大航海物語

切手専門・月刊誌「郵趣9月号特集」の原稿

日本スペイン交流400周年記念によせて
1613〜2013
Japn-Spain Frendship


スペイン 参考資料
日本郵便 NIPPON
1613 日本スペイン交流400周年記念 2013

日本 2013/10/1 発行

世界地図

日本 1927 発行
フィリピン、日本、太平洋

琉球 1963 発行
フィリピン、メキシコ、スペイン

フィリピン 1965 発行
太平洋、  メキシコ

   メキシコ 1915 発行

スペインの紋章 スペインの州区分地図

スペイン 2011 発行

バブル絶頂期スペインの切手
(スペインの歴史シリーズ風刺画)
カルロス1世、1519即位
神聖ロ|マ帝国皇帝に選出される
レパントの海戦、1571
レパントの片手ん イスラム兵
ファン・セバスチャン・エルカノ、世界1周航海

フェリペ2世、1556即位
新世界の地図
エスコリアル宮殿の建設、1563
エルナン・コルテス、1519アステカ征服
船を焼く

メキシコ人
セルバンテス、1605ドンキホーテ発表
ドンキホ|テ セルバンテス
フランシスコ・ピザロ、1532インカ征服
マチ
ュピチ
ュ遺
スペインの闘牛
コロンブスの船出、1492
新大陸発見 コロンブスの卵
スペイン 2001 発行

織田信長公の肖像画、1583作

レソト 2001 発行
ESPANA
ゲルニカ
スペインの画家ピカソ、1937作

スペイン 1981/10/25 発行

ドン・キホーテ、1605作

1605 ドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャ400年 2005
スペイン 2005/4/22 発行
豊臣秀吉公の肖像
徳川家康公の肖像
レソト 2001 発行

日本とスペインの両国政府は、1613(慶長18)年の仙台藩主・伊達政宗が派遣したスペインへの公式使節:支倉常長などの慶長遣欧使節の出帆を記念して、日本スペイン交流400周年記念事業を立ち上げました。スペインでは、2013年6月から2014年7月まで「日本スペイン交流400年周年事業」が実施され、幅広い分野で日本とスペインとの友好と交流を深めることになって期間中スペイン各地でさまざまな日本紹介事業や日本との交流事業が行われる一方、日本各地でも同様にスペインとの交流事業が企画されています。そして、2013/6/10に日本の皇太子殿下がスペインで開催される交流400周年記念セレモニー出席のため、マドリードへ空路で出発されました。
日本スペイン交流400周年

日本の皇居
二重橋
宮 殿
日本発行
スペインの王宮
エルエスコリアル宮殿

スペイン発行

(1)コロンブスの船出と大航海時代の到来〜日本との関係
  ・天正遣欧使節〜スペインへ行った日本人
(2)スパニシュ・ガレオン船の日本漂着
  ・サン・フェリペ号の遭難
  ・サン・フランシスコ号の遭難
(3)慶長遣欧使節〜スペインへ行った日本人
  ・慶長遣欧使節の出帆(支倉常長の渡欧)
  ・慶長遣欧使節の帰国(支倉常長の帰国)
(4)日本の鎖国
(5)日本の開国
(6)スペインという国(紹介)

(1)コロンブスの船出と大航海時代の到来〜日本との関係
昔々、スペイン女王イサベラ1世(1504没)の承認と援助でクリストファー・コロンブス船長(1506没)がスペインから1492年に船出しました。コロンブスは人跡未踏の大西洋という大海原を突き進み乗り切って、新大陸アメリカを発見しました。本当はカリブ海の島々だったんですが、それをきっかけとしてスペインは、まず中南米に進出しました。エルナン・コルテス(1547没)は現在のメキシコで 「太陽の帝国」 と言われて繁栄していたアステカ帝国を1521年に征服し、やがてスペインは中南米から北米南部を領有しました。1533年にはフランシスコ・ピサロ(1541没)が 「南の黄金郷」 と呼ばれて栄えていたインカ帝国を征服し、やがてスペインは南米のほとんどを領有しました。こうしてスペインはニュー・スペインという大植民地を建設し、さらに西回りインドへの大航海をなし遂げるべく大平洋にも乗り出して行き、アジアの一角のフィリピンを領有しました。すると、1565年にフィリピンとニュー・スペインとを結ぶという貿易風を利用した太平洋航路のウルダネータ・ルート(マニラ〜アカプルコ)が開設されました。その太平洋航路では台風で嵐が吹き荒れることがしばしば起って、スパニシュ・ガレオン船(南蛮船)が遭難しました。そして航路を大きく外れた難破船が日本近海に吹き寄せられてきて、日本に漂着した船もあり、それらが日本とスペイン交流の始まりとなりました。

その頃の日本は戦国時代でしたが、1549年にキリスト教が聖フランシスコ・ザビエル(1552没)によって伝来し、その時にはスペイン人宣教師も来日しました。おりしも織田信長(1582没)が上洛を果たして京都に進出してきた時期でもあり、信長はスペイン人などの宣教師に会って、キリスト教の布教を許し、多くの宣教師が来日しました。その宣教師の中でもスペイ人のフランシスコ会宣教師は、粗衣な頭巾付き上着1枚だけを持ち、その腰に「3つの誓い」の「清貧・服従・貞節」を現す「3つの結び目」をたらした紐を巻いて、裸足で布教していました。

しかし、その後の日本ではキリスト教禁止があって、その尊い犠牲になったスペイン人もいました。そんなスペイン人宣教師の主な足跡は、1593(文禄2)年にフィリピン総督の使節としてフランシスコ会宣教師のペドロ・バプチスタ神父が来日し、肥前国名護屋(佐賀県唐津市)で豊臣秀吉に謁見。1596(文禄5)年にサン・フェリペ号事件でバプチスタ神父が京都で捕縛される。1597(慶長元)年にバプチスタ神父他のフランシスコ会6人などカトリック教徒26人が長崎で処刑される(日本二十六聖人の殉教)。1603(慶長8)年にフランシスコ会宣教師ルイス・ソテロ神父が来日して徳川家康(1616没)、徳川秀忠(1632没)に謁見して日本での布教に従事し、伊達政宗(1636没)の許可で東北地方にも布教を開始。1613(慶長18)年にソテロ神父が慶長遣欧使節の正使としてローマに派遣されるも、日本でのキリスト教弾圧で外交交渉は不調に終り、 1622(元和8)年にソテロ神父が長崎に密入国して捕らえられ、1624(寛永元)年に肥前大村(長崎県大村市)で殉教しました。

・天正遣欧使節の船出と帰国〜スペインへ行った日本人
1582年1月に、バリニャーノ神父の発案で島原半島の有馬セミナリオ在学生の中からキリシタン大名の大友宗麟(1587没)などの名代で日本人少年4人が天正遣欧使節として、長崎からローマを目指して出帆。インドのゴアからアフリカ南端の希望峰を経て、ポルトガルのリスボンに1584年8月に到着。そこから陸路スペインに入って各地を訪問。1584年11月にはマドリードのエル・エスコリアル宮殿でフェリペ2世(在位1556-1598)に謁見しました。1585年には使節の少年達はローマ法王グレゴリウス13世(在位1572-1585)に拝謁を許されました。そしてスペイン、ポルトガル、インドを経て、1590(天正18)年7月に日本に帰国しました。

(2)スパニシュ・ガレオン船の日本漂着
・サン・フェリペ号の遭難
スパニシュ・ガレオン船の日本漂着で有名なものは、1596(文禄5)年にフィリピンのマニラからスパニシュ・ガレオン船サン・フェリペ号がメキシコのアカプルコを目指して太平洋横断航海に出帆して台風に遭遇。船は大破、漂流して、1596/10/19(文禄5/9/28)に四国の土佐(高知県)沖に吹き寄せられて浦戸湾沖に漂着しました。最初は親切で寛容だった地元の領主や村人達でしたが、豊臣秀吉(1598没)の命で浦戸に派遣されてきた五奉行の一人の増田長盛(1615没)が、積荷を没収して乗船者全てを幽閉しました。サン・フェリペ号乗船の宣教師達の内、フランシスコ会のフェリペ・デ・ヘスース神父に不運が起りました。彼はメキシコで司祭叙階を控え、サン・フェリペ号に乗船するも、途中難破により土佐に上陸し、乗船者数人とともに、秀吉に乗員と積荷の安全を懇願すべく大坂に赴き果たさず、滞在中に捕らえられ、翌年の1597年に二十六聖人の一人として火刑で殉教しました。その後、船員達の度重なる申し出を受けて、サン・フェリペ号の修繕が許されました。修理の資材は増田奉行に願い出て3ヵ月ほどの期間で修理を完了、食料を土佐藩側から給付されて、一同は1597年4月に浦戸を出帆し、5月マニラに到着しました。

マニラではスペイン政府によって本事件の詳細な調査が行われ、船長のランデーチョらは証人として喚問されました。その後、1597年9月にスペイン使節としてマニラからドン・ルイス・ナバレテらが秀吉のもとへ送られ、サン・フェリペ号の積荷の返還と二十六聖人殉教での宣教師らの遺体の引渡しを求めるも、果たせませんでした。

・サン・フランシスコ号の遭難
また、1609(慶長14)年には上総国(千葉県房総半島)御宿町田尻の浜でスペイン貴族ドン・ロドリゴ前総督が乗船したスパニシュ・ガレオン船サン・フランシスコ号が、フィリピンでの任務を終え、ニュー・スペインのメキシコへ帰還する途中遭難、沈没しました。岩和田村の人々が乗組員317人を救助しました。ドン・ロドリゴはフランシスコ会ルイス・ソテロ宣教師の助力と通訳とで徳川家康に召出されて謁見し、帰国を嘆願して許されました。その後、乗組員一行は徳川幕府が造らせたスパニシュ・ガレオン船の安針丸を金貨4,000ドゥカード(約56百万円か?)で貸与されて、サン・ブエナ・ベントゥーラ号と呼んで、1610(慶長15)年にメキシコのアカプルコに無事に帰還しました。

そのサン・ブエナ・ベントゥーラ号には前総督一行の他に、家康側近で金座の当主(御金改役)後藤庄三郎光次の仲介でメキシコへの渡航を許された京都の貿易商人の田中勝介ら、「家康の遣墨使節」の日本人22人が乗船して太平洋を横断航海しました。田中勝介はメキシコで鉱山技術を学びました。帰国したドン・ロドリゴは、有名な航海士セバスティアン・ビスカイノ船長を返礼の大使として日本へ派遣しました。使節団の内、アロンソ・ムニョス神父は家康の使節としてスペイン本国に向かい、3人はメキシコに残り、勝介ほか17人が1611(慶長16)年にメキシコ副王ルイス・デ・ベラスコが、ヨーロッパの鉱山技術に興味があった徳川家康の要請で人選後に派遣した答礼使ビスカイノ船長と共に、相模国浦賀(神奈川県横須賀市)に到着、帰国しました。ビスカイノ船長はスペイン国王フェリペ3世(在位1598-1621)の親書を携えて答礼使と金銀島探索の使命を帯びて来日しており、現在の全権大使でした。そして、田中勝介らはアメリカ大陸へ渡った最初の日本人となりました。
コロンブス船長

スペイン 1930 発行
イサベラ女王

チリ 発行
織田信長公

レソト 2001 発行
フランシスコ会宣教師

スペイン 1963 発行
天正遣欧少年使節

日本 1982 発行
豊臣秀吉公
房総半島

日本 1995/11/6 発行
伊能忠敬

スペインの貴族

スペイン 1972 発行

(3)慶長遣欧使節の出帆〜スペインへ行った日本人
・慶長遣欧使節の出帆(支倉常長の渡欧)
ビスカイノ船長の帰国時に安針丸が大破したので、伊達政宗が別のスパニシュ・ガレオン船建造を幕府に願い出て、承認されました。その船がスパニシュ・ガレオン船の伊達丸で、サン・フアン・バウティスタ号とも呼ばれました。伊達政宗は遣欧使節の派遣を目論んで、1613(慶長18)年支倉常長(1622没)に命じて出発させました。ビスカイノ船長は、フランシスコ会ルイス・ソテロ宣教師や支倉ら慶長遣欧使節と共にサン・フアン・バウティスタ号で、太平洋を横断する大航海を成し遂げて、帰国しました。その大航海は、使節団など乗員184人 (将軍家の侍が10人、仙台の侍が12人、日本人商人と水夫と家来が120人、スペイン人とポルトガル人が40人、ソテロ宣教師とビスカイノ船長が便乗) が1613(慶長18)/10/28にサン・フアン・バウティスタ号で陸奥国は仙台藩牡鹿郡牡鹿半島の月ノ浦(現在の宮城県石巻市)を出帆して、ニュー・スペイン(メキシコ)の太平洋岸アカプルコへ向かいました。出帆してから3ヵ月後の1614(慶長19)/1/25に無事アカプルコに到着し、支倉らの使節はヨーロッパへ向けて出発しました。

サン・フアン・バウティスタ号は1年間の停泊の後、1615年に仙台地域の鉱山産業の発展のため約50人の鉱山業・銀精製業の専門家を日本に送り届けました。そして、1616(元和2)/9月に横沢将監船長の指揮で、再びアカプルコを目指して出帆。その航海中に約100人の水夫が亡くなるも、アカプルコ港に到着しました。

・慶長遣欧使節の帰国(支倉常長の帰国)
支倉常長は1615年1月にマドリードでスペイン国王フェリペ3世(在位1598-1621)に謁見し、同年11月にはバチカンでローマ法王パウルス5世(在位1605-1621)にも拝謁を果たしました。帰途は、1617/7/4にスペインのセビリアを出発し、大西洋を横断してメキシコまで戻り、ソテロ神父と再会した支倉らは、1618/4/2(元和4)に迎えのサン・フアン・バウティスタ号でアカプルコを出帆。1618/8/10にフィリピンのマニラに到着しました。支倉常長がサン・フアン・バウティスタ号をマニラで、オランダ軍への防衛を固めていたスペインへ売却。支倉常長らは便船で、1620/9/20(元和6)に日本へ帰国しました。

(4)日本の鎖国
その後、江戸幕府はキリスト教の禁教政策を強化し、1624(寛永元)年にはスペイン船の来航を禁止しました。そして、200有余年にわたる間は日本とスペインの交流は途絶しました。
徳川家康公
スパニッシュガレオン船

スペイン 1964 発行
ローマ法王

   スペイン 1962 発行

(5)日本の開国
明治維新による日本の開国にともない、1868(明治元)年に日本スペイン修好通商航海条約が結ばれ、日本とスペインの国交が樹立されました。1895(明治28)年8月に「国境確定ニ関スル日西両国宣言」が東京で調印され、両国の所領権を明確にするため、台湾(日本領)とフィリピン(スペイン領)の間のバシー海峡が両国の境界線と定められました。

そして、第2次世界大戦の前後に多少の行き違いはあったものの、現在に至るまで、両国は良好な関係で結ばれています。

(6)スペインという国(紹介)
スペインのピカソ
スペインといえば、ピカソですよね。その代表作は、何といっても「ゲルニカ」ですね! 右の切手はスペインで、1981/10/25にピカソの生誕100年記念として発行されました。図案は「ゲルニカ(1937年作)」で、スペインの共和党員だったパブロ・ピカソ(1881-1973)が 「フランコ将軍に味方したナチス・ドイツ空軍がスペインのバスク地方の町ゲルニカを1937/4/28に爆撃して町を破壊し住民を虐殺した」 とのニュースをフランスのパリで聞き、悲しんで製作した大作(3,493x7,766mm)だといわれていです。
プラド美術館蔵。
ゲルニカ

スペインのドン・キホーテ
次に、スペインを代表する作家の一人セルバンテスを紹介したいと思います。右の左の切手はミゲル・デ・セルバンテスの肖像画で、1547/9/29にマドリードの西約30kmの町アルカラ・デ・エナレスで生れ、1616/4/23にマドリードで亡くなりました。彼は近世スペインの作家で、日本では 「ドン・キホーテ」 で知られている 「ドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャ」 の作品、前編を1605年に58才で、そして1615年に68才で後編を発表しました。右の右の切手が 「ドン・キホーテ」 で、図案はマドリードのスペイン広場にある、槍を持って愛馬ロシナンテにまたがる騎士ドン・キホーテとロバに乗る従者サンチョパンサの銅像を題材にしています。
セルバンテス

スペイン 1964 発行
ドンキホーテ

スペイン 1964 発行

闘牛士 ロメロ (マタドールの演技)

スペイン 2001/10/21 発行
スペインの闘牛
また、スペインといえば闘牛ですよね。情熱の国スペインを代表するような闘牛は、古い歴史を持ち、古代ギリシャ・ローマ時代には武技として行われていたのが、8世紀初めアフリカ北西部のアルジェリアやモロッコ地方のイスラム教徒のムーア人がスペインに侵入して来て、ヨーロッパに伝えたといわれています。17世紀末までは、もっぱら宮廷の楽しみとして王侯貴族の間で行われていましたが、18世紀初めのスペイン王国ブルボン朝時代に、現在のように一般の観客を集めてプロの闘牛士が登場するようになり、厳しい演出方法や規則が定められました。闘牛士はアンダルシア出身のフランシスコ・ロメロが開祖と言われ、今でもこの地方出身の闘牛士が多くいます。スペインの闘牛はかつては国技とされていてテレビ放映もされ、毎年春の復活祭の日曜日から11月までの毎日曜日にマドリードやバルセロナなどの都市に設けられた闘牛場で開催されていましたが、21世紀になるとサッカーに人気が移って、テレビ放映も中止され、衰退しています。なお、1999年に「五体不満足」を発表した作家の乙武 洋匡さんがツイッター(Twitter)で2013/6/17にスペイン・マドリードのラス・ベンタス闘牛場で闘牛を観戦して「生死を賭けた闘いのなかにも、マタドール(闘牛士)の美学を感じました」と報告しました。
闘牛士の演技
スペイン 1960 発行
カルロス3世、1766パン暴動
猛り狂う民衆 スペインの闘牛
パン暴動(Motin de Esquilache)

スペインのアルタミラ洞窟壁画
アルタミラの洞窟壁画(BC.11,500)は旧石器時代の絵画で有名な洞窟で、スペイン北部サンタンデル西方サンチャナ・デル・マールにあります。1879年に地元の5才の少女が天井壁画を発見しました。色彩の豊かさと構図の巧みさで発見当初は旧石器時代のものとは認められませんでした。他の洞窟壁画が発見されるなどして20年以上かかって認められました。神域のような 「聖所」 として使用され、初期の頃(ソリュートレ文化〜マドレーヌ文化前期)に奥部の黒線画が描かれ、マドレーヌ文化中期に入口部に近い所の多彩色の大天井壁画が描かれ、さらにマドレーヌ文化後期には奥部にマンモスを伴ったウマやバイソンの構図が描かれたと言われています。マドレーヌ文化前期層は放射線炭素C−14法で、1万3,500年前の年代が証明されています。
アルタミラの洞窟壁画
スペイン 1967 発行

参考HP:〜
日本スペイン交流400周年(公式HPスペイン編)

・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。     13/6/12、13/7/8、13/10/1
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