| 大航海物語 | 神聖ローマ帝国皇帝 カール5世 在位1519〜1556 スペイン国王 カルロス1世 | 参考資料 | 

| カルロス1世  スペイン 1958 発行 | スペイン国王 カルロス1世 (即位 1519)  2000年紀記念のミレニアム切手 (風刺画) スペイン 2001 発行 | カルロス1世  2000年紀記念のミレニアム切手 アンゴラ 1999 発行 | 
| ・カール5世、神聖ローマ帝国皇帝 (Karl V, Holy Roman Emperor、1500/2/24〜1558/9/21、在位1519-1556) カルロス1世、スペイン国王 (Carlos I, King of Spain、1500〜1558、在位1516-1556) スペイン国王としてはカルロス1世(英語では”Charles I”チャールス1世)。神聖ローマ帝国ではカール5世と呼ばれました。宗教改革期の動乱やオスマン帝国の圧迫といった困難な時代にあっても、当時のヨーロッパから新大陸に広がる広大な領土をたくみに統治した有能な君主でしたが、晩年には相次ぐ戦争に疲れて自ら退位し、修道院に隠棲しました。 カール5世の父はブルゴーニュ公フィリップ(1478ー1506)で、母はカスティーリャ王国のフアナ女王(1479ー1555年)の間にネーデルラント(低地諸国、現在のベネルクス諸国)、フランドルのガン(ヘント、ゲント、現在はベルギーの都市)で生まれ、母語は当時のフランドル貴族の公用語であったフランス語でした。1517年までネーデルラントで育ち恵まれた環境で帝王学を学びました。共に暮らしていた両親は、1506年にカスティーリャ王位を継承するためスペインへ渡りました。母方の祖父母は結婚によって統一スペイン王国を誕生させたアラゴン王フェルナンド2世とカスティーリャ女王イサベル1世でした。さらに父方の祖父母はマクシミリアン1世とブルゴーニュ女公マリーという血筋の生まれでもありました。カール5世はフランス人ではありませんでしたが、フランスとパリをこよなく愛し、当時の貴族の常として西欧最大の都市にして西ヨーロッパ社交界の中心都市であったパリに数回滞在していました。 1506年、スペインに渡ったばかりの父が急死すると、幼くして6才でネーデルラントの継承者ブルゴーニュ公となりました。1516年に祖父のフェルナンド2世が死去すると、16才で母フアナと共同統治という形でカスティーリャ王になりました(この頃、フアナはすでに精神を病んでいたといわれています)。それは同時にアラゴン、ナバラ、グラナダ、ナポリ、シチリア、サルデーニャ、さらにスペイン領アメリカにいたる広大な領域の統治者となったことを意味していました。スペインでは「外国人君主」といわれ、なかなかなじめなかった。それでもカール5世はスペイン王位についてから熱心にスペイン語を覚え、スペインで受け入れられるよう努力をしました。ヨーロッパ全域を精力的に回り、マルチリンガルだったカールも、ドイツ語は話そうとしなかった。カールの言葉として伝えられる有名なものに「スペイン語は神への言葉、イタリア語は女性への言葉、フランス語は男性への言葉、ドイツ語は馬への言葉」というものがある。スペイン国王として、神聖ローマ皇帝として、カール5世は生涯かけてヨーロッパ全土を回り、アフリカにまで足を伸ばしました。 1517年に初めて「本国」スペイン入りし、トルデシリャスで母と再会すると、バリャドリッドで摂政ヒメネス・デ・シスネロス枢機卿を解任して親政を開始したが、中央集権化の実施と「外国人君主」の統治に反発していた諸侯たちと争いました(カスティーリャ戦争)。この戦争に勝利したことでカール5世は名実共にスペインの統治者となり、その強大な兵力を用いて生涯各地を転戦することになりました。1519年に祖父マクシミリアン1世がなくなると、オーストリアをはじめとするハプスブルク家の領土を継承し、1519年6月28日には、フランクフルトに集まった選帝侯たちがカール5世を神聖ローマ皇帝に選出されました。1520年には戴冠式の途上、イングランドに立ち寄ってヘンリー8世夫妻と対面。ヘンリー8世の王妃キャサリンはカール5世の叔母。その後、伝統に従ってアーヘンで神聖ローマ皇帝としての戴冠を受けました。 1550年にはバリャドリッドでアメリカ先住民(インディオ)の地位とインディアス問題についての審議会を開きました。これはラス・カサス神父やモンテシーノス神父らの長年の活動が実ったともいえるもので、最終的に新大陸におけるエンコミンダ制の世襲化の導入が阻止されるなど、ラス・カサス神父の努力が報われる形となり、アメリカ先住民への不当な行為の撤廃を目指した非常に画期的な審議会となりました。 1556年、長年の統治と戦争に疲れたカール5世は退位を決意。両親から受け継いだスペイン関係の地位と領土はすべて息子のフェリペ2世に譲り、神聖ローマ帝国関係の地位と領土は弟のフェルディナント1世に継承させた。この頃すでに神経衰弱気味であったといわれているカール5世は、スペインのユステの修道院に隠棲し、1558年に亡くなりました。晩年は痛風の激痛に悩まされていたともいわれています。 | 
| 年 | 年表記事 | 
|---|---|
| 1500 | フランドル(現在のベルギー)に生まれる 弟フェルナンド(神聖ローマ皇帝フェルディナント1世)はスペイン生まれのスペイン育ち のちにボヘミア王、ハンガリー王となる | 
| 1516 | 祖父フェルナンド2世の没後、スペイン王カルロス1世として即位(スペイン・ハプスブルク朝の開始) 正式には女王フアナの王権代行(フアナは精神を病んで、カールがスペインを実質統治) | 
| 1517 | 初めてスペイン入り バリャドリッドで摂政ヒメネス・デ・シスネロス枢機卿を解任して親政を開始、 カスティーリャ戦争が勃発、勝利 | 
| 1519 | 祖父マクシミリアン1世が没し、神聖ローマ皇帝の選出選挙が行われる フランス王フランソワ1世と争った末に、神聖ローマ皇帝カール5世として即位 選挙資金はフッガー家の支援を得る | 
| 1521 | 帝国議会にルターを喚問、ルター派の禁止を決定 同年、皇帝軍・教皇軍がフランス占領下のミラノへ侵攻 (1521-1544の間にフランソワ1世との間でおこなわれた一連の戦闘をイタリア戦争という) | 
| 1525 | パヴィアの戦いで捕虜になったフランソワ1世がスペインに送られる 同年、ポルトガル王マヌエル1世の娘イサベルと結婚し、フェリペ2世、マリア(神聖ローマ皇帝マクシミリアン2世妃)、フアナ(ポルトガル王太子ジョアン妃、セバスティアン1世の母)らが誕生。庶子はマルゲリータ(パルマ公オッターヴィオ・ファルネーゼ妃)とドン・フアン・デ・アウストリア | 
| 1526 | ルター派を容認、教皇クレメンス7世がフランスと同盟(コニャック同盟) | 
| 1527 | コニャック同盟への報復措置として皇帝の軍がローマへ侵攻(ローマ略奪) ローマ略奪:カール5世のドイツ人傭兵たちがローマで狼藉を働く | 
| 1529 | オスマン帝国による第一次ウィーン包囲、ルター派を再び禁止 | 
| 1530 | フィレンツェ侵攻、メディチ家を臣下とし、フィレンツェ公国を建国 ボローニャで教皇クレメンス7世のもと神聖ローマ帝国皇帝の戴冠式 | 
| 1532 | オスマン帝国の脅威に備えるためプロテスタント諸侯に一定の譲歩、ニュルンベルクの和議を結ぶ | 
| 1535 | オスマン帝国艦隊を破る | 
| 1538 | プレヴェザの海戦、オスマン帝国に大敗、地中海の制海権を失う | 
| 1539 | プロテスタント諸侯と休戦 | 
| 1541 | ラス・カサス神父に謁見、スペイン人によるアメリカ先住民虐殺の報告を受ける | 
| 1545 | オスマン帝国と休戦、 トリエント公会議が始まる(カールはカトリックとプロテスタントの和解を望む) | 
| 1546 | プロテスタント諸侯と対立、シュマルカルデン同盟戦争 | 
| 1548 | ネーデルラント17州の神聖ローマ帝国およびフランスからの分離独立を認めている(1548年の国事勅定) | 
| 1547 | プロテスタント諸侯を破る | 
| 1550 | バリャドリッドでアメリカ先住民(インディオ)の地位とインディアス問題についての審議会を開く これはラス・カサス神父らの長年の活動が実ったともいえるもので、最終的にエンコミンダの世襲化の導入が阻止されるなど、ラス・カサス神父の努力が報われる形となり、アメリカ先住民への不当な行為の撤廃を目指した非常に画期的な審議会となる | 
| 1552 | シュマルカルデン同盟の指導者のザクセン選帝侯モーリッツに破れる | 
| 1555 | 母フアナが没し、正式にスペイン国王になり、アウグスブルクの和議でルター派を容認 | 
| 1556 | 神聖ローマ皇帝とスペイン王を退位、ユステの修道院に隠棲 両親から受け継いだスペイン関係の地位と領土はすべて息子のフェリペ2世に譲り、 神聖ローマ帝国関係の地位と領土は弟のフェルディナント1世に継承させる | 
| 1558 | 亡くなる。 | 
| 参考HP:〜 ・1600年頃のヨーロッパの地図 ・スペインの自治州の地図 ・バリャドリッドの場所地図 ・マドリードの場所地図 こちらで ・フェリペ2世 (スペイン国王) 世界遺産の ・モヘンジョダロ (パキスタン) ・サンマリノ (イタリア) ・ヌビア遺跡 (エジプト) ・ピラミッド (エジプト) ・パルテノン神殿 (ギリシャ) ・姫路城 (日本) をお楽しみください。 ・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。 2018/8/7追記 |