Spain

国連 1988 発行
E S P A N A (V
切手で綴る スペインの大航海 (Conquist Voyage)
フランシスコ・ピザロ
1533
インカ帝国征服


大航海物語
 スペイン編

PERU



ピサロ






トウンペス






1492 コロンブスのアメリカ発見500年記念 1992
ペルー 1993/3/19 発行

ESPANA
ピサロ

スペイン 1964 発行
ESPANA
新大陸からスペインへお宝を運んだ
スパニッシュ・ガレオン船
Spanish Galleon


スペインから新大陸へは人と物資を輸送
スペイン 1964/7/16 発行

ECUADOR
南アメリカの地図

エクアドル 1961/2/27 発行
MAGYARORSZAG
ピサロのインカ征服


スペイン船隊




ピサロ
インカ都市


スペイン軍
コロンブスのアメリカ発見500年記念
ハンガリー 1992 発行

フランシコ・ピサロは、スペインのコンキスタドール(征服者)を代表する一人で、生涯に3度大西洋を横断し、1533年インカ帝国皇帝アタワルパを処刑して、インカ帝国を征服しました。その9年後にスペイン人同士の権力闘争により、ペルーで暗殺されました。

フランシスコ・ピザロ
 Francisco Pizarro(1474頃〜1541)

フランシコ・ピサロはスペインのエストレマドウラ地方のトルヒーリョ(Trujillo, Caceres province, Extremadura region, Spain)で生まれました。僅かな土地を持つ下級貴族の貧しい郷士の庶子であったピサロは教育を受けたこともなく、無学文盲で、家の豚の世話をして暮していたと言われています。このような素性なので、メキシコの征服者で、生まれも育ちも良いエルナン・コルテスと何かにつけて対比されますが、ペルーのインカ帝国(Inca Empire、Cusco 1438-1533)に与えた衝撃は、コルテスのアステカ帝国(Aztec Empire, 1428年頃-1521)征服と何ら遜色がありません。

ピサロが新大陸へ渡ったのは、やはり16世紀初めのスペインが新大陸ブームに沸く時期でした。彼はオヘーダの探検隊に加わり、コロンビア方面へ往きましたが、結果は失敗でした。次いでバルボアに同行して南の海(太平洋)'をかいま見ました。バルボアの失脚時には、パナマ総督パドラリアス・ダビラ(Pedrarias Davila y Ortiz de Cota, 1440-1531)の命で、その逮捕者となりました。バルボアが処刑された後、彼はパナマでエンコミエンダ(インデイオ保有者)としてパナマに腰を落ち着けました。

ところが、”南の海”の向こうに途方もなく豊かな「黄金卿」があるとの話を聞くと、じっとしておられなくなって冒険家のアルマグロと、司祭のエルナンド・ド・ルーケ(Hernando de Luque, 生年不詳-1532)と手を組み、資金を捻出しあって何回も調査に出かけました。その結果を持って、スペインへ帰り、国王カルロス1世に謁見し、1529/7月に南方の王国を征服する権利と成功した場合には総督に任命するとの約束を取り付けました。この国王の勅許を得たピサロは異母兄弟の、ゴンサーロ(Gonzalo Pizarro y Alonso, 1502-1548)、エルナンド(Hernando Pizarro y de Vargas, 1478-1608)、フワン(Juan Pizarro y Alonso , 1505-1537)、そして従兄弟のペドロ・ピサロ(Pedro Pizarro, 1515-1602)、それにマルティン・ド・アルマカンタラという人物を連れてパナマに戻りました。そして、1530年約180人のスペイン人を率いて、南の海の向こうの「黄金卿」ペルーへと出発しました。

ピサロ一行がペルー北部の海岸トウンペス(Tumbes)に上陸した時、インカ帝国は内乱中で インカ皇帝「ワスカル(Huascar(Waskar)Inca, 1503-1532)」の異母弟である「アタワルパ(Atahualpa)」(キトーを帝都とするエクアドル(北部)インカ皇帝)がワスカル軍を打ち負かして帝位を奪い、アンデス山中の要害の帝都クスコ(Cusco)を陥落させ、カハマルカ(Cajamarca)に数万の軍勢と共に陣取っていました。1532年に体勢を整えたピサロ一行はカハマルカへと進軍を開始しました。カハマルカでアタワルパと対面したピサロは一計を案じて、1532/11/16にアタワルパを捕え、捕虜としました。捕えられたアタワルパは「部屋一杯の黄金」と引き替えに釈放を嘆願しました。黄金は約束どおり支払われるも、1533/7/26にアタワルパは処刑されてしまいました。そしてアルマグロの一行が合流してきました。

1533年12月末に南部インカ帝国の帝王マンコ2世はスペイン人により傀儡政権の新インカ帝王となってクスコで古式にのっとり戴冠式を挙行しました。1535/11月にはスペイン人のインデイオに対する暴虐ぶりに怒り、武力蜂起を決意してクスコ脱出を図り捕えられましたが、各地で反乱が起きました。1536/4/18再びクスコ脱出を図りクスコ北西にあるウルカバンバの谷のラレスで挙兵しました。マンコが動員した兵力は10〜20万とも言われましたが、クスコのスペイン人は190人でした。インカ軍は5/6にクスコの包囲攻撃を開始し、サクサワンの砦でスペイン軍を脅かしましたがクスコ陥落には至らず、1539年にはクスコの北のビルカバンバに退きました。1535年ピサロは海岸近くに新しい都リマを建設し、海岸部はスペイン化され、インカ族の支配する山岳部とはっきりと区分されてゆきました。

その後、最初にペルーに来たピサロ一行と、後から来たスペイン人との利害が対立してきました。両派の対立はアルマグロがチリ方面の遠征に出かけたので、一時収まりましたが、アルマグロがチリ遠征から戻るや再燃しました。アルマグロはクスコを包囲してピサロ兄弟と戦いましたが、1538/4/26のサリーナスの戦い(Battle of Las Salinas)に敗れ、エルナンド・ピサロに捕えられ処刑されました。しかし フランシコ・ピサロはスペインに帰ることもなくペルーのリマでアルマグロの残党に1541年6月26日に暗殺されました。65才頃でした。

参考HP:〜
 ・ペルーの地図

・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。   10/7/1追記

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