍刀を抜き、放送阻止のためにスタジオに乱入しようとするも、すぐに取り押さえられ憲兵に連行された。そして正午過ぎ、ラジオから下村総裁による予告と君が代が流れた後に玉音放送が無事に放送された。このようにクーデター首謀者中の生存者である井田中佐および稲葉中佐等の証言では、自分達より階級の低い自殺した畑中少佐が森師団長殺害以降のクーデターを主導したと示唆。
他の動き 他にも、「皇軍の辞書に降伏の二字なし」として徹底抗戦を唱え、東京警備軍横浜警備隊長の佐々木武雄陸軍大尉をリーダーとして、尾崎嘉男、上田雅紹、村中諭、川島吾郎など勤労動員中の横浜高等工業学校の生徒達によって編成された「国民神風隊」が、同15日の午前4時30分に首相官邸を襲撃したのを皮切りに、鈴木首相や平沼騏一郎枢密院議長、木戸幸一内府、東久邇宮稔彦王らの私邸にも火を放った
戦後 事件鎮圧の功労者である田中東部軍管区司令官は、8/24の夜に拳銃で心臓を撃ち抜き自決。田中司令官は戦時中に宮中への空襲を許したことなどに責任を感じており、24日に発生した陸軍通信学校教官窪田兼三少佐や予科士官学校生徒による川口放送所占拠事件の解決を待ってのこと。近衛第一師団参謀の石原貞吉少佐は、8/15に発生した水戸教導航空通信師団事件の一部である上野公園占拠事件に際し、第十二方面軍参謀神野敏夫中佐からこれの説得役を依頼された。これは水戸から上京した部隊の指揮官岡島哲少佐が、石原少佐の陸軍士官学校本科教練班長時代の教え子だった縁による。8/19に東京美術学校に赴いた石原少佐は、説得に納得しない林慶紀少尉によって拳銃で射殺された。石原少佐の遺体は同夜近衛第一師団司令部配属憲兵の境芳郎憲兵曹長により収容された。戦後になり石原少佐は勲四等に叙せられ、靖国神社にも合祀。一方、森師団長殺害の主役であり、また兵力使用計画に関与した井田中佐は、15日に陸軍省で自殺する決心を固めていたが、これを予期した見張りの将校に止められ断念した。戦後は電通に入社し、総務部長と関連会社電通映画社の常務を務めた。戦後の31年になり離婚して岩田に復姓。同じく兵力使用計画に関与した稲葉正夫は防衛庁戦史編纂官を経て防衛研究所で研究員を務めた。事件に関係した将校たちは明らかに当時の軍法・刑法に違反する行為を行ったにもかかわらず、敗戦とそれに伴う軍組織の解体などの混乱で軍事裁判にかけられることも刑事責任を問われることもなかった。
参考映画:〜日本映画 「日本のいちばん長い日」、1967年

・川口放送所占拠事件
川口放送所占拠事件は、1945/8/24に埼玉県川口市所在の社団法人日本放送協会(現NHK)川口放送所及び鳩ヶ谷放送所が、終戦に反対して徹底抗戦を主張する大日本帝国陸軍の兵士らにより占拠された事件のこと。宮城事件で、クーデターに失敗した陸軍通信学校教官窪田兼三少佐は、日本の降伏に納得できず、8月15日以降も横須賀鎮守府などを訪問して、抗戦決起を呼びかけ同志を募っていた。8/21には以前に勤務していた陸軍予科士官学校に向かい、その途中、陸軍予科士官学校生徒隊寄居演習隊第23中隊第1区隊長の本田八朗中尉(20才)に偶然出会いました。本田中尉は振武台陸軍病院に入院中でしたが、15日に玉音放送を聞いて急遽退院して朝霞の予科士官学校から埼玉県大里郡寄居町に疎開している隊に戻るところでした。窪田少佐は本田中尉に宮城事件の詳細を語り、力になってくれるよう依頼して別れました。
ラジオ放送

日本 1925 発行
8/21、高島中隊長は「承詔必謹」し降伏することを士官に指示。各士官はこれに従うも、本田中尉は強く反対。このような状況の中、窪田少佐が寄居演習隊を訪れ、本田中尉に、ラジオ放送所を占拠して国民に徹底抗戦を呼びかける計画を打ち明けました。本田中尉はこれに賛同し、演習を名目に部隊を動かすため、8/24に夜間演習を行う許可を高島中隊長から得ました。8/23朝、高島中隊長は隊員らを集め、詔勅に従って終戦を受け入れる事を訓示し、隊員は兵器を返納し復員の準備を始めるも、本田中尉は第1区隊生徒らに夜間演習の準備を指示。午後7時、本田中尉、伊吹曹長以下、第1区隊生徒(16〜18才)ら67人は装備を整え隊庭に集合すも、演習名目のため実弾は支給されず空砲のみの装備でした。午後8時、東武東上線寄居駅から、事前に依頼しておいた臨時列車に乗り込み、新倉駅(現・和光市駅)に移動、同駅で窪田少佐が合流。窪田少佐と本田中尉は、鳩ヶ谷放送所で送電が開始されるのを待っているも、いつまで待っても送電されないため、川口放送所へ移動。
午後2時頃、東部憲兵司令部の藤野中佐は5人程の部下と共に川口放送所へ説得に向う。藤野中佐は窪田少佐らと会談し、送電が止められている事を告げ、これ以上やっても成功の見込みは無いと言って説得。窪田少佐らは説得を受けて計画の失敗を悟り、行動中止を決め、その場で藤野中佐らに投降。その後、寄居演習隊の高島中隊長も駆けつけ、隊員に帰隊を命令。さらに田中大将が到着、全員を前に訓示、午後4時頃、隊員はトラックで駅へ向かい、列車で寄居に帰営。この事件の影響で午前6時頃から午後3時頃までの約9時間にわたって関東地方一帯でラジオ放送が停止。その後、窪田少佐は身柄を拘束され、事情聴取の後釈放されるも以降の詳細は不明。本田中尉は窪田少佐とは別々に浦和地区憲兵隊に送られ、その夜、九段憲兵分隊に移送。同所で翌25日から28日まで事情聴取を受けた後、8/30に釈放され、後日、30日間の謹慎処分。その後、帰郷するも、11月に上京して検察官の聴取を受けたが12月に不起訴処分。その後、2001年(平成13年)9月9日、NHK放送博物館でのインタビューに応じ、当時の事を証言している。 陸軍予科士官学校は8/29に解散し、生徒らは復員。 田中大将は事件が収束した日の夜、司令官室で拳銃自殺。

参考HP〜
戦争終結の大勅煥発さる
  (戦争終結を報じる新聞と皇居前の写真)


進出現地帝国軍の降伏式
中国 蒋介石将軍 マッカーサー将軍 米シェンノート将軍
降伏式 降伏式
ウィンゲート准将 米スティルウェル将軍 英スリム将軍
1945 第二次世界大戦勝利50周年記念 1995
アンティグア・バーブーダ 1995/7/20 発行
令和元年 2019/11/23

参考〜
・米国の戦艦ミズーリ号の装備:〜就役:1944/6/11、退役 1992/3/31
  (USS Missouri, BB-63、アメリカ海軍の戦艦)アイオワ級戦艦の3番艦
建造所 ブルックリン海軍工廠
(Brooklyn Navy Yard)
米:戦艦ミズーリ号

マーシャル諸島 1992 発行
全 長 270.4m
全 幅 32.98m
吃 水 11.58m
排水量 基準48,500トン 満載53,000トン
最大速力 33ノット
航続距離 23,960km
乗 員 2,700人
武 装 50口径40.6cm砲 9門、38口径12.7cm砲 20門、
56口径40mm対空砲 80門、70口径20mm対空砲 49門
※<降伏文書調印式>1945/9/2
大日本帝国の無条件降伏(8/15)による降伏文書調印式(9/2)は、東京湾(中の瀬水道中央部千葉県よりの海域)に停泊するミズーリ号の甲板上で行われ、アメリカ合衆国、イギリス、フランス、オランダ、中華民国、カナダ、ソビエト、オーストラリア、ニュージーランドが調印して帝国の降伏が受け入れられました。この日(1945/9/2)で正式に太平洋戦争(第2次世界大戦)が終結して、世界に平和がもたらされました。
※<朝鮮戦争に従軍>朝鮮戦争(1950/6/25-1953/7/27停戦)に従軍して、
   1951/9/15の「仁川」上陸にて艦砲射撃などで活躍。
※<湾岸戦争に従軍>1986/5/10サンフランシスコで再就役、1991/1/17イラク領内へ
   トマホーク・ミサイルを発射して湾岸戦争(1991/1/17-2/28)が開始されました。
※<記念艦>
   1999年からハワイ州パールハーバーで記念艦として保存。

参考HP〜
1992年製作のアンドリュー・デイヴィス監督の米映画「沈黙の戦艦」にミズーリ号が登場。
 ・スティーヴン・セガール(ケイシー・ライバック役)
 ・トミー・リー・ジョーンズ(ウィリアム・ストラニクス役)
 ・ゲイリー・ビジー(クリル中佐役)
 ・エリカ・エレニアック(ジョーダン・テイト役)
などが競演したアクション映画。








109 <帝国の降伏>
大日本帝国、降伏文書に調印
1945/9/2
ミズーリ号上の調印式

東京湾の米戦艦"ミズリー号"上での「降伏文書」調印式

マーシャル諸島 1995 発行

・大日本帝国の「降伏文書」調印式、1945/9/2(昭和15年9月2日)
  (Surrender ceremony of Imperial Japan)
東京湾「横浜」の米戦艦ミズリー号上で「大日本帝国の降伏文書(Imperial Japanese Instrument of Surrender)」調印式が挙行されました。帝国側代表は重光葵(まもる)や梅津美治郎など、そしてアメリカ側はマッカーサー総司令官やニミッツ提督などが署名しました。

1945年(昭和20年)8月14日、日本政府は宣言の受諾を駐スイス及びスウェーデンの日本公使館経由で連合国側に通告。このことは翌8月15日に国民に発表されました(玉音放送)。9月2日、東京湾内に停泊する米戦艦ミズーリ号の甲板で日本政府全権の重光葵と大本営(帝国軍)全権の梅津美治郎及び連合各国代表が、宣言の条項の誠実な履行等を定めた降伏文書(休戦協定)に調印。これで、宣言ははじめて外交文書として固定されました。

なお、その時の米戦艦ミズーリ号には、嘉永6年(1853)に江戸湾浦賀沖に到着したペリー提督の「黒船」(ボーハタン号)に掲揚されていた米国旗が掲げられていました。

参考HP〜
連合国代表団と署名するマックアーサー将軍の写真
帝国代表団の写真

参考:〜
ダグラス・マッカーサー総司令官
  (Supreme Commander Douglas MacArthur、1880/1/26-1964/4/5)
  米国陸軍元帥(American five-star general)
  連合国軍最高司令官(SCAP:Supreme Commander for the Allied Powers)
  フィリピン陸軍元帥(Field Marshal of the Philippine Army)
ダグラス・マッカーサー将軍は、1880年にアイルランド移民で、16才で南北戦争に従軍した軍人だった父の任地アーカンソー州リトルロックの兵器庫の兵営でマッカーサー家の三男として生まれ、父の赴任先のアメリカ西部のインディアン砦で育ちました。1898年に米西戦争が始まると父アーサー(Arthur MacArthur, Jr., 1845-1912/9/5)は准将となり、スペインの植民地であったフィリピンに出征、マッカーサー家とフィリピンの深い縁の始まりとなりました。戦争が終わり、フィリピンがスペインからアメリカに割譲されると、少将に昇進し師団長になって
マッカーサー将軍

USA 1971/1/26 発行
いた父アーサーはその後に始まった米比戦争(1899-1913)でも活躍し、在フィリピンのアメリカ軍司令官に昇進。1892年に兄アーサーはアナポリス海軍兵学校に入学し、1896年には海軍少尉として任官。弟ダグラスもウェストポイント陸軍士官学校を目指し勉強中だったことから、家族はフィリピンについていきませんでした。

マッカーサー将軍の略年表
1880/1/26 ダグラス・マッカーサー、アーカンソー州リトルロックの兵営で誕生
1896 西テキサス士官学校(West Texas Military Academy)卒業
1898 米西戦争(1898/4/25-8/12)勃発で
父アーサー准将がスペインの植民地フィリピンへ出征(単身赴任)
1899/6/13 アメリカ陸軍士官学校(US Military Academy, West Point, State of New York)入学
1903/6/11 ウェストポイントの陸軍士官学校を卒業
陸軍工兵隊の少尉(Second Lieutenant, the US Army Corps of Engineers)任官
1903/10 第3工兵大隊(3rd Engineer Battalion)とフィリピンのイロイロ(Iloilo)へ赴任
1904/4/23 中尉(First Lieutenant in Manila)
1905/10 父が日露戦争(1904/2/8-1905/9/5)観戦任務の駐日米大使館付き武官となり、
副官で東京に赴任
1911/2/27 大尉(Captain)
1912/9/5 父アーサーが亡くなる
1914 米国のメキシコ・ベラクルス占領(1914/4/21-11/23)参謀マッカーサー大尉が従軍
1915/12/11 少佐(Major)
1917/08/05 大佐(Colonel)
1918/2 第一次世界大戦(1914/7/28-1918/11/11)で
第42レインボー師団(参謀長・旅団長)と欧州の西部戦線従軍
1918/6/26 准将(Brigadier General)
1919 陸軍士官学校の校長に就任(在任1919-1922)
1922 フィリピンのマニラ軍管区司令官に任命され、同年結婚した最初の妻ルイーズ・クロムウェル・ブルックス(Louise Cromwell Brooks)を伴って着任
1923 関東大震災が発生、フィリピンから日本への救援物資輸送の指揮をとる
1925/01/17 少将(Major General)、米陸軍史上最年少の44才で昇進、米国本土へ転属
1928 アムステルダムオリンピックでアメリカ選手団々長となるも前回のパリオリンピックの金メダル45個から22個に半減、日本が史上初の金メダルを2個獲得
1929 妻ルイーズと離婚
1929/10/24 暗黒の木曜日(ウォール街株価大暴落)で世界恐慌が勃発(米軍の予算削減開始)
1930/09/19 フィリピンを出発、帰国、サンフランシスコで第9軍団司令官就任
1930/11/21 米第31代ハーバート・フーヴァー大統領の命で大将(General)で
米陸軍参謀総長(Chief of Staff of the United States Army)就任
1931/05/11 オーストリアのロスチャイルド大銀行クレジットアンシュタルト破綻で世界恐慌始まる
1932/07/28 退役軍人などのボーナス・マーチ襲撃事件をワシントンで武力鎮圧
1935/10/01 参謀総長退任で、少将に復帰
フィリピン軍の軍事顧問に就任、後の第34代大統領アイゼンハワーが副官で随行
1937/04/30 ジーン・マリー・フェアクロス(39才)とNYで再婚
1937/12/31 退役、米領フィリピン(1898-1946、コモンウェルス1935-1946)軍事顧問に就任
1939 第二次世界大戦勃発でアイゼンハワー副官が帰国、欧州で連合国遠征軍最高司令部 (Supreme Headquarters Allied Expeditionary Force) 最高司令官就任
1941/07/26 少将で現役復帰、フィリピンのアメリカ極東陸軍司令官就任
1941/07/27 中将(Lieutenant General)
1941/12/07 帝国のハワイ奇襲攻撃、太平洋戦争勃発(日本時間1941/12/08)
1941/12/18 大将(4星:Four-stars)
1942/01/02 帝国軍、フィリピン・マニラ占領
1942/03/11 高速魚雷艇でフィリピン・コレヒドール島から脱出
1942/03/17 ボーイングB-17フライングフォートレスでオーストラリア着
1942/05/07 コレヒドール島アメリカ極東軍が降伏米軍の編成
1943/06/30 カートホイール作戦でオーストラリアからニューギニアの島伝いに反撃開始
1944/10/10 アメリカ機動部隊、沖縄を空襲
1944/10/20 アメリカ軍、フィリピン・レイテ島上陸(マッカーサーのフィリピン帰還)
1944/12/18 元帥(General of the Army、(5星:Five-stars)
1945/04/01 沖縄戦開始(アメリカ軍、沖縄本島上陸
1945/04/12 第32代ルーズベルト大統領が没し、副大統領トルーマンが大統領に就任
1945/05/08 ナチス・ドイツ無条件降伏
1945/08/06 米軍が原子爆弾攻撃開始
1945/08/15 玉音放送(終戦の詔勅)
1945/08/30 マッカーサー将軍が厚木に到着
1945/09/02 帝国の降伏文書調印式、第二次世界大戦終結
1945/09/03 重光・マッカーサー会談(軍政が中止)
1945/09/15 日比谷にGHQ本部設置(第一生命相互ビル)
1945/09/27 天皇、マッカーサーを訪問
1945/10/11 幣原首相に憲法改正と5大改革を要求
1946/01/04 GHQが軍国主義者の公職追放などを指令
1946/02/03 GHQ民政局に日本憲法草案作成を指示(02/10 完成)
1946/02/13 GHQ、松本試案(改正憲法)を拒否、GHQ草案受け入れを要求
1946/11/03 日本国憲法公布
1948/05/18 アメリカ陸軍省、ドレーパー調査団報告を発表
1948/08/15 大韓民国が成立
1948/09/09 朝鮮民主主義人民共和国が建国
1948/11/12 東京裁判、A級戦犯25被告に有罪判決
1948/12/18 GHQ、経済安定9原則を発表
1949/10/01 中華人民共和国成立
1950/06/25 朝鮮戦争(1950/6/25-1953/7/27休戦)勃発
1950/06/28 ソウルが北朝鮮軍に占領される
1950/07/08 吉田首相宛書簡で警察予備隊の創設などを指令
1950/07/08 トルーマン大統領、マッカーサー元帥を国連軍最高司令官に任命
1950/07/01 アメリカ軍、釜山に上陸
1950/09/15 国連軍、仁川に上陸(反撃開始)
1950/10/03 国連軍、38度線突破(10/10中国抗議)
1950/10/10 約18万人の中国野戦第4軍が鴨緑江を越えて北朝鮮へ入る、後に30万人
1950/10/15 ウェーク島でトルーマンとマッカーサーが初会談、朝鮮戦争について協議
1950/10/25 中国人民志願軍が朝鮮北部の戦線に突如出現・攻撃、米韓軍は総退却
1951/01/04 ソウルが中国人民志願軍に占領される
1951/04/11 トルーマン大統領に核使用問題で国連軍最高司令官を解任される
1951/04/16 20万人の大群衆に惜しまれつつ離日
1951/04/19 米議会で「老兵は死なず、ただ消え去るのみ」の演説を行う(士官学校説有)
1952 大統領予備選挙で敗北、以後レミントンランド社会長として過ごす
1953/07/27 38度線の板門店で朝鮮戦争の休戦協定が調印される
1964/04/05 ワシントンで死去
4964/0411 バージニア州ノーフォークの聖ポール教会でジョンソン大統領ほか数千人が参列して国葬が執り行われ、日本からは代表として吉田茂議員が出席。

こちらで
ソ連軍の侵入
長崎へ原子爆弾投下
をお楽しみください。

・上記は こちら の文献などを参照させてもらいました。  2016/6/6

開 戦
スタンプ・メイツ
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